2012年07月22日

御礼参り 善光寺

御礼参り   元善光寺  北向観音  善光寺



元善光寺




定額山 (じょうがくさん)  元善光寺 (もとぜんこうじ)     旧 坐光寺 (ざこうじ)

〔所在地〕 長野県飯田市座光寺2638

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 本多善光

〔創建〕 推古天皇10年(602) 

〔御本尊〕 一光三尊阿弥陀如来像 (善光寺如来)

〔御真言〕 おん あみりた ていせいから うん

〔略縁起〕 推古天皇十年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊の御本尊様をおむかえしたのが元善光寺の起元で、その後皇極天皇元年にその御本尊様は現在の長野市へ遷座され、できたお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました。 それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりましたが、仏勅によって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰りきて衆生を化益せん」というご誓願を残されたとのことで、長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りと昔から云われるゆえんであります。     -『元善光寺公式サイト』から-


     一度詣れよ 元善光寺  善光寺だけでは 片詣り




北向観音




北向山  照明院  常楽寺  観音堂        通称 北向観音

〔所在地〕 長野県上田市別所温泉1666

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 円仁 (慈覚大師)

〔創建〕 天長2年 (825)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら だるま きりく

〔略縁起〕 北向観音の創建は天長2年(825)、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。 それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷した所、紫雲が立ち金色の光とともに観世音菩薩が現れ大地を清浄化した。 大師はこの観世音菩薩を模った木像を刻み、小堂に祀ったのが始まりと伝えられる。
 北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。 これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。
 また、南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。



薬師堂 (瑠璃殿)
 観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれる文化6年(1809)に再建された建物。
 入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。



愛染かつら
 境内にある愛染桂は樹齢1200年といわれている大木で、樹高22m、幹周5.5m、枝張14m。(上田市指定天然記念物)
 愛染桂は北向厄除観音の霊木としてあがめられ、伝説によると天長2年の大火の際、どこからともなく現れた千手観音がこのカツラの樹の上で避難民を救ったといわれている。 霊木の傍らに建つ愛染堂の本尊、愛染明王の愛とこの桂を結んで「愛染かつら」の名で親しまれている。
 小説・映画の『愛染かつら』の作者川口松太郎は北向観音の信者であった。




観音の  いらか見やりつ  花の雲          芭蕉

観音の この大前に奉る 絵馬は信濃の 春風の駒     北原白秋





善光寺




定額山 (じょうがくさん)  善光寺 (ぜんこうじ)

〔所在地〕 長野県長野市元善町491

〔宗派〕 無宗派

〔開基〕 皇極天皇 (勅願)

〔創建〕 皇極天皇3年 (644)

〔御本尊〕 善光寺式阿弥陀三尊像 (一光三尊阿弥陀如来像)

〔御真言〕 おん あみりた ていせいから うん

〔由緒縁起〕 善光寺は、無宗派の単立寺院である。 山号は「定額山」(じょうがくさん)。 山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。 「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。 「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺で、住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。 現在の「大本願上人」は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。 善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
 日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。 また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女人救済の寺院である。
 本堂の中の「瑠璃壇」には、百済渡来の絶対秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に安置されると伝えられている。 本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない絶対秘仏である。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかり、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができる。 開帳では前立本尊が代わりに公開される。
 また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。


善光寺本堂  -国宝-


善光寺本堂  -国宝-
 善光寺の本堂は、皇極天皇元年(642)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は  宝永四年(1707年)の再建です。 間口は約24メートル、奥行は約54メートル、高さは約26メートルあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として、昭和28年に国宝に指定されています。
 本尊を祀る仏堂に、参拝者のための礼堂が繋がった特殊な形をしており、棟の形が鐘を撞くT字型の道具・撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれます。 国宝建造物の中では東日本最大、檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物です。
 床下には約45メートルの暗闇の回廊があり、秘仏のご本尊・善光寺如来さまと結縁する「お戒壇めぐり」をすることができます。                              -境内案内板-


  大勧進  大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねている。 貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕される。 大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物殿・僧侶が修行をする聖天堂などがある。 また、奥書院は明治天皇御巡幸以来、大正天皇、昭和天皇両陛下の御駐泊により、昭和八年に行在所に指定された。


 大本願  大本願の創建以来、尼公上人をもって住職とし、代々皇室関係の方々が入山されている。 近世において、尼僧では伊勢・慶光院、熱田・誓願寺とともに日本三上人といわれていたが、今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されている。 大勧進の貫主と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕される。  大本願には、本誓殿・奥書殿・明照殿・表書院・光明閣・寿光殿・宝物館などがある。


仁王門
 仁王門は宝暦2年(1752)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在のものは大正7年(1918)に再建されたもの。
 この門には善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられている。
 仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作であり、その原型は善光寺史料館に展示されている。


山門 (三門) -重要文化財-
 寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門。 屋根は大正年間の檜皮葺きから、平成大修理で、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原された。  楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられる。 通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されている。 更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語っている。


延命地蔵尊  如来堂跡
 仲見世通り中央西側に「如来堂旧地」という石碑がある。 この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所であり、延命地蔵尊は現本堂落成から5年後の正徳5年(1712)に造立された。
 当時の地蔵尊はその後の災害や供出により現存しないが、現在は昭和二十四年に復興された地蔵尊が安置されている。





釈迦堂  釈迦涅槃像 -重要文化財-
 世尊院の小御堂である釈迦堂の御本尊は、鎌倉時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.66メートル)の銅造釈迦涅槃像である。
 戦国時代には善光寺の御本尊・御三卿像・御印文と共に全国を流転した。




ぬれ仏 (延命地蔵)
 享保7年(1722)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊。
 江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。





六地蔵
 宝暦9年(1759)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、昭和19年に金物供出に出された。 現在の六地蔵は昭和29年に再興されたもの。
 六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界で我々衆生を救ってくださる菩薩様である。





駒返り橋
 仲見世通りが終わり、三門へ進む参道の入り口にある石橋は、建久8年(1197)、源頼朝が善光寺を参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話から「駒返り橋」と呼ばれている。
 その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができる。



経蔵 -重要文化財-
 宝暦9年(1759)に建立された宝形造りのお堂。
 内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められている。 輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれる。 経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られている。 現在、建物老朽化に伴う検査のため、内部参拝を停止している。


鐘楼  梵鐘 -重要美術品-
 嘉永6年(1853)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられている。
 梵鐘は寛文7年(1667)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されている。 毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれている。



日本忠霊殿 善光寺史料館
 戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟。 御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏で、高村光雲門下の関野聖雲の作。
 1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができる。




御本尊  善光寺式阿弥陀三尊像  (一光三尊阿弥陀如来像)

 善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。 中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。 しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。
 『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。 その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています。
 御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれております。 人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。 奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。 このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。
 善光寺の御本尊様の印相は特徴的であるといわれております。 中央、阿弥陀仏の印相は、右手は手のひらを開き我々の方に向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印です。 これは法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相です。 左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相をしています。 その掌の中には真珠の薬箱があるといわれています。 また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っておられます。 このような特徴を全て備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称、善光寺式阿弥陀三尊像といっております。
                                         -『善光寺公式サイト』から-



阿弥陀三尊の種子

         勢至菩薩「サク」     阿弥陀如来「キリク」      観音菩薩「サ」






        身はここに  心は信濃の  善光寺
                         導きたまへ  弥陀の浄土へ


  

Posted by 閑人 at 20:27Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年07月18日

第33番 谷汲山


西国三十三ヶ所 第33番札所 華厳寺




谷汲山 (たにぐみさん)   華厳寺 (けごんじ)      通称 谷汲さん

〔所在地〕 (美濃國) 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 豊然上人(ぶねんしょうにん)・大口大領(おおぐちだいりょう)

