2011年10月14日

御礼参り 高野山



南無大師遍照金剛




高野山

 弘法大師と同行二人で巡った四国八十八ヶ所のお遍路。 その旅は高野山への参拝で締めくくりとなる。 弘法大師が入定し、今なお人々の救済を祈り続けているとされる高野山。 杉の老木が立ち並ぶ参道を抜けて奥の院へ。 霊気漂う聖域の再奥で、お遍路の長い道のりは「満願成就」を迎える。
 この地に弘法大師が高野山を開いたのは弘仁7年(816)。 嵯峨天皇の勅許を得て開かれて以来、真言密教の聖地として現在に至っている。 1000m級の八つの山々に囲まれ、諸堂が軒を連ねる様相は「蓮の花が開いたよう」と形容され、「八葉の峰」とも呼ばれている。 ここに金剛峯寺を総本山として、117ヶ寺の壮大な伽藍が広がる。 2004年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。


      吽形像                   大門                    阿形像


大門   -重要文化財-
 高野山の入り口にそびえ建つ仁王門。 高野山一山の総門。 旧表参道に建ち、高さ41.8mという威風堂々たる重層建築(桁行十間・梁間四間)の楼門。 現在の建物は宝永2年(1705)に建てられたもので、晴天の日はここから遠く淡路島が展望できる。 両脇の金剛力士像は江戸時代の仏師康意(阿形像)、法橋運長(吽形像)によるもの。


壇上伽藍
 高野山開創の折にまず諸堂が建立された所、真言密教修行の根本道場である。 現在は、根本大塔、金堂、西塔、東塔、御社、山王院、御影堂、准胝堂、孔雀堂、愛染堂、三昧堂、大塔の鐘、大会堂、不動堂、六角経蔵などが建立されており、奥の院とともに高野山の二大聖地である。



根本大塔

 弘法大師が高野山を開創され、一番最初に着手されたのが、この根本大塔である。 高さ48.5メートルの現在の大塔は、昭和12年(1937)に完成したもので、高野山の、いや真言密教のシンボルである。




金堂
 高野山一山の総本堂で、弘法大師により弘仁10年(819)に創建されたが、再三火災に遭い、現在の堂宇は昭和7年(1932)に建立された鉄筋コンクリート造りである。 高野山の主な恒例法会はここで執り行われる。 本尊は高村光雲作の阿閦如来(薬師如来)、内部の壁画は木村武山画伯の筆による。


御影堂
 弘法大師御在住中は僧房であったと伝えられる建造物である。 現在の建物は弘化4年(1847)に再建されたもので、真如親王の御筆による大師御影を奉安している。 宝形造りのゆるやかな桧皮葺の屋根は大師御住房に相応しい落着きを見せている。 御影堂の前には、大師が中国から投げた三鈷が引っ掛かっていたと伝わる伝説の「三鈷の松」が植えられている。



大塔の鐘 (高野四郎)
 弘法大師発願により真然大徳が完成させた。 火災により三度改鋳されているが、現在の銅鐘は天保16年(1547)に鋳造。 鐘楼は昭和34年(1959)に竣工。 「高野四郎」と呼ばれ毎日五回、山内に時を知らせる。




不動堂   -国宝-
 鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により建久9年(1198)に行勝上人により一心院谷に建立され、明治43年(1910)に現在の場所に移された。 平安朝の上流住宅様式をもつ伽藍最古の建築として有名。 本尊は木造・不動明王像、脇士の八大童子像は運慶の作。



重要文化財    御社と山王院    指定 昭和40年5月29日
 壇上の西端にあり、三社が並列する。 右から丹生明神、高野明神、十二王子・百二十伴神をまつる。 弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神(狩場明神)を勧請された。 その本社は山麓天野にある。 大師以後今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を篤く崇敬してきた。 文禄3年(1594)再建。 御社の前の拝殿を山王院という。 ここで毎年きまった日に竪精や月並問講などの儀式を行う。 山内住侶の重要な宗教的行事である。 
   和歌山県教育委員会・総本山金剛峯寺               -壇上伽藍案内板から-











御社 (みやしろ)   -重要文化財-
 高野山の地主神・丹生都比売明神と狩場明神を大師がこの地に勧請されたものである。 建物は大永2年(1523)の再建。
第一の宮  丹生都比賣命  気比明神
第二の宮  高野明神(狩場明神)  厳島明神
第三の宮  十二王子  百二十伴神
 御大師様は黒白二匹の犬を連れる一人の狩人に身を変えられた高野明神に導かれて高野山麓の天野に至り丹生明神より高野山の地を与えられたと云われ丹生・高野の両大明神は高野山の地主神である。                                     -御社案内板から-


山王院
 地主山王を拝する場所として藤原時代に建てられた。 現在の建物は文禄3年(1594)に再建。 毎月十六日には山内の僧侶による「法楽論議」が営まれる。






東塔
 大治2年(1127)、白川院の御願により醍醐三宝院勝覚権僧正の創建。 天保14年(1843)に焼失し、昭和59年(1984)に再建された。





大会堂
 鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子親王が父帝追福のために蓮華乗院に建立されたが、西行によって現在の地に移された。 現在の建物は嘉永元年(1848)再建。 本尊は丈六の阿弥陀如来、脇仏は観音・勢至菩薩。




三昧堂
 済高座主が延長6年(928)頃に建立。 別の場所にあったのを西行法師がここに移したとされる。 堂前には「西行手植の桜」がある。 現在の建物は文化13年(1816)の再建。






愛染堂
 建武元年(1334)後醍醐天皇の綸旨により建立。 現在の建物は嘉永元年(1848)の再建による。 本尊は後醍醐天皇等身大の愛染明王を安置。






六角経蔵 (荒川経蔵)
 鳥羽上皇妃の美福門院が浄書した紺紙金泥一切経を納めるために建立。 現在の建物は昭和8年(1933)に再建された。





西塔
 真然大徳が光孝天皇の勅により仁和3年(887)に、大師の認めた「御図記」に従って建立。 現在の建物は天保5年(1834)の再建。 本尊は金剛界大日(重文)と胎蔵四仏である。






