2011年12月29日

熊野三山 熊野那智大社


根本熊野三所権現 熊野那智大社




熊野三山 熊野那智大社 (くまのなちたいしゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

〔社格〕 旧官幣中社

〔御祭神〕 第一殿  滝宮  大己貴命 (大国主神)
       第二殿  証誠殿  家都御子神 (素盞嗚尊)
       第三殿  中御前  御子速玉神 (伊弉諾尊)
       第四殿  西御前  熊野夫須美神 (伊弉冉尊)
       第五殿  若宮  天照大神
       第六殿  八社殿  天神地祇八神
       御縣彦社  建角見命 (八咫烏)


熊野那智大社拝殿



〔御由緒〕 紀伊半島の東南を古来熊野という。 熊野とは奥深い処、隈るとも申しそこは神秘性のある所、即ち神々の住まえる所であり、あこがれの土地として尊んだ処である。 往古神武天皇が御東征の折、この地に上陸され、那智の滝に大己貴神を祀り八咫烏の案内で山々を越えて大和に入られたのであります。
 仁徳天皇5年那智の滝より社殿をこの地に移し、夫須美大神を祀られたのが「熊野那智大社」の起こりです。 後に仏教、修験道の隆盛と共に熊野権現として崇められ上皇、女院、武将や庶民の参拝が増し継続して詣でる様子を「蟻の熊野詣」と称しました。
 御社殿は熊野造と申し、現在の建物は豊臣の世に再興し享保、嘉永の大改修を経て昭和10年の御修覆で、平成7年国指定文化財となっています。 社前には後白河上皇御手植と伝える枝垂桜や平重盛の手植と申す大楠、八咫烏にまつはる烏石等があります。
 新宮市の熊野速玉大社・本宮市の熊野本宮大社と共に熊野三山の一社で、全国約4千社と云われる熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の厚い社であります。
 又、近くには南紀勝浦温泉があり、黒潮洗う太平洋を眼下にする御社域は吉野熊野国立公園特別地域です。
-熊野那智大社パンフレットから-




重要文化財・世界遺産  熊野那智大社社殿

      左から若宮・西御前                左から中御前・証誠殿・滝宮        










          修復中の八社殿                    修復中の御縣彦社











   熊野那智大社社殿 八棟
   重要文化財  平成七年十二月二十六日
   世界遺産  平成十六年七月一日
   指定理由  歴史的価値の高いもの

第一殿 瀧宮
第二殿 証誠殿
第三殿 中御前
第四殿 西御前
第五殿 若宮
第六殿 八社殿
御縣彦社
鈴門・瑞垣

 熊野那智大社は熊野三山の一つに数えられ中世以降は日本第一大霊験所・根本熊野三所権現として全国的に信仰された古社である。
 社殿は東西横一列に配された第一殿から第五殿と、第五殿の正南方に並ぶ第六殿・御縣彦社からなる。 各社殿は瑞垣で仕切られており、各社殿の正面には鈴門が開かれている。
 第一殿から第六殿が嘉永四年から七年(一八五四)の建立、御縣彦社は慶応三年(一八六七)の建立である。
 社殿はその規模が大きく良質で彫刻をほとんど用いない等、配置や形式に特徴があり、全国の神社建築に影響を与えた熊野三山の社殿形式を伝えるものとして、我が国の神社建築史上貴重である。
 鈴門及び瑞垣は境内の景観を構成する上で重要である。
    文化庁
    熊野那智大社
    和歌山県教育委員会
-熊野那智大社案内板から-




別宮 飛瀧神社












那智の瀧 「飛瀧神社」 案内   世界遺産
 那智のお瀧は那智の奥山から湧き出でている清い川水で断崖にかかり落差一三三米の瀧で日本一の名瀑と云われています。
 神倭磐余彦命がこの御瀧を大己貴命の御霊代とし祀り後に飛瀧権現と称え今では熊野那智大社の別宮で飛瀧神社と申します。
 修験道では瀧修行場として最高の霊場とし文覚上人の荒行などで有名であります。
 お瀧水は古来「生命の母」と崇め延命長寿の霊水とする信仰が伝えられています。
 この那智の瀧付近は「世界遺産」であり吉野熊野国立公園特別地域・国指定名勝・那智原始林は天然記念物でもあります。
     熊野那智大社 別宮 飛瀧神社
-飛瀧神社案内板から-




那智山 青岸渡寺 (せいがんとじ)












西国霊場 第一番札所 天台宗 那智山 青岸渡寺

補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬

 当山は仁徳帝の頃(三一三~三九九)印度より裸形上人が熊野の浦に漂着、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝えられている。 その後、推古帝(五九三~六二八)の時大和より生仏上人が来山し、玉椿の大木をもって、現在の本尊(御大約四米)を彫り、裸形上人感得の観世音菩薩を胸仏として納め安置す。 のち推古帝の勅願寺となり、那智霊場の中心として熊野信仰を育んできた。 従って御本尊如意輪観世音菩薩の霊験を受けんとして、日夜礼拝修行する者その数を知らず、又天皇上皇の尊崇も深く、殊に平安時代、人皇六十五代花山上皇が滝の上の山中に庵を造り、三ヶ年御修行の後、当山より西国三十三ヶ所観音霊場巡拝の旅に出られた。 当時より長きに亘り巡拝の寺として親しまれている。 当山は古くより那智山如意輪堂と称していたが明治の神仏分離によってその形態が変わり以来青岸渡寺と称するようになった。 現在の建物は天正十八年、豊臣秀吉公が、発願再建されたもので、桃山時代様式の建物として南紀唯一の重要文化財である。
-青岸渡寺案内板から抜粋-




烏牛王神符 (那智)



烏牛王について
俗におからすさん、又は千羽烏とも申して居るこの神符は、熊野詣の人々がその参詣の印として受け帰り、家々の神棚や入り口、蔵の中などに奉斎するものであります。
古来、有名な那智のお滝の秘所の霊水を以て正月二日の未明に神秘行事を攸して摺上げ宮中に二千枚を献じたのでありますが、尚今もこれを伝えて居ります。 悪魔退散、結(むすび)と熊野権現の信仰を今日尚伝えて居るものの一つであります。 古書にもこの牛王の数々霊験が伝わり、中でも起請文に用いられたことは余りにも有名でありまして、全国にこの信仰が強く残って居ります。 これは信仰が現実の生活に結びついた最も顕著な例でありましょう。
   紀伊国那智山
      熊野那智大社宮司識
-烏牛王説明文から-



熊野那智大社の烏牛王は、72羽の烏と15個の宝珠で画かれている。
読み方について、社務所の神官さんに聞いてみると、
〔右〕    那 (な) ・ 智 (ち)
〔中〕        (不明)
〔左〕    瀧 (たき) ・ 璽(じ)又は寳(たから)
昔からのことなので、判らないこともあるそうです。

閑人の読み方は、
〔右〕    那 (な) ・ 智 (ち)
〔中〕    璽 (みしるし)
〔左〕    瀧 (たき) ・ 寳 (たから)
と自己流に解釈してみました。




〔後記〕
熊野三山を巡ってみると謎ばかり。

① 「本宮大社」の御祭神(垂迹神)は、第九殿以下が「速玉大社」・「那智大社」とは異なるのは何故か?

② 「本宮大社」の「証誠殿」の千木は、何故、内削ぎなのか?
 「速玉大社」・「那智大社」の「証誠殿」は、外削ぎである。

③ 「速玉大社」の「奥御前三神殿」は、何故、あの様に隠されて祀られているのか?

④ 「速玉大社」の「上三殿」に、熊野十二所権現以外の「高倉宮」があるのは何故か?

⑤ 「那智大社」の「滝宮・大己貴命」は、どうして熊野十二所権現には含まれないのであろうか?
 主神の熊野夫須美大神(伊弉冉尊)と同じ本地仏「千手観音」なのは何故か?

⑥ 「熊野大神」とは?


  

Posted by 閑人 at 23:45Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2011年12月16日

熊野三山 熊野速玉大社


全国熊野神社総本宮 熊野速玉大社




熊野三山 熊野速玉大社 (くまのはやたまたいしゃ)   通称 新宮(しんぐう)

〔鎮座地〕 和歌山県新宮市新宮1番地

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国牟婁郡の式内社・熊野早玉神社 (大)

〔御祭神〕 第一殿  結霊宮  熊野結大神 (いざなみの命)
       第二殿  速霊宮  熊野速玉大神 (いざなぎの命)
       第三殿  証誠殿  家津美御子命・国常立命
       第四殿  若宮  天照大神
       第五殿  神倉宮  高倉下命
       第六殿  禅地宮  天忍穂耳命
       第七殿  聖宮  瓊々杵命
       第八殿  児宮  彦火々出見命
       第九殿  子守宮  鸕鷀草葺不合命
       第十殿  一万宮・十万宮  国狭槌命・豊斟渟命
       第十一殿  勧請宮  埿土煮命
       第十二殿  飛行宮  大斗之道命
       第十三殿  米持宮  面足命
       奥御前三神殿
       新宮神社
       熊野恵比寿神社
-熊野速玉大社案内板から-



神門



〔御由緒〕 熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行天皇五十八年の御代(西暦一二八年)初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。 我々の祖先は、美し国熊野に坐しますこの真新しい新宮に大自然の恵みを献じて神々を斎き祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。
 このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮」と号するゆえんであります。 この尊称は、まさに熊野速玉大社が、天地を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有することの証といえ、平成十六年七月には世界文化遺産に登録されました。
 中世、熊野御幸は百四十一度を仰ぎ、第四十六代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また一千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。 また、境内には、熊野信仰の象徴たる「梛の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。
-熊野速玉大社パンフレットから-



      拝殿 後方に結霊宮と速霊宮           瑞垣と鈴門 後方に上三殿と八社殿










 荘厳華麗な朱塗りの御社殿四棟が建ち並ぶ。 拝殿の真後ろに主神の熊野速玉大神を祀る速霊宮。熊野造の妻入社殿。銅葺屋根に外削ぎの千木と5本の堅魚木を載せる。
 その左側に同様式の結霊宮。但し千木は内削ぎで堅魚木は4本。
 速霊宮の右側に上三殿。横に長い平入社殿。千木は外削ぎで堅魚木は5本。上三殿前の瑞垣には三つの鈴門。
 その右に小ぶりな平入の八社殿。外削ぎの千木に5本の堅魚木。瑞垣には二つの鈴門。

 四棟と言ったが、実はもう一棟。速霊宮と上三殿の間に隠れている奥御前三神殿がある。瑞垣からのぞき込まなければ見えない。外削ぎ千木に3本堅魚木の小さな妻入社殿。御祭神は書かれていない。社務所で聞くと、造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神)とのこと。それ以上聞くと失礼かと思いやめにした。どうしてこの様な祀り方をしているのかは謎のままだ。


〔左〕鑰宮 手力男神社   〔右〕八咫烏神社


八咫烏神社 (やたがらすじんじゃ)
御祭神  建角見命(たけつぬみのみこと)
御由緒  当大社末社として、古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。 神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者とも言われて交通安全、招福の御神徳が高い。

鑰宮 (かぎのみや) 手力男神社 (たぢからおじんじゃ)
御祭神  天之手力男命(あめのたぢからおのみこと) 
御由緒  延喜式神名帳に紀伊國牟婁郡手力神社小とある由緒の古い社で、もと神門内に祀られていたが、嵯峨天皇の弘仁四年(西暦八一三年)に勅命によって現社地近くへ遷り、明治四十年に新宮神社へ合祀された。 武道、健康、開運の御神徳が高い。
-熊野速玉大社案内板から-



        新宮神社            熊野恵比寿神社          熊野稲荷神社



御神木 なぎの老樹


天然記念物   御神木 なぎの老樹
 当熊野権現の御神木で平重盛公御手植として知られ、幹廻り六米、高さ二十米、吾国最大のなぎの巨木であります。
 なぎは凪に通じ昔から家内安全和楽の信仰があり、熊野詣のしるしになぎの小枝を手折った事は古書にも見えて居ります。
 なぎの実で奉製した「なぎ人形」は家内安全の御守りとして有名です。

        千早振る 熊野の宮の なぎの葉を
                   変わらぬ千代の ためしにぞ祈る
                                             藤原定家



神倉神社と天磐盾(ゴトビキ岩)


神倉神社 (かみくらじんじゃ)
〔鎮座地〕 和歌山県新宮市神倉1丁目
〔社格〕 熊野速玉大社の摂社
〔御祭神〕 高倉下命
〔御由緒〕 文正六年(?)、神倉山に小社を造営。 大正二年(1913)二月五日遷座。 祭神の高倉下命は、神武東征に韴霊神剣を天神の命により持ち下った。 社殿裏に接してゴトビキ岩という巨岩があり、『日本書記』の天磐盾をこれに充てる説もある。 『紀南響導記』に神倉山は魔所なので申の刻以後は参らないと伝う。 六月一八日扇立祭、二月六日御燈祭という松明をともして急坂の参道を駆けおりる行事がある。
-『神社辞典』から-