〔創建〕 延暦17年 (798)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 谷汲山華厳寺は西国三十三ヶ所の満願・結願の寺。 西国札所の中で最も東の美濃国(岐阜県)に位置し、「谷汲さん」の名でも親しまれている。 
 寺の創建は延暦17年(798)、開祖は豊然上人(ぶねんしょうにん)、本願は大口大領(おおぐちだいりょう)と伝わる。 奥州会津の大口大領は熱心な観音信者で、十一面観音の尊像を建立したいと発願した。 榎の霊木で造った観音像を京の都から故郷へ持ち帰る途中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、持戒堅固な豊上人という聖と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置した。 すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、この谷間の油を汲んで仏前の燈明とした。
 この奇瑞を聞き及んだ醍醐天皇は延喜17年(917)、谷から湧き出る油を燈明に用いたのに因んで「谷汲山」の山号、御尊像に華厳経が書写されている事に因んで「華厳寺」の扁額を下賜せられた。 天慶7年(944)に朱雀天皇の勅願寺となり、西国巡礼中興の祖とされる花山法皇が巡錫、当山を第三十三番札所の満願所と定められた。
 以後、鎌倉末期から応仁の乱まで二度の兵燹に遭い衰退するも、文明11年(1479)、薩摩国の慈眼寺住職道破拾穀上人(どうはじっこくしょうにん)が本堂及び諸堂を再興した。 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治12年(1879)現在のお堂が再建された。
 谷汲山華厳寺は西国三十三番の満願霊場として、花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌に因んで三つの御宝印がある。 三つの御宝印は本堂(観音堂)・満願堂・笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされる 。


              本堂                           仁王門












        満願堂                笈摺堂                山門



   明王院(豊川稲荷)        精進落としの鯉(吽・阿)          王子神社





     御本尊 (秘仏)       十一面観音立像

 御本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず詳細は不明である。
 『阿娑縛抄(あさばしょう)諸寺略記』によれば皆金色、7尺5寸の像という。 一方、『谷汲山華厳寺古今記』に「当寺本尊作者異説事」という記事があり、これによると本尊は文殊大士の作で、榎の一木造。 像身に六十華厳経を書し、衣には三千仏、袈裟には諸尊の三昧耶形を描き、胸間に十一面観音を納めるという。
 かなり特異な姿の像であることが想像される。



 納経帳


     本堂(観音堂)               満願堂                笈摺堂



本堂(観音堂)
 〔御墨書〕   「谷汲山」   「大悲殿」   「華厳寺」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番霊場」
          蓮華台に「谷汲山」   火焔光背宝珠の中に十一面観世音の種子「キャ」
          「美濃國谷汲山華厳寺」

満願堂
 〔御墨書〕   「奉拝」    「満願堂」    「谷汲山」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番」
          蓮華台に「満願霊場」   蓮華宝珠の中に十一面観世音の種子「キャ」
          「谷汲山満願堂」

笈摺堂
 〔御墨書〕   「奉拝」    「笈摺堂」    「谷汲山」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番」
          蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
          「谷汲山笈摺堂」




十一面観音の種子 「キャ」




(現在)
世を照らす 仏のしるし ありければ まだ灯も 消えぬなりけり

(過去)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲

(未来)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲

  

Posted by 閑人 at 21:04Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年07月12日

第32番 観音正寺


西国三十三ヶ所 第32番札所 観音正寺




繖山 (きぬがさやま)   観音正寺 (かんのんしょうじ)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県蒲生郡安土町石寺2

〔宗派〕 繖宗 (単立)

〔開基〕 聖徳太子

〔創建〕 推古天皇13年 (605)

〔御本尊〕 千手千眼観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 寺伝によると、往古、聖徳太子がこの地に来臨された折、紫雲たなびくこのお山をご覧になって「これぞ霊山なり」とおぼしめし、太子自らが千手観音像を刻み、堂塔を建立されたのが、当寺の縁起であるという。 以来、太子が近江国に創建された十二箇寺中の随一の寺院として、湖東地方に勢威を振るってきた。
 応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、山麓に移されたりするなど苦難の路を辿ることとなった。 その後、永禄11年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、寺は衰退した。 慶長二年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなったが、往時をしのぶべくもなかった。
 明治15年(1882)、荒廃した本堂に替えて、彦根城の「欅御殿」を移築したが、平成5年、原因不明の火災で本堂は全焼し、重要文化財の本尊千手観音立像も灰燼に帰した。 この困難を乗り越えて11年後の平成16年、本堂の落慶法要と本尊の開眼供養が営まれた。 古寺に生まれた平成の観音像は、観音信仰が過去から現在そして未来へと受け継がれていく証しなのだろう。


              本堂                        石積みと観音立像











        護摩堂               弁財天堂               太子堂



      白蛇大明神              北向地蔵尊               鐘楼






       御本尊    千手観音坐像

 明応6年(1497)に造像された重文の旧本尊千手観音立像は、平成5年(1993)に惜しくも焼失。
 新しい本尊は千手千眼観音菩薩坐像で、丈六(約5メートル)の白檀像という希有なもの。 現住職の多大な努力とインド政府の特別な計らいで23トンもの多量の白檀が輸入できたという。
 平成16年(2004)に本堂の落慶法要と本尊の開眼供養が営まれた。





                 納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「観音正寺」

 〔御朱印〕   「西國三十二番」
   蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
          「観音正寺」




千手観音の種子 「キリク」




          あなとうと  導きたまえ  観音寺
                            遠き国より  運ぶ歩みを

  

Posted by 閑人 at 14:31Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年07月07日

第31番 長命寺


西国三十三ヶ所 第31番札所 長命寺




姨綺耶山 (いきやさん)   長命寺 (ちょうめいじ)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県近江八幡市長命寺町157

〔宗派〕 単立 (天台宗系)

〔開基〕 聖徳太子    〔開闢〕 武内宿彌

〔創建〕 推古天皇27年 (619)

〔御本尊〕 千手十一面聖観世音三尊一体

〔御真言〕 おん ばさら だるま きりく そわか

〔略縁起〕 長命寺の歴史は古く、人皇十二代景行天皇の御代にさかのぼる。 寺伝によれば長寿の大臣といわれた武内宿彌(たけのうちのすくね)が当山に登り、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」の文字を刻み祈願した。 その霊験があり、武内宿彌は300歳以上もの長寿を保ち、六代の天皇に仕えたという。
 その後、聖徳太子がこの山に来臨された折り、柳の巨木に記された「寿命長遠諸願成就」の文字を拝され、観世音菩薩の御影を感得された。 太子は早速、千手十一面聖観音三尊一体の尊像を刻み、伽藍を建立した。 武内宿彌の長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付けたと伝わる。
 長命寺は永正13年(1516)に兵火にあって全堂塔を失っているため、現在の建物はすべてその後に再建されたものである。 本堂は大永2年(1522)、三重塔は慶長2年(1597)の再建で、諸堂塔のほとんどが桧皮葺きで、周囲の自然に溶け込んだ落ち着きを醸し出している。


           本堂 (重文)                      三重塔 (重文)












     護法権現社拝殿             三仏堂              鐘楼 (重文)



     太郎坊大権現社            如法行堂               参道入り口






    御本尊 (秘仏)   千手観音立像
  木造   像高 91.8cm   平安時代末

 御前立には千手観音菩薩立像が安置される。
 本堂の逗子内には、本尊・千手観音立像のほか、十一面観音立像(木造 像高53.8cm 平安時代 10世紀末~11世紀初頭)と聖観音立像(木造 像高67.8cm 鎌倉時代)の3体の観音像が安置され、千手十一面聖観世音三尊一体といわれている。




                  納経帳
 〔御墨書〕    「奉拝」
           「千手大悲殿」
           「長命寺」
 〔御朱印〕    「西國卅一番」
   蓮華台の上、「枝垂れ柳」の下に千手観音の種子「キリク」
           「姨綺耶山長命寺之印」

