2012年05月14日
第22番 総持寺
西国三十三ヶ所 第22番札所 総持寺
補陀洛山 (ふだらくさん) 総持寺 (そうじじ)
〔所在地〕 (摂津國) 大阪府茨木市総持寺町1-6-1
〔宗派〕 真言宗高野山派
〔開基〕 中納言藤原山蔭
〔創建〕 寛平2年(890)
〔御本尊〕 千手観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 総持寺の創建は藤原北家の傍流で民部省の長官を務めた藤原山蔭という平安時代の役人である。 縁起は「亀の恩返し」説話として『今昔物語集』『源平盛衰記』などに納められている。
山蔭の父である藤原高房は大宰府に赴任の途中、淀川で漁師に捕らえられていた大亀を自分の着物と交換し、川に逃してやった。 その夜、息子の山蔭が川に落ち、捜しても見つからない。 高房は観音様に祈ると、翌朝、助けた大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れた。 高房は観音様の御恩に感謝し、観音像の造立を発願する。
願いが成就しないうちに高房は亡くなり、山蔭が父の遺志を継ぐと、長谷観音のお告げにより童子姿の仏師が現れた。 童子は千日かけて仏像を彫り、その間食事は山蔭自身が作り続けた。 千日目の朝、童子は空に飛んで消え、亀の背に立つ千手観音が残され、千日分の食事が供えられていた。 童子は長谷観音の化身であったのだ。
山蔭は仁和4年(888)に亡くなり、山蔭の子供たちは諸堂を完成させ、三回忌にあたる寛平2年(890)2月4日に落慶法要が営まれた。
亀に乗った千手観音は元亀2年(1571)に兵火で堂宇が焼けたときも、猛火の中燦然と立っていたというので、「火伏せ観音」とも呼ばれる。 焼けた本堂は慶長8年(1603)に再建された。
千日間料理を作り続けた山蔭は、料理法や作法に通じ、「日本料理中興の祖」、「山蔭流包丁式」の開祖とされている。
本堂 普悲観音堂
金堂 庖丁塚 大師堂
閻魔堂 鎮守社 鐘楼
御本尊 (秘仏) 千手観音像
木造 像高 75.4cm
総持寺の本尊は、長谷寺観世音化現童子が造ったといわれ、善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と雨宝童子(うほうどうじ)を脇侍とする。
一木造の古像だが、元亀2年(1571)、織田信長の軍勢に総持寺は焼かれ、この本尊も下半身が焼損した。 焼けてなお上半身は金色に耀いていたといい、このことから防火、厄除けの観音として信仰を集めている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「總持寺」
〔御朱印〕 「西國第廿二番」
伝説の亀の背に乗る、
蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
「總持寺印」
千手観音の種子 「キリク」
おしなべて 老いも若きも 総持寺の
ほとけの誓い 頼まぬはなし
2012年05月07日
第21番 穴太寺
西国三十三ヶ所 第21番札所 穴太寺
菩提山 (ぼだいさん) 穴太寺 (あなおじ)
〔所在地〕 (丹波國) 京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46
〔宗派〕 天台宗
〔開基〕 大伴古麿 (おおとものこまろ)
〔創建〕 慶雲2年 (705)
〔御本尊〕 聖観世音菩薩
〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか
〔略縁起〕 宝徳2年(1450)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年、文武天皇の勅願により、大伴旅人の甥大伴古麻呂が薬師如来を本尊として開創したという。 その後さびれていたが、村上天皇(926~967)の時代に郡司の宇治宮成(うじのみやなり)が妻の依頼で、仏師感世(かんせい)を都から招いて聖観世音菩薩を刻ませたという。 宮成は感世に愛馬をお礼に与えたが惜しくなり、待ち伏せして感世を射殺し、馬を取り戻して帰ったところ、矢は観音の胸に刺さり、感世も無事に帰京していた。 宮成は観音様が身代わりになられたと罪を悔い、寺を再建して聖観世音菩薩を本尊として安置したといわれる。
この伝説が『今昔物語集』や『扶桑略記』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかり、穴太寺の観音は「身代わり観音」として篤く信仰された。
寺は兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代中期に再建されたものである。
本堂 多宝塔
観音堂 鎮守堂(天満宮) 鐘楼
御本尊 (秘仏) 聖観音立像(伝・感世作) (現・佐川定慶作)
寺伝やさまざまな説話にも登場する、感世作とされる木造漆箔の観音像は、像高110.0cmで鎌倉時代の制作。 国の重要文化財にも指定される貴重な像であった。 しかしこの像は昭和43年に盗難に遭い、いまだ所在がわからない。
現在は、昭和の名工・佐川定慶(さがわじょうけい)作の像を秘仏として逗子のなかに祀っている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「聖大悲殿」
「穴太寺」
〔御朱印〕 「西國廿一番」
蓮華宝珠の中に聖観音の種子 「サ」
「穴穂」
寺印の「穴穂」は「穴太」に同じ。 「穴太」は本来「あなほ」と読み、「穴穂」「孔王」とも書く。
例えば、聖徳太子の母は、『日本書紀』では穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、『古事記』では間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)、『天寿国蔓茶羅繍帳』に孔王部間人母王(あなほべのはしひとのははみこ)とある。
穴太(あなほ)は古代の氏族名であり、この地は穴太部(あなほべ)の居住した地であろう。
聖観音の種子 「サ」
かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと
思はで頼め 十声一声
2012年05月04日
第20番 善峯寺
西国三十三ヶ所 第20番札所 善峯寺
西山 (にしやま) 善峯寺 (よしみねでら)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市西京区大原野小塩町1372
〔宗派〕 天台宗単立
〔開基〕 源算上人 (げんざんしょうにん)
〔創建〕 長元2年 (1029)
〔御本尊〕 千手観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばさら だるま きりく
〔略縁起〕 長元2年(1029)、比叡山の恵心僧都の高弟である源算上人の開山。 源算上人47歳の時、この地に小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。
以来歴朝の御崇敬篤く、長元7年(1034)、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号及び聖詠を賜った。 長久3年(1042)、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より仁弘法師作の十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇は諸堂を建立し、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれ、西山の宮(門跡)と称された。
