2013年04月20日

第13番札所 浅草観音

坂東三十三ヶ所 第13番札所 浅草観音




金龍山 (きんりゅうざん)  浅草寺 (せんそうじ)      通称 浅草観音

〔所在地〕 (武蔵国) 東京都台東区浅草2-3-1

〔宗派〕 聖観音宗

〔開基〕 土師直中知・桧前浜成・桧前竹成

〔中興開山〕 慈覚大師 (円仁)

〔創建〕 推古天皇36年 (628)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはやなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網の中に聖観音像を感得した。 像を拝した兄弟の主人土師中知(はじのあたいなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。 これが浅草寺の始まり。 後にこの三人を祀ったのが三社権現(浅草神社)である。
 その後大化元年(645)、勝海上人が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。 平安時代初期の延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来山して「お前立ち」の観音像を刻み安置されたという。 これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。
 天慶5年(942)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。 鎌倉時代の『吾妻鏡』によれば、源頼朝が深く帰依し、治承5年(1181)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せたことが記されている。
 江戸時代には、天海大僧正の進言で徳川家の祈願所となり、五百石を寄せられ、坂東無双の巨藍となった。 寛永8年(1631)、同19年に堂宇は火災により焼失するが、慶安2年(1649)、将軍家光の代に観音堂、五重塔、仁王門、雷門が再建され、江戸庶民の信仰で賑わった。
 太平洋戦争によって惜しくも堂塔を失ったたが、今日ではそのすべてを復興し、輪奐の美をなしている。


浅草神社













浅草神社 (あさくさじんじゃ)    通称 三社様 (さんじゃさま)

〔鎮座地〕 東京都台東区浅草2-3-1

〔社格〕 旧郷社

〔御祭神〕 土師真中知命 (はじのまつちのみこと)
       桧前浜成命 (ひのくまのはまなりのみこと)
       桧前竹成命 (ひのくまのたけなりのみこと)

〔配祀神〕 東照大権現 (徳川家康)

〔御由緒〕 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)・東照宮である。 浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。 三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。 しかし鎮座年代は不詳。 東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(一六四九)に合祀された。 以来、三社大権現といい、明治元年(一八六八)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。 建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。 この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。 毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。 
  平成六年三月        台東区教育委員会
-「境内案内板」から-



御本尊の御影


「柳の御影」 (浅草寺寺宝)     慈覚大師円仁さまによって彫刻されたお姿。

    慈悲の仏さま     浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
 観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。
 特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで1400年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。
  観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えいたしましょう。
-「浅草寺公式サイト」から-




御住職の法話

    観音浄土                浅草寺貫首 清水谷孝尚

 ご本尊さまがご示現になられましてから千三百六十年になります。 この間、数えきれないほど多くの人々が一心に祈りをこめて参られ、今日も全国からの参詣者で浅草寺は賑わっております。 これは観音経に説く「一心に観音さまの御名(みな)を称えれば、たちどころに厄難から救ってくださる」という観音さまの有難いおはたらきによせる信仰の表われでありましょう。
 この観音信仰のわかりやすさと、当山の『縁起』に示される名もなき三人によるご示現という庶民性とが魅力となって、「あさくさのかんのんさん」としての親しみをもっていただける霊場となったものと思います。
 観音さまは「慈悲(じひ)」をご本体とされる菩薩であります。 いわゆる「己れを忘れ他を利する」お心の持ち主であられます。 皆さんが観音さまを信仰なさいますと、もろもろの願いがかなうばかりではなく、この観音さまの慈悲のお心を自分のものとすることができるのです。
 その時こそ皆さまは観音さまの化身となられるのです。 そうなれば、この世は観音浄土となります。 なお一層のご信心をおすすめいたします。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕      「奉拝」  「金龍山」
                 梵字「サ」  「聖観世音」
                 「浅草寺」

     〔御朱印〕      「阪東拾三番」
                 「観世音」
                 「浅草寺印」




聖観音の種子「サ」




        ふかきとが  今よりのちは  よもあらじ
                        つみ浅草に  まいる身なれば


  

Posted by 閑人 at 17:36Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年04月13日

第12番札所 慈恩寺観音

坂東三十三ヶ所 第12番札所 慈恩寺観音





華林山 (かりんさん)  慈恩寺 (じおんじ)       通称 慈恩寺観音

〔所在地〕 (武蔵国) 埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈覚大師 (円仁)

〔創建〕 天長元年(824)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば天長元年(824)慈覚大師円仁の草創という。 円仁は下野国の出身とされ、東国に天台宗布教の基礎を築いた高僧である。 円仁が関東巡錫の折、日光山の頂から仏法弘通の霊地あらば示し給えと「李(すもも)」の実を虚空に投ずると、この地に落ち華を咲かせたので、千手観音の尊像を自刻、一宇を建立して安置したのに始まる。 山号の「華林山」はこの故事に由来する。 寺号の「慈恩寺」は円仁が修行した唐の長安の「大慈恩寺」の風景に、この地が似ているのでつけられたという。
 天正19年(1591)、関東に入部した徳川家康から寺領を寄進され、江戸時代に入ると江戸幕府のほか岩槻城主からも帰依を得た。 最盛期には『風土記稿』に本坊四十二坊、新坊二十四坊とあり、また元禄6年(1694)の現存古図でも約十三万五千坪に及ぶ境内を構える天台宗の大寺院であったことが記されている。
 しかし文政10年(1827)の火災により焼失し、寺運は衰退した。 天保14年(1843)に至って深乗上人の代に再建され、昭和の大改修がなされて今日に及んでいる。