※ 宝印には、寺の縁起に因み、火焔宝珠に見立てた「柳の木」が使われている。




千手観音の種子 「キリク」




          八千年や  柳に長き  命寺
                         運ぶ歩みの  かざしなるらん

  

Posted by 閑人 at 19:02Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年07月02日

第30番 宝厳寺


西国三十三ヶ所 第30番札所 宝厳寺




巌金山 (がんこんざん)   宝厳寺 (ほうごんじ)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県長浜市早崎1664   (竹生島)

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩

〔創建〕 神亀元年 (724)

〔御本尊〕 弁財天 (本堂)
       千手千眼観世音菩薩 (観音堂) 

〔御真言〕 おん そらそばてい えい そわか  (弁財天)
       おん ばざら たらま きりく  (千手観音)

〔略縁起〕 竹生島宝厳寺は神亀元年(724)、聖武天皇が夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ。 すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、行基を勅使とし、堂塔を開基させたのが始まりと伝えられる。 行基は、弁才天像を彫刻し御本尊として本堂に安置、翌年、観音堂を建立し千手観音像を安置した。
  爾来、天皇の行幸が続き、伝教大師、弘法大師など来島修行されたと伝えられている。 豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、宝物が寄贈されている。 慶長7年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させている。 
 江戸時代までは神仏習合の霊場であり、式内社都久夫須麻神社と宝厳寺とは一体化していた。 明治に入り、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、宝厳寺を廃寺にして神社とし、延喜式神名帳に記載される「都久夫須麻神社」と称するよう命令があったが、全国数多くの信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなった。 本堂のないままに仮安置の大弁才天であったが、昭和17年に現在の本堂が再建された。
 本尊大弁才天は日本三弁才天の一つとして、千手観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第30番札所として参拝者の姿が今も絶えない。


         本堂 (大辨才天堂)              唐門 (国宝)と観音堂 (重文)












      舟廊下 (重文)        竜神拝所かわらけ投げ        五重石塔 (重文)




都久夫須麻神社本殿 (国宝)



都久夫須麻神社 (つくぶすまじんじゃ)

〔鎮座地〕 滋賀県長浜市早崎町1665  (竹生島)

〔社格〕  旧県社  近江國浅井郡の式内社・都久夫須麻神社

〔御祭神〕 市杵島比売命 (いちきしまひめのみこと)  (弁財天)
       宇賀福神 (うがふくじん) 
       浅井比売命 (あざいひめのみこと)  (産土神)
       龍神 (りゅうじん)

〔御由緒〕 社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝える。 『近江国風土記』(逸文)には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。
 神亀元年(724)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院を開基させた。 行基は弁才天の像を彫刻して本尊とした。
 延喜式神名帳では小社に列する。
 中世ごろから、比叡山の影響のもとに神仏習合が進み、弁才天を本地仏とし、「日本三大弁才天」の一つと称されるようになった。 日本最古の弁才天、弁才天の発祥地とも言われる。
 江戸時代までは神仏習合であり、隣接する宝厳寺と一体化していた。 明治に入り、新政府の「神仏判然令」により、大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、延喜式神名帳に記載される「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。 しかし、全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れ、寺院と神社の両方が並存することとなった。  明治7年に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年に両者の財産が区別された。 以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。





      御本尊 (秘仏)    千手観音立像

   木造   像高 178.5cm    鎌倉時代
 弁財天像とともに秘仏で、本来は60年に一度しか開扉されない。
 寄木造、玉眼、漆箔仕上げの等身像で、ご開帳がもっとも待ち遠しい秘仏のひとつである。
 貞永元年(1232)の火災で伽藍が焼けた折に制作された鎌倉時代の再興像と考えられている。




                  納経帳
 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「宝厳寺」

 〔御朱印〕   「西國第三十番」
        蓮華台の下に「竹生島」
      蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
          「竹生島寶厳寺」





                  弁才天 「ソ」        千手観音 「キリク」




        月も日も  波間に浮かぶ  竹生島
                           船に宝を  積むここちして

  

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2012年06月27日

第29番 松尾寺


西国三十三ヶ所 第29番札所 松尾寺




青葉山 (あおばさん)  松尾寺 (まつのおでら)

〔所在地〕 (丹後國) 京都府舞鶴市松尾532

〔宗派〕 真言宗醍醐派

〔開基〕 威光上人 (いこうしょうにん)

〔創建〕 和銅元年 (708)

〔御本尊〕 馬頭観世音菩薩

〔御真言〕 おん あみりと どはんば うん はった そわか

〔略縁起〕 丹後の国と若狭の国の境にある青葉山は標高699m。 若狭側から望見すれば、その秀麗な山容から「若狭富士」とも呼ばれ、古くは修験道修行の場となっていた。
 縁起によると、慶雲年中(704~708)、唐の僧、威光上人が中国の馬耳山の山容に似た当山に登り、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵をを結ばれたのが始まりと伝わる。 和銅元年(708)、その霊験を伝え聞いた元明天皇が藤原武智麻呂に命じて馬頭観世音を刻ませ、本堂を建立させた。
 また若狭の漁師が海難に遭い、馬頭観世音の化身という流木に救われ、その木で刻んだのが現在の本尊との説もある。
 爾来、今日まで千三百年を経ているが、その間、元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。 当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。 その後、度重なる火災にあったが、その都度、細川幽斉や京極家によって復興され、現在の本堂は、牧野英成により享保15年(1730)に修築されたもの。
 松尾寺の本尊は、西国三十三霊場中唯一の馬頭観世音菩薩像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。


              本堂                         山門 (仁王門)












        大師堂                 鐘楼                六所神社



        地蔵堂               一切経蔵            青葉山妙理大権現






    御本尊 (秘仏)     馬頭観音坐像
 御本尊は西国三十三ヶ所霊場中唯一の馬頭観音像である。 威光上人が松の下で感得したという像を胎内に納め、正暦年間に観音の加護で海難から救われた漁師・春日為光が造立したという。
 本尊によく似るといわれている御前立は馬頭観音像としてはいちばん典型的な三面八臂。 坐像は比較的珍しく、片膝を立てた輪王坐をとる。 御前立は寄木造、玉眼嵌入で像高98.5cm。 鎌倉時代の制作と思われる。





                   納経帳
 〔御墨書〕   「奉拝」
          「馬頭尊」
          「松尾寺」

 〔御朱印〕   「西國第廿九番」
      蓮華台の下に「丹後松尾寺」
      蓮華宝珠の中に馬頭観音の種子 「カン」
          「青葉山松尾寺」




馬頭観音の種子 「カン」




「若狭富士」とも呼ばれる青葉山




      そのかみは  幾世経ぬらん  便りをば
                        千歳もここに  まつのおのてら


  

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2012年06月16日

第28番 成相寺


西国三十三ヶ所 第28番札所 成相寺




成相山 (なりあいさん)  成相寺 (なりあいじ)

〔所在地〕 (丹後國) 京都府宮津市成相寺339

〔宗派〕 真言宗

〔開基〕 真応上人 (しんおうしょうにん)