准胝堂
 光孝天皇の御願により真然僧正の建立。 現在の建物は明治16年(1883)に再建。 本尊の准胝観世音像は大師自らの彫刻と伝えられる。





孔雀堂
 後鳥羽法皇御願による請雨成就により正治2年(1200)に建立された。 現在の建物は昭和58年(1983)に再建。 本尊の孔雀明王像(重文)は仏師快慶作。






大師教会本部大講堂
 大正14年(1925)高野山開創千百年記念として建立。 本尊は弘法大師。 御詠歌や宗教舞踊などの大会や諸行事が開催される。






総本山金剛峯寺



 「金剛峯寺」の寺号は弘法大師が名付けたもので、元来は高野山全体を指す総称であった。 現在は高野山真言宗の総本山の名称となっている。
 文禄2年(1593)に豊臣秀吉が亡母追善のために建立した青巌寺と、応其上人の建てた興山寺を合併し、明治2年(1869)に金剛峯寺と改称した。 以後、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。 高野山のすべての土地は金剛峯寺の所有で、高野山真言宗の一切の宗務を司る宗務所がおかれている。




金剛峯寺主殿
 現在の建物は文久3年(1863)に再興されたもので、東西35間の大建築である。 柳の間は豊臣秀次自刃の間として有名。






奥の院



 弘法大師御入定の浄域。 弘法大師の御廟があり、弘法信仰の中心聖地である。
 一之橋を渡ると霊気はいよいよ身に迫るようである。 亭々とそびえる老杉の間をぬって一筋の石畳の参道が大師の御廟に通じる。 十八町(約二千メートル)の参道の両側には諸国諸大名をはじめあらゆる人々の墓碑や供養塔が二十万基以上も立ち並び、宗派を越えた天下の総菩提所として日本の歴史を如実に物語っている。


         老杉の間の石畳参道                  中之橋付近の参道











                    江姫の墓所 (崇源夫人五輪石塔)











江姫の墓所 (崇源夫人五輪石塔)  -県指定史跡-
 この供養塔は、駿河大納言忠長が慈母崇源院(江姫)の追善供養のため、1627年(寛永4年)に建立したものです。 奥の院墓石群の中でも最も大きい(高さ6.6m、台石は八畳敷)ことから「一番石」の名で広く知られています。
 江姫は、浅井長政とお市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹にあたります。 徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけ波乱万丈の人生を送り、1626年(寛永3年)享年54歳でこの世を去りました。
 平成23年NHK大河ドラマ「江」、ヒロイン江姫供養塔。      -高野町 菩提所 蓮花院-



御廟橋


御廟橋
 玉川の清流に架かる御廟橋。 この橋からいよいよ霊域に入る。 無明の橋ともいわれ、板石は三十六枚で橋全体を一尊として金剛界三十七尊を表わしている。 奥に見えるのが灯籠堂で、そのさらに奥が弘法大師御廟。 御廟は大師信仰の中心聖地である。 承和二年(835)三月二十一日大師御入定の後、かねて大師自ら選定あそばされていた地に定窟を築き、その上に三間四面の宝形造りの廟が建立されている。 御廟橋の先は浄域。 ここに立つと、えも言われぬ高揚感とともに、粛々とした心の平静を感じる。 身と心を整え、合掌礼拝して御廟に参拝した。



          ありがたや 高野の山の 岩かげに
                      大師はいまだ おわしますなる  

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2011年08月28日

第88番 大窪寺


四国八十八カ所 第88番札所 大窪寺




医王山 遍照光院 大窪寺 (おおくぼじ)

〔所在地〕 香川県さぬき市多和兼割96

〔宗派〕 真言宗大覚寺派

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 開創は養老年間(717~724)、行基菩薩による。 その後、大師が巡錫中に胎蔵峰で求聞持法を修法。 薬師如来を刻んで本尊とし、第八十八番札所「結願の寺」と定めたという。 大師はこのとき、唐から持ち帰って四国霊場開創の旅をともにした三国(インド、中国、日本)伝来の錫杖をおさめた。 その後、多くの信者の信仰を集め、僧坊も100を越えるほどに寺運は栄えたが、兵火で焼失。 初代高松藩主、松平頼重が再興した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                            大師堂











        二天門                阿弥陀堂             山王大権現



     宝杖堂と原爆の火            鐘楼堂             山門 (仁王門)




           南無薬師 諸病なかれと 願いつつ
                            詣れる人は 大窪の寺


  

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2011年08月26日

第87番 長尾寺


四国八十八カ所 第87番札所 長尾寺




補陀洛山 観音院 長尾寺 (ながおじ)

〔所在地〕 香川県さぬき市長尾西653

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 聖観世音菩薩

〔真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 のどかな田園を抜け、小さな町の通りに入ると、大きなわらじが奉納された仁王門が見えてくる。 長尾寺は地元の人から「長尾の観音さん」と親しまれているほか、源義経の側室・静御前が出家した寺としても知られている。 行基菩薩が道ばたの柳の木で本尊を彫り、御堂を建てたのがはじまり。 その後に弘法大師が訪れ、年頭7夜にわたって護摩祈祷を行っている。 このとき人々に護摩符を授けたことから、「大会陽福奪い」という伝統行事が生まれ、今も正月の風物詩となっている。 大師は唐から帰国後に再び足を運び、大日経を書写した供養塔を建てている。 以後、厚い帰依をうけたものの天正の兵火で焼失し、再建後に「観音院」、さらに江戸時代には「長尾寺」お改められた。 宗派は時代とともに2度改められている(法相宗→真言宗→天台宗)。 長いお遍路の旅路も、いよいよ次が結願の札所となる。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











        薬師堂                 東門              静御前剃髪塚




重要文化財 長尾寺の経幢二基
 経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。 この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。 この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる。 昭和二十九年九月十七日重要文化財に指定された。
  平成二十年十二月
   香川県教育委員会  さぬき市教育委員会  さぬき市文化財保護協会
-長尾寺境内案内板から-



        あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺
                         秋の夜すがら 御名を唱えよ


  

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2011年08月20日

第86番 志度寺


四国八十八カ所 第86番札所 志度寺




補陀洛山 清浄光院 志度寺 (しどじ)

〔所在地〕 香川県さぬき市志度1102

〔宗派〕 真言宗善通寺派

〔開基〕 藤原不比等・凡薗子(おおしそのこ・智法尼)

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 志度港にほど近い静かな街並みに佇む志度寺。 その歴史は讃岐香川の札所ではもっとも古く、飛鳥時代に凡薗子(おおしのそのこ)という尼僧が建てた小さな御堂にさかのぼる。 その後、天武10年(681)に藤原不比等(藤原鎌足の子)が亡き妻の墓をここに建て、御堂を広げて「死渡道場」という修行道場をつくった。 死渡とは「志度の海辺は極楽浄土へ続いている」という信仰にもとづくもの。 また、海女だった妻が不比等の宝珠を竜神から取り返した伝説「海女の玉取り」は、のちに浄瑠璃や謡曲のモチーフになっている。 その不比等の子・房前が母を弔って諸堂を再興し、名を「志度寺」に改めた。 その後は室町時代に領主・細川氏の帰依をうけるなどして栄え、細川勝元が寄進した「曲水庭園」は今も境内にある(書院)。 そのほか本堂や仁王門が国の重要文化財に指定されるなど、境内には見どころが多い。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











         山門                 閻魔堂               奪衣婆堂



海女の墓五輪塔群


謡曲「海士」と海士の墓
 謡曲「海士」は、海士の珠取り伝説と女人成仏を主軸にした母性愛物語である。
 藤原房前は生母が志度浦の海士である事を聞き、追慕の情にたえず此の地を訪れた。
 出会った海士から「奪われた面向不背の玉を竜宮から取り返したならば、生まれた子を世継にするとのひたむきな約束のもとに海底に潜り、宝珠を取り返して命を失った。自分は房前大臣の母の幽霊である」と、我が生誕に関する珠取りの話を聞く。我が子房前の追善の経に引かれ、成仏した海士は竜女の姿で現れ喜びの早舞を舞い、孝養をたたえる。
 藤原不比等(淡海公)の子房前大臣は、僧行基と共に本堂を再建し、千基の石塔や法華経を納めた経塚を建立して供養を営み、また海士の縁として此の地を玉の浦と呼んだという。
 孝養の深さを慕ばせる海士の墓である。
    謡曲史跡保存会
-志度寺案内板から-



         いざさらば 今宵はここに 志度の寺
                          祈りの声を 耳に触れつつ


  

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2011年08月16日

第85番 八栗寺


四国八十八カ所 第85番札所 八栗寺




五剣山 観自在院 八栗寺 (やくりじ)

〔所在地〕 香川県高松市牟礼町牟礼3416

〔宗派〕 真言宗大覚寺派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 聖観世音菩薩

〔真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 古戦場跡をはさんで屋島の向かいに、険しい山容の五剣山ががそびえている。 標高375m、その8合目付近に八栗寺はあり、ケーブルカーでコトコトと参拝する。 聖天堂には弘法大師作とされる歓喜天が祀られ、縁結びや商売繁盛の御利益がある「八栗の聖天さん」として人気が高く、お遍路さん以外にも多くの参拝客が訪れている。 かつて弘法大師がこの山で求聞持法を修行した際、5つの剣とともに蔵王権現が現れたとされ、大師は5剣を山中に埋めて大日如来を本尊とした。 山の名はここからついた。 また大師は唐での修行の成果を試すため、あらかじめ8つの焼栗を植えておいた。 唐から帰ってみると、みな見事に成長していたので「八栗寺」と名づけたという。 ちなみに五剣山はもともと5つの峰があったが、宝永の大地震(1706)で崩落し、現在の4峰になったとされている。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











        聖天堂                 山門                 多宝塔




       煩悩を 胸の智火にて 八栗をば
                        修行者ならでは 誰か知るべき


  

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2011年07月15日

第84番 屋島寺


四国八十八カ所 第84番札所 屋島寺




南面山 千光院 屋島寺 (やしまじ)

〔所在地〕 香川県高松市屋島東町1808

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 鑑真和上

〔本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 源平合戦の古戦場跡であり、香川県でも有数の景勝地である屋島。 標高293mの山頂にある屋島寺へのドライブは爽快で、参拝の楽しみのひとつだ。 寺を開いたのは律宗の開祖鑑真和上。 屋島の北嶺を聖地と感じて御堂を建てたという。 のちに和上の弟子恵雲律師が初代住職となって「屋島寺」と名づけた。 弘仁6年(815)にここを訪れた弘法大師は、伽藍を北嶺から南嶺(現在地)へ移し、本尊を祀って四国霊場に定めている。 以後、戦乱のなかで衰退しながらも、国主や藩主の援助で再興し、往時の面影を伝えている。 境内には現代的なデザインの宝物館があり、数々の寺宝をはじめ本尊の十一面千手観世音菩薩(国の重要文化財)も拝観できる。 本堂横のかわいいタヌキの像は「蓑山(みのやま)大明神」。 四国狸の総大将・太三郎狸と呼ばれる氏神で、子宝や縁結び、家庭円満の御利益で人気だ。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











        仁王門               四天王門                東大門



蓑山大明神


蓑山大明神之由来   屋島太三郎狸
 その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。 のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
 屋島の太三郎狸は佐度の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。 太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
 尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。
-境内案内板から-



源平屋島合戦  弓流し図屏風 (部分)


