2013年09月21日

第29番札所 千葉寺


坂東三十三ヶ所 第29番札所 千葉寺





海上山 (かいじょうざん)  千葉寺 (せんようじ)     通称 千葉寺(ちばでら)

〔所在地〕 (下総国) 千葉県千葉市中央区千葉寺町161

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 和銅2年 (709)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『千葉寺縁起』によれば、和銅2年(709)この地を訪れた行基菩薩が池に浮かぶ蓮の花の中に阿弥陀如来と観音菩薩の二尊が並ぶお姿を感得し、丈六の観音像を刻み奉安したのがこの寺の始まり。 聖武天皇から勅額を賜り、海照山千葉寺と称したという。 発掘調査により、奈良時代後期には、金堂を中心に南大門・東大門・西大門・講堂などの伽藍を配した大寺であったことが判明している。
 平安時代末期には火災により堂宇の大半を焼失するが、中世には、源頼朝の旗揚に大きな力を与えた豪族千葉氏の祈願所となり、堂宇の修築がなされ大いに栄えた。 鎌倉幕府成立後、源頼朝はこの寺に運慶作の愛染明王像を寄進している。
 しかし豊臣秀吉の小田原攻めの際に北條氏と共に千葉氏は滅亡した。 天正18年(1590)、徳川家康が朱印百石を寄せ、二代将軍秀忠の参詣も再度にわたり、元和9年(1623))に観音堂が新築され、将軍家とのゆかりによって大いに寺格を高めた。 その後幾度の火災に遭い、堂舎什宝を失うも、そのつど近隣への勧進をはじめ、江戸へご本尊の出開帳を催すなどして浄財をあつめ再興している。
 文政11年(1828)建立の広壮な構えで知られた観音堂は昭和20年の戦災で失われたが、昭和51年に再建された。


御本尊の御影





御住職の法話

      観音さまと私           千葉寺前住職 藤澤利恭

「アッ、この子だ、おじいちゃんの生まれ代わりの子は」叔父たちは私の頭にあるあざを指して叫んだ。 大正四年の夏母の里帰りの日のことである。
 母の生家は奈良県桜井市白木中森家で、祖父は医者であったが、西国八番札所長谷寺に毎朝参拝し、来世は僧に生まれ代わるよう願をかけていた。 祖父の死後霊媒者にその死後のことを尋ねると「私は極楽の上座に住むことができた。 私の分身はもう生まれている。 頭に印があり、天竺に詣り天寿を全うする・・・・・・」等々。
 それから十七年後、私は長谷寺で八十日の加行にも堪え、インドの釈尊遺跡巡拝など、予言どおりになった。 人の大半は生まれ代わるのである。
 ありがたい観音さま、いつも真心をもってお祈りすれば必ずお救いくださることを信じないわけにはいかない。 ありがたい、すまない、もったいないと拝む人は拝まれる人でもある。
 浄業成就を祈る。
 南無大慈大悲観世音菩薩           合掌
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「海上山」
                梵字「キャ」   「大悲閣」
                 「千葉寺」

     〔御朱印〕     「坂東廿九番」
                「?」 (判読不明)
                「千葉寺印」





御宝印
 難解な御宝印である。 文字と思われるのであるが、判読不明である。
 お寺の話でも、十一面観音に因む御宝印とだけ伝わっており、詳しいことは判らないという。
 何らかの意味をもつ御宝印と思われますので、判る方いらっしゃれば、お教え願いたい。





十一面観音の種子「キャ」




        千葉寺へ  詣る吾が身も  たのもしや
                          岸うつ波に  船ぞうかぶる




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