〔創建〕 慶雲元年 (704)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 成相寺(なりあいじ)は日本三景の一つに数えられる天橋立を眼下に見下ろす鼓ヶ岳の中腹にある。 古くは山岳修験の霊場であったという。
 寺の創建は慶雲元年(704)。 真応上人(しんおうしょうにん)が文武天皇の勅願所として開いたと伝わる。 一説には、聖徳太子の母、間人皇后の手になるともいう。 創建後の歴史は詳らかではなく、平安時代に入ってその名が各種の文献に見られるようになる。
 成相寺の観音霊験については、『今昔物語集』巻十六「丹後国成合観音霊験語第四」に載せられた説話でよく知られている。 すなわち、この寺で大雪に降り込められ飢えに苦しんでいた僧を、観音が猪に身を変えて救ったという話である。 このとき、僧が食った腿を欠いたが、祈りによって再び回復したことから「成り合(相)」の寺名が起こったという。
 観音信仰の隆盛とともに寺も繁栄し、中世には五十余の堂塔が立ち並んだという。 しかし、応永7年(1400)の山崩れで境内の大半が破壊され、現在地へ移転したという。 その後も兵火や大火に見舞われ、そのつど再興された。 現在の本堂は安永3年(1774年)の建築で、 古式に則り、五間四方の入母屋造、正面を千鳥破風、軒唐破風で飾っており、堂内の厨子に安置される本尊の木造聖観世音菩薩は平安時代のものである。


              本堂                           五重塔












    底無池と弁財天堂            真向の龍           鎮守堂(熊野権現社)



      撞かずの鐘             一言一願地蔵              鉄湯船






     御本尊 (秘仏)    聖観音立像
 木造   像高 74.8cm   平安時代
 本尊は一木造、彫眼で古色仕上げ。 内刳はほどこさない。 彫刻、技法は素朴ながら相貌には気品があり、小さいながら木そのものの力強さを感じさせる平安時代らしい像である。 度重なる天災・火災をくぐりぬけた、当初からの本尊かと思われる。 身代リとなって僧を助けた伝説により、「身代わり観音」と呼ばれる。
 御前立も平安時代の作。 顔部に修復の形跡があり、体躯のプロボーションや肉身のモデリング、衣文の表現などに本尊より幾分洗練されたところがあるが、全体が醸し出す雰囲気には品格を漂わせている。




                  納経帳
 〔御墨書〕    「奉拝」 
           「圓通閣」
           「成相寺」

 〔御朱印〕    「西國廿八番」
      蓮華の下に「成相山」
      蓮華宝珠の中に聖観音の種子 「サ」
           「丹後國成相寺」




聖観音の種子 「サ」




成相山パノラマ展望所から望む天橋立




          波の音 松のひびきも 成相の
                          風ふきわたす 天の橋立


  

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2012年06月12日

第27番 圓教寺


西国三十三ヶ所 第27番札所 圓教寺




書寫山 (しょしゃざん)  圓教寺 (えんぎょうじ)

〔所在地〕 (播磨國) 兵庫県姫路市書写2968

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 性空上人 (しょうくうしょうにん)

〔創建〕 康保3年 (966)

〔御本尊〕 六臂如意輪観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばらだ はんどめい うん

〔略縁起〕 書寫山圓教寺は、康保3年(966)、性空上人によって開かれた。 「西の比叡山」とよばれるほど寺格は高く、西国三十三ヶ所中最大規模の寺院で、比叡山、大山とともに天台の三大道場と並び称された巨刹である。 京都から遠い土地柄でありながら、皇族や貴族の信仰も篤く、訪れる天皇・法皇も多かった。
 花山法皇は二度も御来駕になり性空上人の教えを受けられた。 後白河法皇も七日間、御参籠になり、後醍醐天皇は隠岐の島より御還幸の際、一泊された。 以来、多くの信仰を集め、善男善女の参詣や多くの僧侶の修行の道場として栄え、現在も、全国からの参詣者が絶えない。 国指定重要文化財の建造物八棟、仏像八体、今もなお、昔日のおもかげを林間に輝かせている。
 西国観音霊場の札所は摩尼殿(まにでん)である。 マニとは梵語の如意のこと。 天禄元年(970)の創建、本尊は六臂如意輪観世音菩薩。 天人が桜樹を礼拝するのを見て、性空上人が根のある生木に観音像を刻まれたため、岩山の中腹に舞台造りの建物となっている。
 本堂に当たる大講堂(だいこうどう)は室町中期の建物で、食堂、常行堂とともにコの字型に立ち並んで「三之堂」を形成している。
 2003年公開のハリウッド映画『ラストサムライ』の主なロケ地になり、同年のNHK大河ドラマ『武蔵』の重要なロケ地にもなった。


             摩尼殿                        大講堂 (重文)












      食堂 (重文)            常行堂 (重文)          金剛堂 (重文)



      護法堂 (重文)          山門 (仁王門)            鐘楼 (重文)





      御本尊 (秘仏)     如意輪観音坐像
 如意輪観音は如意宝珠と輪宝をもって一切衆生の願望を満たし、苦しみから救うとされ、とくに密教が移入されてから広く信仰されるようになった。 経典には腕の数を2、4、6、12本とさまざまに規定されているが、日本の如意輪観音像の多くは二臂もしくは六臂像で六臂像はその手には宝珠や輪宝をもつ。 また片膝を立てた輪王坐(りんのうざ)と呼ばれる独特の坐り方をしている坐像が多い。 圓教寺の像も六臂の坐像である。
 1月18日の鬼おいの日に開扉され、国の重要文化財四天王像もここに安置されている。




納経帳

 〔御墨書〕    「奉拝」
           「摩尼殿」
           「圓教寺」

 〔御朱印〕    「西國二十七番」
        蓮華宝珠の中に御本尊の種子 「タラク」
           「書寫山圓教寺」




※ 御宝印に第13番石山寺と同じく、如意輪観音の種子に「タラク」が使われている。
 如意輪観音の種子は本来「キリク」が一般的なのだが。
 第1番青岸渡寺、第7番岡寺、第14番三井寺、第18番六角堂の如意輪観音の種子は「キリク」が使われている。
 宗派による違いではなく、寺独自の伝統によるものと思料される。
 納経所の説明でも、「昔から使われているので、その理由はわからない」とのことである。




御本尊の種子 「タラク」




        はるばると  のぼれば書寫の  山おろし
                           松のひびきも  御法なるらん


  

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2012年06月07日

第26番 一乗寺


西国三十三ヶ所 第26番札所 一乗寺




法華山 (ほっけさん)  一乗寺 (いちじょうじ)

〔所在地〕 (播磨國) 兵庫県加西市坂本町821-17

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 法道仙人 (ほうどうせんにん)

〔創建〕 白雉元年 (650)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 法華山一乗寺の開基は、番外札所花山院や第26番札所一乗寺と同じく、伝説の渡来僧法道仙人である。 法道仙人は紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播磨国に八葉蓮華の形をした霊山を見出し当山に留まった。 法華経を読誦修し、千手飛鉢の秘法により米や金を集め貧しい民を救済したため、「空鉢仙人」と呼ばれた。
 法道仙人の評判は都へも広まり、大化5年(649)宮中に召され、孝徳天皇の病気を17日間の加持祈祷によって平癒させた。 その功績により孝徳天皇から金堂創建の勅があり、白雉元(650)年、天皇行幸の金堂落慶法要において、「一乗寺」の勅額を賜ったと伝えられている。
 一乗寺はその後も名刹として貴賤の信仰を集め、後醍醐天皇は西国第一の大講堂を寄進したという。 この地も戦国の兵火と無縁ではなく、この講堂をはじめ堂塔の多くは失われたが、幸いなことに平安時代の三重塔や仏像、仏画など、すぐれた文化財が罹災をまぬがれ、いまに伝えられている。


          本堂 (重要文化財)                    三重塔 (国宝)



        常行堂             弁天堂と妙見堂              鐘楼





    御本尊 (秘仏)    聖観音立像   -重要文化財-
  金銅造   像高 72.7cm    白鳳時代
 法道仙人の念持仏は千手観音と伝わるが、本尊、御前立ともに聖観音像である。 本尊と御前立はともに白鳳期の像。 よく似ているが、御前立像のほうが瓔珞(ようらく)などの装飾が華やかで、本尊のほうが表現は簡潔である。 両像ともに幼児のように朗らかで平明な相貌をもち、白鳳期の仏像の特徴をよく表しているが、スリムな体形はむしろ飛鳥の古様を思わせる。
 本尊聖観音立像は三間大厨子の中央に安置され、左脇侍に不動明王像、右脇侍に毘沙門天像が祀られている。




