2012年04月05日

第15番 今熊野観音寺


西国三十三ヶ所 第15番札所 今熊野観音寺




新那智山 (しんなちさん)  観音寺    通称 今熊野観音寺 (いまくまのかんのんじ)

〔所在地〕 (山城國) 京都市東山区泉涌寺山内町32

〔宗派〕 言宗泉涌寺派

〔開基〕 弘法大師

〔創建〕 天長年間 (824~834)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
       おん ろけい じんばら きりく

〔略縁起〕 創建の年代には諸説があるが、弘法大師が唐の国から帰朝後、当山において熊野権現のお告げにより一寸八分の十一面観世音菩薩像と一夥の宝印を授かった。 大師はお告げのままに一堂を建立、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め奉安された。 弘仁3年(812)、大師は嵯峨天皇から官財を賜わり、勅旨を奉じて諸堂を造営されたのが当山の始まり。 天長年間(824~834)に開かれたとする所伝は、この造営の完成を伝えるものと考えられる。
 平安末期の永暦元年(1160)には、後白河上皇がこの地に熊野権現を勧請され、当山のご本尊をその本地仏として定められ、「新那智山」の山号を賜り、山麓に新熊野神社を造営された。 後白河上皇は御持病の頭痛を当山の観音さまの御夢告によって平癒されたので、爾来世の人々からも頭痛封じの観音様として、智慧授かり、学業成就、ぼけ封じなど頭に関連することにも験能があると尊崇されるようになった。


              本堂                            大師堂












        鳥居橋               熊野権現社               鐘楼






     御本尊 (秘仏)    十一面観音立像
 木造  像高 68.2cm   室町時代 (1487)
 現本尊は秘仏だが、調査により1寸8分の胎内仏と、像底から墨書銘がみつかり、長享元年(1487)の作とわかった。 文明2年(1470)、観音寺焼亡の後に再興された像と考えられている。
 彫眼、一木造で金箔を施す。 後白河法皇の持病だった頭痛を平癒したことから、頭痛封じをはじめ智慧授かり、学業成就、ぼけ封じなど頭に関連することに験能があるとされる。
 御前立の両脇侍仏は 左脇侍に不動明王(智証大師作)、右脇侍に毘沙門天(運慶作)。





納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「観音寺」

 〔御朱印〕   「西國十五番」
      宝珠の中に十一面観音の種子 「キリク」
          「役者」



 ※ 十一面観音の種子は「キャ」が一般的なのだが、ここでは「キリク」が使われている。
 もう一つの真言「おん ろけい じんばら きりく」から用いられたのであろうか?
 しかし、カラー御影の十一面観音立像の光背には「キャ」が画かれている。
 この違いは何を意味するのだろうか、不可解である。

 寺印には「役者」の角印。
 お寺の説明では、「役目を負う者」という意味らしい。
 




十一面観音の種子 「キリク」




        昔より  立つとも知らぬ  今熊野
                         ほとけの誓い  あらたなりけり

  

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2012年03月31日

番外札所 元慶寺


西国三十三ヶ所 番外札所 元慶寺




華頂山 (かちょうざん)  元慶寺 (がんけいじ)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市山科区北花山河原町13

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 遍昭僧正

〔創建〕 貞観11年 (869)

〔御本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか




〔略縁起〕 桓武天皇の孫にあたる遍昭僧正は仁明天皇の崩御に従い出家し、延暦寺で仏門に入り、貞観11年(869)に華山寺を創建したとされている。 その後、元慶元年(877)には清和天皇の勅願寺となり、崋山寺から元慶寺に名称を変更したと伝えられている。
 応仁の乱までは寺域も広かったが、応仁の乱で寺が焼失してから、現在みられるような小さい規模の寺になったといわれている。
 寛和2年(986)、花山天皇が19歳で出家し法皇となったのが、この元慶寺である。 花山法皇は廃れかけていた西国霊場を復活させた人で、西国霊場中興の祖として知られている。
 開基の遍照僧正は六歌仙の一人として知られており、
     天津風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ
は百人一首のなかでも特に有名である。



         御影   花山法皇
 平安時代中期の第65代天皇。 安和元年(968)~ 寛弘5年(1008)。 冷泉天皇の第一皇子。 母は、摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子。 三条天皇の異母兄。
 安和2年(969)、叔父円融天皇の即位と共に生後10ヶ月で皇太子になり、永観2年(984)、同帝の譲位を受けて17歳で即位した。 2年後、藤原兼家・道兼父子の策略により、元慶寺(花山寺)において剃髪して仏門に入り退位した。
 出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤めたという。
 この花山法皇の観音巡礼が西国三十三箇所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。 この巡礼の後、晩年は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山で隠棲生活を送ったとされる。 退位後の御在所に因んで「花山院」と呼ばれた。



納経帳
 〔御墨書〕   「奉拝」
          「花山法皇」
          「元慶寺」

 〔御朱印〕   「西國三十三所観音霊場巡禮開祖」
  十六菊紋の菊心に「元」   蓮華宝珠の中に薬師三尊の種子
  中央上に薬師如来の種子「バイ」
  右下に日光菩薩の種子「ア」   左下に月光菩薩の種子「シャ」
          「華頂山元慶寺之印」


 

 ※ 御本尊は薬師三尊形式で安置されている。
 薬師三尊は、仏像安置形式の一つで、
 薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩を右脇侍として配置する三尊形式である。




            月光菩薩「シャ」    薬師如来「バイ」   日光菩薩「ア」





      待てといわば  いとも畏し  花山に
                        しばしと啼かん  鳥の音もがな


  

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2012年03月26日

第14番 三井寺


西国三十三ヶ所 第14番札所 三井寺




長等山 (ながらさん)  園城寺 (おんじょうじ)    通称 三井寺 (みいでら)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市園城寺町246

〔宗派〕 天台寺門宗 (総本山)

〔開基〕 大友与多王 (おおとものよたのおおきみ)

〔創建〕 朱鳥元年 (686)