御本尊の御影





御住職の法話

    観音さまのご功徳           慈恩寺前住職 大嶋見順

 当山にお参りの方々には、案内と一緒に「十句観音経」をお頒ちいたしております。 当山先代が癌の手術の折、十句観音経のおかげで九死に一生を得たことから、その功徳をみなさまにお頒ちしたいと考えてのことです。 この観音経を、少しでもお役にたてば、と布施続けてくださっておられた中村余容先生も、観音経により救われ、書家として画家としてご活躍された方です。 白隠禅師の霊験記をまつまでもなく、そのご功徳をいただいた方々の救われた喜びを多々うかがっております。
 一心に念ずることにより観音さまと一体となり、観音さまのお心をわが身にいただいて、心にやすらぎと喜びが湧いてくるのは、すべてのとらわれから解き放たれることによるものでしょうか。
 いずれにしても、喜びとやすらぎをお持ち帰りいただきたいものであります。
         十句観音経
  観世音  南無仏  与仏有因  与仏有縁  仏法僧縁
  常楽我浄  朝念観世音  暮念観世音  念々従心起  念々不离心
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「奉拝」  「武州岩槻」
               「華林山慈恩寺」
               「執事」

    〔御朱印〕     「坂東拾二番」
               宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
               「慈恩観音」




千手観音の種子「キリク」




       慈恩寺へ  詣る我が身も  たのもしや
                       うかぶ夏島を  見るにつけても


  

Posted by 閑人 at 11:26Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年04月06日

第11番札所 吉見観音

坂東三十三ヶ所 第11番札所 吉見観音





岩殿山 (いわどのさん)  安楽寺(あんらくじ)       通称 吉見観音

〔所在地〕 (武蔵国) 埼玉県比企郡吉見町御所374

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)

〔創建〕 大同元年 (806)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 寺の草創は僧行基が東国巡錫の折、この地を霊地と定め、聖観音像を刻み、岩窟に納めたのが始まり。 のちの桓武天皇の時、奥州征討に向かう坂上田村麻呂が戦勝を祈願。 この戦いに勝利した田村麻呂が、大同元年(806)、七堂伽藍を建立したと伝えられる。
 その後、安楽寺の発展に力を注いだのは、源頼朝の異母弟にあたる源範頼。 範頼は、平治の乱のあと助命され、この寺の稚児僧として育てられたという。 範頼とその一族は鎌倉幕府成立とともにこの地の領主となり、その折の報恩にと、所領の半分を安楽寺に寄進し、三重塔、大講堂などを建立したという。 源範頼の子孫は当時の武将の多くが行なったように領地の地名を自らの名として「吉見氏」と名乗った。
 天文年間(1532~1555)の松山城の攻防戦で安楽寺の伽藍は焼失、住僧は離散という衰運を迎えた。 そののち下総国印旛郡出身の僧杲鏡(ごうきょう)が法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復興に精進、近里の檀越を勧請して五間四面の観音堂と現存朱塗りの三重塔を再建した。


御本尊の御影





御住職の法話

    貧者の福を得た霊験記           安楽寺住職 島本虔栄

 元禄の中頃、細谷村の某氏当山の観世音に皈依して月詣りを怠らず修行しておりましたが、事業が不如意で朝暮悩んでおりました。
 ある時感慨して自分は過去に慳貪邪見にて布施行の善因を積まぬためこのような境遇にあるのではなかろうかと反省いたしました。 そこで三ヵ年日参の願を立ていかなる風雪もいとわず毎夜登山精誠に祈念いたしました。
 ようやく千日成満の夜、ご宝前に籠り、観音大悲の宝号を唱えておりましたが、暁の頃夢の中に須弥壇のうしろより香衣の老僧が出て、「お前の願い浄心なればこの摩尼珠を与える」と掌中へ黒色の玉を賜わりました。 某氏は驚き、目が覚め掌を開き見ると棗大の黒色の玉がありました。 これは観音さまが自分の願いを顧み福衆の宝珠を賜わったのであろうと喜び、住僧の教えに従って観音さまを造り、胎内に感得の宝珠を納め朝夕祈念しておりました。
 その後家業は繁昌し、子孫も孝順の者ばかりにてますます繁栄されたといいます(坂東観音霊場記)。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕     「岩殿山」
               梵字「サ」  「正観世音」
               「安楽寺」

    〔御朱印〕     「坂東十一番」
               蓮華宝珠に聖観音の種子「サ」
               「吉見岩殿山安楽寺之印」





聖観音の種子「サ」





         吉見よと  天の岩戸を  押し開き
                           大慈大悲の  誓いたのもし


  

Posted by 閑人 at 12:15Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年03月28日

第10番札所 岩殿観音

坂東三十三ヶ所 第10番札所 岩殿観音





巌殿山 (いわどのさん)  正法寺 (しょうぼうじ)      通称 岩殿観音

〔所在地〕 (武蔵国) 埼玉県東松山市岩殿1229

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 逸海上人 (いっかいしょうにん)

