2011年07月28日

伊賀国一宮 敢國神社


伊賀国一宮 敢國神社




伊賀国一宮 敢國神社 (あえくにじんじゃ)

〔鎮座地〕 三重県伊賀市一之宮877

〔社格〕 旧官幣中社 伊賀国阿拝郡の式内社・敢国神社(大)

〔御祭神〕 〔主神〕 大彦命 (おおひこのみこと)
       〔配神〕 少彦名命 (すくなひこなのみこと)
       〔配神〕 金山比咩命 (かなやまひめのみこと)

〔御由緒〕 大彦命は第八代孝元天皇の嫡男の御子で、第十代崇神天皇の御代に四道将軍のおひとりとして北陸地方の平定を任され、平定後、伊賀國を本貫の地として留まられ、その地が阿拝(あえ)郡であったことから、阿拝氏・阿部氏・安部氏の姓を名乗るようになり、伊賀の国中に子孫がひろがっていき栄え、この地に国府が置かれた。
 社伝によると神社の創建は六五八年とあり、当初は大彦命と少彦名命が祭神とされており、後九七七年神社前方の南宮山に鎮まる金山比咩命が合祀された。 南北朝時代には、後村上天皇が当社に行幸され、五日間参篭後御祈願されたことが園太暦に記載されている。
 江戸時代は藤堂高虎が伊賀へ入府後、伊賀上野城から、丑寅鬼門の方角にあたるところから「鬼門鎮守厄除」の神社として累代の庇護を受けた。 伊賀が生誕地である松尾芭蕉も当社を参拝し「手鼻かむ音さえ梅の匂ひかな」の句を詠んでいる。
-『全国一の宮めぐり』から-



              拝殿                            本殿












      摂社・六所社              摂社・九所社            末社・大石社



       末社・神明社        末社・市杵島姫社(弁天社)      末社・子さずけの神



       末社・楠社              末社・結社            末社・若宮八幡宮



摂末社の御祭神については大石社以外は案内がなかったので、『式内社調査報告』第六巻で調べてみた。

〔摂社 二社〕
六所社   伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児神・素盞嗚尊。
九所社   不詳。
〔末社 八社〕
大石社   須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命・大物主命。
若宮八幡宮   仁徳天皇。
結社   高皇産霊尊・手間天神。
小観社(子さずけの神のことか?)   不詳。
神明社   天照大御神。
市杵島姫社   市杵島姫命。
楠社   楠正成・藤堂元甫。
浅間社(境外南宮山山上)   木華開耶姫命。



桃太郎岩
 古伝によりこの桃太郎岩は今を去る五百五十年前南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰をあつめて居ります。
-境内案内板から-




芭蕉句碑
  手ばなかむ おとさへ梅の にほひかな
                                   ばせを
 元禄元年(一六八八)芭蕉四十五歳の作。 季語「梅」で春。 『笈の小文』の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が、梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で、『卯辰集』(北枝編)に収められている。 土芳の『蕉翁句集草稿』には、「伊賀の山家に有りて」の前書があり、下五を「さかり哉」とする。 「手鼻かむ音」は、紙を使わず手で鼻をかむしぐさ。 この語などは、和歌の観念では生かされそうにない素材であるが、芭蕉は和歌・連歌で詠み残した世界を広く俳諧の世界に生かし新境地としている。 この句も高雅で伝統的歌題である「梅」の情趣に、いかにも卑俗な「手鼻かむ音」を配して、寒さの残る山里の野趣を表現しているところは、和歌の伝統には見られない俳味である。
 句意は、「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。 その匂いの中に立っていると、傍らでふと手鼻かむ音がした。 そんなはしたない音さえも、田舎らしい趣が感じられてくる。」
-境内案内板から-



敢國神社の北方約1㎞の佐那具町に御祭神大彦命の御陵墓と伝えられる御墓山古墳がある。


国史跡 御墓山古墳


国史跡  御墓山古墳 (みはかやまこふん)