建久3年(1192)、後鳥羽上皇から「善峯寺」の寺額を賜って寺名が改められた。 後花園天皇は伽藍を改築せられ、往時は50余りの堂宇を有する隆盛を誇ったが、応仁の乱の兵火で焼失。
現在ある堂塔の多くは、江戸時代に徳川五代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん)により再建されたもので、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。
観音堂 (本堂) 山門 (仁王門)
遊龍の松(天然記念物) 多宝塔(重要文化財) つりがね堂(厄除けの鐘)
御本尊 (秘仏) 千手観音立像
木造 像高 178.8cm 平安時代後期~鎌倉時代初期
脇の本尊 千手観音立像
木造 像高 174.5cm 平安時代 (11世紀前半)
洛東の鷲尾寺から遷したという本尊は、19番札所・革堂の本尊と同じ賀茂神社の霊木で造られたという伝承がある。 木造、彫眼、漆箔仕上げ。 穏やかな像容は当代一流の仏師の手になるものであろう。
一方、源算上人自刻像と伝わる「脇の本尊」はヒノキ材の一木を前後に割矧(わりはぎ)しており、善峯寺の開創と同時期、11世紀前半の像と思われる。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「よし峯寺」
〔御朱印〕 「西國二十番」
蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
「善峰寺印」
千手観音の種子 「キリク」
野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空
善峯よりも 晴るる夕立
2012年04月29日
第19番 革堂
西国三十三ヶ所 第19番札所 革堂
霊麀山 (れいゆうざん) 行願寺 (ぎょうがんじ) 通称 革堂 (こうどう)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17
〔宗派〕 天台宗
〔開基〕 行円上人 (ぎょうえんしょうにん)
〔創建〕 寛弘元年 (1004)
〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばざら だるま きりく そわか
〔略縁起〕 行願寺の創建は寛弘元年(1004)。 深く観音に帰依していた行円上人(ぎょうえんしょうにん)が、千手観音像を造るための用材を探していたところ、夢のお告げがあって賀茂神社の傍らの霊木を得、これに8尺の千手観音像を刻み、一条北辺堂を復興してこの千手観音像を安置して行願寺(ぎょうがんじ)と名づけた。
当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。 寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。 宝永5年(1708)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
行円上人の生没年は不詳。 九州又は比叡山の横川の出身とも云われる。 仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。 行円上人はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれた。
本堂 鎮宅霊符神堂
山門 七福神石像 鐘楼
御本尊 (秘仏) 千手観音立像
行円が賀茂神社の霊木を御衣木(みそぎ)として造立したと伝わる。 像高8尺の金色の像で、天蓋(てんがい)には1尺の鏡があったという。
現本尊は康永4年(1345)の火災後の再興像と思われる。 合掌手と宝珠手以外の脇手を、掌をびっしりと張りつけて表現していて、ほかに類例のない特異な像容である。 行円が創案したものを再興時に踏襲したとも考えられ、たいへん興味深い像である。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「革堂」
「行願寺」
〔御朱印〕 「西國十九番」
蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
「革堂」
千手観音の種子 「キリク」
花を見て いまは望みも 革堂の
庭の千草も 盛りなるらん
2012年04月23日
第18番 六角堂
西国三十三ヶ所 第18番札所 六角堂
紫雲山 (しうんざん) 頂法寺 (ちょうほうじ) 通称 六角堂 (ろっかくどう)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248
〔宗派〕 天台宗 (単立)
〔開基〕 聖徳太子
〔創建〕 用明天皇2年 (587)
〔御本尊〕 如意輪観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばらだ はん どめい うん
〔略縁起〕 用明天皇2年(587)、聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めてこの地を訪れた際、仏のお告げを夢で見られ、六角の御堂を建てて護持仏を祀ったのが寺の起源。
本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。
平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名。
この地は、聖徳太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊代々の執行によって「いけばな」が完成された。 六角堂はわが国の「いけばな発祥の地」である。
また親鸞上人が毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをされ、夢中のお告げによって浄土真宗を開かれたといわれる。
六角堂は創建以来、幾度も火災にあって焼失したがその都度再建され、現在の建物は明治10年(1877年)の建造物である。
本堂 (六角堂) 本堂 (六角堂)
へそ石 聖徳太子堂 親鸞堂
御本尊 (秘仏) 如意輪観音坐像
金銅造 像高 5.5cm
閻浮檀金(えんぶだごん)(伝説上の砂金もしくは白金)で作った1寸8分(約5.5cm)の小像だと伝えられるが、秘仏であるため詳細は不明。
現本尊は六臂の如意輪観音坐像とされているが、平安~鎌倉時代の記録には「金銅三寸」「二臂如意輪観音」との記述がある。
聖徳太子の念持仏という寺伝や、六角円堂という飛鳥時代を想起させる古い形式の仏堂に安置されていることから、この古記録にある像が、飛鳥・白鳳時代の金銅・菩薩半跏思惟像であった可能性も想像される。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「六角堂」
「頂法寺」
〔御朱印〕 「西國十八番」
堂名に因んだ六角
蓮華宝珠内に如意輪観音の種子 「キリク」
「六角堂」
如意輪観音の種子 「キリク」
わが思う 心のうちは 六の角
ただ円かれと 祈るなりけり
2012年04月16日
第17番 六波羅蜜寺
西国三十三ヶ所 第17番札所 六波羅蜜寺
補陀洛山 (ふだらくさん) 六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町81-1
〔宗派〕 真言宗智山派
〔開基〕 空也上人
〔創建〕 天暦5年 (951)
〔御本尊〕 十一面観世音菩薩
〔御真言〕 おん ろけい じんばら きりく そわか