熊野牛王符 (新宮)


熊野牛王符 (くまのごおうふ)

 熊野牛王(くまのごおう)(牛玉)とは、熊野三山で授与する独特の神札で、熊野権現のお使いと伝えられる烏で社名をあらわしているところから、俗に「おからすさま」とも云う。 牛王の名称については諸説があるが、牛胆から得る牛黄(ごおう)(牛玉)という霊薬を密教で加持祈祷に用い、これを印色として護符に使ったので、牛王宝印(ごおうほういん)と称したのであろう。
 熊野牛王宝印は中世以後、いろいろの誓約に用いられ、熊野の修験者及び熊野比丘尼によって全国に配布され、これを家屋玄関に貼れば盗難除、病気には烏を切りぬいて浮かべた水をいただくと効ありと言う。
 この牛王は厄払い、家内安全の神札(おふだ)としても尊ばれ、熊野詣の人々は、熊野牛王を拝受することを、古来からの慣習としている。
 全国熊野神社総本宮  熊野速玉大社
-熊野牛王符説明文から-



熊野速玉大社の牛王符は、48羽の烏と7個の宝珠で画かれている。
読み方について、社務所の神官さんに聞いてみると、
〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    印 (いん)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳(たから)
印(いん)が気にかかる。「しるし」ですかと聞くも、あくまで「印(いん)」だそうです。

閑人の読み方は、
〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    璽 (みしるし)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳 (たから)
という解釈もできるのではないかな。





〔後記〕 (大いなる勘違い)
熊野速玉大社は「新宮」とも称され、市の名称ともなっている。 「新宮」のほうが一般的で通りがよい。
「新宮」とは、「熊野本宮」に対する「新宮」と思い込んでいた。
これが、重大な勘違いであった。 考え方を180度転換しなければならなくなった。

参拝からの数日後、『熊野速玉大社公式サイト』を閲覧して、茫然自失となった。
「熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と申します。」-熊野速玉大社公式サイトから抜粋-
「新宮」とは、「元宮・神倉神社」に対しての「新宮」であったのだ。

神倉神社(かみくらじんじゃ)。 あのゴトビキ岩(天磐盾)のある神社だ。
御祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。
建国の功臣、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)の御祖神。 我が尾張国の開拓の御祖神でもある。
熊野と尾張がここに結ばれた。
閑人に一筋の光明がさす。 本宮での失望が、新宮で希望へと変わっていく。

「新宮」の御祭神は、「元宮」と同一神でなければならない。
つまり、「新宮・熊野速玉大社」の正式な御祭神は、「高倉下命」でなければならない。
強引な推論と思われるかもしれない。 しかし、日本国中の神社を見渡しても例外はなく、「新宮」は「元宮」と同一神である。 よって、これが正論である。

少しばかりの証明を試みる。
熊野三山の神々は、平安時代の本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想により、熊野三所権現・熊野十二所権現と呼ばれ信仰されるようになった。
仏が本地であり、仏が神の姿をとなって現われたのが垂迹である。 神が権現と呼ばれる由縁である。
神社といえど、祀られている十二の神々には、それぞれに本地仏があった。
本宮の家津美御子大神は阿弥陀如来。 新宮の熊野速玉大神は薬師如来。 那智の熊野夫須美大神は千手観音などである。

熊野速玉大社は熊野十二所権現の御社頭である。
荘厳華麗な朱塗りの御社殿四棟には、熊野十二所権現の神々が祀られている。
向かって左から、「結霊宮」に熊野夫須美大神(第一殿)。 次に、「速霊宮」に主神の熊野速玉大神(第二殿)。 続いて、三社相殿の「上三殿」には証誠殿の家津美御子大神・国常立命(第三殿)、若宮の天照大神(第四殿)、神倉宮の高倉下命(第五殿)。 最後に、八社相殿の「八社殿」には、禅地宮の天忍穂耳命(第六殿)、聖宮の瓊々杵命(第七殿)、児宮の彦火々出見命(第八殿)、子守宮の鸕鷀草葺不合命(第九殿)、一万宮・十万宮の国狭槌命・豊斟渟命(第十殿)、勧請宮の埿土煮命(第十一殿)、飛行宮の大斗之道命(第十二殿)、米持宮の面足命(第十三殿)である。
長々と書き連ねたが、これには訳がある。

数えてみると不思議なことが判ってくる。
   1殿1神+1殿1神+3殿4神+8殿9神=13殿15神
4棟の13殿に15柱の神が祀られている。 十二所権現とは数が合わない。
明らかに、十二所権現以外の神が含まれているのである。

十二所権現以外の神とは?
これは簡単、「熊野本宮大社」の十二祭神を差し引けば、すぐに判ると思った。
ところが、「本宮大社」と「新宮大社」では第九殿以下の御祭神に食い違いがあった。(これは新たな大発見)  比較はできるが、正確な答えは出てこない。
今度は、「那智大社」と比較。 こちらは「新宮大社」と御祭神が一致した(滝宮は十二所権現ではないので除外)。
「新宮大社」の御祭神から「那智大社」の十二所権現を差し引けば、答えは一つ。
既にお分かりかと思う。  神倉宮の高倉下命である。  本地仏を持たない純粋な神だ。

垂迹の神を取り除いてみれば、本当の神が見えてくる。
本地垂迹の霧が晴れると、本来の神に光がさした。
後世の本地垂迹思想の影響を受けながらも、太古の神は生き続けているのだ。

熊野の人々は、太古の昔から引き継がれる御祖神を大切に守り、崇敬し続けて来た。
「元宮」から「新宮」へ遷されても、その想いは変わらなかった。
本地垂迹の嵐が吹き荒れる中でも、熊野の人々は御祖神を守りぬいて来た。
それで今でも、垂迹神の影に隠れながら、御祖神・高倉下命は祀られているのである。
これが真相ではないだろうか。

熊野速玉大社の本来の御祭神は、熊野の御祖神・高倉下命(たかくらじのみこと)であったのだ。


  

Posted by 閑人 at 14:20Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2011年12月10日

熊野三山 熊野本宮大社


日本第一大靈驗所 熊野本宮大社




熊野三山 熊野本宮大社 (くまのほんぐうたいしゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県田辺市本宮町本宮

〔旧社地〕 大斎原 (おおゆのはら)

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国牟婁郡の式内社・熊野坐神社 (名神大)

〔御祭神〕 東御前 (若宮) 天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
       御本社 (證誠殿) 家都美御子大神 (けつみみこおおかみ)  (素戔嗚尊の別名)
       西御前 (速玉宮) 御子速玉大神 (みこはやたまおおかみ) 
             (結宮) 熊野牟須美大神 (くまのむすみおおかみ) 

〔御由緒〕 当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。
 御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊(すさのうのみこと)と申し、樹木を支配される神であり、紀国(きのくに)(木ノ国)の語源もここから起こっております。
大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜七年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、女院の御幸は実に百数十回に及びました。 これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えています。
 その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら、人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
 現在の社殿は享和二年徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原)(指定文化財)に建立されましたが、明治二十二年の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。 この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祠してあります。
-熊野本宮大社案内板から抜粋-


〔御神紋〕 八咫烏


八咫烏 (やたがらす)  由来

熊野では八咫烏を神の使者と言われています。 三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すとも言われ、当社では主祭神家都美御子大神(素盞嗚尊)の御神徳である「智・仁・勇」、又「天・地・人」の意をあらわしています。
 烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野に迷う給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。
 又、日本サッカー協会のシンボルマークは八咫烏です。(明治時代にサッカーが日本に始まった。この頃から使用されているそうです) サッカー協会のマークに使用された意味は、考えるに目的とする相手チームのゴールをはずすことなく、きちんととらえて納めるという意ではないでしょうか。
八咫烏のお祭りに関わる祭典

毎年一月七日、夕闇深き時刻(午後五時)厳修斎行される(年始め牛王刷り初め)があり、当社の年中行事の中でも中心となるお祭りです。
-熊野本宮大社社務所-



              拝殿                            神門











古色蒼然とした檜皮葺の社殿


 神門内は撮影禁止。 社殿の画像は社務所で購入した『参拝の栞』からお借りした。
 神門をくぐると、古色蒼然とした檜皮葺の熊野造(入母屋造り)の社殿三棟が建ち並ぶ。 社殿は瑞垣によって囲まれ、各殿毎に鈴門という礼拝所が設けられている。

 向かって左の社殿は、御子速玉大神を祀る速玉宮と熊野牟須美大神を祀る結宮が相殿となる西御前。 西御前は只今、屋根の檜皮葺き替え工事の覆屋で覆われ拝観できない。 横に長く二殿相殿の平入り社殿のようだ。
 中央は、主座の家都美御子大神(素盞嗚尊)を祀る證誠殿。 妻入りの熊野造の社殿。 檜皮葺の屋根には内削ぎの千木と4本の堅魚木を載せる。
 右側が天照皇大神を祀る若宮。 社殿の造りは、中央の證誠殿と規模・形式とも全く同じ。

 以前読んだことがある原田常治の著『古代日本正史』に、熊野本宮大社を批判して、「出雲造りの三角形のほうに玄関のある第四殿に、日向一族の中心神である天照大神がお祀りされている。さぞ、住みにくいのではないかと、参拝しながら御同情申し上げた。」と言っている。 原田常治は主神の家都美御子大神を天火明饒速日尊(あまのほあかりにぎはやひのみこと)と見なし、速玉大神を素盞嗚尊とする。 まことに面白い見解である。

 閑人も少し原田説を補足してみよう。 素盞嗚尊崇敬の閑人には、中央の證誠殿に違和感があった。 なんと屋根の千木が内削ぎになっているのである。 出雲の神祖、雄々しい素盞嗚尊に内削ぎの千木はふさわしくない。 剣を折られて、さぞ、悔しい思いをしているのではないかと、参拝しながら御同情申し上げた。
 この證誠殿の御祭神を原田説のように饒速日尊(にぎはやひのみこと)と見なせば面白い。 『先代旧事本紀』には饒速日尊の正式諡名として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と記す。 饒速日尊も天照(あまてらす)なのである。 證誠殿の内削ぎの千木は、太陽に向かって両手を広げ、手のひらを太陽にかざしている様にも見える。 真に、天照(あまてらす)に相応しいお住まいとなる。


     境内末社・功霊社        境内末社・祓戸大神         境外末社・産田社




熊野本宮大社旧社地 大斎原 (おおゆのはら)




旧社地 「大斎原」 (おおゆのはら)

 ここは、大斎原と称して熊野本宮大社の旧社地です。 明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方七〇〇米の高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。 中四社、下四社並びに摂末社の御神霊は、ここ大斎原に、仮に石祠二殿を造営し、左に中、下各四社を、右に、元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社他)をお祀りしています。
〔中四社〕
第五殿 忍穂耳命 (おしほみみのみこと)
第六殿 瓊々杵尊命 (ににぎのみこと)
第七殿 彦穂々出見尊 (ひこほほでみのみこと)
第八殿 鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)
〔下四社〕
第九殿 軻遇突智命 (かくつちのみこと) (火の神)
第十殿 埴山姫命 (はにやまひめのみこと) (土の神)
第十一殿 弥都波能売命 (みづはのめのみこと) (水の神)
第十二殿 稚産霊命 (わくむすびのみこと)
-大斎原案内板から抜粋-


       大斎原境内             石祠二殿           一遍上人神勅名号碑




熊野牛王神符 (本宮)



熊野牛王神符 (くまのごおうしんぷ)

 熊野牛王又は宝印神符ともいう、俗に「オカラスさん」ともよばれ、カラス文字でかゝれた熊野山獨得の御神符であります。
 その起源は詳らかではありませんが、当社の主祭神家都美御子大神(素盞嗚尊)と天照皇大神との高天原のおける誓約、或は神武天皇御東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも云われています。
 当社の熊野牛王は、烏文字を木版で手刷りのもので、当社のお烏さんの数八十八羽で、古く天武朝白鳳十一年(約1300年前)始めて熊野僧徒牛王宝印奉ると記せられている。 (東牟婁郡誌)
 時代が降るに伴いこの御神符も色々な方面に用いられ、鎌倉時代には「誓約書」ともなり江戸時代には「起誓文」の代りとして用いられた。
 古くから、熊野権現への誓約を破ると熊野大神の使である烏が一羽亡くなり、本人も血を吐き地獄におちると信じられてきたのである。
 この様に「熊野牛王神符」は熊野信仰の人々を凡ゆる災厄から護っていただいた御神符で
     カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
     門口にまつれば盗難を防ぎ
     懐中して飛行機、船に乗れば、船酔い災難をまぬがれる
     病人の床にしけば、病気平癒となる
 今日当社で、神前結婚式の誓詞の裏に貼布しているのも右の故事によるものである。  敬白
     熊野本宮大社
-熊野牛王神符説明文から-



熊野の牛王神符は、烏と宝珠で文字化され、三山それぞれデザインが異なる。
熊野本宮大社の牛王神符は、88羽の烏と8個の宝珠で画かれている。
何と読むのだろうか?  右は「熊・野」と読めるのだが、後はちんぷんかんぷん。
社務所の神官さんに聞いてみた。

〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    寳 (たから)
〔左〕    璽 (みしるし)
と読むそうです。

三山を巡り、それぞれの牛王神符について神官さんに尋ねてみると、各神社で解釈が異なっていた。 古く昔からのことなので、今では不明なところもあるという。
そこで、三枚の牛王神符を見比べて、閑人勝手流の解釈を試みた。

〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    璽 (みしるし)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳 (たから)
と読むこともできるのではないか。 あくまで素人の解釈です。




〔後記〕
 熊野を旅するにあたって、閑人には二つの想いがあった。
① 熊野という地名は、出雲の国の熊野に由来するのではないか?
② 熊野の御祖神は、我が尾張国と同祖の天火明饒速日尊(あめのほあかりにぎはやひのみこと)である。 どのように祀られているのであろうか?