〔本尊〕 如意輪観世音菩薩

〔真言〕 おん はんどま しんだまに じばら うん

〔略縁起〕 壬申の乱(672)で敗れた大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、皇子の大友与多王が寺を建立。 朱鳥元年(686)、天武天皇から「園城(おんじょう)」の勅額を賜ったのが創始と伝えられている。 貞観年間(859~877)に智証大師円珍が延暦寺の別院として復興し、東大寺・興福寺・延暦寺と共に本朝四箇大寺の一つに数えられるほどの隆盛を極めた。
 俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに由来する。 長い歴史の上で、園城寺は再三の兵火にあい焼失するが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・名園など貴重な寺宝を数多く伝えている。
 西国三十三観音霊場第14番札所の観音堂は境内南の高台にあり、元禄2年(1689)の再建。 本尊の如意輪観音坐像(重文)は33年ごとに開扉される秘仏である。


            金堂 (国宝)                  観音堂 (西国観音霊場)











   水観寺(西国薬師霊場)       唐院大師堂(重文)       微妙寺(湖国観音霊場)



   三井の晩鐘(近江八景)          観月舞台              熊野権現社





     御本尊 (秘仏)  如意輪観音坐像 -重文-
 木造   像高 91.6cm  11世紀
 伝説ではこの如意輪観音像は智証大師が感得し、栴檀香木に自刻したという。 智証大師が唐より請来した像だともいう。 慶祚もしくは聖豪の造立とする記録もあるが、詳細は不明である。 一面六臂の如意輪観音坐像で、寄木造、彫眼、漆箔像であり、11世紀の造像と思われる。 寄木造の木寄せは本躰部正中線で左右を矧ぎ、膝前は横材を矧ぎ、頭部は別材で造り、柄で本躰部に深く差し込み、左右の六臂は肩先で矧ぎつけている。 円みのある顔を右に傾け、右手一手の指の甲を頬に当て、右膝を立てる姿は優美で端正である。 頭を飾る大きな透かし彫りの宝冠や瓔珞は後世のもので、流麗な本像には荷が勝ちすぎるようにも思われる。




納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲殿」
          「三井寺」

 〔御朱印〕   「西國十四番」 
      蓮華下に「三井寺」
     宝珠の中に如意輪観音の種子「キリク」
          「長等山三井寺」





如意輪観音の種子 「キリク」




       いで入るや  波間の月を  三井寺の
                           鐘のひびきに  あくる湖

  

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2012年03月21日

第13番 石山寺


西国三十三ヶ所 第13番札所 石山寺




石光山 (せっこうざん)   石山寺 (いしやまでら)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市石山寺1丁目1-1

〔宗派〕 東寺真言宗

〔開基〕 良弁僧正

〔創建〕 天平勝宝元年 (749)

〔本尊〕 勅封二臂如意輪観世音菩薩

〔真言〕 おん はらだ はんど めい うん

〔略縁起〕 石山寺の創立は、千二百余年の昔、東大寺大仏造立のための黄金の不足を愁えた聖武天皇が、ここに伽藍を建てて如意輪法を修すようにとの夢告を受け、良弁僧正を開基として開かれた。 奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めるとともに、多くの庶民の崇敬をも集めた。 その後も、源頼朝、足利尊氏、淀殿などの後援を受けるとともに、西国三十三所観音霊場として著名となり、今日まで参詣者が絶えない。
 本尊は縁結・安産・福徳の霊験あらたかな秘仏如意輪観音菩薩。 三万六千坪におよぶ広大な境内には、日本唯一の巨大な天然記念物、世界的にも珍しい硅灰石がそびえる。
 また、国宝の本堂には紫式部が世界最初の長編小説『源氏物語』を執筆した「源氏の間」があり、国宝の多宝塔、重要文化財の東大門、鐘桜など、奈良、平安、鎌倉時代からの文化財が多数伝えられている。


            本堂 (国宝)                     東大門 (重文)












       蓮如堂 (重文)         多宝塔 (国宝)         御影堂 (重文)



      経蔵 (重文)            鐘楼 (重文)         三十八所権現社 (重文)





    御本尊 (秘仏)    如意輪観音菩薩半跏像  -重文-
 木造  像高 301.2cm  平安時代
 石山寺創建当時の本尊は塑像で岩盤上に直接坐していたが、平安時代に木造に改められた。 秘仏で33年に一度しか開扉されないため保存状態はよく、着衣には截金(きりかね)の文様がよく残る。 丈六の巨像ながら定朝様の優美で端正な傑作である。
 平成14年(2002)の調査で、胎内から4体の仏像が発見された。
  ◎ 本尊胎内仏  -重文-
 平成14年(2002)、本尊の開扉に合わせて行われた調査で、本尊の胎内から4体の胎内仏や水晶製の五輪塔が発見された。 胎内仏は飛鳥~天平期の古像で、なかでも最古の如来立像には焼けた痕跡がある。 『石山寺縁起絵巻』に本堂が焼失したときに本尊は火中から飛び出したという記述があり、この像との関係が注目されよう。




納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「大伽藍」
         「石山寺」

 〔御朱印〕  「西國十三番」
       蓮華下に「石山寺」
       宝珠の中に御本尊の種子「タラク」
         「石山寺之印」


 ※ 石山寺では御本尊如意輪観音の種子に「タラク」が使われている。
 如意輪観音の種子は本来「キリク」なのだが、どうしてだろう?
 第1番青岸渡寺や第7番岡寺では「キリク」が使われていた。
 「タラク」は虚空蔵菩薩の種子なのだが。
 お寺の説明では、「昔から使われているので、その理由はわからない」とのこと。



如意輪観音の種子 「タラク」




         後の世を  願うこころは  かろくとも
                          ほとけの誓い  おもき石山


  

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2012年03月16日

第12番 岩間寺


西国三十三ヶ所 第12番札所 岩間山 正法寺




岩間山 (いわまさん)  正法寺 (しょうほうじ)    通称 岩間寺 (いわまでら)

