2013年04月29日

丹波国一宮 出雲大神宮


元出雲  日本一の縁結び
出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)






丹波国一宮 出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)      通称 出雲さん

〔鎮座地〕 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地

〔社格〕 旧国幣中社  丹波国桑田郡の式内社・出雲神社 (名神大)

〔御祭神〕 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
       三穂津姫命 (みほつひめのみこと)

〔御由緒〕 大国主命はこの国土をひらき国造りを完成され、天孫降臨に際し天照大神の御神勅にしたがい、平和の御心をもってこの国土を皇孫にお譲りになった。 その折、高皇産霊尊の娘、三穂津姫命を后神に迎えられ、二柱めでたく当地にご鎮座、併せて出雲大神となり、御祭神自ら縁結びの御神徳を示された。
 その後、崇神天皇が丹波地方全域を平定された折に再興、元明天皇の和銅二年(七〇九)十月二十一日、勅命により御影山(みかげやま)の麓に社殿が創建された。 『丹波風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根の木築の地に遷す。すなわち、今の出雲大社これなり。」とあり、元出雲と呼ばれている。
 三間社流造りの社殿は鎌倉時代初期のもので貞和元年(一三〇五)に足利尊氏、後にも細川勝元により修造され現在に至るものと伝えられる。
 本殿背後の御影山は社殿が創建される以前より信仰され、今なお国常立尊の鎮まる聖域となっている。
-『全国一の宮めぐり』から-



御神体山 御蔭山



御神体山  御蔭山 (みかげやま)
御祭神  国常立尊 (クニノトコタチノミコト)   毎月25日 國祖祭

 神々様が御降臨遊ばされたのは御神体山である御蔭山で、出雲大神宮の本殿が立てられる以前から公武を問わず、尊崇を集めてきました。古は千年山とも呼ばれた様に、永続の根本、つまり国の最も優れた中心地でありました。
 御蔭山は国祖として知られる国常立尊がお鎮りになられ、『富士古文書』には当宮御祭神の三穂津姫命が御奉仕し、お隠れになられた折にはこの御蔭山に葬られたと記されています。



御社殿

拝殿



              中門                            本殿












御社殿

 社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。
 しかし近年、三枚の棟札が発見され、そのうち文安二(1445)年十一月二十六日のものは「御願主源右享(京)大夫殿」とある点を考慮し、社殿造営に関して室町期に管領職として幕権を掌握した細川勝元との関係を無視すべきではありません。
 その造りは中世神社建築に多く見られる三間社流造平入で、建坪十四坪弱、檜皮葺を施しており、明治三十九(1906)年に旧国宝、現重要文化財に指定されています。
 平面は正面に一間の向拝をもうけ、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めています。外陣と内陣部分には高欄付きの縁をまわし、身舎側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には縁をまわしていません。-『新修亀岡市史』資料編第四巻-
 中門は切妻造、平入。 拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治十一(1878)年に官費により造営されました。 ここでは10月21日に斎行される例大祭や4月18日の花鎮祭に巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。




摂末社


〔左〕 上の社(かみのやしろ)
〔御祭神〕 素戔嗚尊・櫛稲田姫尊

〔右〕 稲荷社(いなりしゃ)
〔御祭神〕 宇迦之御魂神



〔左〕 笑殿社(わらいどのしゃ)
〔御祭神〕事代主命・少那毘古名命
〔右〕 春日社(かすがしゃ)
〔御祭神〕建御雷之男神・天兒屋命


〔左〕 崇神天皇社 (すじんてんのうしゃ)
〔御祭神〕 崇神天皇
〔右〕 辨財天社 (べんざいてんしゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命


〔左〕 黒太夫社(くろだゆうしゃ)
〔御祭神〕猿田毘古神・大山祇神

〔右〕 祖霊社(それいしゃ)
〔御祭神〕歴代の神職、役員、総代氏子、特別崇敬者の物故者




名所旧跡

     御神石 夫婦岩            真名井の水              御蔭の滝



         磐座                 古墳                  磐座





徒然草の世界

 鎌倉末期、或は室町初期に、兼好法師により著された『徒然草』の236段には、出雲大神宮の事が記載されています。

丹波に出雲といふ所あり
 丹波に出雲といふ所あり。 大社を移して、めでたく造れり。 しだのなにがしとかや、知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
-吉田兼好『徒然草』236段-


現代語訳
 丹波国に出雲という所がある。出雲大社に倣って立派に造営した。 しだ某とかいう人が領知する所なので、秋の頃、聖海上人や沢山の人を誘って、「さぁさぁ、皆さん、出雲拝みに参りましょう。ぼた餅をごちそうしますよ。」と言って一緒にお参りすると、皆、拝んで大層信仰篤くなった。
 本殿の前にある獅子・狛犬が反対を向いて、後ろ向きに立っていたので、上人はただならず感じ、「なんと素晴らしい。この獅子・狛犬の立ちようは、大変不思議だ!この立派な神社の事だから、きっと深い意味でもあるのだろう。」と涙ぐんで、「どうです、皆さん。他に類を見ない素晴らしいものとは御覧にならないのですか。それが分からないとは仕方ない人達ですな。」と言ったので、皆、珍しいものだと思って、「本当に他と異なり素晴らしいなぁ。都の土産話にでも語りましょう。」などと言う内、上人はやはり理由を知りたがって、分別のある、何でも知っている様な顔をした神官を呼んで、「この神社の獅子・狛犬の立てられている様子は、きっと例のある事なのでしょう。ちょっとゆかりをお伺いしたいのですが。」と言われたので、神官は、「その事ですか。これはいたずら者の子供がした事です。けしからぬ事です。」などと言って、獅子・狛犬に寄り、元のように向き合って据え直して去ったので、上人の涙は意味のないものになってしまった事だ。


※ 現在の獅子・狛犬は当時のものとは異なります
 この段は中高生の教科書に載せられるほど有名で、当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社でありました。
 また分霊したとありますが、当宮の社伝によれば、むしろ丹波の地より出雲の杵築宮にお遷し申し上げたとされています。
-『出雲大神宮公式サイト』から-






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