 ①については以外にあっさりと解決した。 熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神(けつみみこおおかみ)とは素盞嗚尊(すさのおのみこと)の別名であった。 境内案内板の由緒書にハッキリと書かれてある。 又、神社から頂いた『参拝の栞』に、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと)とも書かれてあった。 この熊野加武呂乃命という神名が重要ポイントであった。
 熊野加武呂乃命とは、出雲国一の宮・熊野大社の祭神である「神祖熊野大神櫛御気野命(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」を略した神名なのである。 出雲の熊野大社も神祖熊野大神櫛御気野命を素盞嗚尊として祀られている。 更に、『古事記』『日本書紀』にも載っていない、聞き慣れない家都美御子大神という神名は御気野命から引用されたものであろう。
 素盞嗚尊は熊野本宮大社の由緒書に、「樹木を支配される神であり、紀国(きのくに)(木ノ国)の語源もここから起こっております。」とあるように木の神(紀の神)である。
 以前紹介した紀伊国一宮・伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の祭神は素盞鳴尊の御子神、五十猛命(いたけるのみこと)・大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)・都麻津比賣命(つまつひめのみこと)であった。 伊太祁曽神社の由緒書に、「五十猛命は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、植林の神として信仰されている。 『日本書紀』には五十猛命と姫神が大八洲国に植樹したと記されており、最後に鎮まった地を「木の国」と呼んだとされる。 奈良時代に「紀伊国」と改められた。 本殿の両脇に、五十猛命の妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)と都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀る。」とある。 この様に実際に紀伊国に植樹したのは御子神、五十猛命であろう。
 出雲出身の五十猛命は父神素盞鳴尊を偲んで、植樹したこの地に、出雲の熊野山に鎮まる素盞鳴尊の霊を奉斎した。 よってこの地も「熊野」と呼ぶようになった。


 ②については、見つけることはできなかった。 かろうじて、旧社地・大斎原(おおゆのはら)の石祠に、元境内社の高倉下神社を見つけた。 天火明饒速日尊の御子、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀っていたのだろう。
 手がかりはあったのだ。 『参拝の栞』に、「熊野大神を斎き祀ったのは、熊野国造家(くまのこくぞうけ)ですが、この氏族は天照大神の孫、饒速日命(にぎはやひのみこと)またの名を天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で物部氏の祖に当たります。 饒速日命の孫が味饒田命(うましにぎたのみこと)=熊野連(くまののむらじ)に当たり、さらに二世を経て大阿斗足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の御代に国造(くにのみやつこ)を賜っており爾来この子孫が代々大神に奉仕し、近く江戸時代の末に及んだのであります。」と記載されていた。 つまり、天火明饒速日命の子孫である熊野国造家・熊野連が代々熊野大神を斎き祀って来たのである。
 元来、日本人は何よりもまず御先祖様を優先して奉斎する。 古代においては尚更のことである。 なのに、饒速日命・天火明命は祀られていない。 味饒田命も大阿斗足尼もだ。 これはおかしい! いったいどういうことだ!  熊野本宮大社には失望した。 御先祖神を祀っていないとは。

我が尾張の国では、御先祖神・天火明命を丁重にお祀りしている。
尾張国一宮・真清田(ますみだ)神社
御祭神 天火明命
「当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。」-真清田神社境内案内板から- 

たった1時間程度の参拝と調査で失望してはいけないと、反省。
調査不足と見落としも多いだろう。 神社には公にしない秘伝も数多くあるという。
希望をもって、次の熊野速玉大社へ進もう。


  

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2011年10月21日

丹後国一宮 籠神社


お伊勢さまのふるさと  元伊勢籠神社




丹後国一宮 籠神社 (このじんじゃ)     古称 吉佐宮 (よさのみや)

〔鎮座地〕 京都府宮津市字大垣430

〔社格〕 旧国幣中社  丹後国與謝郡の式内社・籠神社(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕 主神  天照國照彦火明命 (あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
       相殿  豊受大神 (とようけのおおかみ)
            天照大神 (あまてらすおおかみ)
            海神 (わたつみのかみ)
            天水分神 (あめのみくまりのかみ)

〔御由緒〕 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は国常立とも云う)を大氏神としていただいて当地方に天降られた彦火明命(ひこほあかりのみこと)は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになり、真名井原に御鎮座。 第十代崇神天皇の時に天照大神の御霊代が大和国笠縫邑から当宮にお遷りになり、與謝宮(吉佐宮)と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされた。 その後、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになった。 それに依って当社は元伊勢と云われている。 両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国一の宮として朝野の崇敬を集めて来た。
 社殿の様式は伊勢の神宮と同じ唯一神明造で、古式の心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色の座玉(すえたま)は伊勢の神宮御正殿と当社以外には拝されないもので、神社建築として最古の様式と高い格式を表している。
-『全国一の宮めぐり』から-



              神門                            拝殿











狛犬 阿吽一対 (鎌倉時代作 重要文化財)
 この狛犬は日本様式化された狛犬の傑作と云われ、他社の狛犬の形と全く違い、頭は小さく胴体と脚が大きく、どっしりと安定しており、然もその姿勢は静と動を同時に表現して命あるもののように、ア・ウンの見事な調和をみせています。
 鎌倉時代の名作として重要文化財に指定されていますが、その昔作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬あ天橋立にあばれ出て通行の人を驚かしたので、たまたま仇討に来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、剛刀で狛犬の脚を切ったところ、それ以来社頭に還り、魔除の狛犬と云われて霊験あらたかになったと伝えられています。
-籠神社パンフレットから-



         唯一神明造の本殿                高欄上の五色の座玉(すえたま)










本殿
 御社殿は伊勢神宮とほぼ同様式の唯一神明造であって、古来、三十年毎に御造替の制となっている。 御本宮の勝男木は十本で、千木は内削ぎになっていて、色々の古儀が昔のままに伝えられている。 心御柱があるが、之に就き社記に「御柱一名天御量柱 是則一氣起、天地之形、陰陽之源、万物之体也」と見えている。
 高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、神宮御正殿以外には拝せられないもので、元伊勢宮として、又山陰道第一の大社として、諸社に越える古来の御神徳、御社格を象徴するものであり、日本神社建築史上特に貴重なものとされている。 尚、本殿は弘化二年(一八四五年)の造替で、京都府文化財指定建造物である。
-籠神社公式サイトから-




千古のたたずまいを見せる奥宮
真名井神社 (まないじんじゃ)



真名井神社 (まないじんじゃ)

磐座主座 (天御中主大神霊畤)
〔御祭神〕 豊受大神 (とようけのおおかみ)
  相殿  罔象女大神 (みつはのめのおおかみ)
       彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
       神代五代神
 豊受大神 亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。 天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。 相殿に、罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。

磐座西座 (天照大神小宮霊畤)
〔御祭神〕 天照大神 (あまてらすおおかみ)
       伊射奈岐大神 (いざなぎのおおかみ)
       伊射奈美大神 (いざなみのおおかみ)
 この磐座は日之小宮と申し、主神は天照大神であらせられる。奈岐・奈美二神は大八州(日本)の国生みの伝で有名であらせられる。当社奥宮境内真名井原に降臨せられ、天橋立(天地通行の梯)をお造りになられた大神で、夫婦和合、家内安全、授子安産、延命長寿、縁結びの御徳が著名であらせられる。

          真名井神社拝殿                     磐座主座・磐座西座










〔御由緒〕 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は國常立とも云う)を大氏神として戴いただいて当地方に天降られた天照國照彦火明命は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになりました。 こうして造化の名勝天橋立の北端眞名井原に御鎮座、第十代崇神天皇の時に天照大神の御霊代が當宮にお遷りになり、吉佐宮(よさのみや)と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされました。 元伊勢の御由緒の起こりです。 奥宮は今、神代が現代に生きている聖地として、心ある信仰者の熱い祈りが日々捧げられています。
-籠神社パンフレットから-



奥の磐座
 鹽土老翁 (亦名住吉同体) (大綿津見神) (亦名豊受大神)
 宇迦之御魂 (稲荷大神)
 熊野大神 (須佐之男神)
 道祖神
 愛宕大神


       波せき地蔵           産盥(うぶたらい)       御霊水 天の真名井の水



〔境内摂社〕



蛭子神社 (えびすじんじゃ)
 之の社は恵美須神社とも云い、彦火火出見命と倭宿祢命を祭る。




天照大神和魂社 (あまてらすおおかみにぎみたましゃ)
 祭神は天照大神の和魂、或は荒魂とも伝えられる。 當社鎮座地は「大垣」であるが、神宮の御神領を書かれた神鳳抄の中に、大垣御厨(ミクリヤ)が所見する。




真名井稲荷神社 (まないいなりじんじゃ)
 祭神は、宇迦御魂、保食神、豊受比売。 古代から明治末期迄、奥宮真名井原に祭られていたのを、平成三年九月九日、八十年ぶりに本社境内に再建。




〔境内末社〕

〔左〕 春日大明神社
 春日四神を祭るが、古代には建甕槌社と呼ばれたと伝える。
〔右〕 猿田彦神社
 猿田彦神は、古来大世多大明神と呼ばれる。 之は大佐田大明神の意であろう。



                           倭宿禰命像


倭宿禰命 (やまとのすくねのみこと)
別名  珍彦(うずひこ)・椎根津彦(しいねつひこ)・神知津彦(かむしりつひこ)
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖
 神武東遷の途次、明石海峡(速水門・はやすいなど)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとのすくね)の称号を賜る。
 外に大倭国造(やまとのくにのみやつこ)、倭値(やまとのあたい)とも云う。
 大倭(おおやまと・だいわ)の字音は、後の大和(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
 亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族(あまぞく)の始原の一面を語り、又海氏(あまうじ)と天系(あめけい)との同一出自をも示唆するようである。
御神徳
人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護
  元伊勢 籠神社  八十二代宮司  海部光彦
-籠神社境内案内板から-




         神の代に 神の通ひし 跡なれや
                         雲居につづく 天橋立
                                                  村田春海


  

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2011年10月09日

紀伊国一宮 丹生都比売神社


神仏融合はじまりの社




紀伊国一宮 丹生都比売神社 (にうつひめじんじゃ)    通称 天野神社

〔鎮座地〕 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊國伊都郡の式内社・丹生都比女神社(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕 第一殿  丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)  (丹生明神)
       第二殿  高野御子大神(たかのみこのおおかみ)  (狩場明神)
       第三殿  大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)  (気比明神)
       第四殿  市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)  (厳島明神)

〔御由緒〕 丹生都比売大神(丹生明神)は稚日女(わかひるめのかみ)と同神とされ、天野明神とも称される。 紀伊国を巡歴され開拓し、最後にこの天野の地へ千七百年前に鎮まったのが当社の創祀と伝える。
 弘法大師空海は真言密教の根本道場を開山するにあたり丹生都比売大神より神領地の一部である高野山を借り受けたと伝え、高野山の鎮守神として山上のも祀られている。 のち承元二年(一二〇八)に大食都比売大神(気比明神)と市杵島比売大神(厳島明神)が勧請され、現在の四社形態となった。
 当山は高野山とともに隆盛し、社宝として国宝を含む多くの重要文化財を所有、境内の諸建造物もほとんどが文化財に指定されている。 本殿は四社とも、現存する最大の一間社春日造で、社殿の内部に宮殿があり、その中に御神体を納める形式は類例がない。 大正時代には官幣大社に列格、境内が国の史跡に指定、世界文化遺産にも登録されている。
                                          -『全国一の宮めぐり』から-


          楼門 (重要文化財)                  楼門から本殿を望む












                 一間社春日造の本殿四棟 (重要文化財)



     若宮(行勝上人)     佐波神社(上天野地区諸社合祀)      鏡池の弁天島



        外鳥居                中鳥居              輪橋(りんきょう)




       高野山 仰ぐを更に 仰ぐかな
                     にふつ姫神 ふもとながらに
                                                   契沖


  