〔略縁起〕 天暦5年(951)、醍醐天皇の第二皇子空也上人により開創された。 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、仏像を車に安置して市中を曵き回り、「皇服茶」を病者に授けた。 歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。 一堂を建ててその尊像を安置したのが当寺の起こりである。
上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。 源平時代には、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。 寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、本堂のみを残して焼失。 源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。 徳川代々将軍も朱印を加えられた。
現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。
本堂 弁財天堂
平清盛供養塔 縁結び観音像 阿古屋塚
木造 像高 258.0cm 平安時代 (951)
10世紀の彫刻は近年学界で注目されている分野だが、そのなかでも傑出した出来映えをしめす名品である。 衣文などには天平彫刻の影響もうかがえるが、藤原期の和様の仏像への橋渡しとなる像のひとつである。 大きな像だがバランスもよく、一流の仏師の手になることもうたがいない。
12年に一度、辰年だけに開扉される秘仏であるため、造立当初の姿をよく留めている。
本年は辰年、仏像ファンにとっては33札所中でももっとも期待したいご開帳のひとつである。
◎ 辰年御本尊御開帳 (平成24年11月3日~12月5日)
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」「六波羅堂」
「執事」
〔御朱印〕 「西國十七番」
蓮華宝珠の中に十一面観音の種子 「キャ」(異体字)
「六波羅堂」
寺名には「執事」の墨書。 執事とは一般に寺務を執りしきる者を指す。
納経の管理が執事長の元に行われるということであろう。
明治初期の納経帳にはこの墨書は見当たらないという。
いつ頃から使われているのもなのであろうか。
十一面観音の種子 「キャ」(異体字)

重くとも 五つの罪は よもあらじ
六波羅堂へ 参る身なれば
2012年04月11日
第16番 清水寺
西国三十三ヶ所 第16番札所 清水寺
音羽山 (おとわさん) 清水寺 (きよみずでら)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市東山区清水1-294
〔宗派〕 北法相宗 (大本山)
〔開基〕 延鎮上人 (えんちんしょうにん)
〔創建〕 宝亀9年 (778)
〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 音羽山清水寺は宝亀9年(778)、大和の子島寺の賢心(後の延鎮上人)によって開創された。 『清水寺縁起』によると、賢心は「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢をうけ、翌朝、霊夢にしたがい清泉をもとめて上がると、音羽山麓にある滝にたどり着き、そのほとりで草庵をむすび永年練行をしている行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会った。
行叡居士は賢心に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託すや否や、姿を消してしまった。 「行叡居士は観音の化身である」と悟った賢心は、以後固く遺命を守り、千手観音を刻んで草庵と観音霊地の山を守っていた。
2年後の宝亀11年(780)、坂上田村麻呂公が妻室三善高子命婦の安産のため音羽山に上り、草庵にたどり着き賢心と出会った。 坂上田村麻呂公は賢心に鹿狩りに上山した旨を話すと、観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭された。
深く感銘を受けた坂上田村麻呂公は、この賢心が説かれた清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を妻室に語り聴かせ、共々深く仏法に帰依され、仏殿(本堂)を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置して寺観をととのえた。
御本尊(秘仏)は、「清水型観音」といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしており、格別霊験あらたかで、『枕草子』や能(謠曲)「熊野」「田村」「盛久」などにも見え、昔からたいそう広く篤い崇信を集めてきた。
現在の伽藍は、徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたもので、平成6年(1994)にユネスコの世界文化遺産に登録された。
清水の舞台 (国宝) 田村堂 (重文)
西門と三重塔 (重文) 善光寺堂(洛陽十番札所) 随求堂(ずいぐどう)
地主神社 (重文) 音羽の瀧 阿弖流為・母禮の碑
一般的な千手観音像と違い、その像容は非常に特徴的で42臂のうち左右の2臂を高々と掲げて頭上で掌を合わせ、そこに化仏(阿弥陀如来)を戴く。 この瑞像の特異な姿も全国に伝播し、各地に作例が残っている。 これを「清水型千手観音」と呼び、観音像の1ジャンルを形成している。
左脇侍に毘沙門天像、右脇侍に将軍地蔵菩薩像とするところも特徴的であるが、これは坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して奉じたからという。
御本尊は、本堂最奥部内々陣の厨子内に秘仏として祀られ、厨子前に御本尊の姿を写した御前立仏を安置している。
御開帳は、御本尊が三十三身して衆生を救うという「観音経」の教えに因んで、33年毎に行われる。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲閣」
「清水寺」
〔御朱印〕 「西國十六番」
宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
「清水寺本堂印」
千手観音の種子 「キリク」
松風や 音羽の滝の 清水を
むすぶ心は 涼しかるらん
2012年04月05日
第15番 今熊野観音寺
西国三十三ヶ所 第15番札所 今熊野観音寺
新那智山 (しんなちさん) 観音寺 通称 今熊野観音寺 (いまくまのかんのんじ)
〔所在地〕 (山城國) 京都市東山区泉涌寺山内町32
〔宗派〕 言宗泉涌寺派
〔開基〕 弘法大師
〔創建〕 天長年間 (824~834)
〔御本尊〕 十一面観世音菩薩
〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
おん ろけい じんばら きりく
〔略縁起〕 創建の年代には諸説があるが、弘法大師が唐の国から帰朝後、当山において熊野権現のお告げにより一寸八分の十一面観世音菩薩像と一夥の宝印を授かった。 大師はお告げのままに一堂を建立、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め奉安された。 弘仁3年(812)、大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅旨を奉じて諸堂を造営されたのが当山の始まり。 天長年間(824~834)に開かれたとする所伝は、この造営の完成を伝えるものと考えられる。
