2011年06月06日

第69番 観音寺


四国八十八カ所 第69番札所 観音寺




七宝山  観音寺 (かんのんじ)

〔所在地〕 香川県観音寺市八幡町1-2-7

〔宗派〕 真言宗大覚寺派

〔本尊〕 聖観世音菩薩

〔開基〕 日証上人

〔真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 神恵院と同じく、大宝年間(701~704)、日証上人により、琴弾八幡宮の神宮寺として開創。 神恵院の境内をおりればすぐに観音寺の境内に着く。 大同年間(806~810)に唐から帰国した大師が、この寺の第7代住職となり、南都興福寺にならって七堂伽藍を建立し、寺号を観音寺と改めて四国霊場と定めた。 貴重な文化財が多く、室町初期に建立された本堂は国の重要文化財。 また宝物館では、多くの仏教美術の秀作が堪能できる。
-『四国八十八カ所』から-


              本堂                           大師堂













〔左〕 薬師堂

〔右〕 山門
神恵院と共通の山門(仁王門)




          観音の 大悲の力 強ければ
                          重き罪をも 引き上げてたべ


  

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2011年06月05日

第68番 神恵院


四国八十八カ所 第68番札所 神恵院




七宝山  神恵院 (じんねいん)

〔所在地〕 香川県観音寺市八幡町1-2-7

〔宗派〕 真言宗大覚寺派

〔開基〕 日証上人

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔真言〕 おん ありみた ていぜい からうん

〔略縁起〕 琴弾山の中腹に建つ第六十八番札所神恵院と第六十九番札所観音寺は、一つの境内の中に二つの札所があるという珍しい構え。 神恵院はもともと琴弾山の60m上にある琴弾八幡宮の別当寺で、明治初期の神仏分離令で神社と分離した。 その際、本尊が観音寺の西金堂に移され、札所も同時に移って一境内に2札所となった。 琴弾八幡宮は大宝3年(703)、 日証上人が山中での修行中に宇佐八幡大明神の声を聞き、社殿を建立したのが始まり。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













境内裏の展望台から見る琴弾公園の銭形砂絵




          笛の音も 松吹く風も 琴弾くも
                            歌うも舞うも 法のこえごえ


  

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2011年06月04日

第67番 大興寺


四国八十八カ所 第67番札所 大興寺




小松尾山 不動光院 大興寺 (だいこうじ)

〔所在地〕 香川県三豊市山本町辻4209

〔宗派〕 真言宗善通寺派

〔本尊〕 薬師如来

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 地元で「小松尾さん」と呼ばれるこの寺は、かつて真言、天台両宗で共同管理されていた珍しい寺。 そのため、いまでも境内には、本堂向かって左に弘法大師堂、右に天台大師堂がある。 大師堂が2つあるのは四国霊場中ここだけ。 開創は弘仁13年(822)。 嵯峨天皇の勅願により大師が熊野三所権現鎮護の霊場として開いた。 その後、戦国期の兵火で焼失するも、慶長年間(1596~1615)には再建されている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                            大師堂












      天台大師堂           大師お手植えの楠         大師お手植えのカヤ




         植えおきし 小松尾寺を 眺むれば
                            法の教えの 風ぞ吹きぬる


  

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2011年06月02日

第66番 雲辺寺


四国八十八カ所 第66番札所 雲辺寺




巨鼈山 千手院 雲辺寺 (うんぺんじ)

〔所在地〕 徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2

〔宗派〕 真言宗御室派

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん ばさら たらま きりく

〔略縁起〕 標高927m、雲辺寺山の頂にあるこの寺は、八十八カ所中最も高い札所。 しばしば霧に包まれるその姿は、まさに雲の中の寺である。 延暦8年(789)、当時16歳だった大師は、寺院建立のための用材を求めてこの山に登った。 その際、ただならぬ霊気を感じて、この地に一堂を建立したという。 のちの大同2年(807)、嵯峨天皇の勅願を受けて再びこの山に登った大師は、仏舎利と毘盧遮那法印を山中に納めて四国霊場とした。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                            大師堂












        護摩堂               五百羅漢              五社大権現




〔左〕 「おたのみなす」の腰掛け
 願いを込めて「おたのみなす」に腰かけてみて下さい
〔右〕 種田山頭火 句碑
     石仏   濡仏   けふも秋雨
                        山頭火




        はるばると 雲のほとりの 寺に来て
                            月日を今は ふもとにぞ見る


  

