2012年12月30日
龍田大社
風の宮 総本宮
龍田大社 (たつたたいしゃ)
龍田大社 (たつたたいしゃ)
龍田大社 (たつたたいしゃ)
〔鎮座地〕 奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1
〔社格〕 旧官幣大社 二十二社 (中七社)
大和国平群郡の式内社・龍田坐天御柱國御柱神社二座(並名神大 月次・新嘗)
〔御祭神〕 天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ) : 志那都比古神(しなつひこのかみ)
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ) : 志那都比売神(しなつひめのかみ)
〔御由緒〕 『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願し、夢に天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあったので、これにより創建されたとある。
『日本書紀』には、天武紀四年四月十日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。 『延喜式神名帳』では「大和国平群郡龍田坐天御柱国御柱神社二座」として名神大社に列し、また、永保元年(1081)には、二十二社の一に選ばれた。
古来、紅葉の名所としても有名であり、摂社・龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、多くの歌に詠まれてきた。
近代社格制度のもと、明治4年(1871)に龍田神社として官幣大社に列し、現在は、農業・航空機・船舶・航海・漁業等、風に関係する者の信仰が篤い。
拝殿 本殿
龍田大社由緒略記
主祭神名
天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)・国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)
(別名) 志那都比古神(しなつひこのかみ)・志那都比売神(しなつひめのかみ)
御神徳
天と地の間即ち大気・生気・風力を司る神様で「風神」と申し上げます。 御神名の“御柱”とは《真の柱》の意味で「天地万物の中心の柱」と解釈され、別名の“志那”とは《息長》の意味で文字通り「気息の長く遠く吹き亘る」と解釈。 つまり天地宇宙の万物生成の中心となる『気』を御守護くださる幅広く御神徳のある神様です。
創建
今から約二千百年前、第十代崇神天皇の時代、凶作・疫病が流行し騒然としている中で天皇の御夢に『吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて云々』と言う御神託があり、その通りに御宮を造営すると疫病は退散し、豊作に成ったとあり、当社の創建と考えられます。 《延喜式・龍田風神祭祝詞より》
-『龍田大社由緒略記』から-
瑞垣内摂社
〔左〕 龍田比古神社 〔右〕 龍田比売神社
〔御祭神〕 龍田比古命・龍田比売命
「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位前にさかのぼり、この土地周辺の氏神様として信仰されている。
瑞垣内末社 三社
上座 天照大御神・住吉大神
中座 枚岡大神・春日大神
下座 高望王のお妃
三社共に創建年代は不詳。
末社 白瀧神社
江戸末期に当社ご神域に白蛇として出現し明治後期一夜にしてそのお姿が見えず当時騒然たりしも明治四十一年春突如(大和国葛城郡)にごり池にて白龍として出現されし吉報に依り当時薮宮司・神官・地元氏子に依り辛櫃を奉持しお迎え申し上げこの地に祭祀されたのが当社創建と伝わる。 その後本社龍田大明神のお仕え神結びの神・浄難災難除けの神として女性の方々の信仰は特に篤く安産時期には祈願に訪れる参拝者が多い。末社 龍田恵美須神社
当社は寛元元年(一二四三年)摂津国恵美須神総本社の西宮戎神社から御分霊を勧請し祭事を続けられました。 そのご社殿も荒廃しましたが恵美須信仰者の方々の御厚志に依りまして、昭和六十二年十一月二十八日再び摂津国西宮戎神社から御分霊をお迎えし商売繁盛・福徳開運・家庭円満の守護神である龍田恵美須さんとしてご復興致し末永くお祀り申し上げるものである。末社 三宝稲荷神社
当社のご創建鎮座は定かではありませんが往古から三宝稲荷さんとして商売を営む人々の信仰篤く商売繁盛の神として訪れる参拝者が絶えない。下照神社
〔御祭神〕 大國魂大神
高橋虫麻呂歌碑
高橋虫麻呂歌
島山を い行き廻れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ
昨日こそ 我が越え来しか
一夜のみ 寝たりしからに
峰の上の 桜の花は 瀧の瀬ゆ 散らひて流る
君が見む その日までには
山おろしの 風な吹きそと うち越えて
名に負へる杜に 風祭せな
-『万葉集』巻9 1751-
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