 御墓山古墳は、5世紀前半に築造された前方後円墳で、三重県内で最大規模を誇る墳墓で、大正10年(1921年)に、国史跡に指定されています。
 墳丘は2段に造られていますが、前方部裾から下方に葺石を伴う段築があり、見かけは3段に造られたようになっていて、実際より大きく見せる効果があったと考えられます。
 さらに、後円部から北西方向に張り出すような形で造り出しが設けられていることから、御墓山古墳は佐那具の街並みに正面を向けて造られていることがわかります。
 後円部上には盗掘抗が見られ、副葬品の出土は知られていませんが、円筒形や家の形を模したものなど、本墳出土とされる埴輪の破片が多く残されています。 (伊賀市教育委員会保管)
 孝元天皇の皇子で四道将軍の一人である大彦命の陵墓であると伝えられています。

  ◆御墓山古墳◆
  所在地 伊賀市佐那具町字天王下
  規模  全体の長さ 約180m
       後円部 径 約100m   高さ 約14m
       前方部 幅 約80m    高さ 約10m
    平成18年3月   佐那具町自治会  府中地区住民自治協議会
-国史跡・御墓山古墳案内板から-



  

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2011年07月26日

摂津国一宮 坐摩神社


摂津国一宮 坐摩神社




摂津国一宮 坐摩神社 (いかすりじんじゃ)     通称 ざまじんじゃ

〔鎮座地〕 大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号

〔社格〕 旧官幣中社  摂津国西成郡の式内社・坐摩神社(大・月次・相甞・新甞)

〔御祭神〕 生井神  (いくいのかみ)
       福井神  (さくいのかみ)
       綱長井神  (つながいのかみ)
       波比岐神 (はひきのかみ)
       阿須波神 (あすはのかみ)
 以上五柱の御祭神を総称して坐摩神(いかすりのかみ)と申します。
 坐摩神は古語拾遺等によれば、神武天皇が即位された時、御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、坐摩の語源は諸説ありますが、土地又は居住地を守り給う意味の居所知(いかしり)が転じた名称といわれています。
-坐摩神社パンフレットから-



〔御神紋〕 鷺丸 (さぎまる)
 御神紋の白鷺は当社古来のものであり、その由来は神功皇后が坐摩神の御教により、摂津の国・大江の岸の田蓑島(現在の天満橋付近)の松枝に白鷺の群がる所を選び、坐摩神を奉斎なされたというご由緒によります。
-坐摩神社公式サイトから-


〔御由緒〕  大阪市内屈指のビジネス街、御堂筋本町の西方に鎮座する。 祭神五柱を坐摩大神(いかすりのおおかみ)と総称する。 大宮(皇居)の地霊の神として祀られ、大きな信仰と勢力を持った神社で住吉大社とともに摂津国一の宮となる。 平安時代には神祇官の西院に祀られた神で、朝廷の尊崇篤く、現在も皇居において大宮地の守護神として祀られている。
 明治天皇御誕生の折に当社で御安産の御祈祷が行われ、また『万葉集』には遠征の無事を坐摩神に祈る防人の歌が記載されており、住居守護や安産、旅行安全の神として信仰される。
 当初の鎮座地は、大坂城西方の天満橋南詰付近であったが、豊臣秀吉の大坂城築城に際し現在地へ遷座され、旧社地には現在行宮が鎮座する。 本殿以下建物は昭和二十年(一九四五)の戦火に罹り、昭和三十四年に再建された。
-『全国一の宮めぐり』から-



             拝殿                             本殿











境内末社


大江神社

    〔御祭神〕 神功皇后(じんぐうこうごう)
           應神天皇(おうじんてんのう)
           武内宿禰(たけうちのすくね)




       〔左〕 繊維神社
  天羽槌雄神(あめのはづちおのかみ)
  天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)
       〔右〕 大國主神社
  大國主命(おおくにぬしのみこと)
  事代主命(ことしろぬしのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)




       〔左〕 天満宮
  菅原道眞公 (すがわらのみちざねこう)

       〔右〕 相殿神社
  春日大神・住吉大神他十坐





       〔左〕 陶器神社
  大陶祇神(おおすえつみのかみ)
  迦具突智神(かぐつちのかみ)

       〔右〕 稲荷神社
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)




行宮 (御旅所)


