2013年12月07日

第33番 那古観音


坂東三十三ヶ所 第33番札所 那古観音





補陀洛山 (ふだらくさん)  那古寺 (なごじ)       通称 那古観音

〔所在地〕 (安房国) 千葉県館山市那古1125

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 養老元年 (717)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『那古寺縁起』によれば、養老元年(717)、僧行基が老翁のお告げにより、ここの海中より香木を得て千手観音像を刻んだ。 元正天皇の御悩平癒の祈念したところ、直ちに効験があったので、勅願によって山上に伽藍が建てられたとある。 のちに慈覚大師が止住せられ、さらに正治年間(1199~1201)、秀円上人(しゅうえんしょうにん)に至って真言密教の霊場となった。
 源頼朝がこの御本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏・里見義実もあつい信仰を捧げた。 特に里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張し、江戸時代初期には末寺十五ヶ寺、駕籠側八人衆、三百石を領する大寺となった。
 元禄16年(1703)の大震災で堂塔は全壊したが、江戸幕府は岡本兵衛を奉行として、宝暦8年(1758)、場所を現在地に遷して再建された。



御本尊の御影





御住職の法話

    山主の観音日誌より         那古寺第六十二世山主 石川良泰

 ある日一人の老婦人が本堂での読経後静かに私に語りかけた。
 私は近くの農村から戦前横浜に嫁いだ者です。 空襲で焼け出され幼い子供の手を引いて故郷の母を頼って帰りました。 ある時、母と二人、郡古観音さまの緋縁に座し、このまま田舎に帰って百姓をするか、再び横浜に出るか迷いに迷いました。
 その時母に「今のお前にはいずれにしても住むに家なしだ。 故郷で兄にわずかな農地を分けてもらい、小百姓となってもうだつもあがらぬ。 苦労も多い。 同じ苦労するなら空襲で死んでしまったつもりで横浜へ出て一生懸命働きなさい」と言われて、泣き泣き横浜へ出た。
 それからは頑張りに頑張って働いた。 おかげで子供も成功を収め、今では親戚一番の幸せ者とほめられるようになった。 私は毎年故郷へ帰るとまずお観音さまに詣で、次に今はなき母の墓前にぬかづき、さらに親戚廻りをすることにしています。
 郡古観音の朱塗りの縁で母が私にさとしてくれた言葉は、母の口を通して語られたお観音さまのお告げであると固く信じて今日まで過ごして参りました。 お観音さまのお慈悲ほど有難いものはございません、と。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

     〔御墨書〕     「奉拝」  「安房國」
                梵字「キリク」  「大悲殿」
                「那古寺」

     〔御朱印〕     「坂東三十三番惣納札所」
                蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                「那古寺印」
                「結願」





千手観音の種子「キリク」





        補陀洛は  よそにはあらじ  那古の寺
                         岸うつ波を  見るにつけても



  

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2013年11月30日

第32番 清水観音


坂東三十三ヶ所 第32番札所 清水観音





音羽山 (おとわさん)  清水寺 (きよみずでら)       通称 清水観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県いすみ市岬町鴨根1270

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん)

〔創建〕 大同2年 (807)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば延暦年間(782~806)、伝教大師最澄がこの地を巡錫中に熊野権現に導かれて庵を結び観音像を感得した。 後に、慈覚大師円仁が最澄ゆかりの地に師の志をつぎ、楠の霊木で千手観音像を刻んで安置した。 大同2年(807)、坂上田村麻呂が堂宇を建立して祀ったという。
 京都の清水寺(西国16番札所)と山号・寺号とも同じ、どちらも坂上田村麻呂にまつわる伝承がある。 これに播州清水寺(西国25番札所)を加えて、「日本三清水」といわれる。



御本尊の御影




御住職の法話

     景清身代り観音               清水寺住職 井上享海

 当山にはよく知られた千手、十一面の両観世音のほかに、景清身代わり観世音が安置されています。 お名前のみでその由来などあまり知られておりませんが、由緒あるお像です。
 御名の因となった平景清は、上総国布施の産、笠松右衛門景高の息で、伯父大日坊殺害のため悪の一字を冠せられ悪七兵衛景清と呼ばれた平家の勇者でした。 弱年より観世音を信仰し、日夜誦経を怠らなかったと申します。
 源平の戦に平氏は敗れ、景清虜となって三尺の詰牢に押しこまれましたが、信心いよいよ強くお経を念じて怠ることありませんでした。 時に「景清の首打って直見に仰えよ」との頼朝公の仰せあり、御前に差し出されたその首を頼朝公がご覧じなされると、こはいかに景清の首にあらず、勿体なくも観世音の御首でございました。 頼朝公大いに驚かれ、「景清や如何に」と尋ねれば、景清牢中にて一心に経を唱えていたということでございます。 かくて、悪七兵衛景清、日頃信心せし観世音の宏大なるお慈悲により、この身を解き放たれたのでございました。
 ただいま当山にございます身代り観世音像は、この時のままの御首と両の御手のみのお姿ながら、なおも優しい笑みを浮かべて広く衆生をご覧になっておられます。 あまりにおいたわしいお姿なので、ただいまは秘仏として厨子にお納めし、非公開とさせていただいております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「上総國」
                梵字「キリク」  「大悲殿」
                「清水寺」

     〔御朱印〕     「坂東三十二番」
                蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                「上総國音羽山清水寺」





千手観音の種子「キリク」




        濁るとも  千尋の底は  澄みにけり
                           清水寺に  結ぶ閼伽桶


  

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2013年11月01日

第31番 笠森観音


坂東三十三ヶ所 第31番札所 笠森観音





大悲山 (だいひさん)   笠森寺 (かさもりじ)         通称 笠森観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県長生郡長南町笠森302

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 伝教大師最澄 (でんぎょうだいしさいちょう)

〔創建〕 延暦3年 (784)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん ろけい じんばら きりく そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば延暦3年(784)、伝教大師最澄が東国巡錫の折、尾野上の山頂に霊光を拝され、楠の霊木で七尺六寸の尊像を刻み仮堂を建てて安置し、開基になられたという。 『縁起』に大悲山楠光院と号したという。
 天慶年間(938~947)、箕作りの貧しい娘於茂利(おもり)は観音堂の雨漏りで尊像も濡れていたので不憫に思い、自分の箕笠を尊像に掛けてやった。 国司の奏上で都に上った於茂利は朱雀天皇の寵愛を得て、ついに后妃となった。 後に於茂利は尾野上に壮麗な観音堂を建立、於茂利の笠ということで、笠森と呼ばれるようになったといわれる。
 長元元年(1028)、後一条天皇の勅命で飛騨の工匠一条康頼と堀川友成が棟梁となって舞台造りの本堂が建てられた。 現在の本堂は桃山時代の再建で、国指定重要文化財。 他に例を見ない四方懸造で、岩の上に高々と組み上げられている。 二代目広重の「諸国名所百景」の錦絵にも画かれたお堂である。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音さまのお心を自らの心に・・・・・・           笠森寺住職 小川長宏

 観音さまは仏の位にありながら、仏になってしまうと衆生を救えないということであえて菩薩となっていらっしゃいます。 巡礼をされる方々は、この観音さまのお心を自らの心とするように心掛けてほしい。 菩薩の道とは一言でいえば「上求下化」ということで、自分は常に道を求めながらそのことによって下を教化する、ということです。 ですから、せっかく札所巡りを発心されたからには、姿形だけ白く清浄にするだけでなく、心から清浄になってほしいと思うわけです。
 笠森寺は草深い山の中で何もないところですが、何か心を洗われるものがあるはずです。 そのような場所であってほしいと願えばこそみんなが信仰して観音さまをお守りしております。 私自身も三百六十五日お供え物とお花を切らしたことはありません。 街なかでは当り前のことが、この山中ではなかなか難しいことです。 観音さまは生きていらっしゃると思うので、外出した折には必ず観音さまにお土産を買ってまいります。 自分が何かお願いするのに何も差し上げないわけにはいかないという気持ちからで、山寺の一和尚が一生懸命に生きている姿を、日々観音さまにご覧いただいているつもりです。
 読経の終わりを「願わくはこの経の功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生とみな仏道を成ぜんことを」と結びますが、拙いお経でどうか衆生が救われますように、と願うが故です。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕    「奉拝」   「上総國」
               梵字「キャ」   「大悲閣」
               「笠森寺」