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2011年05月30日

第65番 三角寺


四国八十八カ所 第65番札所 三角寺




由霊山 慈尊院 三角寺 (さんかくじ)

〔所在地〕 愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 天平年間(729~749)、聖武天皇の勒願による行基の開創と伝わる。 弘仁6年(815)、大師が境内に三角形の護摩壇を築き、国家の安泰と衆生の福祉を祈願して、21日間の降伏護摩の秘法を行った。 このときの遺跡がいまの境内に残る三角の池である。 寺号もこれに由来している。 天正年間(1573~1592)には兵火によって堂宇を焼失。 現在の本堂の建造物は、嘉永2年(1849)に再建されたものである。
-『四国八十八カ所』から-


              本堂                           大師堂












三角の池・大辨天


當處ハ髙祖大師四國八十八ヶ所開創ノ砌三角ノ護摩壇ヲ築キ護摩ノ秘法ヲ修セラレシ遺跡也
-境内石碑から-


三角の池
 周囲10数メートル、池のなかに三角形の島があり、現在は弁財天が祀られている。
 弘仁6年(815)、大師は不動明王像を彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。 降伏護摩秘法は大法であり、四国霊場中、唯一ここ三角寺だけに伝えられているという。
 この三角形の護摩壇の跡が、「三角の池」だといわれ、寺号は、護摩壇の三角形に由来する。



 
〔左〕 山門 
釣り鐘が架かる鐘楼仁王門

〔右〕 小林一茶の句碑
 これでこそ  登りかひあり  山桜
                      一茶




      おそろしや  三つの角にも  入るならば
                           心をまろく  慈悲を念ぜよ


  

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2011年05月12日

第64番 前神寺


四国八十八カ所 第64番札所 前神寺




石鈇山 金色院 前神寺 (まえがみじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市洲之内甲1426

〔宗派〕 真言宗石鈇派

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 役行者小角

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 山岳宗教の聖地、石鎚山の麓にあり、開創は修験道の祖・役行者小角。 のちに桓武天皇が勅使を送って、病気回復を当山に祈願した。 無事平癒したので、その霊験をたたえ、七堂伽藍を建立し前神寺と寺号を決めた。 石鎚山は大師の思い出の修行地。 大師は、当山に逗留し、四国霊場と定めた。 江戸期は西条藩主、松平家の祈願所なるなど、寺運は隆盛を極める。 昭和22年には、真言宗石鈇派の総本山として独立した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












石鈇大権現


石鈇山縁起之事
  當山は、天武天皇五年神変大菩薩の開山でありまして、石鈇大権現を感見得仏され、石鈇山中に鎮護国家、仏道修行の道場を開山されました。
  延暦年間、桓武天皇の叡信篤く国司に命じ伊予橘の里(現 石鎚神社の所)に七堂伽藍を建立し金色院前神寺と命ぜられ、以来勅願寺として文徳、高倉、後鳥羽等各天皇は仏像経典を奉納、又堂塔を建立せられました。  当地、西条藩も祈願寺として境内に東照宮(現西条神社)を祀る等帰依篤く寺紋であります三つ葉葵を許されました。
  石鈇開山以来、石鈇山頂上、常往奥前神寺、里前神寺、入峰修行参道をはじめ七里四方の寺領を有し、石鈇山の根本道場として全国より参詣の信徒の中心として尊信せられました。
  然るに明治初年、所謂「廃仏毀釈」の暴論により當山の境内地、建物、参道、寺領等総てを没収しその跡に石鎚神社を設立しました。
  時の住職大律上人は、石鈇開山以来石鈇信仰の中心であります石鈇大権現を奉じて現在地に移り石鈇山根本道場として古来よりの修験道の法灯を伝えました。
  前神寺は、真言宗石鈇派の総本山として、石鈇修験道の根本道場として、また四国六十四番霊場として数々の法灯を伝え現在に至っています。
     総本山 前神寺
-境内案内板から-



        薬師堂                お滝不動              金毘羅堂




           前は神  後は仏  極楽の
                         よろずの罪を  くだくいしづち


  

