2014年01月12日

但馬国一宮 粟鹿神社


但馬国一宮
粟鹿神社
 (あわがじんじゃ)





但馬国一宮 粟鹿神社 (あわがじんじゃ)

〔鎮座地〕 兵庫県朝来市山東町粟鹿鴨ヶ端2152

〔社格〕 旧県社  但馬国朝来郡の式内社・粟鹿神社(名神大)

〔御祭神〕 粟鹿大神 (あわがのおおかみ) (合わせて十一柱の神々が本殿に祀られている)

  〔主祭神〕 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)
         天美佐利命(あめのみさりのみこと)
         日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)

〔御由緒〕 当社は背後の粟鹿山(標高962m)を神奈備とし、京都府に隣接する山陰道の宿場町として栄えた要所に鎮まっている。
 祭神は十一柱を総称して粟鹿大神というが、以下の三神を主な祭神としてとしている。 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)は開化天皇の第三皇子であり、四道将軍の一で丹波国に派遣された丹波道主神と共に丹波・但馬地方を平定し開拓した。 本殿の後方には円墳があり、日子坐命の陵墓であると伝える。 また『粟鹿大明神元記』には、大国主命の御子神である天美佐利命(あめのみさりのみこと)を鎮め祀ったと記している。 他に、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)が塩満珠(しおみちのたま)を当社に奉納したという伝承から、この神を祀ったといわれている。
 『正倉院文書』に「天平九年神戸租調稲凡二〇七六束」とあり、他の古文献にも神階昇叙の記述がみえ、既に但馬国の名社として朝廷に知られていたことがわかる。 『延喜式』に名神大社として記載され、以降も但馬国の守護神として崇敬を集めた。 明治以降県社に列格した。
-『全国一の宮めぐり』から-



勅使門 (ちょくしもん)
 朝来市指定文化財 (建造物)
 粟賀神社 勅使門   昭和47年4月1日指定
 勅使門は、勅使が神社に参向する際、出入りする門である。 粟賀神社では、四回の勅使参向があったことが記録に残っている。 創建年は不詳。 桁行三.九五メートル、梁間三.三メートル、妻造りの四脚門形式で、建材の大部分は欅である。 屋根は現在銅板葺であるが、以前は桧皮葺であった。 柱は上下に、粽を施して基盤の上に立っている。 柱上の組物、中備えの三斗詰組、海老虹梁、木鼻等は唐様の手法を示している。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれている。 頭貫には簡単な若草模様が見え、全体的には唐様であるが、妻梁を受ける本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。 度々の災禍も免れたと伝えられ、数少ない遺構の一つである。
  平成二十四年三月      朝来市教育委員会
-「境内案内板」から-



随神門  (日の出門)

 随神倚像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
 狛犬像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
-「境内案内板」から-





御社殿

              拝殿                            本殿













境内社

        茗荷神社             猿田彦神社              厳島神社


茗荷神社 (みょうがじんじゃ)
〔御祭神〕 草野姫命 (かやのひめのみこと)
(粟鹿神社の神紋抱き茗荷は境内にこの末社を祀るによる)

猿田彦神社 (さるたひこじんじゃ) (庚申社)
〔御祭神〕 猿田彦神 (さるたひこのかみ)
(交通安全・除災の神)

厳島神社 (いつくしまじんじゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
(海上守護・財福技芸の神)


        床浦神社              稲荷神社               天満宮


床浦神社 (とこうらじんじゃ)
〔御祭神〕 大己貴神 (おおなむちのかみ)
(医療・縁結びの神)

稲荷神社 (いなりじんじゃ)
〔御祭神〕 保食神 (うけもちのかみ)
(農業・食物の神)

天満宮 (てんまんぐう)
〔御祭神〕 菅原道真公 (すがわらのみちざねこう)
(学問の神)




御陵

日子坐王御陵


御陵  本殿背後に丘陵あり、古来より御陵または神墓・御塚とも呼ばれ、日子坐王の御墳墓と云はれている。 高さ六米、方の辺の長さ約四六米、重湟ありしも現在は内湟の一部が残る。
-『粟賀神社由緒』から-



主なる御祭神

一、天美佐利命(あめのみさりのみこと) (大國主命の御子)
 『粟鹿大明神元記』に依れば「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神(あらぶるかみ)、即ち天美佐利命の神狀を朝廷に申出で、幣帛を給って鎮め祭らしむ」と記されている。 即ち社記と併せて推察するに、祀られし場所は、粟鹿山中腹の池ヶ平(いけがなる)と推定される。

二、日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと) (開化天皇の第三皇子)
 この命は第十代崇神天皇の御代、四道将軍の一人として旦波・若狹および山陰地方を平定巡按せられ、当地に於ひて薨去、鴨ヶ端の現社殿背後の丘陵に祀る、と伝へられている。
 第十四代仲哀天皇の御后で命の四代目の孫にあたる神功皇后は、新羅に軍を進める前に、勅使を粟賀神社に差遣して戰勝を祈願せられ、凱旋の後に其の報賛として右丘陵の南端に新しく社殿を建て、池ヶ平(いけがなる)の神社御祭神を遷座奉安せられ、合はせて命をも御祭神として祀られた、と云はれる。(粟鹿大社縁起)

三、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと) (古事記に傳へる山狹知毘古)
 尊が海神から授けられたと云ふ満・干二珠を、神功皇后が新羅に捧持せられ、凱旋のとき塩満珠を粟賀神社に奉納せられし故事から、尊を御祭神として祀ったものと考へられる。

四、以上の神々と共に左の神々が本殿に祀られている。
 阿波奈岐尊 (あわなぎのみこと)
 伊弉奈岐尊 (いざなぎのみこと)
 天照大日孁尊 (あまてらすおほひるめのみこと)
 籠神 (このかみ)
 鵜草葺不合尊 (うがやふきあへずのみこと)
 月讀尊 (つきよみのみこと)
 素盞嗚尊 (すさのをのみこと)
 豊玉姫尊 (とよたまひめのみこと)
-『粟賀神社由緒』から-





この記事へのトラックバックURL

http://manyuuki.mediacat-blog.jp/t96698