                  納経帳

 〔御墨書〕    「奉拝」
           「大悲閣」
           「一乗寺」

 〔御朱印〕    「西國廿六番」
      蓮華宝珠の中に御本尊の種子 「キリク」
           「一乗寺印」



※ 一乗寺では御本尊聖観世音菩薩の種子に「キリク」が使われている。
 聖観音の種子は本来「サ」なのだが、どうしてだろう?
 第21番穴太寺や第28番成相寺の聖観音は「サ」が使われている。
 納経所の説明では、「中世から伝統的に使われているので、その理由はわからない」とのこと。
 閑人思うに、一乗寺の寺伝に「法道仙人の念持仏は千手観音」と伝わることから、千手観音の種子「キリク」が伝統的に使われて来たのではないかと。




御本尊の種子 「キリク」




          春は花  夏は橘  秋は菊
                        いつも  妙なる  法の華山


  

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2012年06月03日

第25番 播州清水寺


西国三十三ヶ所 第25番札所 播州清水寺




御嶽山 (みたけさん)   清水寺 (きよみずでら)     通称  播州清水寺

〔所在地〕 (播磨國) 兵庫県加東市平木1194

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 法道仙人

〔創建〕 推古天皇35年 (627)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩 (大講堂)

〔御真言〕 おん ばさら だるま きりく そわか

〔略縁起〕 播州清水寺の開基は伝説の彼方にあるインドからの渡来僧法道仙人と伝えられる。 法道仙人は釈迦が説法をした霊鷲山で悟りを開き、紫雲に乗って、仏教の伝来と同様に、唐から百済を経由して日本に渡来したという。 そして播磨の山中を住処として鎮護国家豊作を祈願したといわれる。 播磨にある第26番札所一乗寺と番外札所花山院も法道仙人を開基としている。
 一方、『今昔物語集』では、近江にある崇福寺の地蔵聖と呼ばれた蔵明が夢のお告げに従い、御嶽山に来て寺を建立したとの説もある。
 推古天皇35年(627)、天皇勅願により根本中堂が建立され、法道仙人が刻んだ一刀三礼の十一面観音像を安置した。 その後、神亀2年(725)に聖武天皇の勅命で行基菩薩が大講堂を建立し、千手観音を本尊として祀った。
 御嶽山は水の乏しい地であったが、法道仙人が水神に祈願するとたちまち清らかな水が湧き出したといい、寺号の清水寺はこの霊験に由来する。 今も境内には、おがげの井戸(滾浄水)があり、井戸に顔を写すと3年寿命が延びるという言い伝えがある。


             大講堂                          根本中堂












        薬師堂           おがげの井戸(滾浄水)           地蔵堂






    御本尊   十一面千手観音坐像
 西国三十三ヶ所霊場の札所は、本堂にあたる根本中堂ではなく、大講堂が札所となっている。
 大講堂にはかつて丈六の巨像が安置されていたというが残念ながら焼失し、現在は古様にならって大正時代に作られた像となっている。
 十一面千手観音坐像を中尊として、左脇侍に昆沙門天像、右脇侍に地蔵菩薩像が祀られている。





                     納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」 
         「大講堂」
         「清水寺」

 〔御朱印〕  「西國二十五番」
   蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
         「播磨國清水寺」





千手観音の種子 「キリク」




          あはれみや  普き門の  品々に
                          なにをかなみの  ここに清水


  

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2012年05月29日

番外札所 花山院


西国三十三ヶ所 番外札所 花山院




東光山 (とうこうざん)  花山院 (かざんいん)  菩提寺 (ぼだいじ)

〔所在地〕 (摂津國) 兵庫県三田市尼寺352

〔宗派〕 真言宗花山院派 (本山)

〔開基〕 法道仙人 (ほうどうせんにん)

〔創建〕 白雉2年 (651)

〔御本尊〕 薬師瑠璃光如来 (薬師堂)
       十一面観世音菩薩 (花山法皇殿)

〔御真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか  (薬師瑠璃光如来)
       おん まか きゃろにきゃ そわか  (十一面観世音菩薩)

〔略縁起〕 花山院菩提寺の開基は、天竺(インド)より紫雲に乗り渡来したという法道仙人である。 法道仙人は役行者と並ぶ法力を持ったとされる伝説的な僧で、白雉2年(651)に薬師瑠璃光如来を安置して密教修行の聖地としたと伝えられている。
 「花山院菩提寺」とは、西国霊場中興の祖と仰がれる花山法皇の功績を讃えて名づけられたもの。 藤原氏の策略により、元慶寺(花山寺)において出家した花山法皇が西国三十三ヶ所観音霊場を再興された後、この山に登り景観に感銘されて余生を送る地に定め、寛弘5年(1008)に41歳で崩御されるまで、この寺で隠棲生活を送ったといわれる。
 その後、源頼光が堂塔伽藍を建立し寺院としての様相を整えた。 以降、花山法皇を西国霊場中興の祖と仰ぎ、各霊場の中でも法皇ゆかりの別格の存在で番外札所となった。 かつては花山院を最初に参詣してから西国巡礼の旅に出発したともいわれている。


            花山法皇殿                     瑠璃光殿 (薬師堂)












      山門 (仁王門)          花山院御廟所           花山院宝篋印塔



       三宝荒神堂            幸福の七地蔵               鐘楼




         御影   花山法皇
 平安時代中期の第65代天皇。 安和元年(968)~ 寛弘5年(1008)。 冷泉天皇の第一皇子。 母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。 三条天皇の異母兄。
 安和2年(969)、叔父円融天皇の即位と共に生後10ヶ月で皇太子になり、永観2年(984)、同帝の譲位を受けて17歳で即位した。 2年後、藤原兼家・道兼父子の策略により、元慶寺(花山寺)において剃髪して仏門に入り退位した。
 出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三観音霊場を巡礼し修行に勤めたという。
 この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。この巡礼の後、晩年は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山で隠棲生活を送ったとされる。 退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。




納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「花山法皇殿」
          「菩提寺」
 〔御朱印〕   「西國中興之開山」
    蓮華宝珠の中、中央上に薬師如来の種子「バイ」
              右下に三宝荒神の種子「ウーン」
              左下に十一面観世音の種子「キャ」
          「花山院菩提寺」





御宝印
   蓮華火焔宝珠の中に、三尊の梵字種子
   中央に御本尊「薬師瑠璃光如来」の種子 「バイ」
   右下に花山院菩提寺の鎮守「三宝荒神」の種子 「ウーン」
   左下に花山法皇が帰依された「十一面観世音」の種子 「キャ」





       十一面観音「キャ」       薬師如来「バイ」       三宝荒神「ウーン」





境内から望む有馬富士




       有馬富士  ふもとの霧は  海に似て
                          波かときけば  小野の松風


  

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2012年05月25日

第24番 中山寺


西国三十三ヶ所 第24番札所 中山寺




紫雲山 (しうんざん)  中山寺 (なかやまでら)

〔所在地〕 (摂津國) 兵庫県宝塚市中山寺2-11-1

〔宗派〕 真言宗中山寺派 (大本山)