     行宮 (あんぐう)  「御旅所」       大阪府大阪市中央区石町

〔御祭神〕 豊磐間戸神 (とよいわまどのかみ)
       奇磐間戸神 (くしいわまどのかみ)
 当社の創祀は神功皇后がこの地に坐摩神を奉祀されたのが始まりとされています。
 現在この地は坐摩神社行宮と称し、本殿には門戸・玄関・窓を守り給う豊磐間戸神・奇磐間戸神の二神が奉斎され、拝殿には神功皇后がご休息された鎮座石が今も残ります。 石町という地名はこの鎮座石に由来します。
 平安期には熊野詣が盛んになり、京都から摂津・和泉を経て熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられました。 この地は淀川を船で下り、最初に参詣する第一王子とも呼ばれる渡辺王子社(別名窪津王子社)のもとの鎮座地ともいわれています。
-坐摩神社パンフレットから-




上総国の防人の歌

          庭中の 阿須波の神に 小柴さし
                 吾は斎はむ 帰り来までに


          右一首   張丁  若麻績部諸人          -『万葉集』(四三五〇)-


  

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2011年07月25日

紀伊国 竈山神社


神武天皇の長兄彦五瀬命を祀る竈山神社





竈山神社 (かまやまじんじゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県和歌山市和田438

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国名草郡の式内社・竈山神社

〔御祭神〕 彦五瀬命 (ひこいつせのみこと) (第一代神武天皇の兄君)

〔御由緒〕 旧官幣大社(現、別表神社)。 『神武即位前紀』によれば、神武天皇の長兄五瀬命が、東征に際し、胆駒山を越えて、中つ国に入ろうとして孔舎衛(くさえ)の坂で長髄彦の軍と会戦した。 このとき流矢にあたり、進路をかえて茅渟(ちぬ)の山城の水門から紀伊国竃山に至ってついに薨じた。 そこで竈山に葬った、というのである。 従って祭神を彦五瀬命(ひこいつせのみこと)としている。 字南和田の西に釜山という岩山があり、この丘の形状が釜に似ている。 この山に五瀬命の竈山墓があり、その南麓に神社が鎮座する。 延喜の制、小社に列し、『紀伊国神名帳』に従四位上とみえる。 例祭十月一三日。 『諸陵式』に「竈山墓、彦五瀬命、在紀伊国名草郡、北域東西一町、南北二町、守戸三烟」とある。
-『神社辞典』から-



              神門                            拝殿











          拝殿・弊殿・本殿                         弊殿











境内神社


          青葉神社                    合祀社   結社   子安社











神武天皇皇兄 彦五瀬命 竃山墓





寛政六年(1794)の冬、本居宣長は竈山神社に詣で

      をたけびの かみよのみこゑ おもほへて
               あらしはげしき かまやまのまつ


と詠まれました。 竈山の岩根に鎮まります御神霊は、この日本の基礎であると共に、永久に世界の安定と発展とをお守り下さることでせう。
   和歌山市和田    竈山神社社務所
-竈山神社パンフレットから-



  

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2011年07月15日

第84番 屋島寺


四国八十八カ所 第84番札所 屋島寺




南面山 千光院 屋島寺 (やしまじ)

〔所在地〕 香川県高松市屋島東町1808

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 鑑真和上

〔本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 源平合戦の古戦場跡であり、香川県でも有数の景勝地である屋島。 標高293mの山頂にある屋島寺へのドライブは爽快で、参拝の楽しみのひとつだ。 寺を開いたのは律宗の開祖鑑真和上。 屋島の北嶺を聖地と感じて御堂を建てたという。 のちに和上の弟子恵雲律師が初代住職となって「屋島寺」と名づけた。 弘仁6年(815)にここを訪れた弘法大師は、伽藍を北嶺から南嶺(現在地)へ移し、本尊を祀って四国霊場に定めている。 以後、戦乱のなかで衰退しながらも、国主や藩主の援助で再興し、往時の面影を伝えている。 境内には現代的なデザインの宝物館があり、数々の寺宝をはじめ本尊の十一面千手観世音菩薩(国の重要文化財)も拝観できる。 本堂横のかわいいタヌキの像は「蓑山(みのやま)大明神」。 四国狸の総大将・太三郎狸と呼ばれる氏神で、子宝や縁結び、家庭円満の御利益で人気だ。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











        仁王門               四天王門                東大門



蓑山大明神


蓑山大明神之由来   屋島太三郎狸
 その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。 のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
 屋島の太三郎狸は佐度の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。 太三郎狸は屋島寺本尊十一面千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
 尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。
-境内案内板から-



源平屋島合戦  弓流し図屏風 (部分)


