2011年08月28日
第88番 大窪寺
四国八十八カ所 第88番札所 大窪寺
医王山 遍照光院 大窪寺 (おおくぼじ)
〔所在地〕 香川県さぬき市多和兼割96
〔宗派〕 真言宗大覚寺派
〔開基〕 行基菩薩
〔本尊〕 薬師如来
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 開創は養老年間(717~724)、行基菩薩による。 その後、大師が巡錫中に胎蔵峰で求聞持法を修法。 薬師如来を刻んで本尊とし、第八十八番札所「結願の寺」と定めたという。 大師はこのとき、唐から持ち帰って四国霊場開創の旅をともにした三国(インド、中国、日本)伝来の錫杖をおさめた。 その後、多くの信者の信仰を集め、僧坊も100を越えるほどに寺運は栄えたが、兵火で焼失。 初代高松藩主、松平頼重が再興した。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
二天門 阿弥陀堂 山王大権現
宝杖堂と原爆の火 鐘楼堂 山門 (仁王門)
南無薬師 諸病なかれと 願いつつ
詣れる人は 大窪の寺
2011年08月26日
第87番 長尾寺
四国八十八カ所 第87番札所 長尾寺
補陀洛山 観音院 長尾寺 (ながおじ)
〔所在地〕 香川県さぬき市長尾西653
〔宗派〕 天台宗
〔開基〕 行基菩薩
〔本尊〕 聖観世音菩薩
〔真言〕 おん あろりきゃ そわか
〔略縁起〕 のどかな田園を抜け、小さな町の通りに入ると、大きなわらじが奉納された仁王門が見えてくる。 長尾寺は地元の人から「長尾の観音さん」と親しまれているほか、源義経の側室・静御前が出家した寺としても知られている。 行基菩薩が道ばたの柳の木で本尊を彫り、御堂を建てたのがはじまり。 その後に弘法大師が訪れ、年頭7夜にわたって護摩祈祷を行っている。 このとき人々に護摩符を授けたことから、「大会陽福奪い」という伝統行事が生まれ、今も正月の風物詩となっている。 大師は唐から帰国後に再び足を運び、大日経を書写した供養塔を建てている。 以後、厚い帰依をうけたものの天正の兵火で焼失し、再建後に「観音院」、さらに江戸時代には「長尾寺」お改められた。 宗派は時代とともに2度改められている(法相宗→真言宗→天台宗)。 長いお遍路の旅路も、いよいよ次が結願の札所となる。
-『ドライブお遍路』から-
本堂 大師堂
薬師堂 東門 静御前剃髪塚
重要文化財 長尾寺の経幢二基
経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。 この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。 この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる。 昭和二十九年九月十七日重要文化財に指定された。平成二十年十二月
香川県教育委員会 さぬき市教育委員会 さぬき市文化財保護協会
-長尾寺境内案内板から-
あしびきの 山鳥の尾の 長尾寺
秋の夜すがら 御名を唱えよ
2011年08月20日
第86番 志度寺
四国八十八カ所 第86番札所 志度寺
補陀洛山 清浄光院 志度寺 (しどじ)
〔所在地〕 香川県さぬき市志度1102
〔宗派〕 真言宗善通寺派
〔開基〕 藤原不比等・凡薗子(おおしそのこ・智法尼)
〔本尊〕 十一面観世音菩薩
〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
〔略縁起〕 志度港にほど近い静かな街並みに佇む志度寺。 その歴史は讃岐香川の札所ではもっとも古く、飛鳥時代に凡薗子(おおしのそのこ)という尼僧が建てた小さな御堂にさかのぼる。 その後、天武10年(681)に藤原不比等(藤原鎌足の子)が亡き妻の墓をここに建て、御堂を広げて「死渡道場」という修行道場をつくった。 死渡とは「志度の海辺は極楽浄土へ続いている」という信仰にもとづくもの。 また、海女だった妻が不比等の宝珠を竜神から取り返した伝説「海女の玉取り」は、のちに浄瑠璃や謡曲のモチーフになっている。 その不比等の子・房前が母を弔って諸堂を再興し、名を「志度寺」に改めた。 その後は室町時代に領主・細川氏の帰依をうけるなどして栄え、細川勝元が寄進した「曲水庭園」は今も境内にある(書院)。 そのほか本堂や仁王門が国の重要文化財に指定されるなど、境内には見どころが多い。
-『ドライブお遍路』から-
本堂 大師堂