平安末期の永暦元年(1160)には、後白河上皇がこの地に熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ、「新那智山」の山号を賜り、山麓に新熊野神社を造営された。 後白河上皇は御持病の頭痛を当山の観音さまの御夢告によって平癒されたので、爾来世の人々からも頭痛封じの観音様として、智慧授かり、学業成就、ぼけ封じなど頭に関連することにも験能があると尊崇されるようになった。
本堂 大師堂
鳥居橋 熊野権現社 鐘楼
御本尊 (秘仏) 十一面観音立像
木造 像高 68.2cm 室町時代 (1487)
現本尊は秘仏だが、調査により1寸8分の胎内仏と、像底から墨書銘がみつかり、長享元年(1487)の作とわかった。 文明2年(1470)、観音寺焼亡の後に再興された像と考えられている。
彫眼、一木造で金箔を施す。 後白河法皇の持病だった頭痛を平癒したことから、頭痛封じをはじめ智慧授かり、学業成就、ぼけ封じなど頭に関連することに験能があるとされる。
御前立の両脇侍仏は 左脇侍に不動明王(智証大師作)、右脇侍に毘沙門天(運慶作)。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「観音寺」
〔御朱印〕 「西國十五番」
宝珠の中に十一面観音の種子 「キリク」
「役者」
十一面観音の種子は「キャ」が一般的なのだが、ここでは「キリク」が使われている。
もう一つの真言「おん ろけい じんばら きりく」から用いられたのであろう。
しかし、カラー御影の十一面観音立像の光背には「キャ」が画かれている。
寺印には「役者」の角印。
お寺の説明では、「役目を負う者」という意味らしい。
観音寺が何等かの役を担っていたのであろうか。 何の役かは判らないという。
十一面観音の種子 「キリク」
昔より 立つとも知らぬ 今熊野
ほとけの誓い あらたなりけり
2012年03月31日
番外札所 元慶寺
西国三十三ヶ所 番外札所 元慶寺
華頂山 (かちょうざん) 元慶寺 (がんけいじ)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市山科区北花山河原町13
〔宗派〕 天台宗
〔開基〕 遍昭僧正
〔創建〕 貞観11年 (869)
〔御本尊〕 薬師如来
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 桓武天皇の孫にあたる遍昭僧正は仁明天皇の崩御に従い出家し、延暦寺で仏門に入り、貞観11年(869)に華山寺を創建したとされている。 その後、元慶元年(877)には清和天皇の勅願寺となり、崋山寺から元慶寺に名称を変更したと伝えられている。
応仁の乱までは寺域も広かったが、応仁の乱で寺が焼失してから、現在みられるような小さい規模の寺になったといわれている。
寛和2年(986)、花山天皇が19歳で出家し法皇となったのが、この元慶寺である。 花山法皇は廃れかけていた西国霊場を復活させた人で、西国霊場中興の祖として知られている。
開基の遍照僧正は六歌仙の一人として知られており、
天津 風雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ
は百人一首のなかでも特に有名である。
平安時代中期の第65代天皇。 安和元年(968)~ 寛弘5年(1008)。 冷泉天皇の第一皇子。 母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。 三条天皇の異母兄。
安和2年(969)、叔父円融天皇の即位と共に生後10ヶ月で皇太子になり、永観2年(984)、同帝の譲位を受けて17歳で即位した。 2年後、藤原兼家・道兼父子の策略により、元慶寺(花山寺)において剃髪して仏門に入り退位した。
出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤めたという。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。 この巡礼の後、晩年は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山で隠棲生活を送ったとされる。 退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」「花山法皇」
「元慶寺」
〔御朱印〕 「西國三十三所観音霊場巡禮開祖」
十六菊紋の菊心に「元」 蓮華宝珠の中に薬師三尊の種子
中央上に薬師如来の種子「バイ」
右下に日光菩薩の種子「ア」 左下に月光菩薩の種子「シャ」
「華頂山元慶寺之印」
御本尊は薬師三尊形式で安置されている。
薬師三尊は、仏像安置形式の一つで、
薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩を右脇侍として配置する三尊形式である。
月光菩薩「シャ」 薬師如来「バイ」 日光菩薩「ア」

待てといわば いとも畏し 花山に
しばしと啼かん 鳥の音もがな
2012年03月26日
第14番 三井寺
西国三十三ヶ所 第14番札所 三井寺
長等山 (ながらさん) 園城寺 (おんじょうじ) 通称 三井寺 (みいでら)
〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市園城寺町246
〔宗派〕 天台寺門宗 (総本山)
〔開基〕 大友与多王 (おおとものよたのおおきみ)
〔創建〕 朱鳥元年 (686)
〔本尊〕 如意輪観世音菩薩
〔真言〕 おん はんどま しんだまに じばら うん
〔略縁起〕 壬申の乱(672)で敗れた大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、皇子の大友与多王が寺を建立。 朱鳥元年(686)、天武天皇から「園城(おんじょう)」の勅額を賜ったのが創始と伝えられている。 貞観年間(859~877)に智証大師円珍が延暦寺の別院として復興し、東大寺・興福寺・延暦寺と共に本朝四箇大寺の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。
俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来する。 長い歴史の上で、園城寺は再三の兵火にあい焼失するが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えている。
西国三十三観音霊場第14番札所の観音堂は境内南の高台にあり、元禄2年(1689)の再建。 本尊の如意輪観音坐像(重文)は33年ごとに開扉される秘仏である。
金堂 (国宝) 観音堂 (西国観音霊場)
水観寺(西国薬師霊場) 唐院大師堂(重文) 微妙寺(湖国観音霊場)
三井の晩鐘(近江八景) 観月舞台 熊野権現社
木造 像高 91.6cm 11世紀
伝説ではこの如意輪観音像は智証大師が感得し、栴檀香木に自刻したという。 智証大師が唐より請来した像だともいう。 慶祚もしくは聖豪の造立とする記録もあるが、詳細は不明である。 一面六臂の如意輪観音坐像で、寄木造、彫眼、漆箔像であり、11世紀の造像と思われる。 寄木造の木寄せは本躰部正中線で左右を矧ぎ、膝前は横材を矧ぎ、頭部は別材で造り、柄で本躰部に深く差し込み、左右の六臂は肩先で矧ぎつけている。 円みのある顔を右に傾け、右手一手の指の甲を頬に当て、右膝を立てる姿は優美で端正である。 頭を飾る大きな透かし彫りの宝冠や瓔珞は後世のもので、流麗な本像には荷が勝ちすぎるようにも思われる。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「三井寺」