〔創建〕 養老2年 (718)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 養老2年(718)、諸国巡錫中の逸海上人が四十八峰・九十九谷といわれた岩殿山で修行し、僧侶に化した観音菩薩が霊夢に現れたので、千手観音を刻んで岩窟に納めたのが草創であるという。 また、役行者によって開かれた修験の靈場であるとも伝えられている。
 延暦年間(782~806)には、奥州平定に向かう途中の坂上田村麻呂が当地の悪龍を退治した。 田村麻呂は観音菩薩の利益によるものと感じ、桓武天皇に奏上して伽藍を建立したという。
 その後衰退するが、建久年間(1190~1199)源頼朝の命により比企能員が復興。 能員が北条時政により自害させられると、その嫡子時員は追手を逃れて出家し、この寺を護った。
 室町時代には大いに栄えたが、永禄10年(1567)松山城合戦の兵火で堂塔は焼失。 天正2年(1574)僧栄俊が中興した。 江戸時代に入って慶長19年(1611)には徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられた。
 江戸時代以降は何度か火災に遭い、現在の堂宇は明治時代になってから整備されたもの。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音信仰とそのご利益            正法寺長老 中嶋政海

 札所の三十三の数は、観音経の「三十三身示現」に因むもので、観音さまが、仏の身でありながら菩薩となって、広大な功徳をもって、一切衆生に接し給うことをいう。 観音さまは、正しくは大慈大悲観世音菩薩といい、「世音を観ずる菩薩」の意で、南無観世音菩薩と救いを求める衆生の声を聞いて大慈悲の手をさしのべ、衆生を苦悩・危難から救済し給う菩薩である。 その仏飯をいただいている毎日の生活に感謝している。
 当山住職となって十年ほどたったある日、本堂裏と北の切りたった崖に生えている木々の枝を伐採、清掃していた時のことだった。 三時の休憩を終え、立ち上って二、三歩進み出したその時、それまで座っていた場所めがけて三十センチぐらいの岩が三つばかり、がらがらと崖の上から転がり落ちてきたのだ。
 一瞬、肝をつぶす思いがした。 わずか数秒の差で生死を分けたのだ。 慈悲深い観音さまのご利益に、合掌して深く頭を垂れずにはいられなかったことだ。
 近年、観音霊場巡拝者がめっきりふえ、札所を護持する者としてたいへん喜ばしい限りである。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳
   〔御墨書〕    「巌殿山」
             梵字「キリク」  「大悲殿」
             「正法寺」
   〔御朱印〕    「坂東十番」
   蓮華宝珠の中に4つの梵字  「オン」「ケン」「キリク」「ボク」
     上に、帰命句(最上の讃歎句)の「オン」
     下左に、荒神の種子「ケン」か?
     下中に、御本尊千手観音の種子「キリク」
     下右に、穣虞梨童女(じょうぐりどうじょ)の種子「ボク」か?
             「武州正法寺岩殿」





                           帰命句の「オン」


           荒神「ケン」       千手観音「キリク」      穣虞梨童女「ボク」





        後の世の  道を比企見の  観世音
                         この世を共に  助け給へや


  

Posted by 閑人 at 14:00Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年03月16日

第9番札所 慈光寺

坂東三十三ヶ所 第9番札所 慈光寺





都幾山 (ときさん)   慈光寺 (じこうじ)

〔所在地〕 (武蔵国) 埼玉県比企郡ときがわ町西平386

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈光老翁 (じこうろうおう)

〔開山〕 釈道忠 (しゃくどうちゅう)

〔創建〕 白鳳2年 (673)

〔御本尊〕 十一面千手千眼観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば白鳳2年(673)慈光翁が僧慈訓に命じて千手観音像を彫ませ、本尊として祀ったのがこの寺の創始。 この慈光翁の名が寺号の由来となっている。
 その後、役行者が修験の道場を開き、奈良時代になると鑑真和上の高弟だった釈道忠が丈六の釈迦如来像を彫んで全山の堂宇を整え、慈光寺第一世となったと伝わる。
 平安時代には清和天皇の勅願所となり、「天台別院一乗法華院」、すなわち比叡山延暦寺の関東別院と定められた。 戦国時代には焼き討ちに遭うなどもあったが、江戸時代には徳川将軍家の帰依を得て寺領100石を安堵され、桂昌院の信仰も篤く、栄えた。



御本尊の御影




御住職の法話

   お母さんの姿               慈光寺第百七世住職 佐伯明了

 「父母恩重経」というお経があります。 そのお経にも説かれていますが、とにかく手のかかるのが赤ちゃんです。 両親から受けついだ菩提心・生命力となる因と、身体を縁とする因縁によって結ばれ、両親あるいは祖父母が真剣になって、五体満足な子が授かりますようにと神仏に祈願して、やっと誕生。 生まれてからは毎日、授乳や衣類・おむつの交換、夜中に泣き出したりすれば、どこか具合いが悪いのではないかと心配しながら、泣きやむまで抱いていてくれます。 お母さんの手と目は、昼夜休むことなく、大切な役目を果たしています。 三歳ぐらいまではこうしたことは母親の責任でしょうが、食事や排泄、さらに入浴時の衣類の着脱などは自分以外に頼めないものです。 いつまでもお母さんが手をかけるのではなく、少しずつ自分でやっていくように教えていただきたいと思いますが、それはともかく、いつまでもわが子のことで喜怒哀楽を表情に表わし、たくさんのまなざしを向け、数多くの手を使ってくださる姿を象徴するのが、十一面千手千眼観世音菩薩です。
 特に左手の中で一つだけ掌をうしろに向けている甘露手(かんろしゅ)がありますが、これは子供を背負うことを表わしているのです。 そう思って、当山のご本尊のお相(すがた)を礼拝してください。 このみ仏が、私を、そしてあなたを愛育してくださったお母さんなのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「都幾山」
                「千手大悲閣」
                「慈光寺」