源平屋島合戦  弓流し図屏風
 本図は「平家物語」第十一巻に記された源平の屋島合戦中、もっとも有名なエピソードのひとつである「弓流」に題材をとっている。
 勝ちにのっていた源氏勢は、船に逃げた平家の軍兵たちを追って、馬の太腹が水につかるほどに海中に乗り入れて攻め戦っていた。 そんな中で、義経はどうしたことか、自分の弓を平家勢の熊手にかけられて落としてしまう。 周りの臣下たちが「弓よりも、お命の方が大切です。お捨てなさい。」と口々に言うが、義経は何とかむちで弓をかき寄せて、拾うのに成功した。 このことで、あとで家臣たちになじられた義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。もし私の弓が二、三人でなければ張れないほどの強弓であったなら、わざとでも落とすのだが、私のひ弱な弓を敵が取って、『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ』といって、ばかにするのが残念だから、命がけで取るのだよ」と語り、すべての人がその心意気に感心した。
-屋島寺案内板から-




           梓弓 屋島の寺に 詣でつつ
                         祈りをかけて 勇むもののふ


  

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2011年07月13日

第83番 一宮寺


四国八十八カ所 第83番札所 一宮寺




神毫山 大宝院 一宮寺 (いちのみやじ)

〔所在地〕 香川県高松市一宮町607

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 義淵僧正

〔本尊〕 聖観世音菩薩

〔真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 高松市郊外にあり、住宅や学校、田園に囲まれた一宮寺。 その起源は大宝の頃(701~704)と古く、寺を開いたのは行基菩薩の師である義淵僧正。 当時は法相宗の「大宝院」という名だった。 その後、行基菩薩が修築するとともに讃岐一の宮「田村神社」の別当寺とし、寺の名を「一宮寺」にしている。 さらに弘法大師が再興のため一宮寺を訪れた際、本尊と自らの像を彫り、真言宗に改宗した。 やがて天正の兵火による焼失を経て再興されると、江戸時代に高松藩主・松平頼常公によって田村神社の別当寺としての任を解かれた。 明治の神仏分離令より200年も前に神仏が分離されるという、めずらしいケースだ。 ちなみに田村神社では日曜市が毎週あり、そこで開かれる讃岐うどんのお店がとても人気だ。
-『ドライブお遍路』から-



             本堂                            大師堂











        護摩堂                稲荷堂                菩薩堂




〔左〕 山門 (仁王門)

〔右〕 鐘楼堂





薬師如来祠     薬師如来縁起
 昔、この近くにおタネばあさんといって、それは意地の悪いおばあさんがいました。 ある日、近所の人から「この寺には地獄の釜の煮えたぎる音がする祠があって悪いことをした人が、この中に頭を入れると扉が閉まってぬけなくなる」と云うのを聞きました。 そこで、おタネばあさんは、「そんなことはない。ちょっと試してみよう」と恐る恐る頭を入れてみたのです。 すると扉が閉まり、下の方からゴォーと云う地獄の音がしてきたのです。 あわてたおタネばあさんは頭をぬこうとしましたが、いくらやってもぬけません。 とうとう恐くなり涙を流しながら「今までの事は許して下さい。」と何回も頼んだのでした。 すると扉が開き、頭がすっと抜けました。 それからは、おタネばあさんは心を入れかえ、近所の人からも親しまれるようになったのです。 この祠は、お大師さんが戒めのため作られたのかもしれませんね。
-境内案内板から-



一宮御陵


一宮御陵
  本堂の手前に宝治元年(1247)の銘がある凝灰岩でできた三基の宝塔がある。 一宮御陵と呼ばれ、神仏分離の際に田村神社から移されたものらしく、田村神社の御祭神である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と弟の五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと・吉備津彦命)、その二人の父である皇祖第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)の供養塔と伝えられています。





神仏分離以前の一宮寺は讃岐国一宮・田村神社の別当寺であった。
山門 (仁王門)前には田村神社の境内が広がり、神仏習合の面影が偲ばれる。



讃岐国一宮・田村神社



讃岐国一宮 田村神社 (たむらじんじゃ)   通称 定水(さだみず)大明神・一宮大明神

〔鎮座地〕 香川県高松市一宮町286

〔社格〕 旧国幣中社  讃岐国香川郡の式内社・田村神社 (名神大)

〔御祭神〕 倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
       五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) (吉備津彦命)
       猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
       天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) (高倉下命)
       天五田根命 (あめのいたねのみこと) (天村雲命)
   以上の五柱の総称を田村大神と申す。

〔御由緒〕  当社の起源はきわめて古く社記によれば和銅二年(七〇九)に社殿が創建されたとあり、往古より「田村大社」「定水大明神(さだみずだいみょうじん)」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
  嘉祥二年(八四九)従五位下に叙せられ、貞観三年(八六一)官社に預り延喜の制名神大社に列せられ、讃岐国一の宮に定められて後は神階を授けられ、建仁元年(一二〇一)正一位の極位に叙せられた。
  本殿の奥、奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い、殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて、古くから神秘を伝えている。 また領内で水旱があれば、領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。 奥殿深淵には龍が棲むと伝えられ覗いた者は絶命するとされる。
  古来讃岐は雨が少なく、古代から溜池が造られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀に繋がったと考えられている。
-『全国一の宮めぐり』から-




            讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て
                           神の心を 誰かしらいう


  

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2011年07月11日

第82番 根香寺


四国八十八カ所 第82番札所 根香寺




青峰山 千手院 根香寺 (ねごろじ)

〔所在地〕 香川県高松市中山町1506

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 弘法大師  智証大師 (円珍)

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 五色台の青峰の山中にあるこの寺は、大師の開創。 この地で金剛界曼荼羅の五智如来を感得した大師が、青峰に一寺を建立して花蔵院とし、五大明王を祀ったのが始まり。 のちに大師の姪の子、智証大師がこの寺を訪れ、山の鎮守である市之瀬明神の神託により、霊木をもって千手観世音菩薩を刻み、千手院を開いて本尊とした。 この本尊彫刻の木の根株が長く香気を発していたので、両寺を合わせて根香寺と称した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












五大堂
 木造五大尊像(香川県指定有形文化財)を安置する。 五大尊(五大明王)とは、南方 軍荼利夜叉明王、東方 降三世夜叉明王、中央 大日大聖不動明王、北方 金剛夜叉明王、西方 大威徳夜叉明王の五佛である。 弘法大師が、この地において、五智如来を感得され、当寺を開基された。 その五智如来の教令輪身たるお姿が五大尊である。