〔開基〕 聖徳太子

〔創建〕 推古天皇時代 (593~628)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕  中山寺の起源は聖徳太子が建立した日本最初の観音霊場で、創建は推古朝(593~628)に遡る。 一説には、太子は仲哀天皇の后・大仲姫と非業の死を遂げた二人の皇子(香坂王・忍熊王)と、仏教移入に反対したために討伐した物部守屋の霊を祀るためにこの霊場を建立したともいわれる。 境内には大仲姫の墓と伝えられる古墳の石室「石の唐櫃(からと)」がある。
 中山寺は安産祈願の霊場として信仰され、幕末には中山一位局が明治天皇を出産する時に、安産の腹帯「鐘の緒」を授かって御平産されたことから、日本唯一の「明治天皇勅願所」となり、全国的に有名になった。
 御本尊十一面観音菩薩立像はインドの王妃シュリーマーラー(勝鬘夫人)が女人済度の悲願を込めて自らの等身像を彫った三国伝来の瑞像と伝えられ、その伝説どおりに異国的な雰囲気があふれる尊像である。
 西国巡礼にまつわる伝説によれば、養老2年(718)、徳道上人は閻魔大王から授かった宝印を巡礼の旅の途中、この中山寺に埋めたという。 およそ200年の後、花山法皇がその宝印を掘り出して西国巡礼を再興したとされる。 この伝説から、中山寺は札所寺院のなかでも特別な存在であり、かつては中山寺を一番札所とする回りかたもあったという。


              本堂                            山門












        閻魔堂             石の唐櫃(からと)            大願塔





   御本尊   十一面観音立像   -重文-
  木造   像高 151.3cm   平安時代
 一見して特異な、エキゾチックな雰囲気を持つ十一面観音像。 カヤの一木造で彩色をほどこさない檀像で、干割れをふせぐために背刳(せぐり)をほどこし、瞳には鉄製の鋲を嵌めこんでいる。 平安初期に隆盛したいわゆる檀像彫刻に属するが、手足が異常に長く、彫りも深く、ほかに類例を見ない不思議な魅力にあふれた像である。
 寺伝ではこの御本尊はインドの王妃シュリーマーラー(勝鬘夫人)が女人済度の悲願を込めて自らの等身像を彫った三国伝来の瑞像と伝えられ、その伝説どおりに異国的な雰囲気があふれる尊像である。




納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「中山寺」

 〔御朱印〕   「西國第廿四番」
    蓮華宝珠の中に十一面観音の種子 「キャ」
          「中山寺印」





十一面観音の種子 「キャ」




         野をもすぎ 里をもゆきて 中山の
                          寺へ参るは 後の世のため


  

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2012年05月22日

第23番 勝尾寺


西国三十三ヶ所 第23番札所 勝尾寺




応頂山 (おうちょうざん)  勝尾寺 (かつおうじ)

〔所在地〕 (摂津國) 大阪府箕面市勝尾寺

〔宗派〕 真言宗高野山派

〔開基〕 開成皇子

〔創建〕 神亀4年 (727)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕  和銅元年(708)、摂津国司・藤原致房のもとに生まれた双子の善仲(ぜんちゅう)・善算(ぜんさん)は山林修行に憧れ、神亀4年(727)、この地に草庵を結んだ。 修行を積むこと37年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子・開成(かいじょう)(桓武天皇の異母兄)が平城京を逃れてやって来た。 開成は仙人のような善仲・善算に師事して出家。 善仲・善算が取り組んでいた『大般若経』600巻の書写を引き継ぎ、宝亀6年(775)に完成させた。 そして経巻を埋蔵し、御堂を建てて、『弥勒寺』と号した。 開成が入寂する前年の宝亀11年(780)、妙観と名のる仏師が18人の童子と共に現れ、白檀の木に8尺の十一面千手観音像を彫り上げ、忽然と姿を消した。 妙観は人びとから観音の化身と信じられている。
 寺名の由来は、六代座主の行巡上人が清和天皇の病気平癒を祈って効験があったことから、「王に勝った寺」の意で「勝王寺」の寺号を賜るが、あまりにも畏れ多いと「王」を「尾」にひかえ、『勝尾寺』と改めたという。
 これにより、勝運の寺として、清和天皇の流れをくむ源頼朝や足利氏から寄進を受けて、中世には広大な寺領を有する大寺院に発展した。 勝運祈願は現在も続き、商売、試験、スポーツ等、勝運を願う参拝者が絶えず、境内には勝運成就した「勝ダルマ」が、所狭しと奉納されている。


              本堂                            山門











        不動堂               三宝荒神堂               鐘楼



        大師堂               弁財天社              一願不動堂






   御本尊 (秘仏)  十一面千手観音像

 木造  像高 147.0cm   平安時代
平安時代初期、唐の影響によって栴檀などの香木で造った観音像が流行したが、日本では香木が入手困難であった。 勝尾寺の秘仏十一面千手観音像の料材である白檀香木は、日向の国から開成の弟子・興日によって運ばれたもので、平安時代初期彫刻に共通するボリューム感のある、素地仕上げの檀像である。





納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「勝尾寺」

 〔御朱印〕   「西國第廿三番」
    蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
          「應頂山勝尾寺」





千手観音の種子 「キリク」




         重くとも  罪には法の  勝尾寺
                       ほとけを頼む  身こそやすけれ


  

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2012年05月14日

第22番 総持寺


西国三十三ヶ所 第22番札所 総持寺




補陀洛山 (ふだらくさん)  総持寺 (そうじじ)

〔所在地〕 (摂津國) 大阪府茨木市総持寺町1-6-1

〔宗派〕 真言宗高野山派

〔開基〕 中納言藤原山蔭

〔創建〕 寛平2年(890)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕  総持寺の創建は藤原北家の傍流で民部省の長官を務めた藤原山蔭という平安時代の役人である。 縁起は「亀の恩返し」説話として『今昔物語集』『源平盛衰記』などに納められている。
 山蔭の父である藤原高房は大宰府に赴任の途中、淀川で漁師に捕らえられていた大亀を自分の着物と交換し、川に逃してやった。 その夜、息子の山蔭が川に落ち、捜しても見つからない。 高房は観音様に祈ると、翌朝、助けた大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れた。 高房は観音様の御恩に感謝し、観音像の造立を発願する。
 願いが成就しないうちに高房は亡くなり、山蔭が父の遺志を継ぐと、長谷観音のお告げにより童子姿の仏師が現れた。 童子は千日かけて仏像を彫り、その間食事は山蔭自身が作り続けた。 千日目の朝、童子は空に飛んで消え、亀の背に立つ千手観音が残され、千日分の食事が供えられていた。 童子は長谷観音の化身であったのだ。 
 山蔭は仁和4年(888)に亡くなり、山蔭の子供たちは諸堂を完成させ、三回忌にあたる寛平2年(890)2月4日に落慶法要が営まれた。
 亀に乗った千手観音は元亀2年(1571)に兵火で堂宇が焼けたときも、猛火の中燦然と立っていたというので、「火伏せ観音」とも呼ばれる。 焼けた本堂は慶長8年(1603)に再建された。
 千日間料理を作り続けた山蔭は、料理法や作法に通じ、「日本料理中興の祖」、「山蔭流包丁式」の開祖とされている。


              本堂                          普悲観音堂











         金堂                 庖丁塚               大師堂



        閻魔堂                鎮守社                 鐘楼






  御本尊 (秘仏)   千手観音像

  木造    像高 75.4cm
 総持寺の本尊は、長谷寺観世音化現童子が造ったといわれ、善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と雨宝童子(うほうどうじ)を脇侍とする。
 一木造の古像だが、元亀2年(1571)、織田信長の軍勢に総持寺は焼かれ、この本尊も下半身が焼損した。 焼けてなお上半身は金色に耀いていたといい、このことから防火、厄除けの観音として信仰を集めている。




納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「總持寺」

 〔御朱印〕   「西國第廿二番」
      伝説の亀の背に乗る、
     蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
          「總持寺印」




千手観音の種子 「キリク」




         おしなべて 老いも若きも 総持寺の
                         ほとけの誓い 頼まぬはなし


  