    〔御朱印〕      「坂東九番」
                梵字「光明真言曼荼羅」の円の中に
                右に、釈迦如来の種子「バク」
                左に、千手観音の種子「キリク」
                「慈光寺印」






御宝印 (光明真言曼荼羅)

 〔左〕 開基慈光翁所縁の千手観音の種子「キリク」
 〔右〕 開山釈道忠所縁の釈迦如来の種子「バク」
周りに梵字の「光明真言」  下から時計回りに、「オン・ア・ボ・キャ・ベイ・ロ・シャ・ノウ・マ・カ・ボ・ダラ・マ・ニ・ハン・ドマ・ジンバ・ラ・ハラ・バ・リタ・ヤ・ウン」






           千手観音の種子「キリク」          釈迦如来の種子「バク」





梵字の光明真言

  オン   ア    ボ    キャ  ベイ   ロ    シャ  ノウ   マ   カ    ボ   ダラ


   マ    ニ    ハン  ドマ  ジンバ  ラ   ハラ   バ   リタ   ヤ   ウン






        聞くからに  大慈大悲の  慈光寺
                          誓いも共に  深きいわどの



  

Posted by 閑人 at 12:33Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年03月09日

第8番札所 星の谷観音

坂東三十三ヶ所 第8番札所 星の谷観音





妙法山 (みょうほうさん)  星谷寺 (しょうこくじ)       通称 星の谷観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県座間市入谷3-3583-1

〔宗派〕 真言宗大覚寺派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 天平年間 (729~749)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、天平年間(729~749)、この地を来錫した行基菩薩が「見不知森(みしらぬもり)」の中の古木の根洞から響く法華経読誦の声を聞いた。 洞内には観音像があり、法華経の読誦はこの観音像によるものであった。 行基菩薩はこの場所に堂を建立し、感得した霊像を安置したのが星谷寺の創建縁起である。
 星の谷観音・星谷寺という寺号は、森に湧く清泉が水面に星影を映して暗夜でも白夜のように明るく、「星谷」と呼ばれていた、という伝承に由来する。
 鎌倉時代に兵火に遭って堂宇の大半を焼失。 このとき観音堂は被害を免れたものの、その後の野火で全焼してしまう。 ところがこの火事のとき、炎上する観音堂から本尊の観音像が飛び出して、現在の場所に飛来し、光明を放ったという。 星谷寺はこの場所に時の住僧理源によって再建された。
 のちに歴代北条氏の篤い保護を受け、江戸期にも徳川家から寺領の寄進を受けた。 享保年間(1716~1736)に大山阿夫利神社への「大山講」が盛んになると、この星谷寺も観音巡礼で大いに賑わった。



御本尊の御影




御住職の法話

    幸せとやすらぎを与える          星谷寺前住職 三矢智光

 巡拝は古く鎌倉時代に始まるといわれ、昔は順拝、順打ちといって順番どおりに巡って行くのがふつうでした。 交通の発達した今日では、巡拝、逆打ちなどといって順番どおりでない巡り方が多くなりましたが、それは一向にかまわないのです。 観音信仰は、いうなれば現在の幸福、生活の豊かさを与えてくれるものですが、際限なく与えてくれるわけではないのです。
 私達は日常生活を営む中で多くの悩みや苦しみを抱えています。 仏教ではこの悩みや苦しみを貪瞋癡(とんじんち)、それを除くことを抜苦(ばつく)といい、観音さまは苦しみを除くため二求(にぐう)という二つの望み、願いごとを与えてくださいます。 この二求は清浄欲(せいじょうよく)という願(がん)(願い)のことで、人の物を盗んでもよいなどという悪い欲望のことではありません。 自分で願をかけると、即身成仏といってこの身のままで仏になる、つまり観音さまと自分が一体になれ、観音さまの作用が自分に出現するわけです。 だからといって、願さえかけるとすぐに叶えられるというのではなく、信仰心を必要とします。 観音信仰をすれば、その功徳により、幸せ、やすらぎが与えられるということです。
 当寺は、相模の打止め寺として水子供養、安産祈願、商売繁昌、家内安全、就職祈願などの参詣者が数多く巡拝されています。 千羽鶴をあげる人、般若心経をあげる人もおられ、そうした信仰のあつい人はど、願いも叶い、やすらぎが与えられているのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「妙法山」
                「聖観世音」
                「星谷寺」

    〔御朱印〕      「坂東八番」
                蓮華宝珠に聖観音の種子「サ」
                「星谷寺」




聖観音の種子「サ」




       障りなす  迷ひの雲を  ふき払ひ
                        月もろともに  拝む星の谷


  

Posted by 閑人 at 10:34Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年03月06日

第7番札所 金目観音

坂東三十三ヶ所 第7番札所 金目観音





金目山 (かなめさん)  光明寺 (こうみょうじ)       通称 金目観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県平塚市南金目896

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 道儀上人 (どうぎしょうにん)