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2011年10月06日

紀伊国一宮 伊太祁曽神社


天なるや 八十の木種を 八十国に まきほどこしし 神ぞこの神


木の国 神話の社 伊太祁曽神社




紀伊国一宮 伊太祁曽神社 (いたきそじんじゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県和歌山市伊太祈曽558

〔社格〕 旧官幣中社  紀伊国名草郡の式内社・伊太祁曾神社(名神大・月次相嘗新嘗)

〔御祭神〕  五十猛命(いたけるのみこと)    大屋毘古神(おおやびこのかみ)とも称する
(左脇殿)  大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)
(右脇殿)  都麻津比賣命(つまつひめのみこと)

〔御由緒〕 五十猛命は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、植林の神として信仰されている。 『日本書紀』には五十猛命と姫神が大八洲国に植樹したと記されており、最後に鎮まった地を「木の国」と呼んだとされる。 奈良時代に「紀伊国」と改められた。 本殿の両脇に、五十猛命の妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)と都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀る。
 神社の文献上の初見は『続日本紀』大宝二年(七〇二)に三神分遷のことが見え、それ以前より祀られていた事がわかる。 太古は秋月の地に祀られたが、日前宮の鎮座と共に山東の地へ遷されたと伝える。 周辺には古墳群があり、『延喜式』では名神大社となるなど、古くからこの地方が栄えていたことが伺える。
 戦国時代に豊臣秀吉が社領を没収するも秀長により回復、のち和歌山城主となった浅野幸長による社地の寄進、江戸時代には紀州徳川家の崇敬より隆盛した。 現在も紀伊国一円の崇敬はもとより、山林・木材の守護神として全国的に信仰されている。
-『全国一の宮めぐり』から-



右脇宮拝殿 都麻津比賣命       本宮拝殿 五十猛命      左脇宮拝殿 大屋津比賣命





〔左〕 本殿と右脇宮

〔右〕 本殿と左脇宮






氣生神社
〔御祭神〕 五十猛命の荒魂(いたけるのみことのあらみたま)
 本殿南側に鎮座しています。毎年12月12日に例祭(氣神祭)が執り行われます。





祇園神社
〔御祭神〕 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
       天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
       埴安比売命(はにやすひめのみこと)
 境内南方の山中にあり、五十猛命の父神である素盞鳴尊を主祭神としてお祀りしています。 毎年旧暦6月7日の夜に祇園祭が行われます。 明治の合祀令によって、氏子地区内の祇園神社も合祀されています。



蛭子神社
〔御祭神〕 蛭子大神(ひるこのおおかみ)
       氏子地区内の22社の神々
 明治の神社合祀令によって、氏子地区である東西山東の各大字に祀られていた22の神社が合祀されています。




櫛磐間戸神社
〔御祭神〕 櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)
       豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)
 一の鳥居横に鎮座するこの神社は、伊太祁曽神社の入口を守る門神様として親しまれています。 毎年6月1日に例祭(門宮祭)が執り行われます。



いのちの水・御井社
〔御祭神〕 彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)
 境内山中の井戸より湧く水は、古来より いのちの水と呼ばれてきました。病人に飲ませると活力を得ると伝えられ、今日でも遠方より汲みに来る方が絶えません。



お猿石
 猿の頭の形をしたこの石は、首より上の病に霊験が著しいと云われています。 古くは本殿横にあり、参拝者は本殿参拝の前に手をあてて心気を鎮めて参詣したと云います。 現在は蛭子神社前に移設され、多くの方が撫でてお参りされています。




御神木の大杉・木の俣くぐり
 木の神五十猛命を祀る当神社の御神木として永くこの地に聳え、その樹齢は千年とも云われていました。 昭和三十七年落雷により炎上、それが原因で枯れるに至る。 古幹が保存され、大屋毘古神が木の俣を利用して大国主命を助けた神話にちなんで、この穴を潜り抜けると災難を除けられると云われています。



       一之鳥居                二之鳥居               太鼓橋





       山々の 木々の栄えを 木の国の
                        栄えと守る 伊太祁曽の神
本居太平



  

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2011年09月15日

紀伊国一宮 日前・國懸神宮


日前神宮・國懸神宮




紀伊国一宮  日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮(くにかかすじんぐう)

〔鎮座地〕 和歌山県和歌山市秋月365

〔社格〕 旧官幣大社 紀伊国名草郡の式内社、日前神社・國懸神社(名神大・月次相嘗新嘗)

〔御祭神〕   日前神宮  日前大神(ひのくまのおおかみ)=日像鏡(ひがたのかがみ)
            相殿  思兼命(おもいかねのみこと)
                 石凝姥命(いしこりどめのみこと)

         國懸神宮  國懸大神(くにかかすのおおかみ)=日矛鏡(ひぼこのかがみ)
            相殿  玉祖命(たまおやのみこと)
                 明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
                 鈿女命(うづめのみこと)

〔御由緒〕 社伝によると、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が天岩戸の前で日像鏡、日矛鏡、そして、「三種の神器」である八咫鏡を製作し、三体とも天孫降臨の際にもたらされた。 天道根命(あめのみちねのみこと)が紀伊国造に任ぜられ、日像鏡を日前神宮へ、日矛鏡は國懸神宮へ、それぞれ御霊代としてお祀りしたのが両宮の創祀という。 そしてその天道根命を初代とし、代々紀伊国造家(紀家)が当国を統治し、両宮を篤く尊崇してきた。
 両宮は別々の社格を有するが、左に日前神宮、右に國懸神宮が同じ境内に並立し鎮まっている。 『延喜式』にも名神大社として記載され、御祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡であるため、伊勢の神宮同様朝廷より別格の扱いを受けていた。
 戦国時代、紀伊国へ侵攻した秀吉の軍勢により境内荒廃するも和歌山藩より黒印領四十石を寄せられ、紀州徳川藩祖の徳川頼宣により寛永四年(一六二七)に境内が整備された。 明治四年両宮ともに官幣大社に列格。 現在の社殿は大正十五年に再建され現在の姿となった。
-『全国一の宮めぐり』から-



             日前神宮                         國懸神宮












摂社・天道根神社(あめのみちねじんじゃ)
〔御祭神〕 天道根命(あめのみちねのみこと)
〔御由緒〕 天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命されました。紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継ぎ明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められました。



摂社・中言神社(なかごとじんじゃ)
〔御祭神〕 名草姫命(なぐさひめのみこと)・名草彦命(なぐさひこのみこと)
〔御由緒〕 祭神である名草彦命は、天道根命を初代國造にして五代目にあたり、また夫婦神として名草姫命と御一緒に中言神社として奉祀されております。名草郡の地主の神として崇敬され、『紀伊続風土記』には名草郡だけでも中言社と呼ばれた神社が十二社もあった程で、同郡では最も多い神社であったと伝えられております。明治十年三月二十六日官命を以て日前國懸両神宮の摂社に定められました。



末社・松尾神社(まつおじんじゃ)
〔御祭神〕 大山咋神(おおやまくいのかみ)・中津島姫命(なかつしまひめのみこと)
〔御由緒〕 京都洛西の総氏神である松尾大社から分社され、当宮の末社となりました。特に醸造の祖神として特別な崇敬を受けており、毎年十一月には「松尾祭」が厳かに斎行されております。



末社・深草神社(ふかくさじんじゃ)
〔御祭神〕 野槌神(のづちのかみ)
〔御由緒〕 祭神の野槌神はイザナキ・イザナミ二柱の大神の御子にして、草や野に関するすべてを司り、守護する神であります。 古来より神の使いとしての「牛」と信仰を結び、野草を食むことからくさ(人体の腫物)を食むという「病気平癒」の高い御神徳があります。




末社・市戒神社(いちえびすじんじゃ)

〔御祭神〕 蛭子神(ひるこのかみ)





御神徳
日前宮は紀伊國一之宮にして天照陽乃大神を祀る  日前國懸大神はその御別名にましまして太陽の御徳を蒙り生とし生ける凡てのものに御陰を戴き生々發展をなし人々の縁を結びうけい(結婚)の徳をさずけ生活の基本を守り給ひ古来より深き信仰を持つ
-日前國懸神宮パンフレットから-



  

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2011年08月05日

河内国一宮 枚岡神社


神事宗源 天孫輔弼  枚岡神社




河内国一宮 枚岡神社 (ひらおかじんじゃ)

〔鎮座地〕 大阪府東大阪市出雲井7-16

〔社格〕  旧官幣大社  河内国河内郡の式内社・枚岡神社四座(並名神大。月次・相甞・新甞)

〔御祭神〕 〔第一殿〕 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
       〔第二殿〕 比賣御神 (ひめみかみ)
       〔第三殿〕 斎主命 (いわいぬしのみこと)=経津主命(ふつぬしのみこと)
       〔第四殿〕 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)

〔御由緒〕 奈良から生駒山の暗峠を越えて真直ぐに西へ降った古い街道、山麓近くに朱の春日造りの社殿が西向きに鎮座し、神社の主神は天児屋根命即ち我国の祭祀の始めを掌り給い、中臣・藤原氏の祖神であり、春日大社の第三殿(天児屋根命)と第四殿(比賣御神)の神は、神護景雲年間(西暦七六七~七七〇)に当社から春日神社へ分祀せられた為、当社を元春日と呼び習わして来た。 因に、当社の第三殿・第四殿の二神は、宝亀九年(七七八)春日大社から迎えて配祀せられた。 神階は次第に昇り、貞観元年(八五九)には正一位に叙せられ、『延喜式』には名神大社に列した。 古くから中臣氏の一族平岡連の斎く社であったが、平安末期から水速家が祀職となり、河内一宮として朝野から篤く祀られた。 天喜四年(一〇五六)・宝治元年(一二四七)・天正二年(一五七四)と度々火災に遭い、慶長七年(一六〇二)豊臣秀頼が社殿を修復した。 現社殿は文政九年(一八二六)氏子の総力を挙げての修造である。 社領は百石を有した。
 明治四年官幣大社に列し、神宮寺等が廃された。 本社四殿の他に、本殿背後の神津嶽に摂社神津嶽本宮、本殿南に摂社若宮神社更に南に末社天神地祇社が祀られ、その南部一帯は、「枚岡神社梅林」として春は観梅の人達で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-



参道広場

夏越大祓の茅の輪





拝殿
 明治12年に新築されました。 平成の修造で檜皮葺きから、銅板葺きに葺き替えられました。 正面に掲げられた神額は、三條實美公揮毫であります。





中門
 明治12年に改築、明治38年に現在の場所に移設され、昭和26年、平成3年に修復され現在に至っています。




本殿


 現在の御本殿は、文政9年(1826)に、近郡の氏子の奉納により造営されました。それより以前、『御神徳記』によりますと、天喜4年(1056)と宝治元年(1247)に焼亡し、其の都度造営され、文明9年(1477)にも近郡の氏子により造営されたと記されています。また、天正7年(1579)年9月、織田信長の兵火により類焼をうけ、本殿以下諸建物が焼失しましたが、慶長7年(1602)豊臣秀頼公が社殿の造営をし立派に復旧しました。その後、徳川の時代にはいり、当社に対する崇敬は薄れて衰退を余儀なくされましたが文政9年に造営がなされ、その後屋根の葺き替えや塗替え修理がおこなわれ、最近では平成の大修造(平成元年から3年)を経て現在に至っております。
 建築様式は、枚岡造(王子造)と呼ばれ四殿並列極彩色の美しい神社建築です。(市指定文化財)



遥拝所
 榊の木を通して、宮中の皇霊殿(春分・秋分の皇霊祭)・伊勢神宮(神嘗祭)・橿原神宮(紀元祭)を遥拝する他、神津嶽を遥拝する所です。




摂社 若宮社 (わかみやしゃ)
 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)がお祀りされています。 天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子神様です。この神様は、天児屋根命の命によって、天の二上に登り、皇御孫尊(すめみまのみこと)の御膳水(みけつみず)を取ってきたと伝えられております。 社殿は、明治20年に改築され現在にいたっております。


出雲井 (いずもい)
 摂社若宮社奥にある井戸です。 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)が水にかかわる神様であるためか、若宮社の左奥にあり、古くより神聖な水が湧き続けています。 枚岡神社の鎮座地は、出雲井町でありこの井戸の名称から、そう呼ばれるようになったのではないかと考えられます。



末社 天神地祇社 (てんしんちぎしゃ)
 天津神・国津神がお祀りされています。 この社には、もと境内にあった19末社の椿本社(猿田彦神)、青賢木社(天磐立神)、太力辛雄社(天手力雄命)、勝手社(受鬘神)、地主神(枚岡社地の地主神)、笠社(風神)、住吉社(住吉明神)、飛来天神社(天之御中主命)、岩本社(岩本明神)、佐気奈辺社、一言主社(一言主神)、坂本社(山王権現)、素盞鳴命社(素盞鳴命)、八王子社(王子八神)、戸隠社(天八意思兼命)、大山彦社、門守社(櫛石窓神・豊石窓神)、角振社(角振神)、宮社(土佐坊正命)と合せて、氏子近郡の村の氏神としてお祀りされていた、出雲井村の八坂神社、豊浦村の春日神社・東山神社、額田村の額田神社・若宮八幡宮社・山神社・蛭児神社、五条村の八幡宮社、客坊村の一杵島姫神社、四条村の春日神社・素盞鳴命神社、松原村の春日神社・八幡宮社等の神々が、明治5年に合祀されお祀りされています。
-枚岡神社公式サイトから-