〔所在地〕 (近江國) 滋賀県大津市石山内畑町82

〔宗派〕 真言宗

〔開基〕 泰澄大師

〔創建〕 養老6年 (722)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 加賀の白山をも開いた泰澄大師が元正天皇の三十三歳の大厄の病を法力により治したことにより、養老六年(722年)、天皇の勅願として建立された。 泰澄大師が岩間山を訪れた折、山中の桂の大樹より千手陀羅尼を感得し、その桂の木で等身の千手観音像を刻み、元正天皇の御念持仏をその体内に納め祀った。
 ご本尊は、毎夜日没とともに厨子を抜け出て百三十六地獄を駆け巡り、苦しむひとびとを悉く救済し、日の出頃、岩間山へ戻られた時には汗びっしょりになられているので、そのお姿から「汗かき観音」と呼ばれている。 また、泰澄大師が当地に伽藍建立の際、法力で雷を封じ込め、雷を弟子にし、参詣の善男善女には、雷の災いを及ぼさないことを約束させた。 これが「雷除け観音」とよばれる由縁で、毎年四月十七日には、雷除け法要(雷神祭)が奉修され、多くの参詣者で賑わう。 また、当地は開山当初より水の乏しい所であったため、雷は自らの爪で井戸を掘ったという。 「雷神爪堀湧泉」と呼ばれる岩間の霊泉には元正天皇御製の、
         わきいづる 岩間の水は いつまでも つきせぬ法の み仏の影
という歌が伝えられている。
 また、『観音霊験記』によると、江戸時代の俳聖松尾芭蕉は、岩間寺に参籠してご本尊の霊験を得、その俳風を確立したと言われる。 本堂横手には芭蕉が
         古池や 蛙とびこむ 水のおと
を詠んだと伝えられている「芭蕉の池」が残っている。


              本堂                           芭蕉の池











        大師堂                不動堂               稲妻龍王社






      御本尊 (秘仏)      千手観音立像

 金銅造   像高 14.5cm   奈良時代
 秘仏である本尊は、女帝・元正天皇の御念持仏で、御丈四寸八分(約15cm)の三国伝来エンブダゴン(印度エンブ川より採れる砂金)金銅仏千手観音立像で、「汗かき観音」 「雷除け観音」 「厄除け観音」として名高い。
 御前立とはずいぶん雰囲気の異なる小像で、柔和な童子ような表情をしており、千手観音の金銅仏としてほかに類例がない。






納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
    梵字「キリク」   「大悲殿」
          「岩間寺」

 〔御朱印〕   「西國第十二番」
    蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
          「近江國岩間寺」




千手観音の種子 「キリク」




          水上は  いづくなるらん  岩間寺
                            岸打つ波は  松風の音


  

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2012年03月12日

第11番 准胝堂


西国三十三ヶ所 第11番札所 上醍醐 准胝堂




深雪山 (みゆきさん)  上醍醐 (かみだいご)  准胝堂 (じゅんていどう)

〔所在地〕 (山城國) 京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1

〔宗派〕 真言宗醍醐派 (総本山)

〔開基〕 聖宝理源大師

〔創建〕 貞観16年 (874)

〔本尊〕 准胝観世音菩薩

〔真言〕 おん しゃれい それい そんでい そわか

〔略縁起〕 准胝堂は平成20年8月24日未明、落雷による火災により惜しくも焼失した。 現在、復興作業中で、准胝観音菩薩のご開帳、西国札所の納経は下醍醐の金堂で行われている。
 貞観16年(874)、聖宝理源大師は上醍醐山上で地主横尾明神の示現によって霊泉(醍醐水)を得た。 小さな堂宇を建立し、准胝観音像・如意輪観音像を安置したのに始まる。 その後、醍醐天皇の御願によって、延喜7年(907)に薬師堂が建立され、また五大堂が落成されて上醍醐の伽藍が完成した。 つづいて下醍醐の地に伽藍の建立が計画され、延長4年(926)に釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)に五重塔が落成し、下伽藍の完成をみた。 応仁の乱で多くの堂を焼失したが、慶長3年(1598)の春に行われた醍醐の花見で知られる豊臣秀吉により復興された。
 醍醐寺は山上を上醍醐、麓を下醍醐と呼び、合わせて九十余りの堂塔が配置されている。 寺名の由来ともなった准胝堂の近くにある「醍醐水」は、寺の創建から、千年余り経た今も清水が湧き出る霊泉である。


              金堂                           五重塔












        清瀧宮                仁王門                 鐘楼






  御本尊 (秘仏)    准胝観音坐像
 木造  像高 31.5cm   寛政10年 (1798)
 33の札所中、准胝観音を本尊とするのは唯一この上醍醐だけである。 一面三眼十八臂の坐像で、准胝観音像として正統な姿をとっている。 右手は説法印・施無畏印・剣・数珠・子満果・鉞斧・鉤・金剛杵・宝鬘を、左手には如意宝珠・蓮華・澡灌・索・輪・螺・賢瓶・経篋を持つ。
 准胝観音は「准胝仏母尊」ともいわれ、清浄な心、母の慈愛をあらわす観音とされる。 醍醐天皇がこの観音に願をかけ、2皇子を授かったことから、子授け、安産、子育てにご利益のある観音さまとして、いまも多くの信仰を集めている。




納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「根本准胝尊」
         「醍醐寺」

 〔御朱印〕  「西國第十一番」
     蓮華内に「醍醐寺」
     宝珠の中に准胝観音の種子「ボ」
         「上醍醐寺」




准胝観音の種子 「ボ」




         逆縁も  もらさで救う  願なれば
                          准胝堂は  たのもしきかな

  

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2012年03月05日

第10番 三室戸寺


西国三十三ヶ所 第10番札所 三室戸寺




明星山 (みょうじょうざん)  三室戸寺 (みむろとじ)

〔所在地〕 (山城國) 京都府宇治市莵道滋賀谷21

〔宗派〕 本山修験宗

〔開基〕 行表和尚 (ぎょうひょうおしょう)