源平屋島合戦  弓流し図屏風
 本図は「平家物語」第十一巻に記された源平の屋島合戦中、もっとも有名なエピソードのひとつである「弓流」に題材をとっている。
 勝ちにのっていた源氏勢は、船に逃げた平家の軍兵たちを追って、馬の太腹が水につかるほどに海中に乗り入れて攻め戦っていた。 そんな中で、義経はどうしたことか、自分の弓を平家勢の熊手にかけられて落としてしまう。 周りの臣下たちが「弓よりも、お命の方が大切です。お捨てなさい。」と口々に言うが、義経は何とかむちで弓をかき寄せて、拾うのに成功した。 このことで、あとで家臣たちになじられた義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。もし私の弓が二、三人でなければ張れないほどの強弓であったなら、わざとでも落とすのだが、私のひ弱な弓を敵が取って、『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ』といって、ばかにするのが残念だから、命がけで取るのだよ」と語り、すべての人がその心意気に感心した。
-屋島寺案内板から-




           梓弓 屋島の寺に 詣でつつ
                         祈りをかけて 勇むもののふ


  

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2011年07月13日

第83番 一宮寺


四国八十八カ所 第83番札所 一宮寺




神毫山 大宝院 一宮寺 (いちのみやじ)

〔所在地〕 香川県高松市一宮町607

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 義淵僧正

〔本尊〕 聖観世音菩薩

〔真言〕 おん あろりきゃ そわか

〔略縁起〕 高松市郊外にあり、住宅や学校、田園に囲まれた一宮寺。 その起源は大宝の頃(701~704)と古く、寺を開いたのは行基菩薩の師である義淵僧正。 当時は法相宗の「大宝院」という名だった。 その後、行基菩薩が修築するとともに讃岐一の宮「田村神社」の別当寺とし、寺の名を「一宮寺」にしている。 さらに弘法大師が再興のため一宮寺を訪れた際、本尊と自らの像を彫り、真言宗に改宗した。 やがて天正の兵火による焼失を経て再興されると、江戸時代に高松藩主・松平頼常公によって田村神社の別当寺としての任を解かれた。 明治の神仏分離令より200年も前に神仏が分離されるという、めずらしいケースだ。 ちなみに田村神社では日曜市が毎週あり、そこで開かれる讃岐うどんのお店がとても人気だ。
-『ドライブお遍路』から-



             本堂                            大師堂











        護摩堂                稲荷堂                菩薩堂




〔左〕 山門 (仁王門)

〔右〕 鐘楼堂





薬師如来祠     薬師如来縁起
 昔、この近くにおタネばあさんといって、それは意地の悪いおばあさんがいました。 ある日、近所の人から「この寺には地獄の釜の煮えたぎる音がする祠があって悪いことをした人が、この中に頭を入れると扉が閉まってぬけなくなる」と云うのを聞きました。 そこで、おタネばあさんは、「そんなことはない。ちょっと試してみよう」と恐る恐る頭を入れてみたのです。 すると扉が閉まり、下の方からゴォーと云う地獄の音がしてきたのです。 あわてたおタネばあさんは頭をぬこうとしましたが、いくらやってもぬけません。 とうとう恐くなり涙を流しながら「今までの事は許して下さい。」と何回も頼んだのでした。 すると扉が開き、頭がすっと抜けました。 それからは、おタネばあさんは心を入れかえ、近所の人からも親しまれるようになったのです。 この祠は、お大師さんが戒めのため作られたのかもしれませんね。
-境内案内板から-



一宮御陵


一宮御陵
  本堂の手前に宝治元年(1247)の銘がある凝灰岩でできた三基の宝塔がある。 一宮御陵と呼ばれ、神仏分離の際に田村神社から移されたものらしく、田村神社の御祭神である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と弟の五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと・吉備津彦命)、その二人の父である皇祖第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)の供養塔と伝えられています。





神仏分離以前の一宮寺は讃岐国一宮・田村神社の別当寺であった。
山門 (仁王門)前には田村神社の境内が広がり、神仏習合の面影が偲ばれる。



讃岐国一宮・田村神社



讃岐国一宮 田村神社 (たむらじんじゃ)   通称 定水(さだみず)大明神・一宮大明神

〔鎮座地〕 香川県高松市一宮町286

〔社格〕 旧国幣中社  讃岐国香川郡の式内社・田村神社 (名神大)

