2012年07月18日

第33番 谷汲山


西国三十三ヶ所 第33番札所 華厳寺




谷汲山 (たにぐみさん)   華厳寺 (けごんじ)      通称 谷汲さん

〔所在地〕 (美濃國) 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 豊然上人(ぶねんしょうにん)・大口大領(おおぐちだいりょう)

〔創建〕 延暦17年 (798)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 谷汲山華厳寺は西国三十三ヶ所の満願・結願の寺。 西国札所の中で最も東の美濃国(岐阜県)に位置し、「谷汲さん」の名でも親しまれている。 
 寺の創建は延暦17年(798)、開祖は豊然上人(ぶねんしょうにん)、本願は大口大領(おおぐちだいりょう)と伝わる。 奥州会津の大口大領は熱心な観音信者で、十一面観音の尊像を建立したいと発願した。 榎の霊木で造った観音像を京の都から故郷へ持ち帰る途中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、持戒堅固な豊上人という聖と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置した。 すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、この谷間の油を汲んで仏前の燈明とした。
 この奇瑞を聞き及んだ醍醐天皇は延喜17年(917)、谷から湧き出る油を燈明に用いたのに因んで「谷汲山」の山号、御尊像に華厳経が書写されている事に因んで「華厳寺」の扁額を下賜せられた。 天慶7年(944)に朱雀天皇の勅願寺となり、西国巡礼中興の祖とされる花山法皇が巡錫、当山を第三十三番札所の満願所と定められた。
 以後、鎌倉末期から応仁の乱まで二度の兵燹に遭い衰退するも、文明11年(1479)、薩摩国の慈眼寺住職道破拾穀上人(どうはじっこくしょうにん)が本堂及び諸堂を再興した。 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治12年(1879)現在のお堂が再建された。
 谷汲山華厳寺は西国三十三番の満願霊場として、花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌に因んで三つの御宝印がある。 三つの御宝印は本堂(観音堂)・満願堂・笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされる 。


              本堂                           仁王門












        満願堂                笈摺堂                山門



   明王院(豊川稲荷)        精進落としの鯉(吽・阿)          王子神社





     御本尊 (秘仏)       十一面観音立像

 御本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず詳細は不明である。
 『阿娑縛抄(あさばしょう)諸寺略記』によれば皆金色、7尺5寸の像という。 一方、『谷汲山華厳寺古今記』に「当寺本尊作者異説事」という記事があり、これによると本尊は文殊大士の作で、榎の一木造。 像身に六十華厳経を書し、衣には三千仏、袈裟には諸尊の三昧耶形を描き、胸間に十一面観音を納めるという。
 かなり特異な姿の像であることが想像される。



 納経帳


     本堂(観音堂)               満願堂                笈摺堂



本堂(観音堂)
 〔御墨書〕   「谷汲山」   「大悲殿」   「華厳寺」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番霊場」
          蓮華台に「谷汲山」   火焔光背宝珠の中に十一面観世音の種子「キャ」
          「美濃國谷汲山華厳寺」

満願堂
 〔御墨書〕   「奉拝」    「満願堂」    「谷汲山」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番」
          蓮華台に「満願霊場」   蓮華宝珠の中に十一面観世音の種子「キャ」
          「谷汲山満願堂」

笈摺堂
 〔御墨書〕   「奉拝」    「笈摺堂」    「谷汲山」
 〔御朱印〕   「西國満願三十三番」
          蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
          「谷汲山笈摺堂」




十一面観音の種子 「キャ」




(現在)
世を照らす 仏のしるし ありければ まだ灯も 消えぬなりけり

(過去)
万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲

(未来)
今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎ納むる 美濃の谷汲



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