〔創建〕 宝亀元年 (770)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 光仁天皇が行幸した際、霊感を感じたので藤原犬養に命じ周辺を探させたところ、宇治川の支流である志津川上流の岩淵で黄金の千手観世音菩薩像を発見したと伝えられている。 宝亀元年(770)、天皇の勅願により、この仏像を安置するため、御室の一部を移し、奈良大安寺の行表和尚を招き、御室戸寺としたのが寺の起源とされている。 以来、天皇・貴族の崇敬を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わった。
 後に御室戸寺は三室戸寺に改称された。 創建時は仏像が発見された場所の近くの山中に寺があったとされているが、度重なる火災に遭い、15世紀に現在の場所に移されたという。 現在の本堂は文化二年(1805)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背後には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼・三重塔がある。 宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されている。


      本堂 (江戸時代・府文化財)         鐘楼と三重塔 (共に江戸時代・府文化財)












  十八神社 (重要文化財)           山門            阿弥陀堂 (府文化財)






   御本尊 (秘仏)     千手観世音菩薩像
 本尊の千手観音像は厳重な秘仏で、写真も公表されていない。 1尺2寸という言い伝えどおりなら、わずか36cmの小像である。 創建の由来や時期、あるいは江戸時代の木版刷りのお札の姿から判断して、飛鳥時代に多く造られた金銅仏かと思われる。
 秘仏本尊を模して造られたお前立ち像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。 天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。 こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観音像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。





納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「大悲殿」
         「三室戸寺」

 〔御朱印〕  「西國第十番」
     蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
         「三室戸寺」




千手観音の種子 「キリク」




      夜もすがら  月を三室戸  わけゆけば
                         宇治の川瀬に  立つは白波


  

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2012年02月28日

第9番 南円堂


西国三十三ヶ所 第9番札所 興福寺 南円堂




興福寺 (こうふくじ)  南円堂 (なんえんどう)

〔所在地〕 (大和國) 奈良県奈良市登大路町48

〔宗派〕 法相宗大本山

〔開基〕 藤原冬嗣

〔創建〕 弘仁4年 (813)

〔御本尊〕 不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんざくかんぜおんぼさつ)

〔真言〕 おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろ そろ そわか

〔略縁起〕  興福寺は、天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。 その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。 平城遷都に伴い、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。 その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。
 南円堂は弘仁4年(813)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。 基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。 また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。
 不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
 興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。 その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。 創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。 江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。



南円堂



             東金堂                           五重塔













     御本尊 (秘仏)  不空羂索観音   -国宝-
 木造  像高341.5cm  鎌倉時代 (1189)
 力感に富み、生命力がみなぎるこの像は運慶の父で南都仏師の棟梁だった康慶の傑作。 平氏による南都焼き討ちで興福寺は壊滅的ば打撃を受けたが、藤原氏の氏寺である興福寺は国家的なプロジェクトとして復興され、これが慶派仏師の大躍進の契機となった。
 不空羂索観音は三目八臂の姿で、左手に持った羂索(投げ縄)で衆生を絡めとり、救いへと導くとされる。 藤原氏は伝統的に不空羂索観音への崇敬の念が強かったとされ、南円堂だけでなく東大寺三月堂の本尊など藤原氏にゆかりのある像が多い。
 秘仏だが、毎年10月17日の大般若経転読会の時に特別開扉される。





納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「南圓堂」
          「興福寺」

 〔御朱印〕   「西國第九番」
    「上り藤紋」の中に不空羂索観音の種子「モー」
          「興福寺南圓堂」



 興福寺は藤原氏の氏寺であった。 宝印に藤原氏の家紋が用いられている。
 火焔宝珠に見立てた「上り藤」が使われているところが面白い。



不空羂索観音の種子 「モー」




         春の日は  南円堂に  かがやきて
                         三笠の山に  晴るるうす雲

  

Posted by 閑人 at 18:49Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年02月21日

番外札所 法起院


西国三十三ヶ所 番外札所 法起院




豊山 (ぶさん)  法起院  (ほうきいん)  開山堂 (かいざんどう)

〔所在地〕 (大和國) 奈良県桜井市初瀬776

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 徳道上人 (とくどうしょうにん)

〔創建〕 天平7年 (735)

〔御本尊〕 徳道上人像

〔御宝号〕 南無徳道上人 (なむとくどうしょうにん)

〔略縁起〕 法起院(ほうきいん)は奈良県桜井市に所在する長谷寺の塔頭寺院である。 宗派は真言宗豊山派。 本尊は徳道上人。 西国三十三ヶ所番外札所である。
 寺伝によれば奈良時代の天平7年(735)に西国三十三箇所を創始したと伝えられている徳道上人がこの地で隠棲した事に始まるとされる。 徳道上人は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われる。 当院の名称はそれに由来する。
 江戸時代前期の元禄8年(1695)、長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。 徳道上人像を安置し、境内には上人御廟の十三重石塔や、触れると願いが叶うという上人沓脱ぎ石などがある。


        本堂 (開山堂)        上人御廟十三重石塔       上人沓脱ぎ石



   多羅葉樹(葉書きの木)        末広稲荷大明神           馬頭観音堂




御本尊   徳道上人坐像   上人御自作 (寺伝)
 養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるように委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられてこの世に戻された。 上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむなく宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
  二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しになり、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。
 当法起院は上人が晩年隠棲されたところで、本尊は上人ご自作と伝えられる上人本尊を奉安しています。
 香煙でくすぶった茶褐色のお顔に、上人のお姿をご想像ください。




納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「開山堂」
          「法起院」

 〔御朱印〕   「西國三十三靈場開基徳道上人」
      「一番始め」という意味で、丸に梵字の 「ア」
          「大和國長谷寺開山坊」




 御本尊は徳道上人像であるから、「ア」字は徳道上人の種子と思ったのだが、これは違った。
 納経所の説明では、「ア」字は「一番始め」という意味で用いられている。
 長谷寺及び西国三十三観音霊場の「開基」という意味であろう。