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2011年05月11日

第63番 吉祥寺


四国八十八カ所 第63番札所 吉祥寺




密教山 胎蔵院 吉祥寺 (きちじょうじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市氷見乙1048

〔宗派〕 真言宗東寺派

〔本尊〕 毘沙門天

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん べい しらまんだや そわか

〔略縁起〕 弘仁年間(810~824)、大師がこの近くで光る檜を見つけ、一帯に霊気が満ちるのを感じて一堂を建立したのが始まり。 もとは坂元山の広大な寺領に二十一坊を有する大寺だったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国攻めの兵火にあって全焼してしまう。 万治2年(1659)に、末寺の檜木寺と合伴して、現在の地で再建された。 毘沙門天を本尊とするのは四国霊場中ここだけ。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 お迎え大師・くぐり吉祥天女
皆さん ごくろうさんです 私も毎日修行していますよ
   くぐると富を授かる御利益がある吉祥天女

〔右〕 成就石
目を閉じて、石の穴に杖を通すと願いが叶うという




         身のうちの 悪しき悲報を 打ち捨てて
                              みな吉祥を 望み祈れよ


  

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2011年05月10日

第62番 宝寿寺


四国八十八カ所 第62番札所 宝寿寺




天養山 観音院 宝寿寺 (ほうじゅじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 道慈律師

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 天平年間(729~748)に、伊予一の宮の別当寺(御法楽所)として創建。 当初は金剛宝寺と称していた。 大同年間(806~810)に大師が来錫。 十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、四国霊場に定めた。 山手川、中山川近くにあったため、寺はしばしば洪水の被害を受け、一時は荒れるにまかせていたが、天養元年(1144)には再建された。 山号はそのときの年号にちなんだもの。 伊予三島水軍の菩提寺にもなった。
-『四国八十八カ所』から-



             本堂                             大師堂













         さみだれの あとに出でたる 玉の井は
                                白坪なるや 一の宮川


  

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2011年05月09日

第61番 香園寺


四国八十八カ所 第61番札所 香園寺




栴檀山 教王院 香園寺 (こうおんじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町南川甲19

〔宗派〕 真言宗御室派

〔本尊〕 大日如来

〔開基〕) 聖徳太子

〔真言〕 おん あびらうんけん ばざら だどばん

〔略縁起〕 開基は古く、6世紀後半の用明天皇の時代に、聖徳太子が父である天皇の病気回復を祈願して建立した。 天平年間(729~749)には行基が、大同年間(806~810)には弘法大師が来錫し、霊場に定めた。 大師は、門前で身重の女性が苦しむのを見て秘法の加持を行った。 女性は無事に男子を産み、加持の際に大師が栴檀の香をたいて修法したことが山号の由来になっている。 以後、戦国期の戦火で焼失。 大正2年に再建された。
-『四国八十八カ所』から-



          大聖堂内 本堂                    大聖堂内 大師堂













〔左〕 子安大師堂 
日々無事安産、子授かりを祈願する参拝者が多数訪れる。

〔右〕 聖徳殿
 当山の開祖、聖徳太子を祀る。




          後の世を 思へば詣れ 香園寺
                           止めて止まらぬ 白瀧の水


  

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2011年05月07日

第60番 横峰寺


四国八十八カ所 第60番札所 横峰寺




石鈇山 福智院 横峰寺 (よこみねじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253

〔宗派〕 真言宗御室派

〔本尊〕 大日如来

〔開基〕 役行者小角

〔真言〕 おん あびらうんけん ばざら だどばん

〔略縁起〕 開基は修験僧の開祖、役行者小角。 白雉2年(651)、小角が石鎚山頂で修行しているときに蔵王権現の姿を見て、その姿を石楠花の木に刻んで開山したという。 大同年間(806~810)には、大師が当山を訪れて大日如来を刻み、小角の刻んだ像をその胸におさめて安置したと伝わる。 その後、寺は石鎚神社の別当寺とされたが、明治の神仏分離令で、石鎚山西遥拝所横峰社となり、明治42年には横峰寺に戻った。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 星供大師
右手に剣、左手に星供の巻物を持った大師像

〔右〕 聖天堂




           たて横に 峰や山辺に 寺建てて
                           あまねく人を 救ふものかな


  

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2011年05月06日

第59番 伊予国分寺


四国八十八カ所 第59番札所 伊予国分寺




金光山 最勝院 伊予国分寺 (いよこくぶんじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市国分4-1-33