〔御朱印〕 「西國十四番」
蓮華下に「三井寺」
宝珠の中に如意輪観音の種子「キリク」
「長等山三井寺」
如意輪観音の種子 「キリク」
いで入るや 波間の月を 三井寺の
鐘のひびきに あくる湖
2012年03月21日
第13番 石山寺
西国三十三ヶ所 第13番札所 石山寺
石光山 (せっこうざん) 石山寺 (いしやまでら)
〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1
〔宗派〕 東寺真言宗
〔開基〕 良弁僧正
〔創建〕 天平勝宝元年 (749)
〔本尊〕 勅封二臂如意輪観世音菩薩
〔真言〕 おん はらだ はんど めい うん
〔略縁起〕 石山寺の創立は、千二百余年の昔、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた。 奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めた。 その後も、源頼朝、足利尊氏、淀殿などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えない。
本尊は縁結・安産・福徳の霊験あらたかな秘仏如意輪観音菩薩。 三万六千坪におよぶ広大な境内には、日本唯一の巨大な天然記念物、世界的にも珍しい硅灰石がそびえる。
また、国宝の本堂には紫式部が世界最初の長編小説『源氏物語』を執筆した「源氏の間」があり、国宝の多宝塔、重要文化財の東大門、鐘桜など、奈良、平安、鎌倉時代からの文化財が多数伝えられている。
本堂 (国宝) 東大門 (重文)
蓮如堂 (重文) 多宝塔 (国宝) 御影堂 (重文)

経蔵 (重文) 鐘楼 (重文) 三十八所権現社 (重文)
木造 像高 301.2cm 平安時代
石山寺創建当時の本尊は塑像で岩盤上に直接坐していたが、平安時代に木造に改められた。 秘仏で33年に一度しか開扉されないため保存状態はよく、着衣には截金(きりかね)の文様がよく残る。 丈六の巨像ながら定朝様の優美で端正な傑作である。
平成14年(2002)の調査で、胎内から4体の仏像が発見された。
◎ 本尊胎内仏 -重文-
平成14年(2002)、本尊の開扉に合わせて行われた調査で、本尊の胎内から4体の胎内仏や水晶製の五輪塔が発見された。 胎内仏は飛鳥~天平期の古像で、なかでも最古の如来立像には焼けた痕跡がある。 『石山寺縁起絵巻』に本堂が焼失したときに本尊は火中から飛び出したという記述があり、この像との関係が注目されよう。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大伽藍」
「石山寺」
〔御朱印〕 「西國十三番」
蓮華下に「石山寺」
宝珠の中に御本尊の種子「タラク」
「石山寺之印」
石山寺では御本尊如意輪観音の種子に「タラク」が使われている。
如意輪観音の種子は本来「キリク」なのだが、どうしてだろう?
第1番青岸渡寺や第7番岡寺では「キリク」が使われていた。
「タラク」は虚空蔵菩薩の種子なのだが。
お寺の説明では、「昔から使われているので、その理由はわからない」とのこと。
如意輪観音の種子 「タラク」
後の世を 願うこころは かろくとも
ほとけの誓い おもき石山
2012年03月16日
第12番 岩間寺
西国三十三ヶ所 第12番札所 岩間山 正法寺
岩間山 (いわまさん) 正法寺 (しょうほうじ) 通称 岩間寺 (いわまでら)
〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市石山内畑町82
〔宗派〕 真言宗
〔開基〕 泰澄大師
〔創建〕 養老6年 (722)
〔御本尊〕 千手観世音菩薩
〔真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 加賀の白山をも開いた泰澄大師が元正天皇の三十三歳の大厄の病を法力により治したことにより、養老六年(722年)、天皇の勅願として建立された。 泰澄大師が岩間山を訪れた折、山中の桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその体内に納め祀った。
ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむひとびとを悉く救済し、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりになられているので、そのお姿から「汗かき観音」と呼ばれている。 また、泰澄大師が当地に伽藍建立の際、法力で雷を封じ込め、雷を弟子にし、参詣の善男善女には、雷の災いを及ぼさないことを約束させた。 これが「雷除け観音」とよばれる由縁で、毎年四月十七日には、雷除け法要(雷神祭)が奉修され、多くの参詣者で賑わう。 また、当地は開山当初より水の乏しい所であったため、雷は自らの爪で井戸を掘ったという。 「雷神爪堀湧泉」と呼ばれる岩間の霊泉には元正天皇御製の、
わきいづる 岩間の水は いつまでも つきせぬ法の み仏の影
という歌が伝えられている。
また、『観音霊験記』によると、江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、岩間寺に参籠してご本尊の霊験を得、その俳風を確立したと言われる。 本堂横手には芭蕉が
古池や 蛙とびこむ 水のおと
を詠んだと伝えられている「芭蕉の池」が残っている。
本堂 芭蕉の池
大師堂 不動堂 稲妻龍王社
御本尊 (秘仏) 千手観音立像
金銅造 像高 14.5cm 奈良時代
秘仏である本尊は、女帝・元正天皇の御念持仏で、御丈四寸八分(約15cm)の三国伝来エンブダゴン(印度エンブ川より採れる砂金)金銅仏千手観音立像で、「汗かき観音」 「雷除け観音」 「厄除け観音」として名高い。
御前立とはずいぶん雰囲気の異なる小像で、柔和な童子ような表情をしており、千手観音の金銅仏としてほかに類例がない。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
梵字「キリク」 「大悲殿」
「岩間寺」
〔御朱印〕 「西國第十二番」
蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
「近江國岩間寺」
千手観音の種子 「キリク」
水上は いづくなるらん 岩間寺
岸打つ波は 松風の音
2012年03月12日
第11番 准胝堂
西国三十三ヶ所 第11番札所 上醍醐 准胝堂
深雪山 (みゆきさん) 上醍醐 (かみだいご) 准胝堂 (じゅんていどう)
〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1
〔宗派〕 真言宗醍醐派 (総本山)
〔開基〕 聖宝理源大師
〔創建〕 貞観16年 (874)
〔本尊〕 准胝観世音菩薩
〔真言〕 おん しゃれい それい そんでい そわか
〔略縁起〕 准胝堂は平成20年8月24日未明、落雷による火災により惜しくも焼失した。 現在、復興作業中で、准胝観音菩薩のご開帳、西国札所の納経は下醍醐の金堂で行われている。
貞観16年(874)、聖宝理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神の示現によって霊泉(醍醐水)を得た。 小さな堂宇を建立し、准胝観音像・如意輪観音像を安置したのに始まる。 その後、醍醐天皇の御願によって、延喜7年(907)に薬師堂が建立され、また五大堂が落成されて上醍醐の伽藍が完成した。 つづいて下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。 応仁の乱で多くの堂を焼失したが、慶長3年(1598)の春に行われた醍醐の花見で知られる豊臣秀吉により復興された。