 「ア」字は梵字の基本字である。 弘法大師が著した『梵字悉曇字母并釈義』には、最初に「ア」字の発音・特性・字義などが説かれる。 「阿、音は阿。 訓は無・不・非なり。 阿字は是れ一切法教の本なり。 凡そ最初に口を開く音は皆阿の声あり。 若し阿の声を離れては則ち一切の言説なし。 故に衆声の母として又衆字の根本となす。 一切諸法本不生の義なり。 内外の諸教皆此の字より出生す。」とある。


梵字 「ア」




          極楽は  よそにはあらじ  わが心
                         おなじ蓮の  へだてやはある


  

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2012年02月15日

第8番 長谷寺


西国三十三ヶ所 第8番札所 長谷寺




豊山 (ぶさん)  長谷寺 (はせでら)

〔所在地〕 (大和國) 奈良県桜井市初瀬731-1

〔宗派〕 真言宗豊山派 (総本山)

〔開基〕 徳道上人 (とくどうしょうにん)

〔創建〕 朱鳥元年 (686)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか


本堂 (国宝)




〔略縁起〕 長谷寺の起源は天武天皇の朱鳥元年(686)に遡る。 寺所蔵の国宝「銅版法華説相図」の銘文に、その年、道明上人が飛鳥浄御原の天皇の病気平癒を祈ってこの銅板を造らせたとある。 方形の銅版の中央に多宝塔、周囲に三尊仏、七尊物、千仏などを浮き彫りにしたレリーフは、白鳳美術の名品である。
 その後、神亀4年(727)に西国三十三所の創始者、徳道上人(とくどうしょうにん)が十一面観音菩薩像を安置し、観音霊場として多くの人々から篤く信仰されるようになった。
 『源氏物語』・『枕草子』・『今昔物語集』など平安文学に「初瀬詣で」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで賑わった様子が描かれている。
 伽藍は斜面に広がり、仁王門を入ると長い登廊が山腹の本堂へ通じている。 屋根付きの回廊形式で長さ200m、399段。 天井からは長谷型灯籠が下がって風情もひとしお。 本堂の正堂(内陣)は間口九間、奥行き五間。その前に礼堂を設け、表は広々とした舞台造り。 木造建築物としては東大寺大仏殿、吉野山蔵王堂に次ぐ規模という。慶安3年(1650)に徳川家光が再建したもので国宝。


        愛染堂               一切経堂              三部権現社



         登廊                 五重塔              普門院不動堂





       御本尊  十一面観音菩薩立像  -重要文化財-
 木造  像高1018cm   天文7年(1538)
 木像としては日本最大級の巨像である。 蓮華座ではなく盤石に立ち、観音を象徴する蓮華の入った水瓶を左手に、地蔵菩薩の持物、錫杖を右手にし、観音と地蔵の徳を併せ持つとされる。 長谷観音がきわめて篤く信仰されたため、この特異な観音像は全国的に広まり、「長谷寺式観音」という仏像の1ジャンルを形成している。
 この観音像は、神亀4年(727)に徳道上人によって造立されたが、平安時代に火災によって焼失し、以後7度も再興と焼失をくり返し、現在の像は8代目である。 4度目の再興を快慶が手がけており、現在の安定感のある穏やかな姿も、どこか快慶の作風を受け継いでいるようにも感じられる。





納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「大悲閣」
          「長谷寺」

 〔御朱印〕   「西國第八番」
       蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
          「長谷寺本堂印」





十一面観音の種子 「キャ」




         いくたびも  参る心は  はつせ寺
                          山も誓ひも  深き谷川



  

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2012年02月07日

第7番 岡寺


西国三十三ヶ所 第7番札所 龍蓋寺




東光山 (とうこうざん)  龍蓋寺(りゅうがいじ)     通称 岡寺 (おかでら)

〔所在地〕 (大和國) 奈良県高市郡明日香村岡806

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 義淵僧正 (ぎえんそうじょう)

〔創建〕 天智天皇2年 (663)

〔御本尊〕 二臂如意輪観世音菩薩

〔真言〕 おん はんどめい しんだまに じんばら うん

〔略縁起〕 日本最初の厄除け霊場岡寺は飛鳥の東、山の中腹にある。
 創建は天智天皇2年(663)。 法相宗の祖ともいわれる義淵僧正が草壁皇子の亡き後、住まいであった岡宮をもらいうけ、寺を建立したのが始まりと伝えられている。 義淵僧正は良弁、行基など多くの名僧の師であり、竜門寺、道明寺などの寺も建立した。  その義淵僧正の出生は謎である。 寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。 観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇(天武?)が引き取り、岡の宮で養育されたと云う。
 龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。 この地に大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍を義淵僧正がその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。 その時の池が本堂前にある龍蓋池である。
 古来より「やくよけの観音様」として人々の信仰が厚く、鎌倉時代の『水鏡』にも、二月初午の日には必ず岡寺に参詣したと記録されている。


       桜門 (仁王門)  -重文-                   本堂











        開山堂                龍蓋池              十三重石塔





御本尊  如意輪観音坐像  -重文-
 塑像  像高 458cm  奈良時代 (8世紀)
 古くから厄除け観音として信仰を集めてきた。 奈良時代の作で、高さ4.58mの塑像は日本最大の土佛である。 重文に指定されており、弘法大師がインド、中国、日本と三国の土を合わせて造ったという壮大な寺伝がある。
 塑像は大きくなりすぎると自重で崩壊してしまうので、この像の大きさが限界に近いであろう。 密教移入後の如意輪観音は六臂の像が多くなるが、この古像は二臂像で右手を施無畏(せむい)印、左手を与願(よがん)印とする。 頭部は制作当時の状態がよく残り、奈良時代の仏らしく威厳に満ちた面貌であるが、体部については後世にかなり補修が施されている。 とくに細部は制作当初の半跏(はんか)から現在では結跏趺坐(けっかふざ)に改められている。