白猴欅 (はっこうけやき)
 智証大師が寺院創建の折にこの樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説のケヤキ。 樹齢1600年とも言われ、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死した。 平成3年(1991年)に株を生えていた場所に置き、屋根を付け保存されている。




〔左〕 梵鐘
貞享二年(1685)作の梵鐘

〔右〕 山門




伝説の牛鬼(うしおに)像



根香寺の伝説  〝牛鬼(うしおに)〟
 今から四百年くらい昔、このあたりに〝牛鬼〟と呼ばれる怪獣が住んでいて、人々を大変困らせていました。 そこでこの地方を治めていた殿様は、山田蔵人高清という弓の名人に牛鬼の退治を命じました。 高清は根香寺の本尊である千手観音にお願いをして、そのおかげで牛鬼を見つけだし、みごと退治したそうです。 そして怪獣の角を根香寺に奉納して、その菩提をとむらったと伝えられています。
  昭和五十九年三月    香川県
-根香寺境内案内板から-




           宵のまの 妙降る露の 消えぬれば
                           あとこそかねの 勤行の声


  

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2011年07月09日

第81番 白峯寺


四国八十八カ所 第81番札所 白峯寺




綾松山 洞林院 白峯寺 (しろみねじ)

〔所在地〕 香川県坂出市青海町2635

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 弘法大師・智証大師(円珍)

〔本尊〕 干手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 79番・天皇寺の項でも触れたように、香川は崇徳上皇が流刑された地。 ここ白峯寺もまた崇徳上皇とゆかりがある札所だ。 弘仁6年(815)に弘法大師が白峯山の山頂に如意宝珠を埋め、人々の救済を祈願して開いたという。 その後、智証大師が山に入り、白峯大権現のお告げで霊木に本尊を彫ったと伝えられる。
 保元の乱(1156)の後、この地に流刑された崇徳上皇は、白峯寺のそばにある「白峯御陵」で荼毘に付されている。 また、後鳥羽上皇は崇徳上皇の霊を祀る御廟として法華堂を建立している。 これが白峯寺境内にある頓証寺殿だ。 境内に立つ「玉章の木」にも崇徳上皇の悲しい逸話がある。 都をしのんで 「啼けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす」 と詠んだところ、玉章の木で鳴いていたホトトギスが葉をくちばしに巻き、声を出さないようにしたという。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











       阿弥陀堂                薬師堂             五社稲荷大明神




崇徳天皇御廟所  頓証寺殿 (とんしょうじでん)




崇徳天皇御廟所・四国第八十一番霊場
(別格本山) 綾松山 白峯寺 略縁起

 保元元年(一一五六)保元の乱に因り、第七五代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三ヶ年、のち府中鼓ヶ岡木丸殿(木丸殿御所)に移り六ヶ年、都合九年間配所の日々を過ごされて、長寛二年(一一六四)旧八月廿六日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。
 然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武将も恐れ崇め奉り、御府荘園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を尽され、特に第百代の後小松帝は、御廟に「頓証寺」の御追号勅額奉掲して、尊崇の意を表された。
 また仁安元年神無月の頃、歌聖西行は四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。
即ち、
         松山や  浪に流れて  こし船の  やがて空しく  なりにけるかな
西行涙を流して御返歌に
         よしや君  昔の玉の  床とても  かゝらん後は  何にかはせむ
と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
-白峯寺境内案内板から抜粋-




           霜さむく 露白妙の 寺のうち
                          御名を称うる 法の声々


  

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2011年07月07日

第80番 讃岐国分寺


四国八十八カ所 第80番札所 讃岐国分寺




白牛山 千手院 讃岐国分寺 (さぬきこくぶんじ)

〔所在地〕 香川県高松市国分寺町国分2065

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 天平13年(741)、聖武天皇の勅願によって全国に建立された国分寺の一つ。 行基が開基し、のちに大師が来錫して四国霊場と定めた。 兵火で、堂塔のほとんどを焼失したが、幸いにも本堂と鐘楼だけは難をのがれた。 この鐘楼の鐘には大蛇の伝承がある。 その昔里人を悩ませていた大蛇を、弓の名人、戸次八郎が退治に出かけた。 鐘をかぶった蛇を八郎はみごと退治し、その鐘をこの寺におさめたという。
-『四国八十八カ所』から-



         本堂 (重要文化財)                   大師堂 (多宝塔)











             金堂礎石                       七重塔礎石








國分寺由来
 ◎ 創建は奈良時代の中庸、天平十三年(西暦七四一年、約千二百六十年前)聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により、国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽等を願って、建立された寺であります。
 ◎ 正面突き当たりの本堂は古文書國分寺記録によれば往古の講堂であり、鎌倉時代中期の建造物であります。
 ◎ この本堂に安置されている本尊は大慈大悲の十一面千手観世音菩薩で俗に丈六仏と称される五・六米余の巨像であります。
 ◎ 金堂礎石  目前の石群は創建当初の金堂(本堂)の柱石で、実測間口(東西)十四間、奥行(南北)七間(天平尺)の大堂でありました。
 ◎ 七重塔礎石  山門と金堂の中間右側にある石群が創草時の七重塔礎石であります。 全ての國分寺は五重塔ではなく、七重塔であります。 この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)と共に十七個あり、五間四方(正方形)の塔で、京都東寺五重塔(高さ東洋一)以上の規模の大塔でありました。
-讃岐国分寺境内案内板から-



 伝説の梵鐘 (重要文化財)    国分寺の鎮守・春日明神        山門 (仁王門)





          国を分け 野山をしのぎ 寺々に
                            詣れる人を 助けましませ


  

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2011年07月05日

第79番 天皇寺


四国八十八カ所 第79番札所 天皇寺




金華山 高照院 天皇寺 (てんのうじ)