     〔御朱印〕    「坂東三十一番」
               火焔宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
               「大悲山笠森寺之印」





十一面観音の種子「キャ」




         日はくるる  雨はふる野の  道すがら
                        かかる旅路を  たのむかさもり


  

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2013年10月18日

第30番札所 高倉観音


坂東三十三ヶ所 第30番札所 高倉観音





平野山 (へいやさん)  高蔵寺 (こうぞうじ)        通称 高倉観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県木更津市矢那1245

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 徳義上人 (とくぎしょうにん)

〔創建〕 用明天皇の御代 (6世紀後半)

〔御本尊〕 正観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 縁起によれば、草創は6世紀後半の用明天皇の御代。 徳義上人が木の梢に現れた4寸ほどの観音像を祀り、安置する堂宇を建立したという。
 この観音さまの霊験は矢那郷の猪長官(いのうちょうかん)に現われる。 四十歳になっても子のないのを嘆いた長官が、この観音さまに百日参拝の願をかけ祈ったところ一女を授けられた。 長官は大いに喜び、子与観(しよかん)と名づけた。 子与観は心清く、親切ですばらしい娘になったが、器量があまり良くないので二十歳を過ぎても良縁がなく困っていた。 そこで再び観音さまにお祈りして願ったところ、ある夜「鹿島へ行きて日天を拝せよ」とのお告げをいただき、そのとおりにして結婚、めでたく男子を得たが、これぞ藤原氏の祖「藤原鎌足」であったという。 鎌足は白雉元年(650)、七間四面の本堂、五間四面の阿弥陀堂、三層の塔、輪蔵、鐘楼、仁王堂を建立し報謝し奉ったという。
 のちに行基菩薩が丈余の観音像を彫み、その頭部内に梢で感得の尊像を納めて本尊とした。 貞観年間(859~877)には慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めたともいう。



御本尊の御影




御住職の法話

       観音信仰 = 極楽生活                高蔵寺住職 宮寺弘正

 最近は車で来られる方が多くなりましたので駐車場を設けましたが、ちょうど手頃なのでしょぅか、いわゆる暴走族と思われる若者もよくやって来ます。 初めは困ったことだと見ておりましたが、お正月にこの者たちが服装を正して観音さまにお参りに来ました。 その神妙な姿を見て、やはりこの人たちも心のどこかによりどころを求めているのだなあ、と感じ入りました。
 観音さまは本堂やお厨子の中に安置してありますが、実は私たちのこの世界におられるのです。 道を歩いている時、急に自動車が来たら、近くにいる人が「危い」と注意してくださる、それが観音さまのお姿でありお声です。 この慈悲の心が観音さまです。 観音さまはこの実社会の中に方便をもって現われ、法を説いておられます。 こう思うと、誰の言うことも観音さまの声だからよく聞かなければならないということがわかります。 ここに気づくことが極楽に入ったことになるのです。 周囲に観音さまがおられるのだから悪いことや災難は一切逃れることができるのです。 金持ちも貧しい人も、みなこの身このまま観音さまのお膝に乗って安楽に暮らすことができます。 こうなったら立腹も喧嘩もすることなく、このまま極楽生活になる ― これが観音信仰です。
 先生に連れられて来た幼稚園の子供たちが、きちんと手を合わせている姿をよく見かけます。
「ああ勿体ない」と思う次第です。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「奉拝」   「上総國」
               梵字「サ」   「観世音」
               「高蔵寺」

    〔御朱印〕     「坂東三拾番」
               蓮華宝珠の中に、中尊として正観音の種子「サ」
               左脇侍に不動明王の種子「カン」
               右脇侍に毘沙門天の種子「バイ」
               「高蔵寺印」




         毘沙門天「バイ」        正観音「サ」        不動明王「カン」





       はるばると  登りて拝む  高倉や
                      富士にうつろう  阿裟婆なるらん


  

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2013年09月21日

第29番札所 千葉寺


坂東三十三ヶ所 第29番札所 千葉寺





海上山 (かいじょうざん)  千葉寺 (せんようじ)     通称 千葉寺(ちばでら)

〔所在地〕 (下総国) 千葉県千葉市中央区千葉寺町161

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 和銅2年 (709)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『千葉寺縁起』によれば、和銅2年(709)この地を訪れた行基菩薩が池に浮かぶ蓮の花の中に阿弥陀如来と観音菩薩の二尊が並ぶお姿を感得し、丈六の観音像を刻み奉安したのがこの寺の始まり。 聖武天皇から勅額を賜り、海照山千葉寺と称したという。 発掘調査により、奈良時代後期には、金堂を中心に南大門・東大門・西大門・講堂などの伽藍を配した大寺であったことが判明している。
 平安時代末期には火災により堂宇の大半を焼失するが、中世には、源頼朝の旗揚に大きな力を与えた豪族千葉氏の祈願所となり、堂宇の修築がなされ大いに栄えた。 鎌倉幕府成立後、源頼朝はこの寺に運慶作の愛染明王像を寄進している。
 しかし豊臣秀吉の小田原攻めの際に北條氏と共に千葉氏は滅亡した。 天正18年(1590)、徳川家康が朱印百石を寄せ、二代将軍秀忠の参詣も再度にわたり、元和9年(1623))に観音堂が新築され、将軍家とのゆかりによって大いに寺格を高めた。 その後幾度の火災に遭い、堂舎什宝を失うも、そのつど近隣への勧進をはじめ、江戸へご本尊の出開帳を催すなどして浄財をあつめ再興している。
 文政11年(1828)建立の広壮な構えで知られた観音堂は昭和20年の戦災で失われたが、昭和51年に再建された。


御本尊の御影





御住職の法話

      観音さまと私           千葉寺前住職 藤澤利恭

「アッ、この子だ、おじいちゃんの生まれ代わりの子は」叔父たちは私の頭にあるあざを指して叫んだ。 大正四年の夏母の里帰りの日のことである。
 母の生家は奈良県桜井市白木中森家で、祖父は医者であったが、西国八番札所長谷寺に毎朝参拝し、来世は僧に生まれ代わるよう願をかけていた。 祖父の死後霊媒者にその死後のことを尋ねると「私は極楽の上座に住むことができた。 私の分身はもう生まれている。 頭に印があり、天竺に詣り天寿を全うする・・・・・・」等々。
 それから十七年後、私は長谷寺で八十日の加行にも堪え、インドの釈尊遺跡巡拝など、予言どおりになった。 人の大半は生まれ代わるのである。
 ありがたい観音さま、いつも真心をもってお祈りすれば必ずお救いくださることを信じないわけにはいかない。 ありがたい、すまない、もったいないと拝む人は拝まれる人でもある。
 浄業成就を祈る。
 南無大慈大悲観世音菩薩           合掌
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「海上山」
                梵字「キャ」   「大悲閣」
                 「千葉寺」

     〔御朱印〕     「坂東廿九番」
                「?」 (判読不明)
                「千葉寺印」





御宝印
 難解な御宝印である。 文字と思われるのであるが、判読不明である。
 お寺の話でも、十一面観音に因む御宝印とだけ伝わっており、詳しいことは判らないという。
 何らかの意味をもつ御宝印と思われますので、判る方いらっしゃれば、お教え願いたい。





十一面観音の種子「キャ」




        千葉寺へ  詣る吾が身も  たのもしや
                          岸うつ波に  船ぞうかぶる


  

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2013年09月13日

第28番札所 滑河観音


坂東三十三ヶ所 第28番札所 滑河観音





滑河山 (なめかわさん)  龍正院 (りょうしょういん)    通称 滑河観音

〔所在地〕 (下総国)  千葉県成田市滑川1196

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈覚大師 (円仁)