納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「厄除大悲殿」
         「岡寺」

 〔御朱印〕  「西國第七番」
     蓮華宝珠の中に如意輪観音の種子「キリク」
     昇り龍と下り龍の間に「龍蓋寺」



   第6番壺阪寺と同じく、宝印に特殊な「キリク」字が用いられている。
   一般的なキリク字とは違い「イー点」が上につく。
   お寺の説明では、古くから使われており、その由来は判らないと云う。


如意輪観音の種子「キリク」




          けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔
                          さながら瑠璃の 光なりけり


  

Posted by 閑人 at 13:14Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年02月02日

第6番 壺阪寺


西国三十三ヶ所 第6番札所 南法華寺




壺阪山 (つぼさかさん)  南法華寺 (みなみほっけじ)    通称 壺阪寺

〔所在地〕 (大和國) 奈良県高市郡高取町壷阪3番地

〔宗派〕 真言宗

〔開基〕 弁基上人 (べんきしょうにん)

〔創建〕 大宝3年 (703)

〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 大宝三年(703)、元興寺の弁基上人がこの山で修行中、愛用の水晶の壺中に観世音菩薩を感得。 壺を坂の上の庵に納め、観音像を刻んで祀ったのが始まりという。  養老元年(717)、元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。 平安時代には清和天皇、藤原道長ら貴顕の参詣が相次ぎ、霊験の山寺として、また真言密教の一大道場として繁栄した。 『枕草子』には「寺は壺阪。笠置。法輪」と名を挙げられており、その隆盛ぶりがうかがえる。
 礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。 胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。 殊に眼病に霊験あらたかな観音様である。
 明治の初め、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃『壺阪霊験記』は、壺阪寺に伝わる観音霊験譚を下敷きに書かれたもの。 こうした物語が伝えられるほど、壺阪寺の観音様は目の観音様として広く信仰を集めてきた。
 また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。


           禮堂 (重文)                      八角円堂 (本堂)











      三重塔 (重文)          山門 (仁王門)             多宝塔



      お里・澤市像         大釈迦如来石像と三尊像     大涅槃石像と大観音石像





御本尊   十一面千手観音坐像

 木造  像高240cm  室町時代
 室町時代に再興された丈六の巨像。 素地仕上げで頭髪のみ彩色する様式は平安時代初期の壇像を思わせ、ふくよかで威厳のある面貌もどこか平安彫刻を感じさせる。
 日本における千手観音信仰は奈良時代後半に始まったとといわれ、第5番札所葛井寺の千手観音像が現存最古の千手尊とされている。 しかし、壺阪寺の創建時期が白鳳時代に遡ることはまちがいなく、創建当初から千手坐像を本尊としていた可能性を全面的に否定することはできない。 千手観音信仰の成立時期をめぐる議論に一石を投じる可能性もある魅力的な本尊である。




納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「普照殿」
         「壺阪寺」

 〔御朱印〕  「西國第六番」
     蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
         「壺阪山南法華寺」



   宝印に特殊な「キリク」字が用いられている。
   一般的なキリク字 とは違い「イー点」が上につく。
   お寺の説明では、伝統的に使われており、その起源は定かではないと云う。


千手観音の種子「キリク」




         岩をたて 水をたたえて 壺阪の
                        庭にいさごも 浄土なるらん


  

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2012年01月27日

第5番 葛井寺


西国三十三ヶ所 第5番札所 葛井寺




紫雲山 (しうんざん)  葛井寺 (ふじいでら)

〔所在地〕 (河内國) 大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16-21

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 行基菩薩

〔創建〕 神亀2年 (725)

〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、葛井寺も百済(くだら)王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。
 永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による2km四方の七堂伽藍の建立で、当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。 古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
 その聖武天皇が春日仏師、稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。
 当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。 秘仏。毎月十八日に開扉、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。


             南大門                            本堂











        大師堂                護摩堂               阿弥陀堂





御本尊 (秘仏)   千手観音坐像   -国宝-
脱活乾漆造   像高131.3cm   奈良時代 (8世紀)
 大小1041本の手をそなえる圧倒的な姿。 胸前で合掌する両手以外の手は、背後に立てられた2本の支柱にとりつけられている。 麻布を貼り重ね、漆で表面を成形する脱活乾漆という手間のかかる技法で造られ、その精妙な造形によって穏やかに理知的な表情を写実的に表現している。 誇張のない体躯は、比例がよく整っていて堂々としており、お顔とよく調和している。 衣紋の隆起は高く、写実的な手法が一貫しており、天平時代の円熟しきった技巧手法が発揮された傑作である。
 大阪府下で唯一の天平時代の作品というにとどまらず、日本彫刻史上、奈良の唐招提寺の乾漆立像と双璧と讚えられる乾漆像の傑作として、昭和13年に国宝に指定された。




納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「大悲殿」
         「葛井寺」

 〔御朱印〕  「西國第五番」
   蓮華台に「葛井寺」
   宝珠の中に手千観音の種子「キリク」
         「葛井寺納経所」




千手観音の種子「キリク」




          参るより 頼みをかくる 葛井寺
                           花のうてなに 紫の雲

  

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2012年01月20日

第4番 槇尾寺


西国三十三ヶ所 第4番札所 施福寺




槇尾山 (まきのおさん)  施福寺 (せふくじ)     通称 槇尾寺 (まきのおでら)

〔所在地〕 (和泉國) 大阪府和泉市槙尾山町136

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 行満上人 (ぎょうまんしょうにん)

〔創建〕 欽明天皇時代 (539~571)

〔御本尊〕 弥勒菩薩 (本堂本尊)
       十一面千手千眼観世音菩薩 (西国札所本尊)

〔御真言〕 おん まいたれいや そわか (弥勒菩薩)
       おん ばざら だるま きりく そわか (千手観音)