御祭神
 主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。
経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。

第一殿 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
 天兒屋命・天之子八根命・天子屋根命とも書き、太詔戸命・櫛眞智命中臣の神とも称え奉られます。
 天の岩戸開きに功績をあげられますが、はじめてお祭りを行い、祝詞を奏上された事から「神事宗源 (しんじそうげん)」の神と称えられています。
 天孫降臨の神話では、瓊々杵尊 (ににぎのみこと)に御供仕え奉った神々の中でも、特に重責を担った神であり、天照大御神 (あまてらすおほみかみ)・高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)から、皇孫を助け斎ひ護るようにとの神勅により、その重責をはたし皇運の基礎を固めきづかれた事から、「天孫輔弼 (てんそんほひつ)」の神とも称えられています。

第二殿 比売御神 (ひめみかみ)
 諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命 (あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命 (あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。

第三殿 経津主命 (ふつぬしのみこと)
 香取神宮の御祭神。比古自布都命 (ひこじふつのみこと)・斎主命 (いわいぬしのみこと)・伊波比・斎ノ大人とも称え奉られています。 武甕槌命と同じく、神話「国譲り」において出雲国に派遣され、見事にその役を果たされた神様で、武運守護の大神と仰がれています。

第四殿 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
 鹿島神宮の御祭神。建御雷之男神 (タケミカヅチノオノカミ)、建御雷神建御賀豆知命、布都御魂神と称え奉られています。 神話の中の国譲りにおいて、高天原の最高司令神の名で地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣され、見事にその役を果たされ、国の平定における武力と権威の象徴ともいうべき神様です。
-枚岡神社公式サイトから-



祭事
 当社三大祭は、例祭二月一日・祈年祭二月十七日・新嘗祭十一月二十三日であるが、祭礼神賑を伴った「秋郷祭」(十月十五日)は氏子の秋祭として各町の布団太鼓台約二十台が、神社の神輿に続いて境内へ勢揃いし、前日の宵宮祭・当日の本祭と、氏子青壮年の叩く太鼓の音が終日鳴り響き、緑に包まれた神社境内もこの時ばかりは大阪・奈良その他からの参拝者・露店があふれ十数万人の人出で境内は埋め尽される。 周辺道路の規制は勿論であるが、河内国の祭の総力が此処にこの日に集結したかと思われる盛大な大祭となる。
 年中恒例の中・小公式祭の他、節分祭の夕刻と八月第四日曜の夕刻には千灯明奉納神事があり、境内の釣灯篭・石灯篭を始め参道に添って釣灯篭が淡い灯をともし、春日大社の万灯篭を想わせる境内となる。 八月の千灯明奉納は、河内音頭の奉納があり、近在の氏子の子女の輪踊りで夜遅く迄賑わう。 又、夏越の大祓(六月三十日)は、茅の輪を立ててくぐり抜ける蘇民将来の古伝、夏病除けの信仰を伴う。
 除夜・元日の所謂「年越詣り」は当社でも盛んで、夜中から正面参道に参拝者が列を作って並び、元日午前零時の新年初太鼓と共に参拝が始まる。 境内では、氏子の奉仕する神酒授与の拝載所に人の列が並び終日参拝者の列は切れない。
 三月一日には梅花祭、四月三日には桜花祭があり、境内梅林と紅白梅・桜花の季節は花見を兼ねた参拝者で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-





〔後記〕
 本殿の配置が特殊であることに気づいた。 枚岡造と呼ばれる本殿は四殿が並列に配置されている。 てっきり左翼(向かって右)から第一殿・第二殿・第三殿・第四殿の順と思い込んでいた。
 ところが本殿の画像をよく見ると、向かって一番右側の第一殿と思われた本殿の千木だけが内削で、他の三殿は外削である。 このような場合、住吉大社でも見られるように、内削の千木は女性神をあらわしていると思われる。 女神ならば第二殿の比賣御神(ひめみかみ)ということになる。  一番左翼が第二殿?  これはいったいどういうことなのか、解せぬ!

 考えても、わかる術はない。  早速、枚岡神社へ電話して聞いてみた。
 枚岡神社からの説明では、「本殿の配置は、向かって右から第二殿・第一殿・第三殿・第四殿の順番です。 内削の千木は女神を示し、比賣御神を祀る第二殿です。 少し変わった配置となっています。」との回答であった。
 自分の推理が正しかったことに少しは納得したものの、まだ腑に落ちない。 普通ならば、左側が上位であるはず、どうして第二殿が最左翼なのだろう? 第二殿の比賣御神とは何者なのであろうか?

 比賣御神とは、女性の大神と解釈すればよいのだろうか、あまりにも抽象的な神名である。 神社側の説明では、「諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。」とある。 詳細は不明といいながら、かなり具体的である。 なんだか主祭神の天児屋根命と摂社若宮社の祭神天押雲根命との関連で辻褄合わせの説明をしているような気がする。

 閑人は思う。 第一殿の主神天児屋根命を差し置いて、その上位に君臨する女神とは、これはもう「天照大御神」以外には考えられない。
 境内には伊勢神宮の遥拝所もあり、何よりも本殿の特殊な配置が、 比賣御神=天照大御神 を如実に物語っているのである。



  

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2011年07月28日

伊賀国一宮 敢國神社


伊賀国一宮 敢國神社




伊賀国一宮 敢國神社 (あえくにじんじゃ)

〔鎮座地〕 三重県伊賀市一之宮877

〔社格〕 旧官幣中社 伊賀国阿拝郡の式内社・敢国神社(大)

〔御祭神〕 〔主神〕 大彦命 (おおひこのみこと)
       〔配神〕 少彦名命 (すくなひこなのみこと)
       〔配神〕 金山比咩命 (かなやまひめのみこと)

〔御由緒〕 大彦命は第八代孝元天皇の嫡男の御子で、第十代崇神天皇の御代に四道将軍のおひとりとして北陸地方の平定を任され、平定後、伊賀國を本貫の地として留まられ、その地が阿拝(あえ)郡であったことから、阿拝氏・阿部氏・安部氏の姓を名乗るようになり、伊賀の国中に子孫がひろがっていき栄え、この地に国府が置かれた。
 社伝によると神社の創建は六五八年とあり、当初は大彦命と少彦名命が祭神とされており、後九七七年神社前方の南宮山に鎮まる金山比咩命が合祀された。 南北朝時代には、後村上天皇が当社に行幸され、五日間参篭後御祈願されたことが園太暦に記載されている。
 江戸時代は藤堂高虎が伊賀へ入府後、伊賀上野城から、丑寅鬼門の方角にあたるところから「鬼門鎮守厄除」の神社として累代の庇護を受けた。 伊賀が生誕地である松尾芭蕉も当社を参拝し「手鼻かむ音さえ梅の匂ひかな」の句を詠んでいる。
-『全国一の宮めぐり』から-



              拝殿                            本殿












      摂社・六所社              摂社・九所社            末社・大石社



       末社・神明社        末社・市杵島姫社(弁天社)      末社・子さずけの神



       末社・楠社              末社・結社            末社・若宮八幡宮



摂末社の御祭神については大石社以外は案内がなかったので、『式内社調査報告』第六巻で調べてみた。

〔摂社 二社〕
六所社   伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児神・素盞嗚尊。
九所社   不詳。
〔末社 八社〕
大石社   須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命・大物主命。
若宮八幡宮   仁徳天皇。
結社   高皇産霊尊・手間天神。
小観社(子さずけの神のことか?)   不詳。
神明社   天照大御神。
市杵島姫社   市杵島姫命。
楠社   楠正成・藤堂元甫。
浅間社(境外南宮山山上)   木華開耶姫命。



桃太郎岩
 古伝によりこの桃太郎岩は今を去る五百五十年前南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰をあつめて居ります。
-境内案内板から-




芭蕉句碑
  手ばなかむ おとさへ梅の にほひかな
                                   ばせを
 元禄元年(一六八八)芭蕉四十五歳の作。 季語「梅」で春。 『笈の小文』の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が、梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で、『卯辰集』(北枝編)に収められている。 土芳の『蕉翁句集草稿』には、「伊賀の山家に有りて」の前書があり、下五を「さかり哉」とする。 「手鼻かむ音」は、紙を使わず手で鼻をかむしぐさ。 この語などは、和歌の観念では生かされそうにない素材であるが、芭蕉は和歌・連歌で詠み残した世界を広く俳諧の世界に生かし新境地としている。 この句も高雅で伝統的歌題である「梅」の情趣に、いかにも卑俗な「手鼻かむ音」を配して、寒さの残る山里の野趣を表現しているところは、和歌の伝統には見られない俳味である。
 句意は、「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。 その匂いの中に立っていると、傍らでふと手鼻かむ音がした。 そんなはしたない音さえも、田舎らしい趣が感じられてくる。」
-境内案内板から-



敢國神社の北方約1㎞の佐那具町に御祭神大彦命の御陵墓と伝えられる御墓山古墳がある。


国史跡 御墓山古墳


国史跡  御墓山古墳 (みはかやまこふん)

 御墓山古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳で、三重県内で最大規模を誇る墳墓で、大正10年(1921年)に、国史跡に指定されています。
 墳丘は2段に造られていますが、前方部裾から下方に葺石を伴う段築があり、見かけは3段に造られたようになっていて、実際より大きく見せる効果があったと考えられます。
 さらに、後円部から北西方向に張り出すような形で造り出しが設けられていることから、御墓山古墳は佐那具の街並みに正面を向けて造られていることがわかります。
 後円部上には盗掘抗が見られ、副葬品の出土は知られていませんが、円筒形や家の形を模したものなど、本墳出土とされる埴輪の破片が多く残されています。 (伊賀市教育委員会保管)
 孝元天皇の皇子で四道将軍の一人である大彦命の陵墓であると伝えられています。

  ◆御墓山古墳◆
  所在地 伊賀市佐那具町字天王下
  規模  全体の長さ 約180m
       後円部 径 約100m   高さ 約14m
       前方部 幅 約80m    高さ 約10m
    平成18年3月   佐那具町自治会  府中地区住民自治協議会
-国史跡・御墓山古墳案内板から-



  

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2011年07月26日

摂津国一宮 坐摩神社


摂津国一宮 坐摩神社




摂津国一宮 坐摩神社 (いかすりじんじゃ)     通称 ざまじんじゃ

〔鎮座地〕 大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号

〔社格〕 旧官幣中社  摂津国西成郡の式内社・坐摩神社(大・月次・相甞・新甞)

〔御祭神〕 生井神  (いくいのかみ)
       福井神  (さくいのかみ)
       綱長井神  (つながいのかみ)
       波比岐神 (はひきのかみ)
       阿須波神 (あすはのかみ)
 以上五柱の御祭神を総称して坐摩神(いかすりのかみ)と申します。
 坐摩神は古語拾遺等によれば、神武天皇が即位された時、御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、坐摩の語源は諸説ありますが、土地又は居住地を守り給う意味の居所知(いかしり)が転じた名称といわれています。
-坐摩神社パンフレットから-



〔御神紋〕 鷺丸 (さぎまる)
 御神紋の白鷺は当社古来のものであり、その由来は神功皇后が坐摩神の御教により、摂津の国・大江の岸の田蓑島(現在の天満橋付近)の松枝に白鷺の群がる所を選び、坐摩神を奉斎なされたというご由緒によります。
-坐摩神社公式サイトから-


〔御由緒〕  大阪市内屈指のビジネス街、御堂筋本町の西方に鎮座する。 祭神五柱を坐摩大神(いかすりのおおかみ)と総称する。 大宮(皇居)の地霊の神として祀られ、大きな信仰と勢力を持った神社で住吉大社とともに摂津国一の宮となる。 平安時代には神祇官の西院に祀られた神で、朝廷の尊崇篤く、現在も皇居において大宮地の守護神として祀られている。
 明治天皇御誕生の折に当社で御安産の御祈祷が行われ、また『万葉集』には遠征の無事を坐摩神に祈る防人の歌が記載されており、住居守護や安産、旅行安全の神として信仰される。
 当初の鎮座地は、大坂城西方の天満橋南詰付近であったが、豊臣秀吉の大坂城築城に際し現在地へ遷座され、旧社地には現在行宮が鎮座する。 本殿以下建物は昭和二十年(一九四五)の戦火に罹り、昭和三十四年に再建された。
-『全国一の宮めぐり』から-



             拝殿                             本殿











境内末社


大江神社

    〔御祭神〕 神功皇后(じんぐうこうごう)
           應神天皇(おうじんてんのう)
           武内宿禰(たけうちのすくね)