〔創建〕 承和5年 (838)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 縁起によれば、承和5年(838)、下総一帯が冷害に見舞われた時、領主の小田将治が観世音菩薩に祈願したところ、老僧が小田川から十一面観音像をすくいあげ「この淵より湧く乳水をなめよ」と教えた。 これが滑河の地名の由来で、この観音像を納めて堂を建立したのが始まりという。 開山は慈覚大師円仁で、大師の高弟修円が伽藍を整えたと伝えられる。 江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう下知状(現存)を下された天台宗門の古刹である。
 大きな注連縄がかかる仁王門は永仁6年(1298)の造営。 享保年間(1716~1736)の火災にはこの仁王尊が大きな扇で火焔をあおぎかえし、門前集落を救ったという。 これより火伏の仁王尊として信仰が篤く、竜神型の注連縄が毎年正月8日に奉納される。



御本尊の御影





御住職の法話

    観音さまのご利益              龍正院住職 廣瀬孝泉

 娘が小学校一年生の時、盲腸炎で入院したことがあります。 朝からお腹が痛いと言うので近くのお医者さんに診ていただいたところ盲腸炎、すぐ入院手術をするようにと言われました。 家内は下の子を出産して一ヶ月もたたないので、私が付添いました。
 手術も無事終わり、病室に戻って来ました。 「お腹を切ったところが痛くなったらお父さんの手ををぎゅっと握りなさい。 観音さまが直してくれるからね」 「はい」 幼いながらもわかったのでしょう。 時々「う-ん」と唸りながら私の手を握ります。 少し経つと眠り、また手を握りしめ、を繰り返して夜が明け、一声も泣きませんでした。 翌朝隣室のおばさんが「どうしたのよ、ひとつも泣かないで。 昨夜は眠れないと覚悟していたのよ」とびっくりしていました。 娘は「観音さまが痛くないようにしてくれたの」 「う-ん。 そうだったの。 ありがたいねぇ」
 おかげさまで隣室の方々にも迷惑はかけずにすむし、私もおろおろせずにすみ、これが本当のご利益と感銘を受けたことでした。 小さい時から私と一緒に本堂に上りお勤行をしておりましたため、観音さまのご利益をいただけたと思っております。 その娘も今は二児の母親となり、母子共に健康に暮らしてまいりました。 また、観音様のご縁をいただいて、現在は当山の住職となりました。 二人の孫は得度して、お弟子となりました。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「下総国」
               梵字「キャ」  「観世音」
               「滑河山」

    〔御朱印〕     「坂東二十八番」
               蓮華宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
               「滑河山龍正院」




十一面観音の種子「キャ」




         音にきく  滑河寺の  朝日ヶ渕
                         あみ衣にて  すくふなりけり


  

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2013年09月07日

第27番札所 飯沼観音


坂東三十三ヶ所 第27番札所 飯沼観音





飯沼山 (いいぬまさん)  圓福寺 (えんぷくじ)      通称 飯沼観音 (銚子観音)

〔所在地〕 (下総国)  千葉県銚子市馬場町293

〔宗派〕 真言宗

〔開基〕 弘法大師

〔創建〕 神亀5年 (728)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『坂東霊場記』によれば、神亀5年(728)二人の漁師が光り輝く海から十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、仮堂を造って安置し、出家して寺を守ったという。 のちに弘法大師が訪れて本尊の蓮座を造り、さらに土地の豪族海上(うなかみ)長者が大師の高徳を慕ってこの本尊に深く帰依し、大伽藍を建立したと伝わる。
 鎌倉から足利時代にかけては、千葉氏同族の海上氏(うなかみし)の保護のもとに、十ヶ坊を有する大寺院となり、坂東観音霊場の札所として栄えた。 天正19年(1591)、徳川家康より朱印を賜わり諸堂を整備し、十間四面の大本堂が造営された。 このお堂が戦災前まで広壮な姿を見せていたのは人のよく知るところである。
 昭和20年に空襲に遭い、本坊客殿以外のすべての堂宇を焼失した。 観音堂の再建は、昭和46年に衆庶の信助によって竣功され、平成21年には五重塔が建立された。



奥の院 満願寺



 圓福寺から南東約4kmの景勝地・犬吠埼の近くには、奥の院・満願寺がある。
 満願寺は圓福寺の御本尊十一面観世音菩薩の写しの尊像を奉安し、坂東札所巡りの巡礼が中心になり、満願成就した報恩感謝のために昭和51年に開創されたもの。  現在は27番飯沼観音・圓福寺の奥の院となっている。



御本尊の御影





御住職の法話

     観音信仰の奇跡              円福寺住職 平幡良雄

 現観音堂完成間近のこと、二十日ほど前から湯水も喉を通らず危い状態であった観音地内入口の砂場食堂のおじいさん宅から、すぐ来て欲しいと連絡を受けました。 急いで行くと、当時竣工間際だった観音堂再建工事が心配だったようで、半紙に大きく「観音さまをお願いします」と私宛の遺言状がありました。 翁はすでに死相を呈していました。 「観音さまがお守りくださるから大丈夫ですよ」と励まし、寺へ戻って病気平癒の御護摩を奉修、お札を翁の枕元に安置しました。 翁は戦火で焼失したお堂再建に最も熱心な総代で、長い間私を励まし慰めてくださった一生の恩人です。 この恩人を救えるのは観音さましかいない、信仰あつい恩人をお救いくださいと祈念したのでした。
 私が終生忘れることのできない驚くべき奇跡が起こったのはそれからです。 翁は翌日湯水も少し通るようになり少し持ち直しました。 それから一月ほどで一応全快、部屋の中を歩けるまでに回復したのです。 観音さまの御加護で信仰深い翁は守られたのでした。
 飯沼観音は古来より家運長久、息災延命、福智増長、求子安産など諸々の善願成就すること、谷の響きに応ずるが如し、と尊信されています。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」  「銚子港」
                梵字「キャ」  「十一面観世音」
                「飯沼山」

    〔御朱印〕      「坂東第廿七番」
                「佛法僧寶」
                「飯沼山圓福寺納経所」




十一面観音の種子「キャ」





         このほどは  よろずのことを  飯沼に
                          きくもならはぬ  波の音かな


  

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2013年08月31日

第26番札所 清瀧観音


坂東三十三ヶ所 第26番札所 清瀧観音





南明山 (なんめいさん)  清瀧寺 (きよたきじ)     通称 清瀧観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県土浦市大字小野1151

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 推古天皇15年 (607)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、推古天皇の勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したのが始まりと言われる。 後に、行基菩薩が龍ヶ峰の滝で行をおこない、自ら観音像を彫り山頂の滝口に安置したとも伝わる。 さらに後、花山法皇が老人や幼子にも縁が結ばれるようにと願ったことから、徳溢法師が、堂を不便な山頂から山の中腹に移転したとの伝承もある。
 鎌倉時代には幕府の功臣八田知家の庇護のもとに栄えた。 天正年間(1573~1592)の兵火で七堂伽藍の大堂宇を焼失するも、元禄年間(1688~1701)に、現在地へ本堂が再建された。
 しかし、明治の神仏分離と廃仏毀釈の影響を受けて寺運は急速に衰えた。 寺は無住となるが、小野の村人たちが輪番でこれをささえてきた。 しかし昭和44年、不審火により仁王門のみを残して焼失、御本尊も失われてしまう。
 現在の本堂は昭和52年に地元の人々の篤志でようやく再建されたもの。 新しい御本尊の聖観音像は、23番札所観世音寺のご住職より寄進され、昭和54年に開眼された。 寺は現在も無住だが、地元の人々が寺を管理し、老人会有志が納経所奉仕を行なって、札所としての歴史を伝えている。


御本尊の御影




御住職の法話

      桃咲く里で                 清瀧寺住職 古幡章善

   今もなお 人の心の変らずや
       桃咲く里の 清瀧の寺

 どなたかが、そっとご本尊にお供えしてゆかれた歌です。 清瀧寺に参られた時、何か心に感じて帰られたのでしょう。
 この寺は、近年災難が相続きましたが、多くの方々のご協力を得て、旧に増して整えることができました。
 寺も、お人の暮しも、整うというのは建物だけではありません。
 ご本尊にご奉仕する者一同、
「人の心の変らずや・・・・・・」
 という問いかけに、
「桃咲く里の清瀧寺にまたお参りください。 里人の心は今も変わりありませんよ」
と申し上げられる寺であり続けたいと念願いたしております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「南明山」
                「聖観世音」
                「清滝寺」