山門 閻魔堂 奪衣婆堂
海女の墓五輪塔群
謡曲「海士」と海士の墓
謡曲「海士」は、海士の珠取り伝説と女人成仏を主軸にした母性愛物語である。藤原房前は生母が志度浦の海士である事を聞き、追慕の情にたえず此の地を訪れた。
出会った海士から「奪われた面向不背の玉を竜宮から取り返したならば、生まれた子を世継にするとのひたむきな約束のもとに海底に潜り、宝珠を取り返して命を失った。自分は房前大臣の母の幽霊である」と、我が生誕に関する珠取りの話を聞く。我が子房前の追善の経に引かれ、成仏した海士は竜女の姿で現れ喜びの早舞を舞い、孝養をたたえる。
藤原不比等(淡海公)の子房前大臣は、僧行基と共に本堂を再建し、千基の石塔や法華経を納めた経塚を建立して供養を営み、また海士の縁として此の地を玉の浦と呼んだという。
孝養の深さを慕ばせる海士の墓である。
謡曲史跡保存会
-志度寺案内板から-
いざさらば 今宵はここに 志度の寺
祈りの声を 耳に触れつつ
2011年08月16日
第85番 八栗寺
四国八十八カ所 第85番札所 八栗寺
五剣山 観自在院 八栗寺 (やくりじ)
〔所在地〕 香川県高松市牟礼町牟礼3416
〔宗派〕 真言宗大覚寺派
〔開基〕 弘法大師
〔本尊〕 聖観世音菩薩
〔真言〕 おん あろりきゃ そわか
〔略縁起〕 古戦場跡をはさんで屋島の向かいに、険しい山容の五剣山ががそびえている。 標高375m、その8合目付近に八栗寺はあり、ケーブルカーでコトコトと参拝する。 聖天堂には弘法大師作とされる歓喜天が祀られ、縁結びや商売繁盛の御利益がある「八栗の聖天さん」として人気が高く、お遍路さん以外にも多くの参拝客が訪れている。 かつて弘法大師がこの山で求聞持法を修行した際、5つの剣とともに蔵王権現が現れたとされ、大師は5剣を山中に埋めて大日如来を本尊とした。 山の名はここからついた。 また大師は唐での修行の成果を試すため、あらかじめ8つの焼栗を植えておいた。 唐から帰ってみると、みな見事に成長していたので「八栗寺」と名づけたという。 ちなみに五剣山はもともと5つの峰があったが、宝永の大地震(1706)で崩落し、現在の4峰になったとされている。
-『ドライブお遍路』から-
本堂 大師堂
聖天堂 山門 多宝塔
煩悩を 胸の智火にて 八栗をば
修行者ならでは 誰か知るべき
2011年08月05日
河内国一宮 枚岡神社
神事宗源 天孫輔弼 枚岡神社
河内国一宮 枚岡神社 (ひらおかじんじゃ)
〔鎮座地〕 大阪府東大阪市出雲井7-16
〔社格〕 旧官幣大社 河内国河内郡の式内社・枚岡神社四座(並名神大。月次・相甞・新甞)
〔御祭神〕 〔第一殿〕 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
〔第二殿〕 比賣御神 (ひめみかみ)
〔第三殿〕 斎主命 (いわいぬしのみこと)=経津主命(ふつぬしのみこと)
〔第四殿〕 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
〔御由緒〕 奈良から生駒山の暗峠を越えて真直ぐに西へ降った古い街道、山麓近くに朱の春日造りの社殿が西向きに鎮座し、神社の主神は天児屋根命即ち我国の祭祀の始めを掌り給い、中臣・藤原氏の祖神であり、春日大社の第三殿(天児屋根命)と第四殿(比賣御神)の神は、神護景雲年間(西暦七六七~七七〇)に当社から春日神社へ分祀せられた為、当社を元春日と呼び習わして来た。 因に、当社の第三殿・第四殿の二神は、宝亀九年(七七八)春日大社から迎えて配祀せられた。 神階は次第に昇り、貞観元年(八五九)には正一位に叙せられ、『延喜式』には名神大社に列した。 古くから中臣氏の一族平岡連の斎く社であったが、平安末期から水速家が祀職となり、河内一宮として朝野から篤く祀られた。 天喜四年(一〇五六)・宝治元年(一二四七)・天正二年(一五七四)と度々火災に遭い、慶長七年(一六〇二)豊臣秀頼が社殿を修復した。 現社殿は文政九年(一八二六)氏子の総力を挙げての修造である。 社領は百石を有した。
明治四年官幣大社に列し、神宮寺等が廃された。 本社四殿の他に、本殿背後の神津嶽に摂社神津嶽本宮、本殿南に摂社若宮神社更に南に末社天神地祇社が祀られ、その南部一帯は、「枚岡神社梅林」として春は観梅の人達で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-
参道広場
夏越大祓の茅の輪
拝殿