       〔左〕 繊維神社
  天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)
  天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)
       〔右〕 大國主神社
  大國主命(おおくにぬしのみこと)
  事代主命(ことしろぬしのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)




       〔左〕 天満宮
  菅原道眞公 (すがわらのみちざねこう)

       〔右〕 相殿神社
  春日大神・住吉大神他十坐





       〔左〕 陶器神社
  大陶祇神(おおすえつみのかみ)
  迦具突智神(かぐつちのかみ)

       〔右〕 稲荷神社
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)




行宮 (御旅所)


     行宮 (あんぐう)  「御旅所」       大阪府大阪市中央区石町

〔御祭神〕 豊磐間戸神 (とよいわまどのかみ)
       奇磐間戸神 (くしいわまどのかみ)
 当社の創祀は神功皇后がこの地に坐摩神を奉祀されたのが始まりとされています。
 現在この地は坐摩神社行宮と称し、本殿には門戸・玄関・窓を守り給う豊磐間戸神・奇磐間戸神の二神が奉斎され、拝殿には神功皇后がご休息された鎮座石が今も残ります。 石町という地名はこの鎮座石に由来します。
 平安期には熊野詣が盛んになり、京都から摂津・和泉を経て熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられました。 この地は淀川を船で下り、最初に参詣する第一王子とも呼ばれる渡辺王子社(別名窪津王子社)のもとの鎮座地ともいわれています。
-坐摩神社パンフレットから-




上総国の防人の歌

          庭中の 阿須波の神に 小柴さし
                 吾は斎はむ 帰り来までに


          右一首   張丁  若麻績部諸人          -『万葉集』(四三五〇)-


  

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2011年07月25日

紀伊国 竈山神社


神武天皇の長兄彦五瀬命を祀る竈山神社





竈山神社 (かまやまじんじゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県和歌山市和田438

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国名草郡の式内社・竈山神社

〔御祭神〕 彦五瀬命 (ひこいつせのみこと) (第一代神武天皇の兄君)

〔御由緒〕 旧官幣大社(現、別表神社)。 『神武即位前紀』によれば、神武天皇の長兄五瀬命が、東征に際し、胆駒山を越えて、中つ国に入ろうとして孔舎衛(くさえ)の坂で長髄彦の軍と会戦した。 このとき流矢にあたり、進路をかえて茅渟(ちぬ)の山城の水門から紀伊国竃山に至ってついに薨じた。 そこで竈山に葬った、というのである。 従って祭神を彦五瀬命(ひこいつせのみこと)としている。 字南和田の西に釜山という岩山があり、この丘の形状が釜に似ている。 この山に五瀬命の竈山墓があり、その南麓に神社が鎮座する。 延喜の制、小社に列し、『紀伊国神名帳』に従四位上とみえる。 例祭十月一三日。 『諸陵式』に「竈山墓、彦五瀬命、在紀伊国名草郡、北域東西一町、南北二町、守戸三烟」とある。
-『神社辞典』から-



              神門                            拝殿











          拝殿・弊殿・本殿                         弊殿











境内神社


          青葉神社                    合祀社   結社   子安社











神武天皇皇兄 彦五瀬命 竃山墓





寛政六年(1794)の冬、本居宣長は竈山神社に詣で

      をたけびの かみよのみこゑ おもほへて
               あらしはげしき かまやまのまつ


と詠まれました。 竈山の岩根に鎮まります御神霊は、この日本の基礎であると共に、永久に世界の安定と発展とをお守り下さることでせう。
   和歌山市和田    竈山神社社務所
-竈山神社パンフレットから-



  

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2011年06月25日

津軽国一宮 岩木山神社


北門鎮護 岩木山神社




津軽国一宮 岩木山神社 (いわきやまじんじゃ)    通称 お岩木さま・お山

〔鎮座地〕 青森県弘前市百沢字寺沢27

〔社格〕 旧国幣小社

〔御祭神〕 顯國魂神 (うつしくにたまのかみ)
       多都比姫神 (たつひひめのかみ)
       宇賀能賣神 (うがのめのかみ)
       大山祇神 (おおやまづみのかみ)
       坂上刈田麿命 (さかのうえのかりたまろのみこと)

〔由緒沿革〕  当社は昔から「お岩木さま」 「お山」と親しんで呼ばれ、陸奥津軽の開拓の神、農海産物の守護神、また祖霊の座すところとして崇められてまいりました。 神山・霊山である岩木山は津軽全土から仰望せられ、人々に慈しみの徳を授けたまい、郷土人の生活と心のよりどころであります。
 岩木山大神は太古より神霊岩木嶺にお鎮りになられ、今から約一二〇〇年前、宝亀十一年(七八〇)社殿を山頂に創建したのが当社の起こりであります。
  延暦十九年(八〇〇)征夷大将軍坂上田村麿これを再建し、別に山麓十腰内の里に下居宮を建立して、山頂を奥宮と称し、寛治五年(一〇九一)神宣により下居宮を現在地に奉遷いたしました。 その後、世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、江戸時代には津軽藩主為信・信牧・信義・信政により大造営が行なわれ、近代には崇敬者の熱意を集めて、建造物、諸施設とも整い、名実ともにその威容を誇り、畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、とりわけ開運福の神として、色々の宗派を越え、深い信仰の源として厚く崇敬されております。
  新しき時代に向かい、ご神徳のまにまに、日本人の心の絆としてひとしく拝し、ご神威ますます輝かしく仰ぎ奉られるのであります。   大國魂鎮守  旧國幣社
-岩木山神社パンフレットから-


◎ 国指定重要文化財
〔建造物〕  本殿  奥門  瑞垣  拝殿  中門  楼門
〔無形〕  お山参詣


       一之鳥居               二之鳥居              三之鳥居



楼門



           楼門の随神                        下り狛・上り狛









            拝殿と中門                          拝殿











             中門                             本殿











境内神社


〔左〕 末社・白雲神社
〔祭神〕 多都比姫神荒魂

〔右〕 末社・稲荷神社
〔祭神〕 宇賀能賣神荒魂



奥宮神賑祭 (お山参詣)  重要無形民俗文化財
 旧八月朔日、秋の稲穂の波打つ頃、五穀豊穣の感謝と祈願をこめ、山頂奥宮に村落毎に団体で登拝する古くからの行事です。 登拝に先立ち、各村々の産土神の社に一週間精進潔斎し、新しい白装束に身を固め、登拝回数に応じ色とりどりの御幣を持ち、別に大幟や大御幣を力自慢の若者が捧持して登山囃子も賑々しく唱和して街道を練歩き、総産土神の大社と称える岩木山神社に参拝します。 神域の禊所で再び身を清め、神前で修祓を受けて夜半に至り朔日山の朝日を拝すべく元気に奥宮に向い登山します。 その道程約六キロ七曲坂の難所、女人禁制時代の名残姥石、焼止りで中腹、浄水湧く錫杖清水、種蒔苗代の池で占いし、急な御坂を経て、四時間で奥宮に達します。 現今は登拝のためにスカイラインも開通しています。
-岩木山神社パンフレットから-



登山囃子唱文

懺悔懺悔  六根懺悔  御山八大 金剛道者  一々礼拝  南無帰命頂礼

さいぎさいぎ  どっこいさいぎ  おやまさやちだい  こんごうどうしゃ  いちになのはい  なむきんみょうちょうらい

下山囃子唱文

宵山かけた  朔日山かけた  笑  萬足萬足よ

よいやまかけた  ついたちやまかけた  あゝ  ばたらばたらばたらよ



  

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2011年05月23日

和泉国一宮 大鳥大社


大鳥大社 一の鳥居



和泉国一宮 大鳥大社 (おおとりたいしゃ)     通称 大鳥さん

〔鎮座地〕  大阪府堺市西区鳳北町1-1

〔社格〕  旧官幣大社 和泉国大鳥郡の式内社・大鳥神社 (名神大 月次・新甞)

〔御祭神〕  日本武尊 (やまとたけるのみこと)
        大鳥連祖神 (おおとりむらじのみおやのかみ)

〔御由緒〕  日本武尊が東夷を征討の帰途、病にかかり伊勢の能褒野(亀山市)で亡くなられた。 その御霊は白鳥と化して飛び去り、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に当地に留まられたので、社を建立したのが創祀という。 また大鳥連祖神は、大中臣と祖先を同じくする大鳥氏の祖である。
  文武の神として武家の崇敬も篤く、平清盛、同重盛父子は熊野参詣の途次、当社に祈願して和歌及び名馬を奉納。 信長・秀吉・家康の三武将も社領の寄進、社殿の造営も行った。
  本殿は大鳥造と称される独特の建築様式であり、出雲の大社造に酷似し、切妻造・妻入の社殿は古い形式を伝える。 社殿は天正年間の兵乱に遭い、慶長七年豊臣秀頼により再興、寛文二年徳川家綱の命により再建されたが、明治三十八年雷火により焼失した。 現社殿は明治四十二年に再建されたもの。
  境内は一万五千余坪あり、往古白鳳が飛来してこの地に止まり、一夜にして種々の樹木が繁茂したとの伝えから「千種の森」と称される。
-『全国一の宮めぐり』から-



          八角鳥居と拝殿                     大鳥造の本殿











社殿
 本殿は大鳥造と申しまして、神社建築史上一種の様式を保っており、その構造は出雲の大社造に酷似しており、切妻造、妻入社殿で出雲大社造に次ぐ古い形式を今日に伝えております。
 社殿は天正年間の兵乱によって炎上し、慶長七年豊臣秀頼によって再興せられましたが、更に寛文二年には徳川家綱の命によって堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年には特別保護建造物に指定されましたが、同三十八年八月に雷火の為に再度炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。
 昭和九年国費で御屋根替、更に昭和三十六年御祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手によって内部の模様替と原型解体に近い大修理が行はれました。
-大鳥大社パンフレットから-




〔左〕 八角鳥居
八角柱の鳥居

〔右〕 日本武尊像




境内摂社 大鳥美波比神社


摂社 大鳥美波比神社 (おおとりみはひじんじゃ) (式内社・和泉国大鳥郡大鳥美波比神社)
〔御祭神〕  天照大神
〔相殿〕  菅原道真公
〔御由緒〕  本社の境内東側に鎮座、もと当社は北王子村御鎮座だあったのを明治十二年に現在地に御移したものであります。  主神の外七柱を合祀申し上げています。
-大鳥大社パンフレットから-



平清盛歌碑
 平治元年、平清盛、重盛父子が熊野参詣の途中、都にて兵乱あるとの急報を聞いて都に帰る途中、大鳥神社に参拝し、戦勝を祈願した。 この時

かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神

 この和歌一首と神馬一頭を献じた。  明治初年大鳥大社大宮司富岡鉄斎翁の筆により建てられた自然石の碑です。
-境内案内板から-



与謝野晶子歌碑

   和泉なる  わがうぶすなの  大鳥の 
             宮居の杉の  青き  ひとむら


                       晶子歌   田辺聖子書


  

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2011年05月19日

大和国 大和神社


大和神社  一の鳥居



大和神社 (おおやまとじんじゃ)

〔鎮座地〕  奈良県天理市新泉町306

〔社格〕  旧官幣大社  式内社・大和坐大國魂神社三座 (並名神大 月次相嘗新嘗)

〔御祭神〕  日本大国魂大神 (やまとおおくにたまのおおかみ)   〔中央〕
        八千戈大神 (やちほこのおおかみ)   〔向右〕
        御年大神 (みとしのおおかみ)   〔向左〕

〔御正殿〕  宮中三殿式の特異な御社殿

〔例祭〕  四月一日 (通称 ちゃんちゃん祭)

〔御由緒〕 当神社の主神は、日本の全国土の大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)に坐します。
  上古伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ同六年(二千数十年前)当神社の主神を市磯邑(いちしのむら 大和郷)に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として祀らしめ給う。
  延喜式に大社大和坐大国魂神社三座とある。 斬様に尊い御由緒は類まれなところで御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封もまた大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸の六カ国に於いて三百二十七戸に及び境内も六十四ヘクタールの広大なり。と古記録に見ゆる。
  また、戦中は世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。 同艦も、昭和二十年四月七日、鹿児島県坊の岬沖にて撃沈され、その英霊である第二艦隊司令長官伊藤整一命外二七三六柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
-大和神社パンフレットから-


          二の鳥居と参道                       拝殿前境内












〔左〕 拝殿

〔右〕 本殿の屋根




境内摂社


摂社 増御子神社 (ますみこ) 
〔祭神〕 猿田彦神・天鈿女神・市磯長尾市命
(知恵の神)
受験合格・就職・産業開発を祈る崇敬者が多い。
例祭 四月一日



摂社 高靇神社 (たかおおかみ)
〔祭神〕 高靇大神
天候・産業を司り水利を受け給ります。
祈雨・祈晴・暴風除けを祈る賽者が多い。
当社は古く、大倭神社注進状にも記載され
丹生川上神社上社の本社でもある。
例祭 六月一日