〔御祭神〕 倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)
       五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと) (吉備津彦命)
       猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
       天隠山命 (あめのかぐやまのみこと) (高倉下命)
       天五田根命 (あめのいたねのみこと) (天村雲命)
   以上の五柱の総称を田村大神と申す。

〔御由緒〕  当社の起源はきわめて古く社記によれば和銅二年(七〇九)に社殿が創建されたとあり、往古より「田村大社」「定水大明神(さだみずだいみょうじん)」又は「一宮大明神」とも称され、人々より篤く崇敬されてきた。
  嘉祥二年(八四九)従五位下に叙せられ、貞観三年(八六一)官社に預り延喜の制名神大社に列せられ、讃岐国一の宮に定められて後は神階を授けられ、建仁元年(一二〇一)正一位の極位に叙せられた。
  本殿の奥、奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い、殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて、古くから神秘を伝えている。 また領内で水旱があれば、領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。 奥殿深淵には龍が棲むと伝えられ覗いた者は絶命するとされる。
  古来讃岐は雨が少なく、古代から溜池が造られてきたが、当社付近は香東川の伏流水が多い地域で、農耕に欠かせない湧き水への信仰が、祭祀に繋がったと考えられている。
-『全国一の宮めぐり』から-




            讃岐一 宮の御前に 仰ぎ来て
                           神の心を 誰かしらいう


  

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2011年07月11日

第82番 根香寺


四国八十八カ所 第82番札所 根香寺




青峰山 千手院 根香寺 (ねごろじ)

〔所在地〕 香川県高松市中山町1506

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 弘法大師  智証大師 (円珍)

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 五色台の青峰の山中にあるこの寺は、大師の開創。 この地で金剛界曼荼羅の五智如来を感得した大師が、青峰に一寺を建立して花蔵院とし、五大明王を祀ったのが始まり。 のちに大師の姪の子、智証大師がこの寺を訪れ、山の鎮守である市之瀬明神の神託により、霊木をもって千手観世音菩薩を刻み、千手院を開いて本尊とした。 この本尊彫刻の木の根株が長く香気を発していたので、両寺を合わせて根香寺と称した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












五大堂
 木造五大尊像(香川県指定有形文化財)を安置する。 五大尊(五大明王)とは、南方 軍荼利夜叉明王、東方 降三世夜叉明王、中央 大日大聖不動明王、北方 金剛夜叉明王、西方 大威徳夜叉明王の五佛である。 弘法大師が、この地において、五智如来を感得され、当寺を開基された。 その五智如来の教令輪身たるお姿が五大尊である。


白猴欅 (はっこうけやき)
 智証大師が寺院創建の折にこの樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたと言われる伝説のケヤキ。 樹齢1600年とも言われ、香川県の天然記念物に指定されていたが枯死した。 平成3年(1991年)に株を生えていた場所に置き、屋根を付け保存されている。




〔左〕 梵鐘
貞享二年(1685)作の梵鐘

〔右〕 山門




伝説の牛鬼(うしおに)像



根香寺の伝説  〝牛鬼(うしおに)〟
 今から四百年くらい昔、このあたりに〝牛鬼〟と呼ばれる怪獣が住んでいて、人々を大変困らせていました。 そこでこの地方を治めていた殿様は、山田蔵人高清という弓の名人に牛鬼の退治を命じました。 高清は根香寺の本尊である千手観音にお願いをして、そのおかげで牛鬼を見つけだし、みごと退治したそうです。 そして怪獣の角を根香寺に奉納して、その菩提をとむらったと伝えられています。
  昭和五十九年三月    香川県
-根香寺境内案内板から-




           宵のまの 妙降る露の 消えぬれば
                           あとこそかねの 勤行の声


  

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2011年07月09日

第81番 白峯寺


四国八十八カ所 第81番札所 白峯寺




綾松山 洞林院 白峯寺 (しろみねじ)

〔所在地〕 香川県坂出市青海町2635

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 弘法大師・智証大師(円珍)