〔所在地〕 香川県坂出市西庄町1713-2

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 弘仁年間(810~824)、大師が近くを巡錫のおり霊気を感じて薬師如来像を彫り、堂宇建立したのが始まり。 当時は妙成就寺摩尼珠院(みょうじょうじゅじまにじゅいん)といった。 のちに、保元の乱(1156)に敗れた崇徳上皇が、讃岐に配流され、この地にその遺骸が安置されたことから、寺号を天皇寺とした(ただし、上皇の御陵があるのは第八十一番札所白峯寺)。 廃仏毀釈で、一時廃寺となるが筆頭末寺の高照院が当地に移り、山号と寺号を継承した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












崇徳天皇  白峰宮




白峰宮 (しろみねぐう)     別称 明の宮(あかりのみや)   通称 天皇さん

〔鎮座地〕 香川県坂出市西庄町1719番地
〔御祭神〕 崇徳天皇 (すとくてんのう)
〔神紋〕 菊十六紋章
〔社格〕 旧県社
〔由緒沿革〕 長寛二年(1164)の勧請と伝える。 社記によると、崇徳上皇保元の乱後讃岐に遷られ給い、長寛二年八月当郡府中村鼓ヶ岡木丸殿にて崩御し給う。 因て一時玉棺を当宮境内野沢井の水上に安置し奉り、同年九月綾松山白峰に荼毘し奉る。 即ち当社は天皇の霊蹟なるを以て、二条天皇宣下ありて社殿を造営し奉り、同年十月神霊を鎮祭す。 高倉天皇安元五年官符を以て当国の租稲千束を賜い、建久四年源頼朝は先規に任せて社地を保護した。 特に後嵯峨天皇は社殿を再営し、宸筆の御願文を捧げ社領二百五十石を寄せ給うた。 明治五年県社に列す。
-『神社名鑑』から-



              拝殿                            本殿













           十楽の 浮世の中を たずぬべし
                           天皇さえも さすらいぞある


  

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2011年07月03日

第78番 郷照寺


四国八十八カ所 第78番札所 郷照寺




仏光山 広徳院 郷照寺 (ごうしょうじ)

〔所在地〕 香川県綾歌郡宇多津町1435

〔宗派〕 時宗

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔真言〕 おん ありみた ていぜい から うん

〔略縁起〕 四国霊場中唯一、時宗と真言宗が同居する寺。 神亀2年(725)、行基が開創したと伝えられる。 弘仁6年(815)には、この地を大師が訪れ、伽藍をととのえて四国霊場と定めた。 のちの正応元年(1288)、一遍上人がこの寺に長く滞在し、遊行念仏の道場を開いた。 寛文4年(1664)、高松藩主である松平頼重により再建され、その時の住持浄阿上人の徳川遠祖の関係により、時宗と本末関係を結んだ。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












〔左〕 山門

〔右〕 庚申堂
病魔を除く青面金剛を祀る





〔左〕 池泉回遊式の庭園   

〔右〕 大師堂の天井画
彩色された美しい草花のレリーフ





          踊りはね 念仏唱う 道場寺
                          拍子をそろえ 鐘を打つなり


  

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2011年07月01日

第77番 道隆寺


四国八十八カ所 第77番札所 道隆寺




桑多山 明王院 道隆寺 (どうりゅうじ)

〔所在地〕 香川県仲多度郡多度津町北鴨1-3-30

〔宗派〕 真言宗醍醐派

〔開基〕 和気道隆

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 天平勝宝元年(749)に、第七十六番札所金倉寺を建立した和気道善の弟、道隆によって開かれた。 当時、この一帯は和気家の大桑園であったが、その中に毎夜怪しい光を放つ大木があった。 道隆はこの怪光を退治しようと矢を放つが、誤って乳母を射殺してしまう。 悲嘆にくれた道隆は、その木で小さな薬師如来像を刻み、庭の隅に草堂を建てて一心に供養したという。 大師にとっては親類筋の寺である。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂














〔左〕 多宝塔

〔右〕 妙見宮





          願いをば 仏道隆に 入りはてて
                           菩提の月を 見まく欲しさに


  

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2011年06月29日

第76番 金倉寺


四国八十八カ所 第76番札所 金倉寺




鶏足山 宝幢院 金倉寺 (こんぞうじ)

〔所在地〕 香川県善通寺市金蔵寺町1160

〔宗派〕 天台寺門宗

〔開基〕 和気道善

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 この地域は、智証大師(円珍)の誕生の地である。 智証大師は、天台寺門宗の開祖で、弘法大師の姪の子。 開基は宝亀5年(774)、智証大師の祖父、和気道善が建立したとされる。 開創時は、道善寺といったが、延長6年(928)に醍醐天皇の勅命で、大師が入寂し、所在地の金倉郷の地名から金倉寺と改号した。 往時は隆盛を誇ったが、戦国期の戦火で伽藍はすべて焼失。 現在の本堂は昭和に入って、大師堂は元の本堂で、江戸期に再建された。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂











     入山智証大師像          乃木将軍妻返し松             八幡社




          まことにも 神仏倉を 開くれば
                         真言加持の 不思議なりけり


  

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2011年06月23日

第75番 善通寺


四国八十八カ所 第75番札所 善通寺




五岳山 誕生院 善通寺 (ぜんつうじ)

〔所在地〕 香川県善通寺市善通寺町3-3-1

〔宗派〕 真言宗善通寺派総本山

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 紀州の高野山、京都の東寺とともに大師三大霊跡の一つとされるこの寺は、大師誕生の地に、大師自らが建立した真言宗善通寺派の総本山。 宝暦5年(774)、6月15日、大師は現在の御影堂が建つ場所で誕生した。 父は佐伯善通、母は玉依御前。 この寺号は、父の名前からついている。 大同2年(807)、唐から帰った大師は、佐伯氏の菩提を弔うために伽藍を建立した。 金堂は、大師が唐で学んだ青龍寺を模している。
-『四国八十八カ所』から-


東院 (伽藍)