摂社 朝日神社 (あさひ) 
〔祭神〕 朝日豊明姫神 (天照坐皇大神)
殖産を興し交易を奨めさせ給う。
桜井・奈良街道を行く方は必ず詣でしと言う。
例祭 十一月三十日




境内末社

〔左〕 末社 厳島神社 (いつくしま)
〔祭神〕 厳島大神
美容をすすめ 絃楽の技を司どり給う。
水産の業を奨め給う 神威いやちこなり。
〔右〕 末社 事代主神社 (ことしろぬし)
〔祭神〕  事代主大神
織物業を繁栄させ一言の願い事を叶える神威を授けさせ給う。  世にエビス様と称す。



戦艦大和には、大和神社の御分霊が祀られていた

末社 祖霊社


末社 祖霊社
〔御祭神〕 大国主命
       戦艦大和戦没英霊
       氏子信徒祖霊

〔例祭〕  四月七日 戦艦大和第二艦隊戦没者慰霊祭    八月七日 戦艦大和みたま祭

 戦艦大和には、当神社の御分霊が祀られた。
 我が国の国力を傾注して建造された戦艦大和は、大東亜戦中輝かしい戦果を上げ帰還のたび毎に艦長以下幕僚等奉謝の特別参拝をされた。
 併し同艦は終戦の昭和二十年四月沖縄本島救援の為特攻艦隊を編成し、出撃されたが空中を守る飛行機は皆無にて九州西南洋上に於いて米国機の集中攻撃を受け、激戦二時間余終に戦没されたが、その際艦と運命を共にせられた故海軍大将伊藤整一命以下二七三六柱の英霊は其後末社祖霊社に合祀せられ、更に昭和四十七年九月廿四日戦闘巡洋艦矢矧外駆逐艦八隻の戦没将士英霊をも合祀して、三七二一柱は国家鎮護の神として祀られている。
-大和神社パンフレットから-



  

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2011年05月13日

越前国一宮 氣比神宮


北陸道総鎮守 越前国一之宮 氣比神宮





越前国一宮 氣比神宮 (けひじんぐう)    通称 けえさん

〔鎮座地〕 福井県敦賀市曙町11-68

〔社格〕 旧官幣大社  越前国敦賀郡の式内社・氣比神社七座 (並名神大)

〔御祭神〕  伊奢沙別命 (いささわけのみこと)
        仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう)
        神功皇后 (じんぐうこうごう)
        應神天皇 (おうじんてんのう)
        武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)
        日本武尊 (やまとたけるのみこと)
        玉妃命 (たまひめのみこと)

〔由緒〕 当社は北陸道から京都へ向かう交通の要衝にあり、眼前には敦賀湾が広がり、大陸との交易も行われてきた古来重要な地に鎮座し、北陸道総鎮守の社である。 産業発展また海上の守護神として崇敬された。
 古くから神威は朝廷にも及んでおり、度々奉幣の記録が残り、『延喜式』には「氣比神社」とあり、祭神七座とも名神大社として記載がある。 神宮寺も早くから成立し、共に隆盛を極めた。
 しかし戦乱の世に入り、国主の朝倉氏と共に織田信長の北陸進出を拒んだため、社殿僧坊とも灰燼に帰した。 江戸時代に入り慶長十九年(一六一四)、福井藩祖結城秀康公により社殿造営、百石の社領を寄進された。 明治二十八年には神宮号宣下により社名を氣比神宮と改め、同時に官幣大社に列格した。 本殿は旧国宝であったが昭和二十年戦災により他の建造物と共に焼失、昭和二十五年に本殿が再建、諸建物も昭和三十七年に復興された。
-『全国一の宮めぐり』から-


           中鳥居と拝殿                         拝殿












         拝殿内部本殿を望む                       本殿












             大鳥居                           扁額


大鳥居 (重要文化財)
 高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ヶ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保二年建立した。 明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。 正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
-氣比神宮パンフレットから-


九社之宮

〔左〕 摂社・伊佐々別神社(いささわけ)
〔祭神〕 御食津大神荒魂神

〔右〕 末社・擬領神社(おほみやつこ)
〔祭神〕 武功狭日命
 一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う


〔左〕 摂社・天伊弉奈彦神社
〔式内社〕越前国敦賀郡・伊佐奈彦神社
〔祭神〕 天伊弉奈彦大神

〔右〕 摂社・天伊弉奈姫神社
〔式内社〕越前国敦賀郡・天比女若御子神社
〔祭神〕 天比女若御子大神



〔左〕 摂社・天利劔神社(あめのとつるぎ)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・天利劔神社
〔祭神〕 天利劔大神

〔右〕 末社・鏡神社(かがみの)
〔祭神〕 神功皇后奉宝鏡



〔左〕 末社・林神社(はやしの)
〔祭神〕 林山姫神(はやまひめのかみ)

〔右〕 末社・金神社(かねの)
〔祭神〕 素盞嗚尊(すさのをのみこと)





   末社・劔神社(つるぎ)
   〔祭神〕 姫太神尊(ひめおほかみのみこと)






境内神社


摂社・角鹿神社 (つぬが)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・角鹿神社
〔祭神〕 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)
〔合祀〕 松尾大神
 崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。 天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。 その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の地名はもと「角鹿(つぬが)」でこの命の御名に因る。 殿内に宝物獅子頭を安置す。 除災招福の信仰が篤い。 天保十年松尾大神を合祀、酒造家の信仰が篤い。


末社・大神下前神社 (おおみわしもさき)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・大神下前神社
〔祭神〕 大己貴命(おほなむちのみこと)
〔合祀〕 稲荷神社・金刀比羅神社
 氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。



末社・児宮 (このみや)
〔祭神〕 伊弉册尊
 徳川時代から子育ての神と称され小児の守り神として信仰が篤い。




末社・猿田彦神社
〔祭神〕 猿田彦大神
 氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。
 一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。




末社・神明両宮
〔祭神〕 天照皇大神(内宮)・豊受大神(外宮)
 外宮は慶長十七年三月二十八日、内宮は元和元年九月二十八日それぞれ勧請奉祀されたものである。
-氣比神宮パンフレットから-



氣比宮古殿地遥拝所


氣比宮古殿地の事
  氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触れるべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり 傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる
  土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ 其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に播けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された 大宝二年(七〇二)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた 此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遙拝設備が立派に完成されるに至った次第である
-境内石碑から-




松尾芭蕉の銅像・句碑
 松尾芭蕉は 「おくのほそ道」 の旅の途中に、ここ敦賀に訪れ、氣比神宮にも立ち寄り、句を詠みました。

        月清し   遊行の
                持てる   砂の上
                                     ばせを


  

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2011年04月24日

若狭国一宮 若狭彦神社(3)


遠敷川の「鵜の瀬」は、若狭彦神・若狭姫神の降臨ましましたところ
若狭下根来の白石神社は若狭彦神社創祀の社
この地に生まれた良弁和尚は奈良東大寺の初代別当となった
若狭神宮寺の実忠和尚は東大寺二月堂を建て、「お水取り」の行事を始められた


若狭彦神社境外社  白石神社


白石神社由緒
白石神社  小浜市下根来白石鎮座
 祭神は若狭彦神、若狭姫神を白石大神、または鵜の瀬大神とたたえて奉祀。
 若狭彦神社創祀の社、と伝えるが年代不詳。
 境内に椿が群生し、目通二・一四米。樹高一二・三〇米の大木は、市の天然記念物に指定。
 この社の北方一五〇米、遠敷川をはさんで、若狭彦神社の飛地境内がある。鵜の瀬という霊域にして、清流が巨巌に突当るところの深淵を、奈良二月堂の若狭井の水源と伝えておる。
 この巨巌は、若狭彦神、若狭姫神の降臨ましましたところ。またこの鵜の瀬は、若狭彦神社の送水神事(豊作を祈願する神事)の斎場でもある。
-若狭彦神社パンフレットから-



史跡  鵜の瀬


史跡 「鵜の瀬」 由緒記
 天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后 天平勝宝四年(七五三)に二月堂を創建し修二会を始められ その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。 それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。 その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。 この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜 この淵の根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
  小浜市
-鵜の瀬案内板から-




 良辨和尚生誕之地石碑                                     良弁和尚
良弁和尚(ろうべんおしょう)
 良弁和尚は、伝説によれば、689年(持統3)ここ小浜下根来で生まれましたが、子供の時に鷲にさらわれ、奈良金鐘寺(東大寺の前身)で育てられました。 彼は東大寺で法相宗を義淵に学び、新羅の僧審祥を講師に招き華厳経講を開いて華厳宗を広めました。 その後東大寺の建立に尽力し、初代別当となり、773年(宝亀4)84歳で亡くなりました。 お水取り行事を始めた実忠は、若狭出身の良弁が師匠であり、若狭遠敷明神が魚釣りをしていて「修二会行事」の勧請に遅れたお詫びとして十一面観音にお供えする閼伽水(あかみず)を送ることとなったという逸話から二月堂の井戸を「若狭井」と名づけました。
-人の駅・良弁和尚案内板から-



お水送りの寺  若狭神宮寺


若狭神宮寺の由来
 この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。 その秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。 これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
 又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、二月堂を建て、お水取り行法を始められた。
 その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある。
-若狭神宮寺パンフレットから抜粋-



        瀬にしみて  奈良までとどく  蝉の声
                                                   山口誓子


  

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2011年04月23日

若狭国一宮 若狭彦神社(2)


若狭国一宮 若狭姫神社 (下社)




若狭国一宮 若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)   通称 遠敷明神(おにゅうみょうじん)

〔鎮座地〕  福井県小浜市遠敷65-41

〔社格〕  旧国幣中社  若狭国遠敷郡の式内社・若狹比古神社二座(名神大)

〔御祭神〕  豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) (若狭姫大神)

〔御神徳〕  御神徳は広大無辺にして、古来、皇室の御崇敬をはじめ、庶民一般の信仰が篤いが、就中農業、漁業、安産育児、また、畳、敷物商工業の守護神としての信仰が深い。
 奈良二月堂のお水取りは名高い行事であるが、このお水取りは、東大寺の実忠和尚と遠敷明神との神約にもとづくものであって、この遠敷明神は、遠敷神社、即ち、若狭姫神社の祭神若狭姫神-豊玉姫命である。  東大寺には、二月堂の右手裏に遠敷神社が奉祀してある。
-若狭彦神社パンフレットから-


由緒記
名称  若狭国一宮  若狭彦神社下社
   又、若狭姫神社、遠敷神社とも称し、上社と併せて若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる
     延喜式名神大社
祭神  若狭姫大神 (豊玉姫命)
     龍宮伝説で名高い豊玉姫命を若狭姫大神とたたえて奉祀する
所在地  福井県若狭国遠敷郡遠敷村遠敷
       昭和二十六年、町村合併により小浜市遠敷となる
創建   奈良時代養老五年辛酉二月十日   昭和五十八年より一千二百六十二年前
祭日   下社  三月十日    上社  十月十日
-若狭姫神社案内板から-


若狭姫神社 (下社) 本殿・神門・瑞垣


本殿、神門、楼門及び社叢
福井県有形文化財に指定
本殿は享和二年(1802)建立の三間社流造。
神門は享和三年(1803)造営の切妻造平入、檜皮葺の八脚門。
社叢は、社殿裏山に広がり、若狭地方を代表する暖地性広葉樹林であり、
建物とみごとに調和、太古からの荘厳な様相をよくとどめている。
                                
-若狭彦神社パンフレットから-


 若狭姫神社 (下社) 本殿
本殿は享和二年(1802)建立の三間社流造。  向拝一間、檜皮葺、素木造で、本殿を囲む透塀がある。
福井県有形文化財指定




随神門 (ずいしんもん)
随神門は入母屋造平入、檜皮葺で寛保三年(1743)の造立。  上社と同じく随神八軀を安置する。
随神像は鎌倉時代の作。  全国唯一独特の様式で、極めて貴重な存在である。  若狭彦神、若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族(けんぞく)(郎党)の方々である。
-若狭彦神社パンフレットから-



   〔左〕 摂社・中宮神社
祭神 玉依姫命
当社祭神豊玉姫命の妹を祀る
   〔右〕 末社・日枝神社(山王さま)
祭神 大山咋神 (山の神)
相殿の神  夢彦神・夢姫神・宗像神・愛宕神・琴平神・稲荷神


   〔左〕 末社・玉守神社
祭神 玉守神    上社祭神彦火火出見尊の潮満珠・潮涸珠の守護神
   〔右〕 子種石(こだねいし)
古来、この素朴な陰陽石(いんようせき)に祈れば霊験いやちこ、子宝に恵まれると伝え、又、女性に恋と安産を授けます。



神木 千年杉
下社瑞垣内にある。
目通六米。 樹高四〇米。
遠敷の千年杉として名高い。
秀麗この上なく、
古来、不老長寿の象徴として篤く信仰される。

-若狭彦神社パンフレットから-




      玉造る 若狭の国の 国なかに
              神代の神を をかむけふ哉



      とこしへに 竝ひています わかさ彦
              わかさ姫こそ うらやましけれ


               明治四十二年六月二十四日参拝      民俗学者 柳田国男先生詠


  