〔略縁起〕 当山は第29代欽明天皇の勅願によって、行満上人が丈六の弥勒像を本尊として開創したという。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺。 役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり、弘法大師空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名。 槇尾(巻の尾)とは役の行者が法華経を峯々に納めて、最後に当山に納経したので山号となった。
 本堂は弘化2年(1845)の焼失後、安政年間(1854~1860)に復興されたものである。 本尊は弥勒菩薩、両脇に千手観音と文殊菩薩を安置し、このうち千手観音が西国三十三箇所の札所本尊となっている。
 西国札所巡礼の中興者とされる花山法皇を馬が道案内をしたと伝えられており、本尊と背中合わせの後堂(本堂の裏側)には馬頭観音が安置されている。
 空海が得度して剃髪したとされる愛染堂や、その毛髪を祀るとされる弘法大師御髪堂がある。


山門 (仁王門)



 愛染堂(弘法大師御剃髪所)       弘法大師御髪堂           満願弁財天






御本尊 (秘仏)   十一面千手観音立像

木造  江戸時代
施福寺の千手観音は、当初は縁起のとおり法海上人時代に造像がなされたと推測され、日本における十一面観音像の初期例であったにちがいない。
 残念ながら当初の像は焼失し、現本尊は江戸時代(元禄期か)に再興されたものである。






納経帳

 〔御墨書〕  「奉拝」
         「大悲殿」
         「施福寺」

 〔御朱印〕  「西國第四番」
         「佛法僧寶」
         二重輪紋に「薬」


 宝印は斜めになっているが、「佛・法・僧・寶」と読める。
 寺印に「薬」の一文字。 山号・寺号にもない「薬」の文字が用いられている。
 納経所の説明では、その昔、この寺では「薬」を取り扱っていた。
 『薬施院』とも云うとのこと。 院号からとったものなのであろう。



千手観音の種子「キリク」





         深山路や 檜原松原 わけゆけば
                          巻の尾寺に 駒ぞいさめる


  

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2012年01月13日

第3番 粉河寺


西国三十三ヶ所 第3番札所 粉河寺




風猛山 (ふもうざん)   粉河寺 (こかわでら)

〔所在地〕 (紀伊國) 和歌山県紀の川市粉河2787

〔宗派〕 粉河観音宗 (総本山)

〔開基〕 大伴孔子古 (おおとものくじこ)

〔創建〕 宝亀元年 (770)

〔本尊〕 千手千眼観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら だるま きりく


     大門 (仁王門) -重要文化財-         中門 (四天王門) -重要文化財-










〔略縁起〕 開創の由来は、当寺所蔵の『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
 奈良時代末の宝亀元年(770)、紀伊国那賀郡に住む猟師大伴孔子古が光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。 ある日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願いを叶えるため、七日七夜庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
 時は移り、河内国の長者佐太夫の一人娘の長患いを、童行者が千手陀羅尼を誦して祈祷、娘の病は回復した。 童行者は長者のお礼を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴を手に、「紀伊国那賀郡粉河の者」とのみ告げて立ち去った。
 翌年春、長者一家は粉河を訪れ庵を発見、扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。
 粉河寺は鎌倉時代には七堂伽藍が整い隆盛をきわめたが、天正十三年(1585)、豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。 その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。
 現在の諸堂は大小20有余数えられるが、何れも江戸時代の代表的な寺院建築物であり、西国三十三ヶ所の中では最も大きい本堂を初め、千手堂・大門・中門の4棟は重要文化財に指定されている。 又、本堂前の左右に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭と云われ、名勝に指定されている。


        本堂 -重要文化財-                千手堂 -重要文化財-











        童男堂               産土神社                念仏堂






御本尊 (秘仏)  千手観音立像

 鎌倉時代の絵巻物の傑作として知られる『粉河寺縁起絵巻』(国宝)にも描かれる粉河寺の本尊は、絶対秘仏となっている。 御開帳の前例がなく、そのお姿を拝することはできない。
 その代わりに、こちらも秘仏である千手堂の本尊が御開帳される。 本堂の本尊と同様、千手観音立像である。 像高70cm、木造寄木造。
 この像と『粉河寺縁起絵巻』に描かれた姿から、絶対秘仏のお姿に思いをはせてみてはどうだろう。





納経帳
〔御墨書〕  「奉拝」
        「大悲殿」
        「粉河寺」

〔御朱印〕  「西國第三番」
  蓮華台に「粉河寺」
  宝珠の中央に千手観音の種子「キリク」
  下から時計回りに「オン」・「バ」・「ザラ」・「ダ」・「ラマ」の梵字
        「粉河寺印」




  梵字は、千手観音の真言「おん ばざら だるま きりく」と読める。



          「オン」    「バ」    「ザラ」    「ダ」    「ラマ」   「キリク」




         父母の 恵みも深き 粉河寺
                        ほとけの誓ひ たのもしの身や


  

Posted by 閑人 at 12:40Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年01月08日

第2番 紀三井寺


西国三十三ヶ所 第2番札所 金剛宝寺




紀三井山 (きみいさん)  金剛宝寺 (こんごうほうじ)     通称 紀三井寺

〔所在地〕 (紀伊國) 和歌山県和歌山市紀三井寺1201

〔宗派〕 救世観音宗 (総本山)

〔開基〕 為光上人 (いこうしょうにん)

〔創建〕 宝亀元年 (770)

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか


              本堂                            楼門











〔略縁起〕 紀三井寺は今から約1240年前の宝亀元年、唐僧為光上人によって開基された霊刹です。 伝教の志篤い上人は、身の危険を省みず渡来され、全国行脚の途中たまたま逗留された当山で、金色燦然と輝く千手観音様のお姿をご感得になり、一刀三礼の下に刻まれた十一面観音様をご本尊として開創されました。
 境内には、本堂を中心に、楼門、多宝塔、鐘楼といった室町、桃山時代建立の国指定重要文化財の古建築がいらかを並べ、和歌の浦の絶景を見晴るかす景勝地として、年間大勢の参詣者が訪れます。
 紀三井寺という寺名は、紀州にある三つの霊井のあるお寺という意味で、境内には今もつきることなく清浄水・楊柳水・吉祥水の三井水(昭和60年、環境庁が「日本名水百選」選定)が湧き出しています。