 東院は、お大師さまが自ら建立された、もともとの「善通寺」です。大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日、斧始めをなして、尾背山より木材を運び、諸堂の建立が始まり、弘仁4年(813)善通寺伽藍諸堂が落慶しました。この時建立された堂塔は、金堂、大塔、講堂、法花堂などの15宇でありまして、お大師さまが密教を学んだ、唐の長安・青龍寺の伽藍を模して建立されたと伝えられています。 しかしながら、永禄元年(1558)の兵火によって、その時までの約750年現存していた創建当初の伽藍諸堂は全焼してしまいました。 その後、戦国時代が終わり、生駒家、京極家といった讃岐の大名をはじめとした、朝野にわたる援助により再建が進み、現代に至ります。
-善通寺公式サイトから-


金堂 (本堂)


金堂 (本堂)   善通寺の本堂。 創建時の金堂は、永禄元年(1558)、三好実休の兵火によって焼失し、現在の建物は、元禄年間(1688-1704)に再建されたものです。本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルに及ぶ丈六の巨像で、元禄13年(1700)、御室大仏師運長法橋によって造像されました。


五重塔
 総高45メートルに及ぶ総欅造の大塔で、善通寺のシンボルとして、広く人々に親しまれています。 創建以来、台風や火災により、いくたびかの倒壊・焼失を経ましたが、そのたびに再建されました。 現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成したものです。




常行堂 (釈迦堂)
 釈迦如来を安置することから「釈迦堂」とも云います。 現在の建物は延宝年間建立の御影堂でしたが、天保年間の御影堂改築にあたり現在の場所へ移転されたものです。





佐伯祖廟
 お大師さまの父君善通公「佐伯明神」と母君玉依御前「玉依明神」をお祀りしています。





五社明神
 雲気大明神、大歳大明神、大麻大明神、広浜大明神、蕪津大明神の五社明神を二宇相殿にお祀りしています。 この五社は元の善通寺領の氏神で、寺領安穏を祈るため、勧請せられ祀られています。




西院 (御誕生院)

 西院には、もともと、お大師さまの出自の佐伯家の邸宅がありました。東院の「善通寺」創建の時には、父君善通公も母君玉寄御前も佐伯家の方々は、この邸宅にお住まいになっていたのです。その後、善通公の一族は京都に住まわれることになり、後の世において、その跡地に御影堂を中心とした「誕生院」が整備されました。御影堂奥殿のある場所は、その佐伯家邸宅のありし時は母君のお部屋のあった場所と伝わっており、まさしく今奥殿の建つこの場所こそが、お大師さま御誕生の聖地なのであります。
-善通寺公式サイトから-



御影堂 (大師堂)


御影堂 (大師堂)   弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自作と伝わる本尊・瞬目大師像が秘蔵されています。 誕生院は、建長元年(1249)、行蓮上人によって創建されました。 現在の建物は、天保2年(1831)に建立され、昭和11年に修築されたものです。 また御影堂の地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、暗闇の中、宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっています。



護摩堂
 不動明王をおまつりするお堂で、また、不動明王へ祈りを捧げるための護摩を修する道場です。 毎月28日のお不動さまの縁日には、ここで護摩祈祷を行っています。





聖霊殿
 昭和15年に戦没英霊の遺骨奉安のための「忠霊堂(ちゅうれいどう)」として建てられました。





親鸞堂
 浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御尊像を安置しているお堂です。 この尊像は「鎌田の御影」とも云い、聖人は、その師・法然上人が詣でられ逆修供養塔も建てられた善通寺に詣りたいという願いを果たせず、その願望を込め御自作されたものと伝わっています。




仁王門
 西院の正門。 門の外側左右には金剛力士像が立ち、内側には大草履が奉安されています。 この仁王門にかかる門前の石橋は、昔は毎月20日にのみ通行できたということから「廿日橋(はつかばし)」といいます。





          我住まば よも消えはてじ 善通寺
                            深き誓いの 法のともしび


  

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2011年06月21日

第74番 甲山寺


四国八十八カ所 第74番札所 甲山寺




医王山 多宝院 甲山寺 (こうやまじ)

〔所在地〕 香川県善通寺市弘田町1765-1

〔宗派〕 真言宗善通寺派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 甲山寺の10kmほど先にある満濃池は人工のため池。 弘仁12年(821)、大師は嵯峨天皇から、決壊した満濃池お修築を命じられ。 土木技術にたけた大師と、大師を慕う里人の努力が実を結び、奇跡的にも難工事はたった3カ月で完成する。 天皇はこの成功をたたえ、大師に報奨金を与えた。 大師はそれを資金として堂宇を建立し、四国霊場と定めたという。 寺号は、この寺のある甲山が毘沙門天の甲冑に似ていることからつけられた。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                        毘沙門天の岩窟











        大師堂                 山門               淡島大明神




           十二神 味方に持てる 戦には
                              おのれと心 甲山かな


  

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2011年06月17日

第73番 出釈迦寺


四国八十八カ所 第73番札所 出釈迦寺




我拝師山 求聞持院 出釈迦寺 (しゅっしゃかじ)

〔所在地〕 香川県善通寺市吉原町1091

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 釈迦如来

〔真言〕 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

〔略縁起〕 我拝師山(標高481m)山麓の寺。 大師は幼少のころ、八葉蓮華の中にすわって諸仏と語らう夢をよく見たという。 7歳のとき、この山の断崖の上から「仏門に入って衆生を救おうという私の願いが成就するならば、釈迦如来よ、どうぞお姿をおあらわしください」と唱えて、谷底目がけて身を投げた。 すると、天女が天くだりし、幼い大師を抱き止めたという。 のちに大師は、この感激新たにして一堂を建立し、四国霊場と定めた。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












求聞持大師像
求聞持大師の由来
 当山は弘法大師七歳の捨身誓願の霊場であるとともに大師は四国八十八ケ所御開創の砌り再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行されました。 故に当山院号を求聞持院と号します。 この求聞持の法とは虚空蔵菩薩の御真言を一百萬遍お唱えする法でそのご修行のお姿が当山求聞持大師です。
-出釈迦寺案内板から-