醍醐寺は山上を上醍醐、麓を下醍醐と呼び、合わせて九十余りの堂塔が配置されている。 寺名の由来ともなった准胝堂の近くにある「醍醐水」は、寺の創建から、千年余り経た今も清水が湧き出る霊泉である。
金堂 五重塔
清瀧宮 仁王門 鐘楼
御本尊 (秘仏) 准胝観音坐像
木造 像高 31.5cm 寛政10年 (1798)
33の札所中、准胝観音を本尊とするのは唯一この上醍醐だけである。 一面三眼十八臂の坐像で、准胝観音像として正統な姿をとっている。 右手は説法印・施無畏印・剣・数珠・子満果・鉞斧・鉤・金剛杵・宝鬘を、左手には如意宝珠・蓮華・澡灌・索・輪・螺・賢瓶・経篋を持つ。
准胝観音は「准胝仏母尊」ともいわれ、清浄な心、母の慈愛をあらわす観音とされる。 醍醐天皇がこの観音に願をかけ、2皇子を授かったことから、子授け、安産、子育てにご利益のある観音さまとして、いまも多くの信仰を集めている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「根本准胝尊」
「醍醐寺」
〔御朱印〕 「西國第十一番」
蓮華内に「醍醐寺」
宝珠の中に准胝観音の種子「ボ」
「上醍醐寺」
准胝観音の種子 「ボ」

逆縁も もらさで救う 願なれば
准胝堂は たのもしきかな
2012年03月05日
第10番 三室戸寺
西国三十三ヶ所 第10番札所 三室戸寺
明星山 (みょうじょうざん) 三室戸寺 (みむろとじ)
〔所在地〕 (山城國) 京都府宇治市莵道滋賀谷21
〔宗派〕 本山修験宗
〔開基〕 行表和尚 (ぎょうひょうおしょう)
〔創建〕 宝亀元年 (770)
〔御本尊〕 千手観世音菩薩
〔真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 光仁天皇が行幸した際、霊感を感じたので藤原犬養に命じ周辺を探させたところ、宇治川の支流である志津川上流の岩淵で黄金の千手観世音菩薩像を発見したと伝えられている。 宝亀元年(770)、天皇の勅願により、この仏像を安置するため、御室の一部を移し、奈良大安寺の行表和尚を招き、御室戸寺としたのが寺の起源とされている。 以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わった。
後に御室戸寺は三室戸寺に改称された。 創建時は仏像が発見された場所の近くの山中に寺があったとされているが、度重なる火災に遭い、15世紀に現在の場所に移されたという。 現在の本堂は文化二年(1805)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔がある。 宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されている。
本堂 (江戸時代・府文化財) 鐘楼と三重塔 (共に江戸時代・府文化財)
十八神社 (重要文化財) 山門 阿弥陀堂 (府文化財)
御本尊 (秘仏) 千手観世音菩薩像
本尊の千手観音像は厳重な秘仏で、写真も公表されていない。 1尺2寸という言い伝えどおりなら、わずか36cmの小像である。 創建の由来や時期、あるいは江戸時代の木版刷りのお札の姿から判断して、飛鳥時代に多く造られた金銅仏かと思われる。
秘仏本尊を模して造られたお前立ち像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。 天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。 こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観音像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「三室戸寺」
〔御朱印〕 「西國第十番」
蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
「三室戸寺」
千手観音の種子 「キリク」
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば
宇治の川瀬に 立つは白波
2012年02月28日
第9番 南円堂
西国三十三ヶ所 第9番札所 興福寺 南円堂
興福寺 (こうふくじ) 南円堂 (なんえんどう)
〔所在地〕 (大和國) 奈良県奈良市登大路町48
〔宗派〕 法相宗大本山
〔開基〕 藤原冬嗣
〔創建〕 弘仁4年 (813)
〔御本尊〕 不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんざくかんぜおんぼさつ)
〔真言〕 おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろ そろ そわか
〔略縁起〕 興福寺は、天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。 その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。 平城遷都に伴い、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。 その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。
南円堂は弘仁4年(813)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。 基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。 また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。
不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。 その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。 創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。 江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。
南円堂
東金堂 五重塔
木造 像高341.5cm 鎌倉時代 (1189)
力感に富み、生命力がみなぎるこの像は運慶の父で南都仏師の棟梁だった康慶の傑作。 平氏による南都焼き討ちで興福寺は壊滅的ば打撃を受けたが、藤原氏の氏寺である興福寺は国家的なプロジェクトとして復興され、これが慶派仏師の大躍進の契機となった。
不空羂索観音は三目八臂の姿で、左手に持った羂索(投げ縄)で衆生を絡めとり、救いへと導くとされる。 藤原氏は伝統的に不空羂索観音への崇敬の念が強かったとされ、南円堂だけでなく東大寺三月堂の本尊など藤原氏にゆかりのある像が多い。
秘仏だが、毎年10月17日の大般若経転読会の時に特別開扉される。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「南圓堂」
「興福寺」
〔御朱印〕 「西國第九番」
「上り藤紋」の中に不空羂索観音の種子「モー」
「興福寺南圓堂」
興福寺は藤原氏の氏寺であった。 宝印に藤原氏の家紋が用いられている。
火焔宝珠に見立てた「上り藤」が使われているところが面白い。
不空羂索観音の種子 「モー」

春の日は 南円堂に かがやきて
三笠の山に 晴るるうす雲
2012年02月21日
番外札所 法起院
西国三十三ヶ所 番外札所 法起院