        六角堂                 鐘楼                 清浄水




御本尊 (秘仏)   十一面観音立像  -重文-
木造 像高156.7cm  平安時代
 紀三井寺は十一面観音を本尊としているが、もう1体、本尊と同格で尊崇される千手観音像がある。 いわばダブル本尊で、いずれも50年に1度しか開扉されない秘仏である。
 本尊・十一面は左手に宝瓶をもち右手を下げた姿、千手は通常の40手のほかに約1000本もの小さな手があることに注目したい。 10世紀の作とされるが、両像とも古拙というべきほがらかでたおやかな表情をもつ。
 またこの両像以外にも重文指定の観音像、梵天像、帝釈天像があり(いずれも平安時代)、仏像の充実度では札所のなかでもトップクラスである。




納経帳

〔御墨書〕  「奉拝」
        「救世殿」
        「紀三井山」

〔御朱印〕  「西國第二番」
  蓮華台に「紀三井山」
  宝珠内の中央に十一面観音の種子「キャ」
  右に梵天の種子「ボ」  左に帝釈天の種子「イー」
        「金剛寶寺」




 御本尊十一面観音立像の両脇侍仏として、梵天像・帝釈天像が祀られていることが判る。
 梵天と帝釈天とは一対の像として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称する。



           帝釈天「イー」     十一面観音「キャ」       梵天「ボ」




        ふるさとを はるばるここに 紀三井寺
                             花の都も 近くなるらん

  

Posted by 閑人 at 19:57Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所

2012年01月07日

第1番 青岸渡寺


西国三十三ヶ所 第1番札所 青岸渡寺




那智山 (なちさん)  青岸渡寺 (せいがんとじ)

〔所在地〕 (紀伊國) 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 裸形上人 (らぎょうしょうにん)

〔創建〕 仁徳天皇御代 (313~399)

〔御本尊〕 如意輪観世音菩薩

〔真言〕 おん ばらだ はん どめい うん


       青岸渡寺本堂 (如意輪堂)                 山門 (仁王門)











〔略縁起〕  当山は仁徳帝の頃(三一三~三九九)印度より裸形上人が熊野の浦に漂着、現在の堂の地に庵を結んだのに始まると伝えられている。 その後、推古帝(五九三~六二八)の時大和より生仏上人が来山し、玉椿の大木をもって、現在の本尊(御大約四米)を彫り、裸形上人感得の観世音菩薩を胸仏として納め安置す。 のち推古帝の勅願寺となり、那智霊場の中心として熊野信仰を育んできた。 従って御本尊如意輪観世音菩薩の霊験を受けんとして、日夜礼拝修行する者その数を知らず、又天皇上皇の尊崇も深く、殊に平安時代、人皇六十五代花山上皇が滝の上の山中に庵を造り、三ヶ年御修行の後、当山より西国三十三ヶ所観音霊場巡拝の旅に出られた。 当時より長きに亘り巡拝の寺として親しまれている。 当山は古くより那智山如意輪堂と称していたが明治の神仏分離によってその形態が変わり以来青岸渡寺と称するようになった。 現在の建物は天正十八年、豊臣秀吉公が、発願再建されたもので、桃山時代様式の建物として南紀唯一の重要文化財である。
-青岸渡寺案内板から抜粋-



   宝篋印塔(重要文化財)         那智大黒天            梵鐘(鎌倉時代)




熊野那智大社拝殿


熊野那智大社
 仁徳天皇5年那智の滝より社殿をこの地に移し、夫須美大神を祀られたのが「熊野那智大社」の起こりです。 後に仏教、修験道の隆盛と共に熊野権現として崇められ上皇、女院、武将や庶民の参拝が増し継続して詣でる様子を「蟻の熊野詣」と称しました。
 御社殿は熊野造と申し、現在の建物は豊臣の世に再興し享保、嘉永の大改修を経て昭和10年の御修覆で、平成7年国指定文化財となっています。 社前には後白河上皇御手植と伝える枝垂桜や平重盛の手植と申す大楠、八咫烏にまつはる烏石等があります。



那智の瀧 飛瀧神社


那智の瀧 飛瀧神社
 那智のお瀧は那智の奥山から湧き出でている清い川水で断崖にかかり落差133mの瀧で日本一の名瀑と云われています。
 神倭磐余彦命がこの御瀧を大己貴命の御霊代とし祀り後に飛瀧権現と称え今では熊野那智大社の別宮で飛瀧神社と申します。
 修験道では瀧修行場として最高の霊場とし文覚上人の荒行などで有名であります。
 お瀧水は古来「生命の母」と崇め延命長寿の霊水とする信仰が伝えられています。
 この那智の瀧付近は「世界遺産」であり吉野熊野国立公園特別地域・国指定名勝・那智原始林は天然記念物でもあります。




御本尊 (秘仏)  如意輪観音坐像
木造 像高約300cm
如意輪観音は法輪を転じて意の如く衆生を救い、延寿、安産、除難に功徳があるという。
推古天皇の勅願により、大和の生仏上人が椿の大木に刻んだという伝承をもつ当寺の本尊は、像高約3メートルの巨像。 彩色をほどこさない素地像で、その面貌は端正で美しい。
壇像彫刻の模古作で、本堂が再建された時の再興像と考えられている。 六臂の右第一手で頬杖をつき思惟のポーズをとり、右ひざを立てる輪王坐とする典型的な如意輪観音像である。




納経帳
〔御墨書〕  「奉拝」
        「普照殿」
        「那智山」

〔御朱印〕  「西國第壱番札所」
  蓮華台に「那智山」   宝珠の中に如意輪観音の種子「キリク」
        「那智山納経所」




如意輪観音の種子 「キリク」




       補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の
                       那智のお山に ひびく滝津瀬


  

Posted by 閑人 at 16:36Comments(0)TrackBack(0)西国三十三ヶ所