〔宗派〕 真言律宗

〔本尊〕 薬師瑠璃光如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 国分寺は聖武天皇の勅願により全国に建設された寺。 四国各県にも一カ寺ずつあり、いずれも四国霊場である。 伊予の国分寺であるこの寺は、受難の歴史をへている。 天慶2年(939)、藤原純友の乱によって堂宇は焼失、さらに元歴元年(1184)には、源氏平家の戦いに巻き込まれた。 戦火のたびに堂宇は焼失し、寛政元年(1789)に現在の本堂が再建されるまで、茅葺きのお堂が建つのみだったという。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












国指定 史跡   国分寺塔跡


国指定  史跡  国分寺塔跡
  奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。 この巨大な花崗岩の13個の塔礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱受けが刻み出され、天平時代の荒打ちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。 礎石間の間隔は約3.6mで多少傾いたのもあるが整然と並んでいる。
  調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層の上に置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。 この上にあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。        大正10年3月3日指定  文部省
  史跡・名所の小路  今治市
-史跡「国分寺塔跡」案内板から-




〔左〕 春日神社
(伊予国分寺の鎮守)

〔右〕 鐘楼




  握手修行大師像    薬師如来の薬壺              七福神石仏





         守護のため 建ててあがむる 国分寺
                            いよいよ恵む 薬師なりけり


  

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2011年05月05日

第58番 仙遊寺


四国八十八カ所 第58番札所 仙遊寺




作礼山 千光院 仙遊寺 (せんゆうじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市玉川町別所甲483

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔開基〕 越智守興

〔真言〕 おん ばさら たらま きりく

〔略縁起〕 天智天皇の勅願により国守、越智守興が開基。 のちに大師が伽藍を整ととのえて四国霊場と定めた。 昭和22年の火災で全焼したが、本堂、大師堂と順次再建されている。 この寺で40年間、読経三昧で暮らした阿坊仙人が、ある日突然、雲と遊ぶかのように姿を消した。 寺号の仙遊寺はこれによっている。 また山号は、海から上がった童女が、本尊の千手観世音菩薩を一刀刻むごとに三度礼拝したという伝説から、その名がついた。
-『四国八十八カ所』から-


             本堂                            大師堂













境内からは今治の街としまなみ海道が一望




          立ち寄りて 佐礼の堂に 休みつつ
                           六字を称え 経を読むべし


  

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2011年05月04日

第57番 栄福寺


四国八十八カ所 第57番札所 栄福寺




府頭山 無量寿院 栄福寺 (えいふくじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市玉川町八幡甲200

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 嵯峨天皇の勅願で大師が弘仁年間(810~824)に開基。 近海で海難がしばしば起こることを聞いた大師は、府頭山の山頂で海神供養の護摩を修法。 すると、海中から阿弥陀如来があらわれた。 そこで堂宇を建立して霊場と定めたという。 のちに行教上人が、境内に八幡大菩薩を勧請し、神仏混合の石清水八幡宮を創建した。 明治期の神仏分離令によって、寺は現在の地に移転する。 現在の大師堂は、山頂にあった建物を移築したもの。
-『四国八十八カ所』から-


              本堂                           大師堂













           この世には 弓矢を守る 八幡なり
                             来世は人を 救う弥陀仏


  

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2011年05月03日

第56番 泰山寺


四国八十八カ所 第56番札所 泰山寺




金輪山 勅王院 泰山寺 (たいさんじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市小泉1-9-18

〔宗派〕 真言宗醍醐派

〔本尊〕 延命地蔵菩薩

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん かかかび さんまえい そわか

〔略縁起〕 淳和天皇の勅願で、天長年間(824~834)に大師が開基。 近くにある蒼社川は、その当時氾濫を繰り返し、地元の人々に「人取川」として恐れられていた。 大師は村人たちを指導して堤防を建立。 河原で「土砂加持」の秘法を行ったところ、満願の日に延命地蔵菩薩が空中にあらわれ、治水の祈願成就を告げたという。 そこで大師は、この地に一堂を建立し、寺号を延命地蔵経十大願の第一「女人泰産」からとって、泰山寺とした。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












ユーモラスな青龍が描かれた本堂の天井画




         みな人の 詣りてやがて 泰山寺
                          来世の引導 たのみ置きつつ


  

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2011年05月02日

第55番 南光坊


四国八十八カ所 第55番札所 南光坊




別宮山 金剛院光明寺 南光坊 (なんこうぼう)