豊山 (ぶさん) 法起院 (ほうきいん) 開山堂 (かいざんどう)
〔所在地〕 (大和國) 奈良県桜井市初瀬776
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔開基〕 徳道上人 (とくどうしょうにん)
〔創建〕 天平7年 (735)
〔御本尊〕 徳道上人像
〔御宝号〕 南無徳道上人 (なむとくどうしょうにん)
〔略縁起〕 法起院(ほうきいん)は奈良県桜井市に所在する長谷寺の塔頭寺院である。 宗派は真言宗豊山派。 本尊は徳道上人。 西国三十三ヶ所番外札所である。
寺伝によれば奈良時代の天平7年(735)に西国三十三箇所を創始したと伝えられている徳道上人がこの地で隠棲した事に始まるとされる。 徳道上人は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われる。 当院の名称はそれに由来する。
江戸時代前期の元禄8年(1695)、長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。 徳道上人像を安置し、境内には上人御廟の十三重石塔や、触れると願いが叶うという上人沓脱ぎ石などがある。
本堂 (開山堂) 上人御廟十三重石塔 上人沓脱ぎ石
多羅葉樹(葉書きの木) 末広稲荷大明神 馬頭観音堂
御本尊 徳道上人坐像 上人御自作 (寺伝)
養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられてこの世に戻された。 上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しになり、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。
当法起院は上人が晩年隠棲されたところで、本尊は上人ご自作と伝えられる上人本尊を奉安しています。
香煙でくすぶった茶褐色のお顔に、上人のお姿をご想像ください。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「開山堂」
「法起院」
〔御朱印〕 「西國三十三靈場開基徳道上人」
「一番始め」という意味で、丸に梵字の 「ア」
「大和國長谷寺開山坊」
御本尊は徳道上人像であるから、「ア」字は徳道上人の種子と思ったのだが、これは違った。
納経所の説明では、「ア」字は「一番始め」という意味で用いられている。
長谷寺及び西国三十三観音霊場の「開基」という意味であろう。
「ア」字は梵字の基本字である。 弘法大師が著した『梵字悉曇字母并釈義』には、最初に「ア」字の発音・特性・字義などが説かれる。 「阿、音は阿。 訓は無・不・非なり。 阿字は是れ一切法教の本なり。 凡そ最初に口を開く音は皆阿の声あり。 若し阿の声を離れては則ち一切の言説なし。 故に衆声の母として又衆字の根本となす。 一切諸法本不生の義なり。 内外の諸教皆此の字より出生す。」とある。
梵字 「ア」
極楽は よそにはあらじ わが心
おなじ蓮の へだてやはある
2012年02月15日
第8番 長谷寺
西国三十三ヶ所 第8番札所 長谷寺
豊山 (ぶさん) 長谷寺 (はせでら)
〔所在地〕 (大和國) 奈良県桜井市初瀬731-1
〔宗派〕 真言宗豊山派 (総本山)
〔開基〕 徳道上人 (とくどうしょうにん)
〔創建〕 朱鳥元年 (686)
〔御本尊〕 十一面観世音菩薩
〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
本堂 (国宝)
〔略縁起〕 長谷寺の起源は天武天皇の朱鳥元年(686)に遡る。 寺所蔵の国宝「銅版法華説相図」の銘文に、その年、道明上人が飛鳥浄御原の天皇の病気平癒を祈ってこの銅板を造らせたとある。 方形の銅版の中央に多宝塔、周囲に三尊仏、七尊物、千仏などを浮き彫りにしたレリーフは、白鳳美術の名品である。
その後、神亀4年(727)に西国三十三所の創始者、徳道上人(とくどうしょうにん)が十一面観音菩薩像を安置し、観音霊場として多くの人々から篤く信仰されるようになった。
『源氏物語』・『枕草子』・『今昔物語集』など平安文学に「初瀬詣で」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで賑わった様子が描かれている。
伽藍は斜面に広がり、仁王門を入ると長い登廊が山腹の本堂へ通じている。 屋根付きの回廊形式で長さ200m、399段。 天井からは長谷型灯籠が下がって風情もひとしお。 本堂の正堂(内陣)は間口九間、奥行き五間。その前に礼堂を設け、表は広々とした舞台造り。 木造建築物としては東大寺大仏殿、吉野山蔵王堂に次ぐ規模という。慶安3年(1650)に徳川家光が再建したもので国宝。
愛染堂 一切経堂 三部権現社
登廊 五重塔 普門院不動堂
木造 像高1018cm 天文7年(1538)
木像としては日本最大級の巨像である。 蓮華座ではなく盤石に立ち、観音を象徴する蓮華の入った水瓶を左手に、地蔵菩薩の持物、錫杖を右手にし、観音と地蔵の徳を併せ持つとされる。 長谷観音がきわめて篤く信仰されたため、この特異な観音像は全国的に広まり、「長谷寺式観音」という仏像の1ジャンルを形成している。
この観音像は、神亀4年(727)に徳道上人によって造立されたが、平安時代に火災によって焼失し、以後7度も再興と焼失をくり返し、現在の像は8代目である。 4度目の再興を快慶が手がけており、現在の安定感のある穏やかな姿も、どこか快慶の作風を受け継いでいるようにも感じられる。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲閣」
「長谷寺」
〔御朱印〕 「西國第八番」
蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
「長谷寺本堂印」
十一面観音の種子 「キャ」

いくたびも 参る心は はつせ寺
山も誓ひも 深き谷川
2012年02月07日
第7番 岡寺
西国三十三ヶ所 第7番札所 龍蓋寺
東光山 (とうこうざん) 龍蓋寺(りゅうがいじ) 通称 岡寺 (おかでら)
〔所在地〕 (大和國) 奈良県高市郡明日香村岡806
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔開基〕 義淵僧正 (ぎえんそうじょう)
〔創建〕 天智天皇2年 (663)
〔御本尊〕 二臂如意輪観世音菩薩
〔真言〕 おん はんどめい しんだまに じんばら うん
〔略縁起〕 日本最初の厄除け霊場岡寺は飛鳥の東、山の中腹にある。
創建は天智天皇2年(663)。 法相宗の祖ともいわれる義淵僧正が草壁皇子の亡き後、住まいであった岡宮をもらいうけ、寺を建立したのが始まりと伝えられている。 義淵僧正は良弁、行基など多くの名僧の師であり、竜門寺、道明寺などの寺も建立した。 その義淵僧正の出生は謎である。 寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。 観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇(天武?)が引き取り、岡の宮で養育されたと云う。
龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。 この地に大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍を義淵僧正がその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。 その時の池が本堂前にある龍蓋池である。
