2012年08月09日

常陸国一宮 鹿島神宮


常陸国一宮 鹿島神宮




鹿島神宮の石造大鳥居は平成23年3月11日の東日本大震災により惜しくも倒壊した。
神宮関係者と全国の崇敬者の多大な尽力により、平成26年には鹿島鳥居型の本来の木製大鳥居が再建されることが決まった。


  鹿島神宮大鳥居  平成26年完成予定
  高さ  約10.2メートル
  笠木巾  約14.6メートル
  材料  杉 (境内御用材)

 大鳥居 身替わりになり 倒れしと 会ふ人ごとに 無事を喜ぶ



常陸国一宮   鹿島神宮 (かしまじんぐう)

〔鎮座地〕  茨城県鹿嶋市宮中2306-1

〔社格〕  勅祭社  旧官幣大社  常陸国鹿嶋郡の式内社・鹿嶋神宮(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕  武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)

〔御由緒〕  全国に千社を数える鹿島神社の総本宮がこの鹿島神宮である。 武甕槌大神は、天孫降臨に先立つ国譲りの際、高天原から天降った武神として神話に語られている。 中臣氏、藤原氏の祖神として神護景雲二年(768)、奈良の春日大社(第一殿)にも祀られた。
 長旅に出ることを「鹿島立ち(かしまだち)」といい、これは常陸国の防人が神宮の神前で安全を祈り出発した故事によるといわれ、万葉集にも歌が残っている。
 神階は早くも嘉祥三年(850)に正一位となり、『延喜式』神名帳で社名に「神宮」号を以て記載されているのは鹿島と香取だけであるなど、朝廷による並々ならぬ尊崇が伺える。
 また武家社会においては、武門の守護神として多くの武将が崇敬を寄せた。 治承四年(1180)に挙兵した源頼朝は度々神領を寄進し、武運長久を祈った。 徳川家康は朱印領二千石を寄せ社殿の造営をおこなった。 元和四年(1618)にその社殿を遷して奥宮とし、翌年現在の社殿が竣功した。 明治四年官弊大社に列格、勅祭社となった。
-『全国一の宮めぐり』から-



楼門


楼門   -重要文化財-
 寛永11年(1634)、水戸藩初代藩主徳川頼房公の奉納。 この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに日本三大楼門に数えられています。



              拝殿                            本殿











御社殿
重要文化財   本殿 石の間 弊殿 拝殿 仮殿
当神宮の社殿はその昔伊勢の神宮のように二十年ごとに造営が行われていましたが、現在の社殿は元和五年(1619)、二代将軍徳川秀忠公により奉納されました。
(本殿は現在檜皮葺替修理中。 本殿の画像は授与所で頂いたパンフレットからお借りした。)




奥宮  -重要文化財-
 〔御祭神〕 武甕槌大神荒御魂
 慶長十年(1605)に将軍徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり、現在地に引移して奥宮社殿となった。





仮殿  -重要文化財-
 本殿を修理する時など一時的に神様をお遷しする社殿です。 現在左記の摂末社・所管社の御分霊をお祀りしております。
〔摂社〕 奥宮・高房社・三笠社・跡宮・息栖神社・沼尾神社・坂戸神社   〔末社〕 須賀社・熊野社・津東西社・祝詞社・稲荷社・潮社・阿津社・熱田社・御厨社・国主社・海辺社・鷲社・押手社・年社   〔所管社〕 大国社



御手洗 (みたらし)
 古来神職並びに参拝者の潔斎の池。 その水は美しく澄み絶えず滾々と流れ出る霊泉です。 神代の昔、大神が天曲弓(あめのまがゆみ)で穿たれたとも、宮造の折一夜にして湧出したとも伝えられ、大人子どもによらず乳を過ぎずということで七不思議にかぞえられています。 大昔は当神宮の参道がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗の名が今に残されています。



     要石 (かなめいし)
 神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座(みまし)とも、或いは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。
 この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。  水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。  信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下心の御柱(しんのみはしら)的存在である。
       大地震(おおなゑ)に  びくともせぬや  松の花          一茶



鹿園 (ろくえん)
 神様のお使いとして親しまれている鹿がいる鹿園(ろくえん)です。 神門から120メートルの場所に鹿園が あり、30数頭の日本鹿がいます。  鹿島神宮の神の使いは「鹿」とされ、「神鹿」と呼ばれ、奈良時代には、鹿の背に武甕槌大神の分霊を乗せて、鹿島立ちをし、奈良の春日大社にお祀りしました。



親鸞上人旧跡
 鹿園を中心とした一角の土堤内は鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔山護国院跡にして昔親鸞上人が訪れたと伝え俗に「親鸞上人のお経石」と称して小石に経文の文字を書いたものが出土したことがあります。 なお親鸞上人は「教行信証」を著す為一切経その他の文献閲覧の為にしばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。




摂社 高房社
  〔御祭神〕 建葉槌神
 鹿島の大神に従い天香々背男を討つ。 常陸国二の宮静神社の祭神である。 本社参拝の前に詣でるのが古例である。





摂社遙拝所
 摂社 沼尾神社  北四キロ   〔御祭神〕 経津主神
 摂社 坂戸神社  北二キロ   〔御祭神〕 天児屋命





 〔左〕 末社 熊野社
 〔御祭神〕 伊弉諾命・事解男命・早玉男命

 〔右〕 末社 祝詞社
 〔御祭神〕 太玉命




 〔左〕 末社 津東西社
 〔御祭神〕 高靇神・闇靇神

 〔右〕 末社 須賀社
 〔御祭神〕 素戔嗚命





    〔左〕 末社 熱田社    〔御祭神〕 素戔嗚命・ 稲田姫命
    〔中〕 所管社 大國社   〔御祭神〕 大國主命
    〔右〕 末社 稲荷社    〔御祭神〕 保食神



 〔左〕 所管社 祖霊社
 〔御祭神〕 氏子区内戦没者の御霊・氏子崇敬者の先祖

 〔右〕 末社 御厨社
 〔御祭神〕 御食津神




武甕槌大神の石碑


御由緒  遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。

御祭神  「古事記」「日本書紀」によりますと、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神、イザナギ、イザナミの両神より生まれた火の神カグツチより誕生された、とされています。即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります。

御利益  鹿島神宮の神の御神徳は何といっても、平国(くにむけ)の剣(つるぎ)による国譲りの交渉の成功であり、神武天皇東征(じんむてんのうとうせい)時における「フツの御魂(みたま)の剣」によって国を治め、天下に平和をもたらすご事蹟(じせき)にあります。
-『鹿島神宮公式サイト』から-





        那賀郡上丁  大舎人部千文      
       霰降り 鹿島の神を 祈りつつ
                    皇御軍に 我れは来にしを
                                       - 『万葉集』 巻20 4370-



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