2012年10月03日

飛騨国一宮  水無神社


飛騨国一宮  水無神社 (みなしじんじゃ)





飛騨国一宮  水無神社 (みなしじんじゃ)     通称 すいむさん

〔鎮座地〕 岐阜県高山市一之宮町石原5323

〔社格〕 旧国幣小社   飛騨国大野郡の式内社・水無神社

〔御祭神〕 水無大神(みなしのおおかみ) = 御歳大神(みとしのおおかみ) 

〔配祀神〕 大己貴命・神武天皇・應神天皇・天火明命・三穗津姫命・高照光姫命・高降姫命
       須沼比女命・大歳大神・天照皇大神・豊受姫大神・少彦名命・大八椅命・天熊人命

〔御由緒〕 社名の水無は「みぬし」(水主)または「みずなし」とも読み、水主の意であるとされる。
 古来、飛騨国一の宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかでない。
 水無神の神体山として仰がれてきた位山(くらいやま・1529m)は、南に流れる水は飛騨川となって太平洋へ、北に流れる水は神通川となり日本海へ、表裏日本を二分する分水嶺をなし、当社の奥宮と称している。 水無神は御年神(みとしのかみ)をはじめ他十四柱の神々の総称で、「作神様」として水源と交通の要衝となる飛騨一帯をはじめ美濃、信濃、越中など広く農業を奨励し、民生の安定を進められた神様で、縁故地に多くの分社がある。
 当社は貞観九年(867)従五位上を授けられた記事が初見となり、中世に社領は付近十八ヶ村、社家も十二人と隆盛した。 飛騨国は元禄以降幕府の天領となり、領主、代官の尊崇をはじめ、一般庶民の篤い信仰を受け、明治維新後は国弊小社に列せられた。
-『全国一の宮めぐり』から-


            神門と廻廊                       拝殿と廻廊










本殿



飛騨一宮水無神社略誌
一、 御祭神
   水無神 御歳大神を主神として
   相殿 大己貴命、神武天皇、応神天皇外十一柱
   末社 延喜式内外十八社及び国内二十四郷の産土神
       一宮稲荷、白川社(御母衣ダム水没の白川郷より奉遷)

一、 御由緒
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。
歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。
明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。 本殿以下二十余棟建坪凡七百坪は、昭和十年起工、国費を以って改築せらる。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。

一、 祭祀
例祭 五月二日神幸祭、当社醸造の公認濁酒授与、神代踊、其の他奉納。
節分祭 二月節分の日、追儺神事。
生ひな祭 四月三日、日本唯一の生びな行列の供奉は圧巻。
夏越祭 六月三十日、大祓式、茅輪潜に神事。
除夜、元旦祭、年越詣。

一、 特殊神事
(一) 神代踊、当社にのみ現存する独特の神事にして毎年五月の例祭及試楽祭に神社前と御旅山で行はれ、無形文化財として指定せらる。
(二) 闘鶏楽、飛騨国中の神社にて特殊神事として行はれているも往古当社より伝授されたるものなり。 神代踊と共に氏子達百五六十人が揃いの衣裳を着け、円陣をつくり踊る古風幽雅な神事なり。
 一宮神楽、雅楽に類するもので国中各神社へ伝授する。
(三) 一宮獅子、例祭、試楽祭のみ奉仕する。
-『境内案内板』から-


 絵馬殿



絵馬殿(拝殿)の由来
一、 慶長十二年(一六〇七年)
 飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営
 (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、 安永七年(一七七八年)
 百姓一揆が安永二年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に荷担、連座し改廃され信州より迎えた梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた
一、 明治三年(一八七〇年)
 高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した
一、 明治十二年(一八七九年)
 氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した
一、 昭和二十九年(一九五四年)
 十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した
一、 昭和五十三年(一九七八年)
 宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)
     昭和五十四年一月     飛騨一宮水無神社 宮村教育委員会
-『境内案内板』から-


      稲喰の馬(黒駒)            神馬舎            祈雨の神馬(白駒)