古来より「やくよけの観音様」として人々の信仰が厚く、鎌倉時代の『水鏡』にも、二月初午の日には必ず岡寺に参詣したと記録されている。
桜門 (仁王門) -重文- 本堂
開山堂 龍蓋池 十三重石塔
御本尊 如意輪観音坐像 -重文-
塑像 像高 458cm 奈良時代 (8世紀)古くから厄除け観音として信仰を集めてきた。 奈良時代の作で、高さ4.58mの塑像は日本最大の土佛である。 重文に指定されており、弘法大師がインド、中国、日本と三国の土を合わせて造ったという壮大な寺伝がある。
塑像は大きくなりすぎると自重で崩壊してしまうので、この像の大きさが限界に近いであろう。 密教移入後の如意輪観音は六臂の像が多くなるが、この古像は二臂像で右手を施無畏(せむい)印、左手を与願(よがん)印とする。 頭部は制作当時の状態がよく残り、奈良時代の仏らしく威厳に満ちた面貌であるが、体部については後世にかなり補修が施されている。 とくに細部は制作当初の半跏(はんか)から現在では結跏趺坐(けっかふざ)に改められている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「厄除大悲殿」
「岡寺」
〔御朱印〕 「西國第七番」
蓮華宝珠の中に如意輪観音の種子「キリク」
昇り龍と下り龍の間に「龍蓋寺」
第6番壺阪寺と同じく、宝印に特殊な「キリク」字が用いられている。
一般的なキリク字とは違い「イー点」が上につく。
お寺の説明では、古くから使われており、その由来は判らないと云う。
如意輪観音の種子「キリク」

けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔
さながら瑠璃の 光なりけり
2012年02月02日
第6番 壺阪寺
西国三十三ヶ所 第6番札所 南法華寺
壺阪山 (つぼさかさん) 南法華寺 (みなみほっけじ) 通称 壺阪寺
〔所在地〕 (大和國) 奈良県高市郡高取町壷阪3番地
〔宗派〕 真言宗
〔開基〕 弁基上人 (べんきしょうにん)
〔創建〕 大宝3年 (703)
〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩
〔真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 大宝三年(703)、元興寺の弁基上人がこの山で修行中、愛用の水晶の壺中に観世音菩薩を感得。 壺を坂の上の庵に納め、観音像を刻んで祀ったのが始まりという。 養老元年(717)、元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。 平安時代には清和天皇、藤原道長ら貴顕の参詣が相次ぎ、霊験の山寺として、また真言密教の一大道場として繁栄した。 『枕草子』には「寺は壺阪。笠置。法輪」と名を挙げられており、その隆盛ぶりがうかがえる。
礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。 胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。 殊に眼病に霊験あらたかな観音様である。
明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃『壺阪霊験記』は、壺阪寺に伝わる観音霊験譚を下敷きに書かれたもの。 こうした物語が伝えられるほど、壺阪寺の観音様は目の観音様として広く信仰を集めてきた。
また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。
禮堂 (重文) 八角円堂 (本堂)
三重塔 (重文) 山門 (仁王門) 多宝塔

お里・澤市像 大釈迦如来石像と三尊像 大涅槃石像と大観音石像
御本尊 十一面千手観音坐像
木造 像高240cm 室町時代
室町時代に再興された丈六の巨像。 素地仕上げで頭髪のみ彩色する様式は平安時代初期の壇像を思わせ、ふくよかで威厳のある面貌もどこか平安彫刻を感じさせる。
日本における千手観音信仰は奈良時代後半に始まったとといわれ、第5番札所葛井寺の千手観音像が現存最古の千手尊とされている。 しかし、壺阪寺の創建時期が白鳳時代に遡ることはまちがいなく、創建当初から千手坐像を本尊としていた可能性を全面的に否定することはできない。 千手観音信仰の成立時期をめぐる議論に一石を投じる可能性もある魅力的な本尊である。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「普照殿」
「壺阪寺」
〔御朱印〕 「西國第六番」
蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
「壺阪山南法華寺」
宝印に特殊な「キリク」字が用いられている。
一般的なキリク字 とは違い「イー点」が上につく。
お寺の説明では、伝統的に使われており、その起源は定かではないと云う。
千手観音の種子「キリク」

岩をたて 水をたたえて 壺阪の
庭にいさごも 浄土なるらん
2012年01月27日
第5番 葛井寺
西国三十三ヶ所 第5番札所 葛井寺
紫雲山 (しうんざん) 葛井寺 (ふじいでら)
〔所在地〕 (河内國) 大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16-21
〔宗派〕 真言宗御室派
〔開基〕 行基菩薩
〔創建〕 神亀2年 (725)
〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩
〔真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、葛井寺も百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。
永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による2km四方の七堂伽藍の建立で、当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。 古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
その聖武天皇が春日仏師、稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。 秘仏。毎月十八日に開扉、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。
南大門 本堂
大師堂 護摩堂 阿弥陀堂
御本尊 (秘仏) 千手観音坐像 -国宝-
脱活乾漆造 像高131.3cm 奈良時代 (8世紀)大小1041本の手をそなえる圧倒的な姿。 胸前で合掌する両手以外の手は、背後に立てられた2本の支柱にとりつけられている。 麻布を貼り重ね、漆で表面を成形する脱活乾漆という手間のかかる技法で造られ、その精妙な造形によって穏やかに理知的な表情を写実的に表現している。 誇張のない体躯は、比例がよく整っていて堂々としており、お顔とよく調和している。 衣紋の隆起は高く、写実的な手法が一貫しており、天平時代の円熟しきった技巧手法が発揮された傑作である。
大阪府下で唯一の天平時代の作品というにとどまらず、日本彫刻史上、奈良の唐招提寺の乾漆立像と双璧と讚えられる乾漆像の傑作として、昭和13年に国宝に指定された。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「葛井寺」
〔御朱印〕 「西國第五番」
蓮華台に「葛井寺」
宝珠の中に手千観音の種子「キリク」
「葛井寺納経所」
千手観音の種子「キリク」
参るより 頼みをかくる 葛井寺
花のうてなに 紫の雲