〔創建〕 大宝2年 (702)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 伝承によれば、開創は大宝2年(702)。 金目川の河口で潮汲みの海女が観音像を拾い、家の中に祀って篤く信仰した。 その後、道儀上人が観音堂を建立したのが光明寺の始まり。 天平年間(729~749)、この地を訪れた行基菩薩が1.7メートルの観音像を彫み、その「胎内」に海浜出現の金像を納めた。
 こうした故事により、金目の観音は「お腹ごもりの観音」といわれるようになり、安産祈願のご利益で信仰されるようになった。
 鎌倉時代には源頼朝の妻・北条政子が祈願し、無事に実朝を出産したことから、源将軍家は相次いで帰依し、寺領を寄せて祈願所と定めたので、寺運はこの頃から大いにあがった。 江戸時代には、慶安2年(1649)、徳川家光より朱印状を受け、元禄10年(1669)には慶賀和尚によって伽藍が復興されている。



御本尊の御影





御住職の法話

   念彼観音力の観音さま信仰           光明寺住職 大久保良允

 観音経の中には優れた名句がたくさんあって、そのどれにも引きつけられます。 それらの中からただ一句だけあげるとすれば、「念彼観音力」しかないでしょう。 常住坐臥-朝念観世音 暮念観世音-それだけで信仰は充分である、と信じています。
 観音妙智力は、何にたとえようもなく、広大にして清浄、無量無辺の慈悲そのものの相であることを観じながら、日々観世音に仕えられることを無上の喜びとして、深く感謝しています。 当山ご本尊は海中出現の金像をお腹籠としたことから、源頼朝公政子夫人安産祈願の故事もあり、安産祈願の寺として広く知られてきました。
 明応年間建立の観音本堂も、多くの方々のお力によって解体修理が完成し、平塚市最古の伽藍として参拝者も多く、観音信仰も次第に盛んになってきました。
 多くの人々のさまざまな悩みを、その人と共に悩み、祈り、幾多の念願成就の喜びを、観音さまのご利益として喜び、感謝しながら、ますます「念彼観音力」の信仰を深めていきたい、と切に願っております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕       「金目山」
                 梵字「サ」  「大悲殿」
                 「光明寺」

    〔御朱印〕       「坂東七番」
                 「佛法僧寶」
                 「金目山光明寺」




聖観音の種子「サ」




       なにごとも  いまはかなひの  観世音
                         二世安楽と  たれか祈らむ


  

Posted by 閑人 at 11:34Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年02月27日

第6番札所 飯山観音

坂東三十三ヶ所 第6番札所 飯山観音





飯上山 (いいかみさん)  長谷寺 (はせでら)        通称 飯山観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県厚木市飯山5605

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 神亀2年 (725)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 この寺の草創については二つの縁起が伝わっている。 寺伝によれば、神亀2年(725)、この地を来錫の行基菩薩が五色に耀く清水の中から十一面観音の示現を感得された。 行基菩薩は傍らの楠の木で新たに三尺余の尊像を彫み、感得したお像を胎内に納めて、ここに霊刹を設けた。 後の大同2年(807)、弘法大師がこの寺を密教の道場にしたという。
 もう一つの縁起は、『観音霊場記』に、この地の領主飯山権太夫が旅の僧に一夜の宿を布施したところ、そのお礼にと大和長谷寺の本尊と同材で造った観音像を賜り、一宇を建立したのが寺の始まりであり、その旅僧こそ弘法大師であったという。
 この二つの縁起は行基菩薩・弘法大師という優れた大徳と長谷寺信仰とを組み合わせたものであるが、大衆の期待を一身に集めた二高僧と霊験豊かな長谷観音さまの登場で、この寺は多くの人々の信心をより深めてきたのである。



御本尊の御影





御住職の法話

   桜並木と公園の開かれた寺          長谷寺住職 米山隆応

 当山は丹沢近辺のハイキングコースになっていますので、巡礼の方々のほかにハイキングの人たちが多く訪ねて来られます。 私が座っておりますと、特にそうした方から寺の来歴についてよくお尋ねを受けます。 何かのご縁と思いますので、できるだけ説明して差しあげています。 堂を一巡する形で第一番から三十三番までの観音像を並べ、順に参拝できるようにいたしましたが、中にはそれが機縁となって巡礼を発願される方もおいでのようです。
 門前の桜並木はよく知られていて春にはお花見客で賑わいますが、もとは先代が炭でも焼こうかと裏山一帯に植えたのが始まりでした。 子供たちが遠足に来たりいたしますので、境内地を広く公園として開放しておりますが、山門から内はみ仏にお仕えする場として厳しく区別し、名前入りのベンチ、屑籠、灰皿など一切置かず、禁止札なども建てておりません。 お花見客もよく心得ていて、ついでのお参りもお酒の入る前に済まされるようです。
 先生に連れられて遠足に来た子供たちが、境内地の公園で嬉々として無心に遊んでいるのを見ますと、いかにも平和なその風景が、観世音の宏大なご慈悲を目のあたりに見る思いで、このようにして本当によかったと思っております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「飯上山」
                梵字「キャ」  「大悲殿」
                「長谷寺」

    〔御朱印〕      「坂東第六番」
                蓮華宝珠に十一面観音の種子「キャ」
                「長谷寺印」




十一面観音の種子「キャ」




         飯山寺  建ちそめしより  つきせぬは
                          いりあいひびく  松風の音


  