    〔御朱印〕      「坂東二十六番」
                「佛法僧寶」
                「清瀧」




聖観音の種子「サ」





          わが心  今より後は  にごらじな
                         清瀧寺へ  詣る身なれば


  

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2013年08月18日

第25番札所 大御堂観音


坂東三十三ヶ所 第25番札所 大御堂観音





筑波山 (つくばさん)  大御堂 (おおみどう)       通称 大御堂観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県つくば市筑波748

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 徳溢法師 (とくえつほうし)

〔創建〕 延暦元年 (782)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく


筑波山神社随神門 (旧仁王門)



〔略縁起〕 寺伝によれば、延暦元年(782)徳溢法師によって開かれ、弘仁年間(810~824)弘法大師によって真言密教の霊場となった。 これが知足院中禅寺で、神仏習合の山岳仏教の霊場として栄えた。 鎌倉時代には常陸守護の八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、のち出家して明玄となり、この寺の別当をつとめて隆盛を示した。 応永5年(1398)には落雷で堂塔を失った。 江戸時代に入り、徳川家の庇護を受けて中興。 三代将軍家光は三重塔、鐘楼、楼門を寄進するなど幕府の崇敬もあり、寺領千五百石の寺格を有し、18支院、300の住僧を数える大寺となり大いに栄えた。
 しかし、明治の神仏分離と廃仏毀釈で堂塔は破壊され、廃寺同然となる。 仁王門からは金剛力士像が取り去られ、筑波山神社の随神門とされてしまった。 わずかに本尊の千手観音像だけは破却を免れた。 寺院再興の決定がなされたのは昭和5年、その後仮堂が建てられた。 現在の本堂は、昭和36年に民家を改修して再建されたもの。



筑波山神社拝殿



筑波山神社 (つくばさんじんじゃ)

〔鎮座地〕 茨城県つくば市筑波1

〔社格〕 旧県社  常陸国筑波郡の式内社・筑波山神社二座(名神大・小)

〔御祭神〕 筑波男大神(つくばおのおおかみ) = 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
       筑波女大神(つくばめのおおかみ) = 伊弉冉尊(いざなみのみこと)

〔由緒沿革〕 筑波山頂の東西二峯に筑波男神、筑波女神二座を拝し、御神体山と仰いだ。 『常陸国風土記』、『万葉集』、『古今集』に見られる筑波山神の信仰は著しく、弘仁一四年官社と為り延喜の制、男神は名神大(従三位)、女神は名神小(正四位下)に列せられる。 筑波国造奉仕。 中世神仏習合となり慶長五年徳川家康は江戸城鎮護の霊山と崇め、春秋両度御座替祭を斎行、寛永一〇年将軍家光は神祠、堂舎を寄進改築せり。 歴代将軍尊崇篤く社領千五百石、別当、知足院改め護持院となりて明治に至る。 明治六年一〇月県社に列す。 (神社本庁別表神社)
-『神社名鑑』から-



御本尊の御影




御住職の法話

     六観音さま

 三十三観音札所は観音さまの三十三身応現の数にあわせた信仰であります。 ですが白衣観音とか瀧見観音とか魚藍観音さまなどの「三十三観音」の信仰とは別のものであります。 すなわち各札所のご本尊さまは聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・准胝あるいは不空羂索の観音のうちの一尊をおまつりしているのです。
 当寺のご本尊さまは千手観音さまです。 千本の手を持っておられるわけですが、一本の手で二十五本の手を代表しているお姿もあります。 この多くの手はわたしたちを幸せにしてくださるために、その人、その人に応じたいろいろな方法手段を観音さまが用意しておられるためのお姿なのです。 たしかにこれだけ多くの手ですと一度に何人でも救っていただけるわけで、まことに有難いことです。
 それにこの千本の手には一つずつ眼がありますので、そのどれかの眼で見守っていてくださると思うと、とても安心です。 ですから拝んでいても千本の手が少しも不思議ではありません。 坂東では十一面観音さまが十四ヶ寺、次いで千手観音さまが十二ヶ寺と多いのも、この千手観音さまを心から頼みにしている証拠でしょう。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕    「筑波山」
              梵字「キリク」   「大悲殿」
              「大御堂」

    〔御朱印〕    「坂東二十五番」
              火焔宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
              「筑波山大御堂」





千手観音の種子「キリク」





        大御堂  かねは筑波の  峯にたて
                       かた夕暮れに  くにぞこひしき


  

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2013年08月09日

第24番札所 雨引観音


坂東三十三ヶ所 第24番札所 雨引観音





雨引山 (あまびきさん)  楽法寺 (らくほうじ)      通称 雨引観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県桜川市本木1

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 法輪独守居士 (ほうりんどくしゅこじ)

〔創建〕 用明天皇2年 (587)

〔御本尊〕 延命観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 『縁起』によれば用明天皇(587)の時、中国より渡来した法輪独守居士によって開創され、推古天皇の御平癒を祈って効験あり、勅願寺となったとされる。
 光明皇后の御産(730)のみぎり、皇后は遥かに当山に安産を祈らせられて「法華経」を書写してご奉納になられた。 その効験があって安産なされたので、三重塔を寄進された。
 弘仁12年(821)、常陸国の大旱魃の折、嵯峨天皇は法華経を書写して納め給い、当山の観音さまに降雨を祈られたところ、三日にわたって満天下に雨が降ったという。 これより「天彦山」の山号を「雨引山」に改めたといわれる。 建長4年(1252)、宗尊親王が諸堂を建立、北條時頼はお前立ち本尊を納めている。 建武2年(1335)足利尊氏は祈願所に指定した。 慶長七年(一六〇二)徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与え、寺観を整えた。
 現在の本堂は天和2年(1682)の建立。 入母屋造、本瓦葺の建築で尾垂木や肘木の龍、木鼻の獏、手挟の牡丹、正面左右の窓にはめ込まれた地獄極楽図など、数多くの極彩色彫刻が印象的である。


御本尊の御影




御住職の法話

   延命長寿を授ける延命観音さま     雨引山楽法寺前貫首 川田聖定

 当山延命観世音菩薩は、今から一千三百余年前の用明天皇二年、梁の人法輪独守居士が請来した仏像であり、特に人の寿命をお守り申し上げることをご誓願とせられる、霊験あらたかな尊い観世音菩薩であります。
 ゆえに当山観世音菩薩を信仰し、日々観世音菩薩のご真言をお唱え申し、至心に祈念する時は、延命観世音菩薩の加持カをこうむることを得て、無病息災にして天寿を全うすることができるといわれているのであります。
 当山にご参詣のお方は必ず仁王門前の百四十五枚の大石段をお登りになりますが、この石段は俗に〝厄除け長命の石段〟といわれ、ご真言を唱えながらこの石段を登ることにより、長命できると信ぜられております。
 幾百年の長きにわたり、人々の足によってすり減って丸くなった花崗岩の石段の一つ一つに、ご利益の探遠さと延命長寿を祈念した人々の信仰の跡を感ずるものがあります。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕    「常陸国」
               「延命観世音」
               「雨引山」

     〔御朱印〕    「坂東二十四番」
               「蓮華火焔宝珠に三宝珠」
               「常州  楽法寺  雨引」





観世音菩薩の種子「サ」




         へだてなき  誓をたれも  仰ぐべし
                             佛の道に  雨引の寺


  

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2013年08月01日

第23番札所 佐白観音


坂東三十三ヶ所 第23番札所 佐白観音





佐白山 (さしろさん)  正福寺 (しょうふくじ)  (旧観世音寺)   通称 佐白観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県笠間市笠間1056-1

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 粒浦氏 (つうらし)

