2013年12月07日

第33番 那古観音


坂東三十三ヶ所 第33番札所 那古観音





補陀洛山 (ふだらくさん)  那古寺 (なごじ)       通称 那古観音

〔所在地〕 (安房国) 千葉県館山市那古1125

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 養老元年 (717)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『那古寺縁起』によれば、養老元年(717)、僧行基が老翁のお告げにより、ここの海中より香木を得て千手観音像を刻んだ。 元正天皇の御悩平癒の祈念したところ、直ちに効験があったので、勅願によって山上に伽藍が建てられたとある。 のちに慈覚大師が止住せられ、さらに正治年間(1199~1201)、秀円上人(しゅうえんしょうにん)に至って真言密教の霊場となった。
 源頼朝がこの御本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏・里見義実もあつい信仰を捧げた。 特に里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張し、江戸時代初期には末寺十五ヶ寺、駕籠側八人衆、三百石を領する大寺となった。
 元禄16年(1703)の大震災で堂塔は全壊したが、江戸幕府は岡本兵衛を奉行として、宝暦8年(1758)、場所を現在地に遷して再建された。



御本尊の御影





御住職の法話

    山主の観音日誌より         那古寺第六十二世山主 石川良泰

 ある日一人の老婦人が本堂での読経後静かに私に語りかけた。
 私は近くの農村から戦前横浜に嫁いだ者です。 空襲で焼け出され幼い子供の手を引いて故郷の母を頼って帰りました。 ある時、母と二人、郡古観音さまの緋縁に座し、このまま田舎に帰って百姓をするか、再び横浜に出るか迷いに迷いました。
 その時母に「今のお前にはいずれにしても住むに家なしだ。 故郷で兄にわずかな農地を分けてもらい、小百姓となってもうだつもあがらぬ。 苦労も多い。 同じ苦労するなら空襲で死んでしまったつもりで横浜へ出て一生懸命働きなさい」と言われて、泣き泣き横浜へ出た。
 それからは頑張りに頑張って働いた。 おかげで子供も成功を収め、今では親戚一番の幸せ者とほめられるようになった。 私は毎年故郷へ帰るとまずお観音さまに詣で、次に今はなき母の墓前にぬかづき、さらに親戚廻りをすることにしています。
 郡古観音の朱塗りの縁で母が私にさとしてくれた言葉は、母の口を通して語られたお観音さまのお告げであると固く信じて今日まで過ごして参りました。 お観音さまのお慈悲ほど有難いものはございません、と。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

     〔御墨書〕     「奉拝」  「安房國」
                梵字「キリク」  「大悲殿」
                「那古寺」

     〔御朱印〕     「坂東三十三番惣納札所」
                蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                「那古寺印」
                「結願」





千手観音の種子「キリク」





        補陀洛は  よそにはあらじ  那古の寺
                         岸うつ波を  見るにつけても





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