Posted by 閑人 at 12:06Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年02月18日

第5番札所 飯泉観音

坂東三十三ヶ所 第5番札所 飯泉観音





飯泉山 (いいずみさん)   勝福寺 (しょうふくじ)      通称 飯泉観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県小田原市飯泉1161

〔宗派〕 古義真言宗

〔開基〕 弓削道境法師 (ゆげのどうきょうほうし)

〔創建〕 天平勝宝5年 (753)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 孝謙上皇没後の天平勝宝5年(753)、下野国薬師寺戒壇院再興のため、僧道鏡が下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して奉安したのが勝福寺の始まり。 この観音像は、奈良に唐招提寺を開いた僧・鑑真和上が招来したものと伝えられる。 当初は補陀落山弓削寺と称し、道鏡の出身である弓削氏の氏寺であった。
 室町時代に現在地に移ったとされ、応永25年(1418)には小田原城の鬼門鎮護の寺となり、勝福寺の勅号を賜り、歴代小田原城主の帰依が篤く栄えた。
 なお、この寺には仇討ちで知られる曾我兄弟(曾我祐成・時致)、江戸時代の名力士・雷電為右衛門、幕末の農政家・二宮尊徳(二宮金次郎)にまつわる伝説が残されている。



御本尊の御影





御住職の法話

    「和顔愛語」の心             勝福寺住職 峯孝雅

 ここ勝福寺は千二百年の歴史をもつ寺です。 その間、栄枯盛衰はあったでしょうが、この寺は巡礼参拝の方々の外護を、たくさん受けてきたものと思います。
 私もお寺でお参りを受けるだけでなく、いつか一遍、自分で巡礼に出てみたいという悲願が三年前に実り、檀信徒と一緒に坂東・西国・秩父百観音を巡礼して参りました。 自分で巡礼をしてみてわかったことですが、それぞれのお寺さんを印象深く参拝するということは、一回ではなかなかできないものだ、ということでした。常日頃お寺でお参りを受けておりますと、二度三度はもちろん、何十遍もお出でになる方がいらっしやいますが、さこそと思いあたった次第です。
 数ある札所の中でもいわゆる難所といわれる所は、お寺に着くまでが大変なので印象に残りますが、やはり一番深く心に残るのは、お参りをしたときのご住職や寺務の方々の「よくお参りです」という優しい言葉と、笑顔で迎えてくださる応接の態度でした。 仏教には「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉がありますが、これこそがお参りを受ける側の真の接待ではないか、と深く心に刻んで帰って参りました。 以後、自坊に戻って自分自身に注意を促しております。 ここは五番とはいいながら西から来られると坂東の第一印象のお寺ですので、坂東の顔として和顔愛語をもって巡礼に接する心としたいと念じております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「飯泉山」
                梵字「キャ」  「十一面大悲閣」
                「勝福寺」
    〔御朱印〕      「坂東五番」
                「佛法僧寶」
                「飯泉山勝福寺」
                「二宮尊徳先生初発願靈場」




十一面観音の種子「キャ」




        かなはねば  たすけたまえと  祈る身の
                         船に宝を  つむはいいづみ


  

Posted by 閑人 at 16:27Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年02月13日

第4番札所 長谷観音

坂東三十三ヶ所 第4番札所 長谷観音





海光山 (かいこうざん)  長谷寺 (はせでら)        通称 長谷観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県鎌倉市長谷3-11-2

〔宗派〕 浄土宗系単立

〔開基〕 藤原房前 (ふじわらのふささき)

〔開山〕 徳道上人 (とくどうしょうにん)

〔創建〕 天平8年 (736)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 養老5年(721)、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人が大和国でクスノキの大木から2体の観音像を刻ませた。 そのひとつが大和の長谷寺に安置された仏像で、もう一体は「どこか有縁の地に出現して衆生を救いたまえ」と、海上へ流されたと伝わる。 15年後の天平8年(736)、三浦半島の長井の浜に観音の巨像が流れ着いた。
 この観音像を本尊として、徳道上人を開山と仰いで内臣藤原房前が奉安したのが、鎌倉の長谷寺の始まりという。 鎌倉の長谷寺と奈良の長谷寺の御本尊は、「同木異体」の観世音菩薩といわれる由縁である。
 鎌倉時代には「長谷の観音さま」と信仰され、室町時代になると、康永元年(1342)に足利尊氏が本尊を金箔で修復し、明徳3年(1392)には足利義満が光背を奉納し、武将たちの信仰も厚かった。 江戸初期の慶長12年(1607)には徳川家康が堂塔伽藍を改修し、これを機に浄土宗に改宗した。 衆庶の帰依は広範囲におよび、明治以降に単立となった。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音さまは男か女か           故・長谷寺前住職 竹石耕美

 参拝の方から、観音さまは男か女かとの問いかけが案外多くあります。 ある雑誌のクイズで「観音さまは男」とひと文字の解答が目にとまりました。 いかにも自信に満ちた解答です。 しかし、これで質問者は納得するでしょうか。面白くもなんともないでしょう。
 観音さまには、男性的なお顔が多くありますが、光明皇后、檀林皇后をモデルにしたといわれる豊かな官能の匂いを発するお像、親鸞聖人が出会った観音さまも女であったにちがいないでしょぅ。 たびたび経文に登場する観音さまは男だと、考えもせず決めてしまっています。 しかし女であってもよいのではないでしょうか。 すべて女だといいたいのではなく、男女は平等だし、服装も動作も区別のない時代です。 仏さまの世界では、昔から男女の区別はないのだと考えたいのです。
 それにしても、仏教を理解することも、わからせることも、とても大変なことだと痛感いたします。 精進したいものです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「海光山」
                「十一面大悲殿」
                 「長谷寺」