神馬
稲喰の馬という木造の神馬二頭が神馬舎に安置され、左甚五郎の作といわれる黒駒は極めて素朴な製作であるが、両眼がくり抜かれている。 秋の刈入時になると毎夜田圃に出て稲を喰い荒らすので両眼をくり抜いたところ、それ以来野荒しが全くやんだという。 そして、その神馬の解体は破損しなければ不可能であるといい伝えている。
-『飛騨一宮水無神社の概説』から-


白川神社


白川神社 (旧白川村白山神社)    〔御祭神〕 菊理姫命
霊峰白山(2702米)飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録されていますが、その白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和32年(1957)御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。
  平成十五年十二月吉日
    玉垣改修を記念し識   飛騨一宮水無神社 白川村秋町福島氏子
-『境内案内板』から-


 〔左〕 稲荷神社
 〔御祭神〕 宇迦之御魂神

 〔右〕 無名祠
(神様は祀られていないとのこと)




     水無神社の大杉          拗(ねじ)の大桧            ちばかの桂




大原騒動一宮大集会の石碑


大原騒動 一宮大集會之地
 安永二年(一七七三)飛騨国代官大原彦四郎は、古田畑の再検地を強行しようとした。 重税に堪え難くなることを恐れた農民たちは、再検に強く反発し各地で集会を開き、代官所への嘆願、大垣藩への越訴、京都二条家への運動、江戸での駕籠訴・駆込み願等八方手を尽くしたが、願いは達せられなかった。
 九月下旬無数河村長次郎・宮村太七等が主唱し、この地に農民を集めた。 やがて本郷村小割堤の集会も合流し、水無神社・鬼川原に集まる者時に一万を超えた。
 十月中旬一宮籠居の農民三千人が高山代官所へ押しかけ、年貢上納延期など三ヶ条の願書を提出、徒党に加わらぬ高山を津留めにした。 大原代官は、尋常の手段では到底鎮圧できぬと察し江戸表へ急報、幕府は飛騨の近隣五藩へ緊急出動を命じた。
 十一月十四日深夜郡上藩勢三百人、代官所手代・地役人四十人が付き添い高山出立、途中松橋に一隊を残し、夜明け宮村に到着、一隊を鬼川原に伏せ、一隊は頭取会所久兵衛宅を始め神主宅・太七宅等に踏み込み、委細かまわずからめ捕った。 山下の民家に宿泊していた農民が、合図の鐘を聞き神社に向かって、駆け出すと、鬼川原の鉄砲組が火蓋を切り、即死者・重傷者が出た。 最後に郡上藩勢は、一体となって拝殿を取り囲み、神域は安全であると教えられ、何の用意もしていなかった農民の集団に突っ込み、あたるを幸い十手で脳天を打ち割り、刀で袈裟掛けに斬りつけ、槍で太股や膝を突き通し、逃げる者には鉄砲を乱射した。 この日の即死者三名、負傷者二四名、縛付の者一二五名に及んだ。 一宮大集会は、大原騒動で農民が見せた最も大がかりな抵抗であったが、火器まで使った非道な武力の前にあえなくついえざるを得なかった。
 全飛騨の農民が命をかけて戦い、多くの痛ましい犠牲者を出した一宮大集会を永遠に記念するため、賛同者の多大な御協力を得て、ここにこの碑を建設する。
   昭和六十二年十一月建之
     大原騒動一宮大集会記念碑建設委員会
-『大原騒動一宮大集会記念碑』から-


島崎正樹宮司歌碑


島崎正樹宮司歌碑
 島崎正樹は、明治の文豪島崎藤村の父である。 明治7年11月13日水無神社宮司として赴任し、学問、詩歌の道にもすぐれ在任中高山中教院の教導職(中講義)として多くの若者を指導した。
 彼は藤村の著書「夜明け前」の主人公青山半蔵その人であって、宮村の晩秋を詠める短歌一首が碑となっている。
-『飛騨一宮水無神社の概説』から-



       きのうけふ  しぐれの雨と  もみぢ葉と
                      あらそひふれる  山もとの里      正樹



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