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2012年05月07日

第21番 穴太寺


西国三十三ヶ所 第21番札所 穴太寺




菩提山 (ぼだいさん)   穴太寺 (あなおじ)

〔所在地〕 (丹波國) 京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 大伴古麿 (おおとものこまろ)

〔創建〕 慶雲2年 (705)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕  宝徳2年(1450)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年、文武天皇の勅願により、大伴旅人の甥大伴古麻呂が薬師如来を本尊として開創したという。 その後さびれていたが、村上天皇(926~967)の時代に郡司の宇治宮成(うじのみやなり)が妻の依頼で、仏師感世(かんせい)を都から招いて聖観世音菩薩を刻ませたという。 宮成は感世に愛馬をお礼に与えたが惜しくなり、待ち伏せして感世を射殺し、馬を取り戻して帰ったところ、矢は観音の胸に刺さり、感世も無事に帰京していた。 宮成は観音様が身代わりになられたと罪を悔い、寺を再建して聖観世音菩薩を本尊として安置したといわれる。 
 この伝説が『今昔物語集』や『扶桑略記』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかり、穴太寺の観音は「身代わり観音」として篤く信仰された。
 寺は兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代中期に再建されたものである。


              本堂                           多宝塔












        観音堂              鎮守堂(天満宮)             鐘楼






御本尊 (秘仏)    聖観音立像(伝・感世作) (現・佐川定慶作)

 寺伝やさまざまな説話にも登場する、感世作とされる木造漆箔の観音像は、像高110.0cmで鎌倉時代の制作。 国の重要文化財にも指定される貴重な像であった。 しかしこの像は昭和43年に盗難に遭い、いまだ所在がわからない。
 現在は、昭和の名工・佐川定慶(さがわじょうけい)作の像を秘仏として逗子のなかに祀っている。





納経帳

 〔御墨書〕    「奉拝」
           「聖大悲殿」
           「穴太寺」

 〔御朱印〕    「西國廿一番」
      蓮華宝珠の中に聖観音の種子 「サ」
           「穴穂」



※ 寺印の「穴穂」は「穴太」に同じ。 「穴太」は本来「あなほ」と読み、「穴穂」「孔王」とも書く。
 例えば、聖徳太子の母は、『日本書紀』では穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、『古事記』では間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)、『天寿国蔓茶羅繍帳』に孔王部間人母王(あなほべのはしひとのははみこ)とある。
 穴太(あなほ)は古代の氏族名であり、この地は穴太部(あなほべ)の居住した地であろう。




聖観音の種子 「サ」




     かかる世に  生まれあふ身の  あな憂やと
                             思はで頼め  十声一声


  

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2012年05月04日

第20番 善峯寺


西国三十三ヶ所 第20番札所 善峯寺




西山 (にしやま)   善峯寺 (よしみねでら)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市西京区大原野小塩町1372

〔宗派〕 天台宗単立

〔開基〕 源算上人 (げんざんしょうにん)

〔創建〕 長元2年 (1029)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばさら だるま きりく

〔略縁起〕  長元2年(1029)、比叡山の恵心僧都の高弟である源算上人の開山。 源算上人47歳の時、この地に小堂を結び、十一面千手観音の像を刻み本尊となし、仏法を興隆された。
 以来歴朝の御崇敬篤く、長元7年(1034)、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、「良峯寺」の寺号及び聖詠を賜った。 長久3年(1042)、後朱雀天皇、洛東鷲尾寺より仁弘法師作の十一面千手観音像を当山に遷して本尊とし、先の十一面千手観音像を脇立とされた。 白河天皇は諸堂を建立し、その後慈鎮和尚善恵上人、その高徳を相嗣がれ、また青蓮院の宮が代々当山に住まわれ、西山の宮(門跡)と称された。
 建久3年(1192)、後鳥羽上皇から「善峯寺」の寺額を賜って寺名が改められた。 後花園天皇は伽藍を改築せられ、往時は50余りの堂宇を有する隆盛を誇ったが、応仁の乱の兵火で焼失。
 現在ある堂塔の多くは、江戸時代に徳川五代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん)により再建されたもので、二百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治に至った。


           観音堂 (本堂)                     山門 (仁王門)












   遊龍の松(天然記念物)      多宝塔(重要文化財)      つりがね堂(厄除けの鐘)





 御本尊 (秘仏)    千手観音立像
   木造   像高 178.8cm   平安時代後期~鎌倉時代初期
 脇の本尊        千手観音立像
   木造   像高 174.5cm   平安時代 (11世紀前半)
 洛東の鷲尾寺から遷したという本尊は、19番札所・革堂の本尊と同じ賀茂神社の霊木で造られたという伝承がある。 木造、彫眼、漆箔仕上げ。 穏やかな像容は当代一流の仏師の手になるものであろう。
 一方、源算上人自刻像と伝わる「脇の本尊」はヒノキ材の一木を前後に割矧(わりはぎ)しており、善峯寺の開創と同時期、11世紀前半の像と思われる。



納経帳

  〔御墨書〕   「奉拝」
           「大悲殿」
           「よし峯寺」

  〔御朱印〕   「西國二十番」
     蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
           「善峰寺印」





千手観音の種子 「キリク」




        野をもすぎ  山路にむかふ  雨の空
                            善峯よりも  晴るる夕立


  

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2012年04月29日

第19番 革堂


西国三十三ヶ所 第19番札所 革堂




霊麀山 (れいゆうざん)  行願寺 (ぎょうがんじ)     通称 革堂 (こうどう)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 行円上人 (ぎょうえんしょうにん)

〔創建〕 寛弘元年 (1004)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら だるま きりく そわか

〔略縁起〕  行願寺の創建は寛弘元年(1004)。 深く観音に帰依していた行円上人(ぎょうえんしょうにん)が、千手観音像を造るための用材を探していたところ、夢のお告げがあって賀茂神社の傍らの霊木を得、これに8尺の千手観音像を刻み、一条北辺堂を復興してこの千手観音像を安置して行願寺(ぎょうがんじ)と名づけた。
 当初の寺地は現在の京都市上京区、京都御苑の西方で、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残る。 寺は豊臣秀吉による都市計画のため、天正18年(1590)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東側)に移転。 宝永5年(1708)の大火の後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
 行円上人の生没年は不詳。 九州又は比叡山の横川の出身とも云われる。 仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったという。 行円上人はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれた。


              本堂                          鎮宅霊符神堂











         山門               七福神石像               鐘楼





    御本尊 (秘仏)     千手観音立像

 行円が賀茂神社の霊木を御衣木(みそぎ)として造立したと伝わる。 像高8尺の金色の像で、天蓋(てんがい)には1尺の鏡があったという。
 現本尊は康永4年(1345)の火災後の再興像と思われる。 合掌手と宝珠手以外の脇手を、掌をびっしりと張りつけて表現していて、ほかに類例のない特異な像容である。 行円が創案したものを再興時に踏襲したとも考えられ、たいへん興味深い像である。





納経帳

 〔御墨書〕    「奉拝」
           「革堂」
           「行願寺」

 〔御朱印〕    「西國十九番」
   蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
           「革堂」





千手観音の種子 「キリク」





        花を見て  いまは望みも  革堂の
                           庭の千草も  盛りなるらん

  

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2012年04月23日

第18番 六角堂


西国三十三ヶ所 第18番札所 六角堂




紫雲山 (しうんざん)  頂法寺 (ちょうほうじ)    通称 六角堂 (ろっかくどう)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248

〔宗派〕 天台宗 (単立)

〔開基〕 聖徳太子

〔創建〕 用明天皇2年 (587)