〔創建〕 白雉2年 (651)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『佐白山縁起』によれば、白雉2年(651)この土地の狩人粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍らで護る霊木をもって千手観音像を仏師に刻ませ、安置したのがこの寺の創始と伝わる。 白馬・白鹿・白雉に因み山号を「三白山」としたという。 孝徳天皇の勅願所となり、平安・鎌倉時代には関東における有数な霊場になっていた。
 建保2年(1214)、笠間氏の焼き討ちにあい焼失したが、その後笠間氏の帰依を得て笠間城内に観音堂を再建し、六ヶ坊を建て「佐白山」の山号に改められた。
 その後笠間氏の衰退とともに寺運も衰えた。 天正18年(1590)、宥明によって再興され勝福寺と改められたが、江戸時代に入り貞享3年(1686)に正福寺となった。
 明治初年の神仏分離に伴う廃仏毀釈により焼失して衰微し、本尊をはじめとする仏像などは散逸してしまったが、昭和5年に現在地に仮の本堂が建てられ、昭和59年3月に「観世音寺」と寺号を改められた。
 現在の寺号は平成24年9月18日付けで、古より続く「正福寺」という名称に変更され、宗派も真言宗に改められた。


御本尊の御影




御住職の法話

  すばらしい方にお目にかかる巡礼の旅    観世音寺前住職 天津忠興

「お観音さまへの巡礼って何ですか?」
 こんな質問に、
「すばらしい方にお目にかかりに出る旅ですよ」
と答えます。
 世にもお優しく美しいお姿で、三十三もの手だてを立てて人々をお導きお救いくださるすばらしい方にお目にかかるのですから、写経をさし上げる、せめて読経をしてご印をいただくようにと申し上げている毎日です。
 生きていく上には、さまざまな喜びや悲しみに出会います。 お観音さまはそのお胸の中に、限りない人々の喜びや悲しみを優しく受けとめられ、喜びの中にいる人には感謝の心を持つように、悲しみの中にいる人には生きる勇気を持つように導き続けてこられた、そういう方がお観音さま・・・・・・。 このように思いいたる時、お観音さまの前ではたいそうすなおな心になることができます。
 巡礼の旅を通して、日頃の暮らしや生き方をもう一度見なおしてみたいものです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕       「笠間」
                  「千手観世音」
                  「佐白山」

     〔御朱印〕       「坂東二十三番」
                  「佛法僧寶」
                  「正福寺印」




千手観音の種子「キリク」





        夢の世に  ねむりもさむる  佐白山
                          たえなる法や  ひびく松風


  

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2013年07月16日

第22番札所 北向観音

坂東三十三ヶ所 第22番札所 北向観音





妙福山 (みょうふくさん)   佐竹寺 (さたけでら)     通称 北向観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県常陸太田市天神林町2404

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 元密上人 (げんみつしょうにん)

〔創建〕 寛和元年(985)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか




〔略縁起〕 佐竹寺は清和源氏の一家系である中世の常陸国の武家であった佐竹氏ゆかりの寺である。
 創建は『坂東霊場記』によれば、寛和元年(985)に坂東巡礼中の花山院が随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。
 約250年を経た保延6年(1140)、源義光の孫の源昌義(初代佐竹昌義)は御本尊に深く帰依し、居城の鬼門除けに寺領を寄進し、佐竹氏代々の祈願所と定め、寺観を大いに整えた。 昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。
 天文12年(1543)に兵火により焼失するが、同15年に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城の鬼門除けとして現在地に再建した。 北向観音といわれる所以である。 最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の合戦の後、慶長7年(1602)佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。 それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より寺門は急速に荒廃した。 本堂が明治39年特別保護建造物、昭和4年に国宝に指定されながらも無住の寺となっていた。 昭和24年前住職が普山、その努力によって漸く寺観も整い今日に至る。


御本尊の御影




御住職の法話

     霊験について                佐竹寺前住職 高橋隆宥
 これは「坂東霊場記」にのせてある話ですが、江戸時代のある夏の日のことでした。 駿河の国富士曲村の矢作又右衛門が坂東巡礼のとき、もう五、六町で佐竹寺へ着くというところで、折からの炎暑のため路傍に倒れてしまいました。 自分はたとえ道芝の露となってもかまわないが、故郷に残してきた年老いた母のことが気にかかって悩んでいました。
 そこで一心に観音さまを念じておりますと、一人の僧が現われ、「十句観音経」を授け、持っていた瓶水を身にそそいで「早く我が寺へ来るべし」と告げて立ち去りました。 すると又右衛門の苦しみは洗うが如く去り、佐竹寺へお参りすることができたのです。 そして、あの僧こそ佐竹寺のご本尊十一面観音さまの化身であったとますます信心を深めたというのであります。
 このような霊験を語ることは、次元の低い世界の話だなどという人もありますが、それは間違いだと思います。 信仰には必ず現証がともないます。 ですから私たちはそれをすなおに有難く受けとっていけばよいのです。 佐竹氏がこのご本尊さまから煩いた霊験も実に尊いものです。 佐竹城の鬼門除け、その故に「北向観音」といわれるご本尊さまを、どうぞ深くご信仰になられ、「厄除け」のご霊験を皆さまもお受けくださるよう祈ってやみません。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

   〔御墨書〕    「奉拝」
             梵字「キャ」  「大悲殿」
             「佐竹寺」

   〔御朱印〕    「阪東二十二番」
             蓮華宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
             寺紋(佐竹氏の家紋)「扇に月丸」  「佐竹寺章」
             「國寶」




佐竹氏の家紋「扇に月丸」


※ 佐竹氏の家紋は「扇に月丸」である。 一般的には「日の丸扇」と呼ばれているが、「五本骨扇に月丸」が正しいものである。
 佐竹氏の「扇に月丸」紋については、『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、「佐竹四郎(第三代秀義)、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。 二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。 御旗と等しくすべからざるの故也。 よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる。」とある。 これを受けて、『佐竹系図』では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。
 佐竹氏は源頼朝と同じ清和源氏であり、『別本佐竹系図』には、「家紋、隆義(第二代)までは白旗なり。 秀義(第三代)のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と記されている。 源頼朝から賜った扇を旗に付けたことから、次第に家紋に変化していったものである。



十一面観音の種子「キャ」




        ひとふしに  千代をこめたる  佐竹寺
                       かすみがくれに  見ゆるむらまつ



  

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2013年07月12日

第21番札所 八溝山

坂東三十三ヶ所 第21番札所 八溝山





八溝山 (やみぞさん)  日輪寺 (にちりんじ)      通称 八溝山

〔所在地〕 (常陸国) 茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉2134

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 役行者 (えんのぎょうじゃ)

〔創建〕 天武天皇2年(673)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 八溝山日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山(標高1022m)の8合目にある。 昔から「八溝知らずの偽坂東」といわれるほど道程が困難で、坂東札所第一の難所であった。 八溝山山頂には、日本武尊の創祀と伝わる八溝嶺神社がある。
 寺伝によれば、天武天皇2年(673)役行者により創建されたと伝わる。 大同2年(807)に弘法大師が来山し、二体の十一面観音を刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされた。 仁寿三年(853)には慈覚大師(円仁)の来錫を緑として天台の法流に属した。
 鎌倉時代には源頼朝が寺領を寄せて信仰し、室町時代の文明年間(1469~87)には本堂・雷神門・札堂・薬師堂・不動堂などが甍を並べる大伽藍となったという。
 江戸時代には二度の火災で堂宇は焼失し、水戸藩の保護により再建されたが、天保3年(1832)の水戸藩の廃仏運動で、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難されるほどの法難に遭遇した。 明治13年の火災で惜しくも堂宇は全焼し、大正4年に仮堂が建てられた。 現在の本堂は昭和49年、茨城・福島・栃木の三県にわたる信徒及び全国からの巡礼者の浄財によって五間四面の観音堂が完成した。