〔本尊〕 干手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 79番・天皇寺の項でも触れたように、香川は崇徳上皇が流刑された地。 ここ白峯寺もまた崇徳上皇とゆかりがある札所だ。 弘仁6年(815)に弘法大師が白峯山の山頂に如意宝珠を埋め、人々の救済を祈願して開いたという。 その後、智証大師が山に入り、白峯大権現のお告げで霊木に本尊を彫ったと伝えられる。
 保元の乱(1156)の後、この地に流刑された崇徳上皇は、白峯寺のそばにある「白峯御陵」で荼毘に付されている。 また、後鳥羽上皇は崇徳上皇の霊を祀る御廟として法華堂を建立している。 これが白峯寺境内にある頓証寺殿だ。 境内に立つ「玉章の木」にも崇徳上皇の悲しい逸話がある。 都をしのんで 「啼けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす」 と詠んだところ、玉章の木で鳴いていたホトトギスが葉をくちばしに巻き、声を出さないようにしたという。
-『ドライブお遍路』から-



              本堂                           大師堂











       阿弥陀堂                薬師堂             五社稲荷大明神




崇徳天皇御廟所  頓証寺殿 (とんしょうじでん)




崇徳天皇御廟所・四国第八十一番霊場
(別格本山) 綾松山 白峯寺 略縁起

 保元元年(一一五六)保元の乱に因り、第七五代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三ヶ年、のち府中鼓ヶ岡木丸殿(木丸殿御所)に移り六ヶ年、都合九年間配所の日々を過ごされて、長寛二年(一一六四)旧八月廿六日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。
 然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武将も恐れ崇め奉り、御府荘園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を尽され、特に第百代の後小松帝は、御廟に「頓証寺」の御追号勅額奉掲して、尊崇の意を表された。
 また仁安元年神無月の頃、歌聖西行は四国修行の途次、御廟に参詣し、一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。
即ち、
         松山や  浪に流れて  こし船の  やがて空しく  なりにけるかな
西行涙を流して御返歌に
         よしや君  昔の玉の  床とても  かゝらん後は  何にかはせむ
と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
-白峯寺境内案内板から抜粋-




           霜さむく 露白妙の 寺のうち
                          御名を称うる 法の声々


  

Posted by 閑人 at 14:40Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年07月07日

第80番 讃岐国分寺


四国八十八カ所 第80番札所 讃岐国分寺




白牛山 千手院 讃岐国分寺 (さぬきこくぶんじ)

〔所在地〕 香川県高松市国分寺町国分2065

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら たらま きりく

〔略縁起〕 天平13年(741)、聖武天皇の勅願によって全国に建立された国分寺の一つ。 行基が開基し、のちに大師が来錫して四国霊場と定めた。 兵火で、堂塔のほとんどを焼失したが、幸いにも本堂と鐘楼だけは難をのがれた。 この鐘楼の鐘には大蛇の伝承がある。 その昔里人を悩ませていた大蛇を、弓の名人、戸次八郎が退治に出かけた。 鐘をかぶった蛇を八郎はみごと退治し、その鐘をこの寺におさめたという。
-『四国八十八カ所』から-



         本堂 (重要文化財)                   大師堂 (多宝塔)











             金堂礎石                       七重塔礎石








國分寺由来
 ◎ 創建は奈良時代の中庸、天平十三年(西暦七四一年、約千二百六十年前)聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により、国家安穏、五穀豊穣、万民豊楽等を願って、建立された寺であります。
 ◎ 正面突き当たりの本堂は古文書國分寺記録によれば往古の講堂であり、鎌倉時代中期の建造物であります。
 ◎ この本堂に安置されている本尊は大慈大悲の十一面千手観世音菩薩で俗に丈六仏と称される五・六米余の巨像であります。
 ◎ 金堂礎石  目前の石群は創建当初の金堂(本堂)の柱石で、実測間口(東西)十四間、奥行(南北)七間(天平尺)の大堂でありました。
 ◎ 七重塔礎石  山門と金堂の中間右側にある石群が創草時の七重塔礎石であります。 全ての國分寺は五重塔ではなく、七重塔であります。 この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)と共に十七個あり、五間四方(正方形)の塔で、京都東寺五重塔(高さ東洋一)以上の規模の大塔でありました。
-讃岐国分寺境内案内板から-



 伝説の梵鐘 (重要文化財)    国分寺の鎮守・春日明神        山門 (仁王門)





          国を分け 野山をしのぎ 寺々に
                            詣れる人を 助けましませ


  

Posted by 閑人 at 15:46Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年07月05日

第79番 天皇寺


四国八十八カ所 第79番札所 天皇寺




金華山 高照院 天皇寺 (てんのうじ)