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2011年04月22日

若狭国一宮 若狭彦神社(1)


若狭国一宮 若狭彦神社(上社)




若狭国一宮 若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)  通称 遠敷明神(おにゅうみょうじん)

〔鎮座地〕 若狭彦神社(上社)  福井県小浜市龍前28-7
       若狭姫神社(下社)  福井県小浜市遠敷65-41

〔社格〕  旧国幣中社  若狭国遠敷郡の式内社・若狹比古神社二座(名神大)

〔御祭神〕  若狭彦神社(上社)  彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
        若狭姫神社(下社)  豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

〔由緒〕 若狭彦神社は、若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)の二社からなる。 共に遠敷川の左岸、上流に上社が、下流に下社が鎮座する。 両社の社殿配置は同一で、共に巨樹・古木の鬱蒼と茂る中に本殿が静かに鎮座し、神さびた風情を漂わせている。
 社伝によると、上社の創建は霊亀元年(七一五)、下社は養老五年(七二一)であり、下社は上社より分祀されたとも伝える。 近隣では遠敷明神と呼ばれて親しまれ、また朝廷や武家からの崇敬も篤かった。 明治四年に両社は共に国幣中社に列格したが、のちに若狭彦神社へ包括された。
 祭神が降臨したという鵜の瀬は、奈良県の東大寺二月堂の若狭井に通じているとされ、上流一五〇mの対岸に創祀の社と伝える白石神社がある。 二月堂の右裏手には遠敷明神を祀る遠敷神社が鎮座している。
-『全国一の宮めぐり』から-


若狭彦神社(上社) 本殿・神門・瑞垣


由緒記
名称  若狭国一宮  若狭彦神社上社
      又、下社と併せて若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる   延喜式名神大社
祭神  若狭彦大神
      海幸山幸の神話で名高い彦火火出見尊を若狭彦大神とたたえて奉祀する
所在地  福井県若狭国遠敷郡遠敷村龍前  昭和二十六年、町村合併により小浜市龍前となる
創建  奈良時代霊亀元年乙卯九月十日  昭和五十八年より一千二百六十八年前
祭日  上社 十月十日    下社 三月十日
-若狭彦神社案内板から-



若狭彦神社(上社) 本殿










若狭彦神社(上社) 本殿
本殿は文化十年(1813)造営の三間社流造、檜皮葺、素木造。内削の千木、10本の堅魚木。
中門は切妻造平入、檜皮葺の四脚門で、天保元年(1830)の建立。 (福井県有形文化財指定)



末社  若宮神社

祭神  鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)
例祭  十月十日
「神名の由来」
 当上社御祭神の大后豊玉姫命(下社御祭神)が安産を祈り、霊鳥といわれる鵜の羽を草として特別に産屋を建てたが、まだ屋根の葺きおえないうちに御子神をお生みになったので、御子神を「ウガヤフキアエズノミコト」と尊称したのである。
相殿神  蟻通神 (ありとうしのかみ) (知恵の神様)   例祭 九月二日
       大山祇神 (おおやまつみのかみ) (山を司る神様)   例祭 三月六日
-境内案内板から-



神木  夫婦杉 (めおとすぎ)

   上社境内楼門(随神門)前にある。 二本が根本においてぴったり
   密着しておる。
   夫の木  目通三・五米。 樹高四〇米。
   婦の木  目通三米。 樹高三〇米。
-若狭彦神社パンフレットから-



随神門


随神門 (ずいしんもん)
随神門は十八世紀末の造営と推定され、桁行三間梁間二間の八脚門で床高の随神座を持つ。
随神は四軀ずつ左右対称して安置されている。
随神(ずいしん)は、上社及び下社の楼門に八柱づつ安置してある。 鎌倉時代の作。 全国唯一独特の様式で、極めて貴重な存在である。 若狭彦神、若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族(けんぞく)(郎党)の方々である。         -若狭彦神社パンフレットから-



若狭彦大明神の御神託

        みな人の  直き心ぞ  そのまゝに
                  神の  神にて  神の  神なり

この御歌は、宇多帝の御子敦実親王に、夢中に告げ給ひしとなり。 四神の御歌と云ふ、是なり。
                                           後鳥羽院勅撰 『和論語』



  

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2011年04月13日

近江国一宮 建部大社


近江国一宮 建部大社 一之鳥居



近江国一宮 建部大社 (たけべたいしゃ)

〔鎮座地〕 滋賀県大津市神領1-16-1

〔御祭神〕 (本殿) 日本武尊(やまとたけるのみこと)
       (相殿) 天明玉命(あめのあかるたまのみこと)
       (権殿) 大己貴命(おおなむちのみこと)

〔社格〕  旧官幣大社  近江国栗太郡の式内社・建部神社(名神大)

〔御神徳〕  日本武尊   厄除開運・受福出世・火難除神
         大己貴命   商売繁盛・縁むすび・病気平癒・醸造の神

〔御由緒〕 御祭神の日本武尊は僅か十六才にて熊襲を討ち更に東国を平定され、三十二才にして伊勢の能褒野に於て遂に崩御された。 父君景行天皇は尊の亡くなったことを大変嘆かれ、御名代として建部を定めその功名を伝えられた。 景行天皇四十六年(三一六)神勅により、日本武尊の御妃、布多遅比売命が御子、稲依別王と共に住んで居られた神崎郡建部の郷に社殿を創建し、尊を祀られたのが創祀とされる。
 天武天皇白鳳四年(六七五)四月に建部公安麿が国司の命を奉じて近江国府の設けられた瀬田郷大野山山頂に近江国の守護神として遷し奉り、孝謙天皇天平勝宝七年(七五五)に建部公伊賀麿が大野山の嶺から現在の地、瀬田神領に奉遷したと伝えられる。 又、大和国一宮大神神社より大己貴命を勧請して権殿に配祀された。
 歴朝の御尊信、武門武将の崇敬篤く、中でも源頼朝は伊豆に流される途中当社に参籠して武運長久を祈願し、後年源氏再興の宿願成って上洛の際、幾多の神宝と神領を寄進した。
-『全国一の宮めぐり』から-



     二之鳥居と参道              神門            拝殿と御神木・三本杉


  

      本殿前拝所              本殿と権殿             権殿と本殿



摂社 (四社)

〔左〕 摂社・聖宮神社 
〔祭神〕 大足彦忍代別命(景行天皇)
日本武尊の御父

〔右〕 摂社・大政所宮神社
〔祭神〕 播磨稲日大郎姫(景行天皇皇后)
日本武尊の御母



〔左〕 摂社・藤宮神社
〔祭神〕 布多遅能伊理毘売命
日本武尊の御妃

〔右〕 摂社・若宮神社
〔祭神〕 稲依別命
建部租神・日本武尊の御子



末社 (八社)


       〔左〕 末社・行事神社
       〔祭神〕 吉備臣武彦
             大伴連武日

       〔右〕 末社・弓取神社
       〔祭神〕 弟彦公



      〔左〕 末社・箭取神社
      〔祭神〕 石占横立
            尾張田子之稲置
            乳近之稲置

  〔右〕 末社・蔵人頭神社 (膳夫神社)
    〔祭神〕 七掬脛命 (料理の租神)



  〔左〕 末社・大野神社
  〔祭神〕 草野姫命
      (地主神)

  〔右〕 末社・武富稲荷神社
  〔祭神〕 稲倉魂命



 〔左〕 末社・八柱神社
〔祭神〕 素盞之男命他七柱命
 〔右〕 末社・檜山神社遥拝所
     (檜山神社旧本殿)
〔祭神〕 伊邪那美命・大山祇命・息長足姫命・武内宿禰大臣・住吉大神


  

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2011年02月02日

山城国一宮 賀茂御祖神社


御祭神の賀茂建角身命は八咫烏 (やたがらす)
 下鴨神社の末社には任部社(とべしゃ)とよび「ヤタガラス」をお祀りするお社があります。 ヤタガラスは「八咫烏」と書き、「咫(あた)」は昔の長さの単位で、「八咫」とは「大きい」「巨大」という意味、また、「烏」は太陽の象徴であり、「八咫烏」の姿は三本足の巨大な烏と伝えられています。 その昔、神武天皇さまが熊野から吉野に入られる際、この八咫烏に身を代えて導かれたのが下鴨神社の御祭神である賀茂建角身命さまです。 昭和六年(1931)日本サッカー協会設立時より、現在のJリーグにいたるまで御祭神の姿をシンボルマークとして描かれており、サッカー必勝の守護神としても有名です。


山城国一宮 賀茂御祖神社 (かもみおやじんじゃ)     通称 下鴨神社

〔鎮座地〕 京都府京都市左京区下鴨泉川町59
                                                 〔神紋〕 二葉葵
〔御祭神〕 〔東殿〕 玉依媛命 (たまよりひめのみこと)
       〔西殿〕 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)

〔御神徳〕 厄除・縁結・安産・子育・交通安全

〔社格〕 旧官幣大社  山城国愛宕郡の式内社・賀茂御祖神社二座  二十二社

〔御由緒〕 当社の祭神は、賀茂別雷神社に祀られている賀茂別雷大神の母神と外祖父神の二柱。 神武天皇東征の折熊野から大和の難所を先導した八咫烏(やたがらす)が賀茂建角身命であるという。
 上賀茂神社と同様奈良時代以前より朝廷による格別の尊崇を受け、二十一年に一度の式年造替制度、また斎王が置かれたこともあった。
 例祭である賀茂祭(葵祭)は欽明天皇五年(五四五)より始まったと伝える。 賀茂祭に先立ち、十二単姿の「斎王代」がみたらし川で身を清める儀式、十二日に荒魂をお迎えする「御蔭祭」などがある。 平安時代には、単に「まつり」と言えばこの賀茂祭のことを指し、『源氏物語』や『枕草子』などにも登場する。
 国の史跡である「糺の森」(ただすのもり)での発掘調査では、弥生時代の住居跡や土器が発見されている。
-『全国一の宮めぐり』から-



              鳥居                            楼門












相生社(あいおいしゃ)と連理の賢木(れんりのさかき)
縁結びの神さま、神皇産霊神(かむむすびのかみ)をお祀りする。
そばには、神さまのお力により二本の木が途中から一本にむすばれている連理(れんり)の賢木(さかき)という不思議な木があります。


       舞殿・中門                幣殿                国宝の本殿



御手洗社(みたらししゃ)・みたらしの池
摂社・御手洗社(みたらししゃ)(井上社) 祭神 瀬織津姫命
夏の土用の丑の日の「足つけ神事」、立秋前夜の「矢取り神事」は有名でたくさんの人で賑わいます。 また、みたらしの池の湧く水のあぶくを人の形にかたちどったのが「みたらし団子」で、発祥の地と伝えられています。



摂社・出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)(比良木社)
 祭神 建速須佐乃男命(たけはやすさのおのみこと)
 出雲井於神社の左右には、
 左 末社・橋本社  祭神 玉津島神
 右 末社・岩本社  祭神 住吉神



摂社・三井神社(みついじんじゃ)
本宮の若宮(若々しい御神霊)としての信仰があり、
賀茂建角身命・玉依媛命・伊賀古夜日賣命の三神がまつられています。



 〔左〕 霊璽社(れいじしゃ)
 印鑑・契約守護の神様。
 〔右〕 言社(ことしゃ)
 干支の守り神。
 大国主命の七つのお名前ごとに
 祀られています。


国指定史跡  糺の森 (ただすのもり)
 三万六千坪の境内は「糺の森」とよばれ、全体が国の史跡に指定されています。また、数々の社殿群とともに世界文化遺産にも登録されています。  糺の森は、古代の山城の国の名残をとどめる自然遺産で、文化財と自然環境保全のために財団法人「糺の森顕彰会」が結成され、毎年四月二十九日(みどりの日)の市民植樹祭をはじめいろいろの保全活動がおこなわれています。



      三井社 (みついしゃ) (別名 三塚社)
       (中社) 賀茂建角身命
       (西社) 伊賀古夜日賣命
       (東社) 玉依媛賣命



 摂社・河合神社 (式内社・鴨川合坐小社宅神社)
 祭神 玉依姫命 (神武天皇の母)。

 摂社・貴布禰神社 (高龗神)
 末社・任部社 (八咫烏命)
 末社・六社  (諏訪社・衢社・稲荷社・竈社・印社・由木社)


河合神社と鴨長明
『方丈記』の著者、鴨長明はこの河合神社の神官の家に生まれましたが、いろいろの事情によって、この重職を継ぐことができませんでした。 このことから強い厭世感を抱くようになり、やがて『方丈記』を書くにいたったといわれています。 復元された方丈が現在展示されています。
-下鴨神社パンフレットから-


      河合神社拝殿       貴布禰神社・任部社・六社        鴨長明の方丈




       石川や 瀬見の小川の 清ければ
               月も流れを たずねてぞすむ

                                                    鴨長明


  

Posted by 閑人 at 22:29Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