捨身ケ嶽遙拝所




奥の院 捨身ヶ嶽禅定 (しゃしんがだけぜんじょう)
 弘法大師(幼名 真魚)七才の時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方の薩埵に念じ「我、仏法に入りて一切の衆生を済度せんと欲す。 吾願成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して證明与え給へ成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を躍らし飛び給いし紫雲の湧き起せらる中に大光明を放って釈迦牟尼仏百宝の蓮華に座しご出現せられ羽衣を身に纏うた天女天降り大師を抱き止め「一生成仏」と、宣り給ふ。 この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し霊験を永久に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ケ嶽に寺を建立し、ご本尊釈迦牟尼仏を安置せられ捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となっている霊山です。
                      捨身ヶ嶽出釈迦寺
-出釈迦寺案内板から-



           迷ひぬる 六道衆生 救わんと
                           尊き山に 出づる釈迦寺


  

Posted by 閑人 at 12:09Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年06月15日

第72番 曼荼羅寺


四国八十八カ所 第72番札所 曼荼羅寺




我拝師山 延命院 曼荼羅寺 (まんだらじ)

〔所在地〕 香川県善通寺市吉原町1380-1

〔宗派〕 真言宗善通寺派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 大日如来

〔真言〕 おん あびらうんけん ばざら だとばん

〔略縁起〕 この寺のある善通寺市は、大師出生の地。 開基は古く、推古天皇4年(596)、大師の祖先である佐伯氏の氏寺として建てられた。 当時は世坂寺といった。 のちの大同2年(807)、唐から帰国した大師は、金剛界、胎蔵界の2つの曼荼羅を安置、大日如来を刻んで寺を再興し、寺号も曼荼羅寺と改め霊場に定めた。 大師お手植えとされる不老松は、平成14年枯死したが、跡地には、その幹に彫られた笠松大師が安置されている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           護摩堂












    西行法師の昼寝石       曼荼羅寺の鎮守・八幡宮    「不老松」跡地の笠松大師




        わずかにも 曼荼羅おがむ 人はただ
                            ふたゝび三たび 帰らざらまし


  

Posted by 閑人 at 20:15Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年06月10日

第71番 弥谷寺


四国八十八カ所 第71番札所 弥谷寺




剣五山 千手院  弥谷寺 (いやだにじ)

〔所在地〕 香川県三豊市三野町大見乙70

〔宗派〕 真言宗善通寺派

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 弥谷寺は、死霊が帰る「仏の山」として昔から信仰が篤い。 天平の昔、聖武天皇の勅願により行基が開創。 弥谷山の山頂から、中国、四国地方の8国が眺望できたことから、蓮華山八国寺と名づけられた。 大師は7歳のとき、この山で修行している。 のちに唐から帰った大師が、当山で真言密教の修法を行うと、空から5柄の銅剣が降ってきたという。 そこで山号を剣五山に変え、周辺に谷が多いことから、寺号も弥谷寺に改め、四国霊場に定めた。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












磨崖仏


県指定史跡   磨崖佛   昭和四十三年六月指定   弥谷寺

  三尊像は南面する約十二米の岸壁に陽刻されて居り、中央の阿弥陀如来は約一米、左右の観音、勢至両菩薩共に約九十糎、全体によく整って温和な表情をたたえている。 この像の左右岩肌には南無阿弥陀佛と陰刻された、六字の名号九行あり、これに関連して上方本堂付近の岸壁には無数の納骨穴が彫られている。 この納骨穴に対する回向の為、下方の阿弥陀三尊及び六字の名号が刻まれたものと思われる。
  従ってこれらは平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われて居り、或いは大師の作かともいわれている。
-境内案内板から-



境内から眺める讃岐の山河




         悪人と 行き連れなんも 弥谷寺
                           只かりそめも 良き友ぞよき


  

Posted by 閑人 at 19:30Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年06月08日

第70番 本山寺


四国八十八カ所 第70番札所 本山寺




七宝山 持宝院  本山寺 (もとやまじ)

〔所在地〕 香川県三豊市豊中町本山甲1445

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 馬頭観世音菩薩

〔真言〕 おん あみりと どはんば うん ぱった そわか

〔略縁起〕 大同2年(807)、平城天皇の勅願により、大師が一夜という短期間のうちに本堂を建てて開創した。 また、本山寺のシンボル五重塔は、寺伝によると大同年間(806~810)に建立。 戦国期の兵火はのがれたが、破損はなはだしいため、下の一重のみを残して撤去し、いまの五重塔は明治43年に再建された。 本尊は、大師一刀三礼の作と伝わる馬頭観世音菩薩。 馬頭観世音菩薩を本尊とするのは、四国霊場中ここだけ。
-『四国八十八カ所』から-



           国宝の本堂                          大師堂










本山寺本堂 (国宝)
 寺伝によると、弘法大師の一夜建立といわれているが、現在の本堂は、一二九一年(正応四年鎌倉時代末)に佐々木氏信の寄進を得て、一三〇〇年(正安二年鎌倉時代末)心導上人の代に建て替えられたものである。
 古文書などは、一八五四年(嘉永七年江戸時代末)の火災にあって現存しないが、本堂の棟札や礎石の墨書などからみても、鎌倉末期に建立されたものであることは明らかである。 大正十三年特別保護建造物に指定され、昭和二十七年鎌倉建築として復元工事を行い昭和三十年国宝に指定された。
  昭和五十九年三月    香川県
-境内案内板から-



仁王門 (国指定重要文化財)


仁王門 (国指定重要文化財)
  室町時代中期建立の三間一戸八脚門。切妻造、本瓦葺。主柱、前後の控柱ともに円柱とする。
  建築様式は和様を基調とするが、柱の下部に礎盤を設ける点など細部に禅宗様を取り入れている。




〔左〕 五重塔
  (三豊市指定有形文化財)
 古塔が明治43年(1910)まで存在していたが取り壊され、大正2年(1913)に現在の位置に再建された。
〔右〕 十王堂



         本山に 誰か植えける 花なれや
                        春こそ手折れ 手向けにぞなる


  

Posted by 閑人 at 20:16Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所