〔御本尊〕 如意輪観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばらだ はん どめい うん

〔略縁起〕  用明天皇2年(587)、聖徳太子が四天王寺建立の用材を求めてこの地を訪れた際、仏のお告げを夢で見られ、六角の御堂を建てて護持仏を祀ったのが寺の起源。
 本尊は太子の護持仏といわれる御丈1寸8分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩で、平安時代から霊験をたたえた記録や説話も数多い。
 平安遷都の折、東西小路のひと筋が通る所に六角堂があたってしまい天皇が使者をたてて今少し御動座頂くよう祈願されると、礎石(へそ石)一つ残し御堂がにわかに5丈(約15m)ばかり北へ退いた話は有名。
 この地は、聖徳太子沐浴の池の跡ともいわれ、池のほとりに小野妹子を始祖とする住持の寺坊があったところから「池坊」と呼ばれ、この池坊代々の執行によって「いけばな」が完成された。 六角堂はわが国の「いけばな発祥の地」である。
 また親鸞上人が毎夜比叡山から六角堂に百日間参籠りをされ、夢中のお告げによって浄土真宗を開かれたといわれる。
 六角堂は創建以来、幾度も火災にあって焼失したがその都度再建され、現在の建物は明治10年(1877年)の建造物である。


           本堂 (六角堂)                     本堂 (六角堂)












        へそ石               聖徳太子堂               親鸞堂





       御本尊 (秘仏)     如意輪観音坐像
  金銅造   像高 5.5cm
  閻浮檀金(えんぶだごん)(伝説上の砂金もしくは白金)で作った1寸8分(約5.5cm)の小像だと伝えられるが、秘仏であるため詳細は不明。
  現本尊は六臂の如意輪観音坐像とされているが、平安~鎌倉時代の記録には「金銅三寸」「二臂如意輪観音」との記述がある。
  聖徳太子の念持仏という寺伝や、六角円堂という飛鳥時代を想起させる古い形式の仏堂に安置されていることから、この古記録にある像が、飛鳥・白鳳時代の金銅・菩薩半跏思惟像であった可能性も想像される。



納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「六角堂」
          「頂法寺」

 〔御朱印〕   「西國十八番」
       堂名に因んだ六角
     蓮華宝珠内に如意輪観音の種子 「キリク」
          「六角堂」





如意輪観音の種子 「キリク」





         わが思う  心のうちは  六の角
                        ただ円かれと  祈るなりけり

  

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2012年04月16日

第17番 六波羅蜜寺


西国三十三ヶ所 第17番札所 六波羅蜜寺




補陀洛山 (ふだらくさん)   六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市東山区松原通大和大路東入ル2丁目轆轤町81-1

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 空也上人

〔創建〕 天暦5年 (951)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん ろけい じんばら きりく そわか

〔略縁起〕  天暦5年(951)、醍醐天皇の第二皇子空也上人により開創された。 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、仏像を車に安置して市中を曵き回り、「皇服茶」を病者に授けた。 歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。 一堂を建ててその尊像を安置したのが当寺の起こりである。
 上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。 源平時代には、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。 寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、本堂のみを残して焼失。 源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。 徳川代々将軍も朱印を加えられた。
 現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。


              本堂                           弁財天堂












      平清盛供養塔           縁結び観音像              阿古屋塚




     御本尊 (秘仏)   十一面観音立像  -国宝-
 木造  像高 258.0cm    平安時代 (951)
 10世紀の彫刻は近年学界で注目されている分野だが、そのなかでも傑出した出来映えをしめす名品である。 衣文などには天平彫刻の影響もうかがえるが、藤原期の和様の仏像への橋渡しとなる像のひとつである。 大きな像だがバランスもよく、一流の仏師の手になることもうたがいない。
 12年に一度、辰年だけに開扉される秘仏であるため、造立当初の姿をよく留めている。
 本年は辰年、仏像ファンにとっては33札所中でももっとも期待したいご開帳のひとつである。
 ◎ 辰年御本尊御開帳 (平成24年11月3日~12月5日)




納経帳
 〔御墨書〕  「奉拝」
         「六波羅堂」
         「執事」

 〔御朱印〕  「西國十七番」
    蓮華宝珠の中に十一面観音の種子 「キャ」(異体字)
         「六波羅堂」




 ※ 寺名には「執事」の墨書。 執事とは一般に寺務を執りしきる者を指す。
 納経の管理が執事長の元に行われるということであろう。
 明治初期の納経帳にはこの墨書は見当たらないという。
 いつ頃から使われているのもなのであろうか。




十一面観音の種子 「キャ」(異体字)




         重くとも 五つの罪は よもあらじ
                         六波羅堂へ 参る身なれば


  

Posted by 閑人 at 22:47Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年04月11日

第16番 清水寺


西国三十三ヶ所 第16番札所 清水寺




音羽山 (おとわさん)  清水寺 (きよみずでら)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市東山区清水1-294

〔宗派〕 北法相宗 (大本山)

〔開基〕 延鎮上人 (えんちんしょうにん)

〔創建〕 宝亀9年 (778)

〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 音羽山清水寺は宝亀9年(778)、大和の子島寺の賢心(後の延鎮上人)によって開創された。 『清水寺縁起』によると、賢心は「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢をうけ、翌朝、霊夢にしたがい清泉をもとめて上がると、音羽山麓にある滝にたどり着き、そのほとりで草庵をむすび永年練行をしている行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会った。
 行叡居士は賢心に霊木を授け、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託すや否や、姿を消してしまった。 「行叡居士は観音の化身である」と悟った賢心は、以後固く遺命を守り、千手観音を刻んで草庵と観音霊地の山を守っていた。
 2年後の宝亀11年(780)、坂上田村麻呂公が妻室三善高子命婦の安産のため音羽山に上り、草庵にたどり着き賢心と出会った。 坂上田村麻呂公は賢心に鹿狩りに上山した旨を話すと、観音霊地での殺生を戒められ、観世音菩薩の教えを諭された。
 深く感銘を受けた坂上田村麻呂公は、この賢心が説かれた清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を妻室に語り聴かせ、共々深く仏法に帰依され、仏殿(本堂)を寄進建立し、御本尊十一面千手観音を安置して寺観をととのえた。
 御本尊(秘仏)は、「清水型観音」といわれる四十二臂の最上の両手を頭上にあげて化仏をいただく清水寺独特の観音像をしており、格別霊験あらたかで、『枕草子』や能(謠曲)「熊野」「田村」「盛久」などにも見え、昔からたいそう広く篤い崇信を集めてきた。
 現在の伽藍は、徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたもので、平成6年(1994)にユネスコの世界文化遺産に登録された。


         清水の舞台 (国宝)                    田村堂 (重文)












   西門と三重塔 (重文)      善光寺堂(洛陽十番札所)      随求堂(ずいぐどう)



     地主神社 (重文)           音羽の瀧            阿弖流為・母禮の碑





     御本尊 (秘仏)  千手観音立像
 一般的な千手観音像と違い、その像容は非常に特徴的で42臂のうち左右の2臂を高々と掲げて頭上で掌を合わせ、そこに化仏(阿弥陀如来)を戴く。 この瑞像の特異な姿も全国に伝播し、各地に作例が残っている。 これを「清水型千手観音」と呼び、観音像の1ジャンルを形成している。
 左脇侍に毘沙門天像、右脇侍に将軍地蔵菩薩像とするところも特徴的であるが、これは坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して奉じたからという。
 御本尊は、本堂最奥部内々陣の厨子内に秘仏として祀られ、厨子前に御本尊の姿を写した御前立仏を安置している。
 御開帳は、御本尊が三十三身して衆生を救うという「観音経」の教えに因んで、33年毎に行われる。





納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「大悲閣」
         「清水寺」

 〔御朱印〕  「西國十六番」
     宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
         「清水寺本堂印」





千手観音の種子 「キリク」




          松風や 音羽の滝の 清水を
                          むすぶ心は 涼しかるらん


  

Posted by 閑人 at 18:43Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所