〔所在地〕 愛媛県今治市別宮町3-1

〔宗派〕 真言宗醍醐派

〔本尊〕 大通智勝如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 なむ だいつうち しょうぶつ

〔略縁起〕 霊場中、「坊」がつくのはここのみ。 越智玉興の弟玉純が、文武天皇の勅願を受けて今治沖の大三島に大山祇神社を建て、同時に御法楽所二十四坊を建立した。 和銅5年(712)、参拝の便宜をはかって別宮を今治に移し、別当寺二十四坊のうち、南光坊を含む八坊も移築された。 戦国期には社殿は戦火で荒廃するが、南光坊だけは別宮の別当寺として再興され、繁栄した。 明治の廃仏毀釈で本尊が別宮から当山に移され、四国札所となる。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












        薬師堂               芭蕉翁句碑              金毘羅堂




別宮大山祇神社


日本総鎮守三島地御前
別宮大山祇神社 由緒

 御祭神 大山積大神
 御祭神大山積大神は、天照大神の兄神で、山の神々の親神にあたられて(古事記・日本書紀)、和田志大神とも云はれ(伊予国風土記)、日本民族の祖神として、また、地神、海神 兼備の大霊神として海上の安全、交通、産業の守護をはじめ日本の国土全体を守護し給う神であるところから、古代より日本総鎮守と尊称される。
 当神社は、和銅五年(皇紀一三七一年・西暦七一三年) 越智玉澄公により、日本総鎮守大山祇神社(大三島町元国幣大社)の地御前(ぢごぜん)として勧請創建せられ(豫陽盛衰記)、伊予国一の宮の別宮として、創建以来、代々の領主、藩主等は勿論、人々に広く篤く崇敬されてゐる。
-別宮大山祇神社案内板から-




        このところ 三島の夢の さめぬれば 
                             別宮とても おなじ垂迹


  

Posted by 閑人 at 19:04Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年05月01日

第54番 延命寺


四国八十八カ所 第54番札所 延命寺




近見山 宝鐘院 延命寺(えんめいじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市阿方甲636

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 不動明王

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 のうまく さんまんだ ばざらだん せんだまかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん

〔略縁起〕 行基が開いたとされ、のちに嵯峨天皇の勅願により弘法大師が近見山円明寺と命名し、再興した。 寺は幾度となく戦火にあったため場所を移動。 名前も、それまで俗称とされてきた「延命寺」に改称された。 というのも、第五十三番札所円明寺と似た名前だったため、郵便物がまちがって届くなどのトラブルがあったようだ。 いまでも土地の人は、第五十三番札所を「和気の円明さん」、ここを「阿方の延命さん」と区別して呼んでいる。
-『四国八十八カ所』から-



               本堂                          大師堂












        仁王門          今治城の城門だった山門       行基菩薩の供養塔



     鐘楼 (近見三郎)     宝永元年の梵鐘 (近見二郎)      越智孫兵衛の墓





         くもりなき 鏡の縁と ながむれば
                           残さず影を うつすものかな


  

Posted by 閑人 at 14:29Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年04月30日

第53番 圓明寺


四国八十八カ所 第53番札所 圓明寺




須賀山 正智院 圓明寺 (えんみょうじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市和気町1-182

〔宗派〕 真言宗智山派

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅命により、行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩を彫って安置し、伽藍を備えたのが始まり。 当時は、和気浜の西山という海岸にあり、海岸山圓明密寺と称した。 のちに大師が、荒廃した諸堂を整備し、四国霊場として定めた。 たび重なる兵火で衰微し、元和元年(1615)に須賀重久によって現在の地に移され、寛永13年(1636)には寺号も改められた。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 キリシタン灯ろう (十字架形灯ろう)
高さ40cm。合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある。

〔右〕 銅板の納札
 大正十三年三月、アメリカのシカゴ大学教授スタール博士は、四国八十八ヵ所を巡拝するが、圓明寺の本尊厨子に打ちつけてあった銅板の納札(縦24cm、幅9.7cm、厚さ約1mm)を見て高く評価し、世に紹介せられた。 この納札は慶安三年(1650)、京都の住人家次が巡拝中打ちつけたもので、「遍路」の文字が記された最古の納札であり、遍路の歴史を知る上で貴重な資料といえる。
 以来、圓明寺は納札のある寺として知れわたり、スタール博士は「お札博士」といわれた。



         中門                 観音堂              市杵島明神





          来迎の 弥陀の光の 圓明寺
                          照りそふ影は 夜な夜なの月


  

