2012年05月14日
第22番 総持寺
西国三十三ヶ所 第22番札所 総持寺
補陀洛山 (ふだらくさん) 総持寺 (そうじじ)
〔所在地〕 (摂津國) 大阪府茨木市総持寺町1-6-1
〔宗派〕 真言宗高野山派
〔開基〕 中納言藤原山蔭
〔創建〕 寛平2年(890)
〔御本尊〕 千手観世音菩薩
〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく
〔略縁起〕 総持寺の創建は藤原北家の傍流で民部省の長官を務めた藤原山蔭という平安時代の役人である。 縁起は「亀の恩返し」説話として『今昔物語集』『源平盛衰記』などに納められている。
山蔭の父である藤原高房は大宰府に赴任の途中、淀川で漁師に捕らえられていた大亀を自分の着物と交換し、川に逃してやった。 その夜、息子の山蔭が川に落ち、捜しても見つからない。 高房は観音様に祈ると、翌朝、助けた大亀が元気な山蔭を背に乗せて現れた。 高房は観音様の御恩に感謝し、観音像の造立を発願する。
願いが成就しないうちに高房は亡くなり、山蔭が父の遺志を継ぐと、長谷観音のお告げにより童子姿の仏師が現れた。 童子は千日かけて仏像を彫り、その間食事は山蔭自身が作り続けた。 千日目の朝、童子は空に飛んで消え、亀の背に立つ千手観音が残され、千日分の食事が供えられていた。 童子は長谷観音の化身であったのだ。
山蔭は仁和4年(888)に亡くなり、山蔭の子供たちは諸堂を完成させ、三回忌にあたる寛平2年(890)2月4日に落慶法要が営まれた。
亀に乗った千手観音は元亀2年(1571)に兵火で堂宇が焼けたときも、猛火の中燦然と立っていたというので、「火伏せ観音」とも呼ばれる。 焼けた本堂は慶長8年(1603)に再建された。
千日間料理を作り続けた山蔭は、料理法や作法に通じ、「日本料理中興の祖」、「山蔭流包丁式」の開祖とされている。
本堂 普悲観音堂
金堂 庖丁塚 大師堂
閻魔堂 鎮守社 鐘楼
御本尊 (秘仏) 千手観音像
木造 像高 75.4cm
総持寺の本尊は、長谷寺観世音化現童子が造ったといわれ、善女龍王(ぜんにょりゅうおう)と雨宝童子(うほうどうじ)を脇侍とする。
一木造の古像だが、元亀2年(1571)、織田信長の軍勢に総持寺は焼かれ、この本尊も下半身が焼損した。 焼けてなお上半身は金色に耀いていたといい、このことから防火、厄除けの観音として信仰を集めている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「大悲殿」
「總持寺」
〔御朱印〕 「西國第廿二番」
伝説の亀の背に乗る、
蓮華宝珠の中に千手観音の種子 「キリク」
「總持寺印」
千手観音の種子 「キリク」
おしなべて 老いも若きも 総持寺の
ほとけの誓い 頼まぬはなし
この記事へのトラックバックURL
http://manyuuki.mediacat-blog.jp/t78795