御本尊の御影




御住職の法話

        因果応報
 よく私たちは、因果応報という言葉を使います。 因果応報という言葉は、原因があって、必ずそれに応じた結果が伴うということです。 私たちは、常々この言葉は良い方の意味では使いませんし、理解しませんが、そうではありません。 七佛通戒偈の中に、「もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を行え、それが仏の教えである」と、お釈迦さまもおっしゃっているように、仏教とは簡単な教えであるが、守ること、行うことは大変難しいことでありますから、善因善果であり、悪因悪果なのです。
 つまり、米の種を蒔けば、米の芽が出て、米の花が咲き、穂がなります。 また、麦を蒔けば、麦の芽が出て、麦の花が咲き、麦の実となります。 すばらしい種を蒔けば、良い芽が出、良い花が咲き、良い実が結びます。 それは、自然のことわりであり、人間だけが逃れるものではありません。 良い種を蒔くも、悪い種を蒔くも・・・・・・。
  南無大慈大悲観世音菩薩
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

      〔御墨書〕   「奉拝」  「八溝山」
               梵字「キャ」  「大悲殿」
               「日輪寺」

      〔御朱印〕   「坂東二十壱番」
               蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
               「日輪寺印」





十一面観音の種子「キャ」





        迷ふ身が  今は八溝へ  詣りきて
                         仏のひかり  山もかがやく



  

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2013年06月21日

第20番札所 益子観音

坂東三十三ヶ所 第20番札所 益子観音





獨鈷山 (とっこさん)  西明寺 (さいみょうじ)        通称 益子観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県芳賀郡益子町大字益子4469

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 天平9年 (737)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 西明寺は東日本の焼き物の代表「益子焼」で有名な益子の町を見下ろす高舘山の中腹にある。 寺伝によれば、天平9年(737)行基菩薩が十一面観音を刻み、安置したのが草創という。 のちに天平宝字元年(757)に唐僧恵林が入山し、観音堂を建てたと伝わる。
 『坂東霊場記』によると、延暦年間(782~806)に弘法大師が来山し、「貴賎渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧ら挙げて大師の徳を妬み岩窟におしこめた」と記されている。 大師は所持していた独鈷でこの難を逃れ、この地にとどまり、近隣の人々を帰依せしめ、山内十二坊、四十八伽藍を設けて独鈷山と改称したといわれている。
 たびたびの兵火によって堂宇は焼失衰亡するも、康平年間(1058~65)紀正隆が高舘山に居城を築き、益子氏を名乗り大いにこの寺を保護した。 さらに宇都宮景房、続いて北条時頼が本堂を修営、益子寺を西明寺と改め、寺容を旧に復した。
 今も残る本堂内陣の逗子には応永元年(1394)の墨書があり、楼門は明応元年(1492)、三重塔は天文7年(1538)の造立。 いずれも国の重要文化財に指定されており、西明寺は室町建築の宝庫である。


御本尊の御影





御住職の法話

     菩薩とは・・・・・・                西明寺住職 田中雅博
 弘法大師の著作から観音菩薩について紹介しましょう。
 「浄妙国土に於ては仏の身を現成し、雑染五濁の世界に住せばすなわち観自在菩薩たり」
 仏の身を完成しておられる観自在菩薩は、煩悩に染まった現実の世間に住んでおられます。 不著生死(仏であり)、不住涅槃(世間に住む)が菩薩の理想です。
 「観自在菩薩は手に蓮華を持し、一切有情の心中の如来蔵性、自性清浄光明を観じたもう」
 心を本尊に集中して、雑念がなく浄らかになった心の状態を信(清浄心)といいます。 そこには、すべての他人を自分自身と観る慈悲の心が備わっています。 これが仏の心であり、誰もが本来持っているので如来蔵性といいます。 蓮の花は泥の中から出てくるが、垢に染まらない。 それで観音さまは蓮華を持ちそのように本来浄らかな人々の心を観じられるのです。
 「この菩薩の加持によって、離垢清浄を得て、聖者に等同なり」
 このような観音さまを本尊として修行すれば、ついには自身が観自在菩薩であることを悟れるのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」  「獨鈷山」
                「十一面観世音」
                「西明寺」

    〔御朱印〕      「阪東廿番」
                蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
                「西明寺印」





十一面観音の種子「キャ」




        西明寺  ちかひをここに  尋ぬれば
                      ついのすみかは  西とこそきけ




  

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2013年06月12日

第19番札所 大谷観音


坂東三十三ヶ所 第19番札所 大谷観音





天開山 (てんかいざん)  大谷寺 (おおやじ)      通称 大谷観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県宇都宮市大谷町1198

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 弘法大師

〔創建〕 弘仁元年 (810)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 弘法大師が弘仁元年(810)に造立したと伝わる大谷寺の御本尊は、本堂背面に聳える凝灰岩層(大谷石)の洞穴壁面に彫られた日本最古の磨崖仏である。 洞内壁面には御本尊の千手観音像(像高3.89m)、釈迦三尊像(像高3.54m)、薬師三尊像(像高1.15m)、阿弥陀三尊像(像高2.66m)の4組10体の石心塑像が彫られ、いずれも平安時代造立のもので、国の特別史跡及び重要文化財に指定されている。
 この地は平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定され、鎌倉時代には下野宇都宮氏の保護の下で隆盛し、坂東三十三ヶ所の一に定められた。 豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると一時は衰退を余儀なくされたが、江戸時代に入ると徳川家康の娘奥平亀姫が深くこの尊を信じ、元和年間(1615~1624)には天海大僧正の弟子であった伝海僧正によって中興され、以後天台宗に属し、輪王寺の末寺としての寺格を誇った。 今も葵紋の幔幕が本堂の向拝を飾っている。


御本尊の御影




御住職の法話

    身代わりになくなったお守り         大谷寺住職 高橋敬忠
 当山ご本尊の千手観音は、弘仁元年(八一〇)弘法大師の作と伝えられており、古くから大谷観音と称され親しまれております。
 さて、近年は観光旅行のブームに乗り、観光主体の参拝者が増えておりますが、とても信心深い青年のことをお話ししましょう。
 親子代々信仰の厚い家に育ったその青年が、、交通安全のお守りを下さい、と当山お守り授与所へ飛び込んで来ました。 しかし、彼は数日前に同じお守りを受けていたのです。 訳を尋ねますと、車の運転中に子供が道路に飛び出して来たそうです。 避けられないと思いながらも急ブレーキを踏み、「アッ」と叫んだ時、不思議にも子供が向きを変え、無事に事故を避けられたということです。 冷や汗を抗うような出来事があったその後、ふと気がつくとお守りがなくなっていたそうです。 もちろん、どこかでなくしたのかも知れないとも話しておりましたが、彼は同じ交通安全のお守りを受けて帰って行ったのでした。
 千手観音は、千の手と千の目を持っておられ、いつも大きなお慈悲の心で私達を見守って下さっています。 参拝の折は、感謝の気持ちを持って合掌礼拝して頂きたいものです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕      「天開山」
                 「千手大悲殿」
                 「大谷寺」

     〔御朱印〕      「坂東十九番」
                 蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                 「大谷寺印」





千手観音の種子「キリク」





        名を聞くも  めぐみ大谷の  観世音
                      みちびきたまへ  知るも知らぬも


  

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2013年05月31日

第18番札所 中禅寺


坂東三十三ヶ所 第18番札所 中禅寺





日光山 (にっこうさん)   中禅寺 (ちゅうぜんじ)      通称 立木観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県日光市中禅寺歌ケ浜2578

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 勝道上人 (しょうどうしょうにん)

〔創建〕 延暦3年 (784)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば、延暦3年(784)、日光を聖地として開いた勝道上人が開基。 上人は天平勝宝6年(754)20歳で出家し、出流山(17番札所)の霊窟に参籠し、深く観音菩薩に帰依された。 そして観音浄土への強いあこがれから、やがて男体山を開くに至った。
 27歳の天平神護2年(766)、日光の地に四本龍寺を建立し、それから16年を要し、ついに延暦元年(782)前人未踏の男体山の頂上をきわめられた。
 中禅寺は延暦3年(784)、上人が中禅寺湖周遊の折、湖上に千手観音の尊容を感得され、桂の巨木を選んで立木のまま観音像を刻んだ。 これが中禅寺の始まりで、寺の通称「立木観音」はこれに由来する。
 「日光」という地名は「二荒」から出ており、二荒山とは男体山のことである。 二荒は「フタラ」と読み、音読で「ニコウ」、これに「日光」の文字をあてたもの。 この「フタラ山」こそ観音浄土の「補陀洛山」なのである。