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2011年04月29日

第52番 太山寺


四国八十八カ所 第52番札所 太山寺




瀧雲山 護持院 太山寺 (たいさんじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市太山寺町1730

〔宗派〕 真言宗智山派

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 真野長者

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 当山の創建者は、豊後国の真野長者。 用明2年(586)、長者が高浜沖で嵐にあった。 一心に観世音菩薩に祈ると、五彩の光明がさして嵐がおさまり、一命を助けられたという。 長者はそのお礼として、瀧雲山に用材を運び込み、一夜のうちに本堂を建立した。 のちに聖武天皇の勅願により、行基が十一面観世音菩薩と四天王像を刻んで安置。 天長年間(824~834)には大師が胡摩ヶ森で護摩を修法して、四国霊場と定めた。
-『四国八十八カ所』から-



             国宝の本堂                       本堂内部外陣










国宝 太山寺 本堂 (鎌倉時代の建立)
 本堂の建物は、昭和27(1952)年の解体修理によって、嘉元3(1305)年の再建と判断されたが、内陣の床下からは焼土が発見され、その以前に火災によって焼け落ちた事実も判明した。 当時、架構の面で五間堂から格段の発展を遂げた七間堂が出現するが、その全国的にも稀少な遺構の一つで、桁行(正面)7間、梁間9間、一重、入母屋造、二軒(ふたのき)、本瓦葺である。 その9間梁行に大きく妻壁を置いての入母屋造は雄大な屋根の広がりを見せ、密教本堂としては全国屈指の規模を誇る。 柱・梁などの木組みは大きく、豪放な規模を持つとともに、和様を基本にしながら、虹梁とその挿肘木には大仏様(だいぶつよう)の手法が併用されるなど、折衷様(せっちゅうよう)としての表現力にも優れている。 またこの頃になって初めて現れた「六枝掛(ろくしがけ)」という、斗きょうと垂木(たるき)の割り付けから柱間隔が決められてゆく技法も明らかに認められる。さらにその内陣が土壇となっているのは、当時の密教本堂としては珍しく、正面柱間の中備(なかぞなえ)に置かれた蟇股(かえるまた)は、鎌倉時代の力強い作風を示す代表作と評価されている。
-『松山市ホームページ』から-



        大師堂          仁王門(国の重要文化財)      三の門 (四天王門)



        鐘楼堂                稲荷堂               聖徳太子堂





          太山に 登れば汗の 出でけれど
                         後の世思えば 何の苦もなし


  

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2011年04月28日

第51番 石手寺


四国八十八カ所 第51番札所 石手寺




熊野山 虚空蔵院 石手寺 (いしてじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市石手2-9-21

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 薬師如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 開創は古く、神亀5年(728)、越智玉純が聖武天皇の勅願により伽藍を建立し、安養寺と名づけた。 このときは法相宗に属していたが、のちに大師が来錫した際、真言宗に改めた。 石手寺と称するのは、寛平4年(892)のこと。 衛門三郎の伝説からこの名がついた。 平安から室町に至るまで寺運は隆盛を極め、七堂伽藍を有したが、長宗我部氏の兵火で大半を焼失。 しかし、仁王門、本堂、三重塔、鐘楼はいまも現存している。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












       阿弥陀堂                三重塔                鐘楼




〔左〕 衛門三郎の像

〔右〕 正岡子規の句碑
身の上や 御鬮を引けば 秋の風
                      子規




         西方を よそとは見まじ 安養の
                           寺に詣りて 受くる十楽


  

Posted by 閑人 at 18:21Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年04月27日

第50番 繁多寺


四国八十八カ所 第50番札所 繁多寺




東山 瑠璃光院 繁多寺 (はんたじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市畑寺町32

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 薬師如来

〔開基〕 行基菩薩  

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 天平勝宝年間(749~757)に、孝謙天皇の勅願により行基が開基。 このとき、寺号は光明寺といった。 のちに大師がこの地を巡錫、寺名を光明寺から繁多寺に改める。 弘安2年(1279)には、後宇多天皇の勅名を受けて聞月上人が蒙古退散の祈祷を当山で行っている。 応永元年(1394)には、天皇家の菩提寺、泉涌寺の快翁和尚が後小松天皇の勅命で当山住職となったと伝えられ、16弁の菊の紋章瓦が残されている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 歓喜天堂

〔右〕 鐘楼の天井画
御伽草子の挿絵が描かれている





          よろずこそ 繁多なりとも 怠らず
                  諸病なかれと 望み祈れよ



  

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