明治12年に新築されました。 平成の修造で檜皮葺きから、銅板葺きに葺き替えられました。 正面に掲げられた神額は、三條實美公揮毫であります。中門
明治12年に改築、明治38年に現在の場所に移設され、昭和26年、平成3年に修復され現在に至っています。本殿
現在の御本殿は、文政9年(1826)に、近郡の氏子の奉納により造営されました。それより以前、『御神徳記』によりますと、天喜4年(1056)と宝治元年(1247)に焼亡し、其の都度造営され、文明9年(1477)にも近郡の氏子により造営されたと記されています。また、天正7年(1579)年9月、織田信長の兵火により類焼をうけ、本殿以下諸建物が焼失しましたが、慶長7年(1602)豊臣秀頼公が社殿の造営をし立派に復旧しました。その後、徳川の時代にはいり、当社に対する崇敬は薄れて衰退を余儀なくされましたが文政9年に造営がなされ、その後屋根の葺き替えや塗替え修理がおこなわれ、最近では平成の大修造(平成元年から3年)を経て現在に至っております。
建築様式は、枚岡造(王子造)と呼ばれ四殿並列極彩色の美しい神社建築です。(市指定文化財)
遥拝所
榊の木を通して、宮中の皇霊殿(春分・秋分の皇霊祭)・伊勢神宮(神嘗祭)・橿原神宮(紀元祭)を遥拝する他、神津嶽を遥拝する所です。摂社 若宮社 (わかみやしゃ)
天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)がお祀りされています。 天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子神様です。この神様は、天児屋根命の命によって、天の二上に登り、皇御孫尊(すめみまのみこと)の御膳水(みけつみず)を取ってきたと伝えられております。 社殿は、明治20年に改築され現在にいたっております。出雲井 (いずもい)
摂社若宮社奥にある井戸です。 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)が水にかかわる神様であるためか、若宮社の左奥にあり、古くより神聖な水が湧き続けています。 枚岡神社の鎮座地は、出雲井町でありこの井戸の名称から、そう呼ばれるようになったのではないかと考えられます。末社 天神地祇社 (てんしんちぎしゃ)
天津神・国津神がお祀りされています。 この社には、もと境内にあった19末社の椿本社(猿田彦神)、青賢木社(天磐立神)、太力辛雄社(天手力雄命)、勝手社(受鬘神)、地主神(枚岡社地の地主神)、笠社(風神)、住吉社(住吉明神)、飛来天神社(天之御中主命)、岩本社(岩本明神)、佐気奈辺社、一言主社(一言主神)、坂本社(山王権現)、素盞鳴命社(素盞鳴命)、八王子社(王子八神)、戸隠社(天八意思兼命)、大山彦社、門守社(櫛石窓神・豊石窓神)、角振社(角振神)、宮社(土佐坊正命)と合せて、氏子近郡の村の氏神としてお祀りされていた、出雲井村の八坂神社、豊浦村の春日神社・東山神社、額田村の額田神社・若宮八幡宮社・山神社・蛭児神社、五条村の八幡宮社、客坊村の一杵島姫神社、四条村の春日神社・素盞鳴命神社、松原村の春日神社・八幡宮社等の神々が、明治5年に合祀されお祀りされています。-枚岡神社公式サイトから-
御祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
第一殿 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
天兒屋命・天之子八根命・天子屋根命とも書き、太詔戸命・櫛眞智命中臣の神とも称え奉られます。
天の岩戸開きに功績をあげられますが、はじめてお祭りを行い、祝詞を奏上された事から「神事宗源 (しんじそうげん)」の神と称えられています。
天孫降臨の神話では、瓊々杵尊 (ににぎのみこと)に御供仕え奉った神々の中でも、特に重責を担った神であり、天照大御神 (あまてらすおほみかみ)・高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)から、皇孫を助け斎ひ護るようにとの神勅により、その重責をはたし皇運の基礎を固めきづかれた事から、「天孫輔弼 (てんそんほひつ)」の神とも称えられています。
第二殿 比売御神 (ひめみかみ)
諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命 (あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命 (あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。