〔所在地〕 香川県坂出市西庄町1713-2

〔宗派〕 真言宗御室派

〔開基〕 弘法大師

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 弘仁年間(810~824)、大師が近くを巡錫のおり霊気を感じて薬師如来像を彫り、堂宇建立したのが始まり。 当時は妙成就寺摩尼珠院(みょうじょうじゅじまにじゅいん)といった。 のちに、保元の乱(1156)に敗れた崇徳上皇が、讃岐に配流され、この地にその遺骸が安置されたことから、寺号を天皇寺とした(ただし、上皇の御陵があるのは第八十一番札所白峯寺)。 廃仏毀釈で、一時廃寺となるが筆頭末寺の高照院が当地に移り、山号と寺号を継承した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












崇徳天皇  白峰宮




白峰宮 (しろみねぐう)     別称 明の宮(あかりのみや)   通称 天皇さん

〔鎮座地〕 香川県坂出市西庄町1719番地
〔御祭神〕 崇徳天皇 (すとくてんのう)
〔神紋〕 菊十六紋章
〔社格〕 旧県社
〔由緒沿革〕 長寛二年(1164)の勧請と伝える。 社記によると、崇徳上皇保元の乱後讃岐に遷られ給い、長寛二年八月当郡府中村鼓ヶ岡木丸殿にて崩御し給う。 因て一時玉棺を当宮境内野沢井の水上に安置し奉り、同年九月綾松山白峰に荼毘し奉る。 即ち当社は天皇の霊蹟なるを以て、二条天皇宣下ありて社殿を造営し奉り、同年十月神霊を鎮祭す。 高倉天皇安元五年官符を以て当国の租稲千束を賜い、建久四年源頼朝は先規に任せて社地を保護した。 特に後嵯峨天皇は社殿を再営し、宸筆の御願文を捧げ社領二百五十石を寄せ給うた。 明治五年県社に列す。
-『神社名鑑』から-



              拝殿                            本殿













           十楽の 浮世の中を たずぬべし
                           天皇さえも さすらいぞある


  

Posted by 閑人 at 12:42Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年07月03日

第78番 郷照寺


四国八十八カ所 第78番札所 郷照寺




仏光山 広徳院 郷照寺 (ごうしょうじ)

〔所在地〕 香川県綾歌郡宇多津町1435

〔宗派〕 時宗

〔開基〕 行基菩薩

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔真言〕 おん ありみた ていぜい から うん

〔略縁起〕 四国霊場中唯一、時宗と真言宗が同居する寺。 神亀2年(725)、行基が開創したと伝えられる。 弘仁6年(815)には、この地を大師が訪れ、伽藍をととのえて四国霊場と定めた。 のちの正応元年(1288)、一遍上人がこの寺に長く滞在し、遊行念仏の道場を開いた。 寛文4年(1664)、高松藩主である松平頼重により再建され、その時の住持浄阿上人の徳川遠祖の関係により、時宗と本末関係を結んだ。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












〔左〕 山門

〔右〕 庚申堂
病魔を除く青面金剛を祀る





〔左〕 池泉回遊式の庭園   

〔右〕 大師堂の天井画
彩色された美しい草花のレリーフ





          踊りはね 念仏唱う 道場寺
                          拍子をそろえ 鐘を打つなり


  

Posted by 閑人 at 12:21Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年07月01日

第77番 道隆寺


四国八十八カ所 第77番札所 道隆寺




桑多山 明王院 道隆寺 (どうりゅうじ)

〔所在地〕 香川県仲多度郡多度津町北鴨1-3-30

〔宗派〕 真言宗醍醐派

〔開基〕 和気道隆

〔本尊〕 薬師如来

〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

〔略縁起〕 天平勝宝元年(749)に、第七十六番札所金倉寺を建立した和気道善の弟、道隆によって開かれた。 当時、この一帯は和気家の大桑園であったが、その中に毎夜怪しい光を放つ大木があった。 道隆はこの怪光を退治しようと矢を放つが、誤って乳母を射殺してしまう。 悲嘆にくれた道隆は、その木で小さな薬師如来像を刻み、庭の隅に草堂を建てて一心に供養したという。 大師にとっては親類筋の寺である。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂














〔左〕 多宝塔

〔右〕 妙見宮





          願いをば 仏道隆に 入りはてて
                           菩提の月を 見まく欲しさに


  

Posted by 閑人 at 16:30Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所