     〔御朱印〕     「坂東四番」
                「鎌倉 観世音 長谷」
                「長谷寺印」




十一面観音の種子「キャ」




       長谷寺へ  まいりて沖を  ながむれば
                       由井のみぎはに  立つは白浪


  

Posted by 閑人 at 17:47Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年02月05日

第3番札所 田代観音

坂東三十三ヶ所 第3番札所 田代観音





祇園山  安養院  田代寺(たしろじ)        通称 田代観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県鎌倉市大町3-1-22

〔宗派〕 浄土宗

〔開基〕 田代信綱(たしろのぶつな)・北条政子(ほうじょうまさこ)

〔開山〕 尊乗上人(そんじょうしょうにん)・願行上人(がんぎょうしょうにん)

〔創建〕 建久3年(1192)・嘉禄元年(1225)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩(旧田代寺本尊)
       阿弥陀如来(旧安養院本尊)

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく (千手観世音菩薩)





〔略縁起〕 源頼朝の家臣であった田代信綱は観世音菩薩を深く信心していた。戦場での数々の危難を乗り越え、数度の武勲を挙げることが出来たのも、すべて観世音菩薩の加護と御利益であるとして、その報恩のために建久3年(1192)、尊乗上人を開山として比企ヶ谷に「白花山田代寺」を創建した。本尊の千手観音は鎌倉期制定の坂東三番札所として尊信を集めた。
 一方、北條政子は嘉禄元年(1225)、夫・頼朝の菩提を弔うため笹目ヶ谷に願行上人を開山として「祇園山長楽寺」を建立した。この年に政子も亡くなり、長楽寺は政子の菩提寺となった。元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際に長楽寺は兵火で焼失したため、同様に焼失した名越の「善導寺」の跡に移転し、善導寺と合併した。阿弥陀如来を本尊とし、政子の法号「安養院殿如実妙観大禅定尼」に因んで「安養院」と改称した。
 その後、江戸時代に入った延宝8年(1680)の火災を機に、末寺であった田代寺をこの地に移して再興した。同時に板東札所も安養院が受け継いで、「祇園山安養院田代寺」と称することになった。
 こうして複数の寺院が合併して現在の安養院となっていることから、本堂には旧安養院本尊の阿弥陀如来坐像が手前に、旧田代寺本尊の千手観音立像がその後ろに安置されている。


御本尊の御影




御住職の法話

    安養院五観音の意義             安養院住職 鳥居眞理

 安養院には、次の五体の観音さまが祀られています。
 本尊千手観音=すべての衆生を千の慈眼をもってご覧になり、千の手を差しのべて摂化されます。
 馬頭観音=その鋭い三眼をもった忿怒の相は耶悪を折伏せんがためで、馬頭を戴くのは大慈悲を奔馬のように速やかに施すことを表わしています。
 准胝観音=七億の仏母として惑と業と苦の三障を除くことを主眼とされています。
 不空羂索観音=心念不空の羂索によって衆生をつり上げて救済し、彼岸に至らせようとの念願を表わします。
 聖観音=左の手に未敷の蓮華を持ち、右手指先から生ずる微風によって開花しようとする姿を示しています。
 これらの像を拝む時、蓮華が泥の中から生じて泥に染まらないように、現実苦悩の灼熱の世界から、すがすがしい解脱の世界へと高められていく思いがいたします。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕      「かまくら」
                 「千手大悲殿」
                 「田代寺」

     〔御朱印〕      「坂東第三番札所」
                 蓮華宝珠に「佛法僧寶」
                 「相模國 安養院 鎌倉町」





千手観音の種子「キリク」




          枯樹にも  花咲く誓ひ  田代寺
                         世を信綱の  跡ぞ久しき


  

Posted by 閑人 at 19:22Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年02月02日

第2番札所 岩殿観音


坂東三十三ヶ所 第2番札所 岩殿観音





海雲山 (かいうんざん)  岩殿寺 (がんでんじ)       通称 岩殿観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県逗子市久木5-7-11

〔宗派〕 曹洞宗

〔開基〕 徳道上人(とくどうしょうにん)・行基菩薩(ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 養老5年 (721)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、養老5年(721)、大和長谷寺の開基徳道上人がこの地を巡錫し、熊野権現の化身である老翁に逢い、霊地であることを知り祠を建てたのが始まりとされる。 数年後に行基菩薩が訪れ、十一面観音の石像を造立して安置したのが開創と言われている。 このため当寺では、徳道上人と行基菩薩の二人を開山としている。
 平安時代には花山法皇や後白河法皇も来山したと伝えられる。 鎌倉時代には、源頼朝によって寺領が寄進されたと伝えられ、『吾妻鏡』には源実朝や御台所、大姫らがしばしば当寺に参詣したことが記されている。 その後衰退するが、天正19年(1591)に徳川家康によって再興された。
 境内に建つ観音堂は徳川家康が修復したものと伝えられ、観音堂の背後には「奥の院岩殿観音」という岩窟がある。 ここが御詠歌に詠まれる「天の岩戸」であり、寺名「岩殿寺」の由来ともなっている。
 観音堂の脇には、「鏡花の池」と呼ばれる池があり、明治の文豪泉鏡花が寄進したもの。 明治35年、病気療養のため逗子に滞在していた泉鏡花は、しばしばこの寺を訪れ、老僧との交友の中から、岩殿寺を舞台にした『春昼』・『春昼後刻』などの作品を遺している。