御本尊の御影




御住職の法話

      観音さまのお声                輪王寺前門主 鈴木常俊 

 ある夏の日、七十歳前後のおじいさんが、中学生ぐらいの孫をつれて、ご本尊立木観音さまの前で、一心に観音経を読誦している。 その姿があまりに真剣なので、後刻声をかけてみると、実は、と言いながら次のようなことを話してくださった。
 私は若い頃、経済的な悩みごとで人生に失望、死ぬつもりで華厳の滝まで来たが、この世の最後にと思い立木観音さまをお参りしたところ、「死んではいけない。頑張りなさい」という観音さまのお声が聞こえてきたのです。
 観音さまのお言葉で死ぬのを思い留まり、それからは一生懸命働いてきました。 おかげさまで今日の私があるのです。 年に一度必ず参拝お礼を申し上げているのですが、おそらくほかにも私のような人がいると思いますよ、とのことであった。
 観音さまをお参りしたため、華厳病から救われている人が何人もいるということは本当に有難いことです。
   南無大慈大悲観世音菩薩
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」   「日光山」
                「立木大悲殿」
                「中禅寺」

    〔御朱印〕      「坂東十八番」
                宝珠の中、中央に千手観音の種子「キリク」
                周りに観音経の一句 「福聚海無量」
                「日光山中禅寺」





千手観音の種子「キリク」





        中禅寺  のぼりて拝む  みずうみの
                        うたの浜路に  たつは白波


  

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2013年05月27日

第17番札所 出流観音


坂東三十三ヶ所 第17番札所 出流観音





出流山 (いづるさん)  満願寺 (まんがんじ)        通称 出流観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県栃木市出流町288

〔宗派〕 真言宗智山派別格本山

〔開基〕 勝道上人 (しょうどうしょうにん)

〔創建〕 天平神護元年 (765)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩 (弘法大師御作)

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765)、日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山された。 弘安11年(820)、弘法大師が勝道上人の徳を慕って参詣し、山中にあった名木で千手観音を造立し、山麓に一堂を建て「千手院」としたのが始まり。
 「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があり、下野の国司の高藤介の妻が「観音の霊窟」に籠り、男の子を授かった。 この子がのちの勝道上人で、以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されている。
 本堂(大御堂)は、後小松天皇の応安元年(1368)、足利義満公の寄進によって、観音堂として建立されたが、元文五年(1740)の大火により焼失。 今の大御堂は中興第十七世道呆(どうごう)和尚が営々辛苦の末に明和元年(1764)に再建したものである。 八間四面入母屋造り、唐破風向拝(からはふうごはい)つき、三手先竜(みてさきりゅう)の彫刻がほどこされ、筑波山の大御堂(現在の筑波神社本殿)、奈良の輿福寺大御堂と共に日本三御堂の一つと称せられ、徳川中期の堂宇建築の代表的なものと言われる。 元治元年(1864)、本堂と書院を焼失したために、現在は大御堂をもって本堂としている。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音さまと護摩祈禱の寺           出流山住職 竹村智優 

 出流山では、ご信者のみなさまのお願いごとが成就するように、毎日ご宝前で護摩祈禱が行われております。 当山のご本尊千手観世音菩薩は、観音経の言葉どおり私たちの願いを即時にかなえて霊験ますますあらたかであります。
 護摩祈禱とは、私たちのさまざまな願いごとを観音さまの智慧の火によって浄めて成就させる法要であります。 私たちが生きている現実は、悟りも迷いも、間違いも入りまじっているわけです。 私たちの願いごとも、身勝手で迷いも間違いもまじっているかも知れません。
 それを全部洗いざらい観音さまにぶつけて一心に祈願すると、私たちの迷いや間違いが洗い浄められて、自分自身の本当の願いが何であるか明確になり、その願いが実現できるという弘法大師の秘法が護摩祈禱であります。
 もちろん、ご信者のみなさまにも、一緒に観音経を唱和していただけば、山深い本堂に響くお経の声はみなさまの心に深くしみ入って、観音さまの妙智力はみなさまのものになるに違いありません。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」    「出流山」
                「大御堂」
                「満願寺」

    〔御朱印〕      「坂東十七番」
                蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
                「出流山」





千手観音の種子「キリク」





       ふるさとを  はるばるここに  たちいづる
                        わがゆくすえは  いづくなるらん


  

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2013年05月18日

第16番札所 水澤観音


坂東三十三ヶ所 第16番札所 水澤観音





五徳山 (ごとくさん)  水澤寺 (みずさわでら)     通称 水澤観音

〔所在地〕 (上野国) 群馬県渋川市伊香保町水沢214

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 恵灌僧正 (えかんそうじょう)

〔創建〕 推古天皇の朝 (593~629)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『縁起』には、「推古天皇の朝に当り、上野の国司高光中将菩提の所となさんがため、奏聞を経、御勅宣を以て高麗来朝の僧恵灌僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置し建立する寺なり」とある。 以来、歴代天皇の勅願寺として、また上野の国司の菩提所として栄えた。
 伝承によると、持統天皇の時代(690~97)には国司と水沢寺門徒が対立し御堂30余棟、坊舎300余棟、仏像180余体が焼失したと伝えられている。 その後、東円によって再興され寺運も隆盛するが、永正8年(1511)と大永2年(1524)の火災により多くの堂宇が焼失したが、その都度再建を重ねた。 
 江戸時代に入ると幕府から庇護され朱印状を賜り、伊香保温泉の湯治客や坂東三十三ヶ所巡礼が盛んになり再び隆盛した。
 現在の水澤寺は、天明7年(1787)に再建された観音堂や仁王門、六角二重塔があり、それぞれ渋川市指定重要文化財に指定されている。
 御本尊は伊香保姫の御持仏の十一面千手観世音菩薩と伝えられ、霊験あらたか、七難即滅七福即生のご利益がある。



御本尊の御影




御住職の法話

      五徳のこころ                水澤寺住職 山本徳明

 五徳山水澤寺は、推古天皇の祈願により創立以来千三百有余年、年中お参りの絶えない所です。
 山号、五徳山は、水の五つの徳をたたえたもので、五徳とは一、〝常に己れの進路を求めてやまざるは水なり〟 居着いても止まることなく自分の進路に向かって進みなさい。 二、〝自ら活動しで他を動かすは水なり〟 自分から進んで動きなさい。 三、〝障害に逢ってその勢力を倍加するのは水なり〟 障害にぶつかればぶつかった時以上のカをつけて進みなさい。 四、〝自ら潔くして他の汚濁を洗い而して、清濁併せいるは水なり〟 怠けないで悪い人も良い人も一緒に連れて行きなさい。 五、〝洋々として大海を充し、発しては雲となり雨と変じ凍っては玲瓏たる氷雪と化して、其の性を失わざるは水なり〟 長年連れ添った妻を今になってイヤになったというようなことはしてはいけない、の五つで、一切の生命を生かそうとする観音さまのお心から出てきたものです。 私は「如何なる国、如何なる所でも一刹那として観世音の光の中にあって世間をみて、目にみえる物、心の感じるもの一つ一つを生かそうと努力する」気持ちが強く、ご本尊をお参りせず去ろうとする人を大声で叱りとばしたことがあります。
 観音さまはいわば自然の声ですから自然にお参りしてほしい。 心の向くまま、どんなことでもよい、熱心におがめばよいのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳
    〔御墨書〕      「奉拝」   「上野国」
                梵字「キリク」   「千手大悲閣」
                「水澤寺」
    
    〔御朱印〕      「坂東十六番」
                蓮華宝珠の中に、八つの梵字種子
                「サ」
                「バイ」?  「カン」
                「キリク」 「サ」 「キリク」 「キャ」 「カン」
                「水澤寺印」




御宝印
蓮華火焔宝珠の中に八つの種子
上段に中尊として、観世音菩薩の種子「サ」
脇侍仏として、右に不動明王の種子「カン」、左に毘沙門天の種子「バイ」か?
下段に、五観音の種子か?
右から、馬頭観音「カン」・十一面観音「キャ」・千手観音「キリク」・聖観音「サ」・如意輪観音「キリク」であろうか?



