2012年08月27日

伊勢国一宮 都波岐奈加等神社


伊勢国一宮  都波岐奈加等神社 (つばきなかとじんじゃ)





伊勢国一宮  都波岐奈加等神社 (つばきなかとじんじゃ)

〔鎮座地〕  三重県鈴鹿市一ノ宮町1181

〔社格〕  旧県社  伊勢国河曲郡の式内社、都波岐神社・奈加等神社

〔御祭神〕  都波岐神社   猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
        奈加等神社   天椹野命 (あめのくぬのみこと)
                   中筒之男命 (なかつつのおのみこと)

〔御由緒〕 社伝によると、雄略天皇二十三年に、猿田彦大神八世の孫で伊勢国造の高雄束命が、勅を奉じてこの地に都波岐神社・奈加等神社の二社を創祀したとされ、社殿は一つで二社を相殿としている。
 創祀の際、天椹野命十五世の孫、中跡直山部直広幡が宣旨を受け、初代の祭主となり、その子孫が代々神職を継承している。
 平安時代以降、弘法大師が参籠し獅子頭二口を奉納し、また足利義満は富士参詣の帰途に参拝し社領を寄せたと伝わる。 神仏習合時代には神宮寺が存在し、椿大神社と並ぶ伊勢国一の宮として隆盛した。
 永禄年間には織田信長の「伊勢平定」による兵火に罹り、獅子頭を除く社宝や古記録、また社殿が焼失した。 江戸時代、神戸城主一柳監物により社殿が再建され、明治三十六年県社に列格した。
 この地方には古くから獅子舞が伝わるが、当神社には雌雄一対による「中戸流神楽」があり、社頭で奉納される。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿











  明治9年に建てられた拝殿と祝詞殿は、平成9年に不審火により惜しくも消失した。
  現在の拝殿は、平成10年に再建された鉄筋コンクリート製のものである。
  本殿は安政3年(1856)造営の神明造である。


境内社 (本殿前左右の社)

           小川薬王子社                      神明春日社










  〔本殿前向かって左側〕
  小川薬王子社 (おがわやくおうじしゃ) 
  伊勢国河曲郡の式内社・小川神社
  〔御祭神〕 天宇受賣命・大穴牟遲神・少毘古那神・宇迦之御魂神・品陀和気命
         鷹司房輔公・菅原神・須佐之男命・大山津見神

  〔本殿前向かって右側〕
  神明春日社 (しんめいかすがしゃ) 
  〔御祭神〕 天照大御神・天兒屋根命
-『参拝者の栞』から-



都波岐奈加等神社の御祭神
 本社は、通称「都波岐奈加等神社」と呼び習わしていますが、「都波岐神社」と「奈加等神社」の二社が相殿の神社であります。 御祭神は左の通りであります。
  都波岐神社    猿田彦大神
  奈加等神社    天椹野命(あめのくれののみこと)
              中筒男大神
 他に、境内社として、玉垣内本殿の前方向かって右手に「神明春日社」、左手に「小川薬王子社」があります。 いずれも明治四十一年に合祀されました。
  神明春日社    天照大御神・天兒屋根命
  小川薬王子社   天宇受賣命(あめのうずめのみこと)以下八神

都波岐奈加等神社の御由緒
 当都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮であります。 創立は、雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命(たかおわけのみこと)が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
 その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
 平安時代の初めには、弘法大師空海が本社に参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています。
 室町時代には、征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途本社に参拝し幣帛を供え社領を寄進したので、多くの武士が参詣したと伝えています。
 戦国時代には、織田信長が、伊勢平定の軍を進め近くの神戸・高岡の二城を攻略しました。 その際、本社は兵火にかかり社殿が焼失しました。 幸いにも御神宝の獅子頭などは他所へ遷し難を免れることができました。
 社殿は江戸時代初めの寛永年中に神戸城主一柳監物によって再建されました。 また肥後国の阿蘇神社及び常陸国の鹿島神宮と同じ鷹司家の執奏社として本社には大宮司職が置かれ、当地方において大きな勢力を維持しました。 現在の本殿は、江戸時代末期の安政三年に造営されたものです。
 本社には、伊勢地方の四流派、即ち「四山の獅子」の一流派として、「中戸流」の舞神楽が伝えられており、江戸時代には各地を舞歩きました。 そして、貴重な宝物として古新あわせて四頭の獅子頭が伝えられています。 今日では、毎年十月十日の秋季例大祭当日、四頭の内の新頭の雌雄二頭の獅子によって舞神楽が奉納されます。
 明治に入り、江戸時代に引き続いて社殿の整備がすすめられ、明治九年に現在の拝殿が造営されました。 明治三十六年には県社に列せられ、更に一層の発展が見られました。 本社の主祭神の「猿田彦大神」は、伊勢国の大地主の神、また道開きの大神として崇められ、その御神徳を慕い全国各地から参拝者がたえません。
-境内案内板から-




〔後記〕
 奈加等神社の御祭神「天椹野命」(あめのくぬのみこと)について調べてみた。
 聞き慣れない神名である。 『古事記』・『日本書紀』には見られない。
 出典は、『先代旧事本紀』であった。 天椹野命は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の天降り防衛三十二人の一人である。 『先代旧事本紀』巻第三「天神本紀」に、「天椹野命(あまのくののみこと)、中跡直(なかとのあたい)等の祖」とある。

 神社名と祭神名が、ここに見事に一致している。 更に現在の神主は、天椹野命十五世の孫、中跡直山部直広幡から五十八代目であり、「中跡(なかと)」の姓を継承している。
 平城京跡から発掘された『木簡』からも、「伊勢国川勾郡中止里 阿斗部小殿万呂 同遊万呂」とあるように、この地が古代から栄えた地であり、その歴史を今日に致るまで連綿と引き継がれた由緒正しき神社であることがわかる。

 しかし、調査を進めると、この「天椹野命」という御祭神は、大正4年の『明細帳』には見当たらない。 昭和27年の『明細帳』にいたって初めて表れる御祭神であることが判った。 それ以前は、「住吉三神」のうちの一坐、「中筒之男命」(なかつつのおのみこと)一坐のみを祀っていたという。 昭和の初期に、神社の正統性と権威を高めるために、新たに付け加えられたものなのであろう。

 明治9年に建てられた拝殿と祝詞殿は、平成9年の不審火により惜しくも消失した。 現在の拝殿は、平成10年に再建された鉄筋コンクリート製のものである。
 本殿は安政3年(1856)造営の神明造であるという。 広壮さは感じるものの、何かもの足りない。 閑人には、古色と重厚さがあまり感じられなかった。 萱葺きの屋根ではなく、薄い銅板葺き屋根のせいであろう。 側板等も覆われて素木の美しさが見られない。
 よく見ると、神明造独特の棟持柱(むなもちばしら)が無い。 屋根の千木は内削ぎで、鰹木は5本。 普通の神明造とは鰹木の数が合わない。 江戸時代の神明造はこのような様式であったのだろうか。




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