御本尊の御影





御住職の法話

    泉鏡花と岩殿寺           岩殿寺第十七世住職 洞外正教

 泉鏡花と岩殿寺との関係は、先住老僧との出合いからはじまります。
 明治三十五年の夏、散策がてら来山された折、あまりにも疲れきった顔をされていたのを、老僧が心配し、庫院に迎い入れ、茶話のうちに、四年の年月、老僧との交友がはじまったわけです。
 老僧は易学にこっていたので、鏡花も来訪の都度、老僧の易を楽しまれ、ことのほか老僧の漢詩の話に聞き入ったとのことです。
 この四年間の老僧との交友が、後年の鏡花文学のあの神秘な作品の基礎づくりになったことは、作品を読めばうなずけると思います。
 当初、不健康の原因となったのは、後年奥さんになられるすず夫人との師(尾崎紅葉)を裏切っての同棲生活にあったわけです。慢性の胃腸病に加えて強度のノイローゼに苦しんでいた鏡花でしたが、適度の散策と、老僧の情熱的な茶談に、健康を回復されたわけです。こうした報恩の心が、御夫妻をして、観音堂前に「鏡花の池」の寄進をおもいたたせたことでしょう。池づくりには、すず夫人の御努力が大変なもので、老僧の奥さま宛に送られた手紙のうちに、読みとられます。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

   〔御墨書〕    「海雲山」
              梵字「キャ」  「大悲殿」
              「岩殿寺」

   〔御朱印〕    「坂東第二番」
              「佛法僧寶」
             「岩殿観音」





十一面観音の種子「キャ」




       たちよりて 天の岩戸を おし開き
                       仏をたのむ 身こそたのしき


  

Posted by 閑人 at 12:59Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所

2013年01月29日

第1番札所 杉本観音


坂東三十三ヶ所 第1番札所 杉本観音





大蔵山 (だいぞうざん)  杉本寺 (すぎもとでら)     通称 杉本観音

〔所在地〕 (相模国) 神奈川県鎌倉市二階堂903

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 天平六年(734)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩 (三尊同殿)

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 古刹がひしめく古都鎌倉にあって、最古の寺と伝えられている。 その開創はおよそ1200年前にもさかのぼる。 『杉本寺縁起』には天平六年(734)の記述があり、奈良時代の名僧、行基菩薩が自ら刻んだ十一面観世音菩薩を安置したのが始まりと伝えられている。
 杉本寺のご本尊は「三尊同殿」といわれる三体の十一面観音像である。 天平六年(734)、行基菩薩が自刻の十一面観音像を安置して開創した。 のちに慈覚大師(円仁)が同じく十一面観音像を内陣の中尊として納め、天台の法流に属せしめた。 さらに寛和二年(986)恵心僧都(源信)が花山法皇の命をうけて十一面観音像を奉安したと伝えられる。
 三尊同殿のご本尊は内陣の奥の「大悲殿」に安置され、御前立ちには、源頼朝の寄進による運慶作の十一面観音像が安置されている。
 文治五年(1189)、寺が火災に遭ったとき、この三尊は自ら杉の木の下に避難して火難を免れたとの逸話があり、「杉の本の観音さま」ということで「杉本寺」と名付けられた。


御本尊の御影

        行基菩薩御作          慈覚大師御作          恵心僧都御作




御住職の法話

    争いのない世界           杉本寺住職 静川慈昭

 杉本寺に十一面観音さまのお像が三体おまつりされているのは、十一面観音信仰の波が三度この寺に高まったことを示しているといえましょう。
 頭の上をよく拝しますと正面に三つのやさしいお顔、その左側に三つの怒った顔、右側に三つのこわい顔、そしてうしろに笑った顔、その十の顔の中心に正面を向いて仏さまの顔がついているのがわかります。
 これは観音さまが、その日、その時によって変る私たちの心と行ないにあわせて、それに最も適した顔で導きお救いくださることを意味しているといわれるものです。すなおで正しい人にはやさしい顔で、悪いことを考えている人には怒りの顔で、善いことをしている人には、これはこわい顔ですが励ましておられ、また落ちつかない人には、そんなことでどうするのかと笑いながらたしなめてくださるわけなのです。
 だから、どのお顔も私たちを幸せにしてくださるためのもので、すべてが観音さまの温かい心のあらわれなのです。ですから、みんなが十一面観音さまを信ずると争いのない世界が実現するのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

   〔御墨書〕   「かまくら」
            梵字「キャ」   「十一面大悲殿」
            「杉本寺」

   〔御朱印〕   「坂東第一番」
            蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
            「鎌倉最古佛地杉本寺」
            「発願」




十一面観音の種子 「キャ」




       頼みある しるべなりけり 杉本の
                      誓ひは末の 世にもかはらじ


  

Posted by 閑人 at 18:44Comments(0)TrackBack(0)坂東三十三ヶ所