第三殿 経津主命 (ふつぬしのみこと)
香取神宮の御祭神。比古自布都命 (ひこじふつのみこと)・斎主命 (いわいぬしのみこと)・伊波比・斎ノ大人とも称え奉られています。 武甕槌命と同じく、神話「国譲り」において出雲国に派遣され、見事にその役を果たされた神様で、武運守護の大神と仰がれています。
第四殿 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
鹿島神宮の御祭神。建御雷之男神 (タケミカヅチノオノカミ)、建御雷神建御賀豆知命、布都御魂神と称え奉られています。 神話の中の国譲りにおいて、高天原の最高司令神の名で地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣され、見事にその役を果たされ、国の平定における武力と権威の象徴ともいうべき神様です。
-枚岡神社公式サイトから-
祭事
当社三大祭は、例祭二月一日・祈年祭二月十七日・新嘗祭十一月二十三日であるが、祭礼神賑を伴った「秋郷祭」(十月十五日)は氏子の秋祭として各町の布団太鼓台約二十台が、神社の神輿に続いて境内へ勢揃いし、前日の宵宮祭・当日の本祭と、氏子青壮年の叩く太鼓の音が終日鳴り響き、緑に包まれた神社境内もこの時ばかりは大阪・奈良その他からの参拝者・露店があふれ十数万人の人出で境内は埋め尽される。 周辺道路の規制は勿論であるが、河内国の祭の総力が此処にこの日に集結したかと思われる盛大な大祭となる。年中恒例の中・小公式祭の他、節分祭の夕刻と八月第四日曜の夕刻には千灯明奉納神事があり、境内の釣灯篭・石灯篭を始め参道に添って釣灯篭が淡い灯をともし、春日大社の万灯篭を想わせる境内となる。 八月の千灯明奉納は、河内音頭の奉納があり、近在の氏子の子女の輪踊りで夜遅く迄賑わう。 又、夏越の大祓(六月三十日)は、茅の輪を立ててくぐり抜ける蘇民将来の古伝、夏病除けの信仰を伴う。
除夜・元日の所謂「年越詣り」は当社でも盛んで、夜中から正面参道に参拝者が列を作って並び、元日午前零時の新年初太鼓と共に参拝が始まる。 境内では、氏子の奉仕する神酒授与の拝載所に人の列が並び終日参拝者の列は切れない。
三月一日には梅花祭、四月三日には桜花祭があり、境内梅林と紅白梅・桜花の季節は花見を兼ねた参拝者で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-
〔後記〕
本殿の配置が特殊であることに気づいた。 枚岡造と呼ばれる本殿は四殿が並列に配置されている。 てっきり左翼(向かって右)から第一殿・第二殿・第三殿・第四殿の順と思い込んでいた。
ところが本殿の画像をよく見ると、向かって一番右側の第一殿と思われた本殿の千木だけが内削で、他の三殿は外削である。 このような場合、住吉大社でも見られるように、内削の千木は女性神をあらわしていると思われる。 女神ならば第二殿の比賣御神(ひめみかみ)ということになる。 一番左翼が第二殿? これはいったいどういうことなのか、解せぬ!
考えても、わかる術はない。 早速、枚岡神社へ電話して聞いてみた。
枚岡神社からの説明では、「本殿の配置は、向かって右から第二殿・第一殿・第三殿・第四殿の順番です。 内削の千木は女神を示し、比賣御神を祀る第二殿です。 少し変わった配置となっています。」との回答であった。
自分の推理が正しかったことに少しは納得したものの、まだ腑に落ちない。 普通ならば、左側が上位であるはず、どうして第二殿が最左翼なのだろう? 第二殿の比賣御神とは何者なのであろうか?
比賣御神とは、女性の大神と解釈すればよいのだろうか、あまりにも抽象的な神名である。 神社側の説明では、「諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。」とある。 詳細は不明といいながら、かなり具体的である。 なんだか主祭神の天児屋根命と摂社若宮社の祭神天押雲根命との関連で辻褄合わせの説明をしているような気がする。
閑人は思う。 第一殿の主神天児屋根命を差し置いて、その上位に君臨する女神とは、これはもう「天照大御神」以外には考えられない。
境内には伊勢神宮の遥拝所もあり、何よりも本殿の特殊な配置が、 比賣御神=天照大御神 を如実に物語っているのである。