※ 納経帳の御本尊の種子が御墨書と御朱印とでは異なっているのは何故だろうか?
御墨書では「キリク」、御宝印には「サ」が使われている。
 お寺の話では、この御宝印の起源については不詳であるが、原型は江戸時代まで遡ることができるという。
 閑人思うに、江戸期以前には、「水澤寺の観音さま」と信仰され、単に「観世音菩薩」の種子「サ」が使われてきたのではないかと。 創建は古く、第13番札所浅草寺と同じく推古朝であるという。 奈良法隆寺の百済観音と同時代のものか。 浅草観音も水澤観音もどちらも秘仏であり、御開帳の例はなく、確かめる術はない。
 脇侍仏は不動明王と毘沙門天であろう。 但し、毘沙門天の種子「バイ」が特殊である。 「バイ」に「アー点」が付く。 正確には、「バ」に「アウ点」となるので、「バウ」と読むべきか。 この様な種子にはお目にかかったことがないので閑人には判らない。 御影や御宝印に、観音様の脇侍仏として不動明王と毘沙門天が画かれているのは、他にも15番白岩観音・29番千葉寺・30番高蔵観音に見受けられることから、毘沙門天の種子「バイ」に違いないと思うのだがどうであろうか。
 下段の五つの種子は、六観音ならぬ五観音を表しているのだろうか?
 いずれにしても、江戸期以前には、この様な安置型式で仏様が祀られていたのではないだろうか。 しかし幾多の変遷を経た水澤寺は、今日では御宝印どおりの安置型式はとられていないとのことである。



御宝印の種子

          毘沙門天 ?       観世音菩薩「サ」      不動明王「カン」



   如意輪観音       聖観音       千手観音      十一面観音     馬頭観音






        たのみくる  心も清き  水澤の
                         深き願いを  得るぞうれしき


  

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2013年05月10日

第15番札所 白岩観音


坂東三十三ヶ所 第15番札所 白岩観音





白岩山 (しらいわさん)   長谷寺 (ちょうこくじ)      通称 白岩観音

〔所在地〕 (上野国) 群馬県高崎市白岩町448

〔宗派〕 金峯山修験本宗

〔開基〕 役行者 (えんのぎょうじゃ)

〔創建〕 文武天皇朱鳥年中 (697)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『坂東霊場記』には「白岩山長谷寺は役ノ優婆塞苦行の陳跡なり、十一面観自在の影向、不動明王湧出の霊窟なり。本尊大悲の像は行基大士他の除厄のために楊柳の霊樹を以て彫刻し玉ふ」とある。
 寺伝によれば延暦・大同(782~810)の頃に伝教大師、弘法大師も来錫し、文徳天皇(851)の御代、在原業平が堂宇を修営したという。 のちに源義家、新田義貞など武将の信仰もあつかったという。
 この長谷寺のある所を「白岩」といい、六ヵ坊の修験が修法していた。 新田義貞の挙兵にあたって、この修験者たちが坂東八ヵ国に盛んに檄を伝えたという。 また白岩に境を接する里見郷は新田義貞と共に滅亡した里見一族の本拠地であり、のちの楠正成の家臣浜名左衛門義尊が遠江国濱名邑より来たりて諸堂を改修し護った。 現山主はその三十九代目にあたる。 
 天文元年(1532)、上杉憲政が伽藍を整えてから日本三長谷の一つとなった。 永禄六年(1563)、武田信玄の箕輪城攻略の兵火で焼失したが、武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)再建させたのが現在の観音堂である。



御本尊の御影





御住職の法話

    観音さま                 長谷寺住職 浜名静海

 阿弥陀の具現か未来の仏、いずれにせよ現世を救い未来を約す有難きお方、一切の欲から離れ慈悲のみが満ちた観音さまは、たえず仏になるべく努力し苦しむ衆生を助け、仏の教えを信じさせながら苦の底から救ってくださいます。 祈る人の心が誠であれば必ず智慧を与え力を貸し、利益、そして楽を与えてくれるのです。
 食べ物を有難くいただく時、コップ一杯の水を感謝の心でいただく時、食べ物も水もみな観音さまなのです。 家庭にあっては可愛い子供のために、一心不乱不動で働く母親の姿はまさに観音さまのお姿です。 また、重症の患者が心から医者を信頼して見てもらうように、頼る者なら区別なく無限の愛情を注いでくださるのが観音さまです。
 仏の教えは限られた人生を正しく全うすべく説かれた教えで、生活の中で目に見えぬわからぬところで肥しとなり糧となっているのです。
 観音さまは現世における衆生救済の菩薩なのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳
   〔御墨書〕    「白岩山」
             「大悲殿」
             「長谷寺」
   〔御朱印〕    「坂東十五番」
             蓮華宝珠の中、
             上段に、御本尊十一面観音の種子「キャ」
             下段右(左脇侍仏)に、毘沙門天の種子「バイ」
             下段左(右脇侍仏)に、不動明王の種子「カン」
              「長谷寺印」




御宝印の種子

        不動明王「カン」       十一面観音「キャ」       毘沙門天「バイ」





           誰も皆な  祈る心は  白岩の
                           初瀬の誓ひ  頼もしきかな


  

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2013年05月04日

第14番札所 弘明寺観音


坂東三十三ヶ所 第14番札所 弘明寺観音





瑞応山 (ずいおうざん)   弘明寺 (ぐみょうじ)        通称 弘明寺観音

〔所在地〕 (武蔵国) 横浜市南区弘明寺町267

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔中興開山〕 光慧上人 (こうえしょうにん)

〔創建〕 天平9年 (737)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、聖武天皇の天平9年(737)、行基菩薩が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫中、当山の浄域に霊感を得て、一刀三礼の至誠を尽くして十一面観音を刻み、一宇を建立したのが開創という。 嵯峨天皇の弘仁5年(814)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願し、双身歓喜天を彫刻し安置したと言われている。 長暦年間(1037~1040)、武相の地に疫病が流行した時、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救い、瓦葺き本堂を建立された。 鎌倉時代には源将軍家累代の祈願所となり、戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三ヶ所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。
 鎌倉時代には、「求明寺(ぐみょうじ)」と称されていた。 その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字を当てて、現在の「弘明寺(ぐみょうじ)」に改めたといわれている。



御本尊の御影






御住職の法話

     十一面観音が笑う!?        弘明寺住職 美松寛定

 十一面観音を本尊と奉る寺院は全国各地に多く、当山本尊も、天平時代に行基が、鉈(なた)彫と呼ばれる方法で彫ったといわれる十一面観音である。
 先日、わけがあって本尊さまを動かしていたら、普段はお目にかかることができないまうしろのお顔とご対面させていただくことができた。
 実はこのお顔、カンラ、カンラと笑っているのである。 『十一面観音神呪経』という経典に、「当前の三面は、菩薩の面に作れ。 左の廂の三面は当に瞋れる面に作るべし。 右の廂の三面は、菩薩の面に似て狗牙を上に出せ。 後に一面あり当に笑面に作るべし。 其の頂上の面は当に仏の面に作るべし」
と書かれている。
 つまり正面の三面は菩薩面、左三面は怒りの顔、右三面は牙を出し、頭の上に仏面をおき、そしてうしろの一面は邪心をおさえるために笑っているのである。 機会があれば一度ご覧になってみてはいかがだろう。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「奉拝」   「瑞應山」
               梵字「キャ」   「大悲殿」
               「弘明寺」

    〔御朱印〕     「坂東第十四番」
               蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
               「弘明寺観音」





十一面観音の種子「キャ」




      ありがたや  ちかひの海を  かたむけて
                     そそぐめぐみに  さむるほのやみ


  

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