2010年11月16日

備後国一宮 素盞嗚神社

神と仏の和合の姿を求めて
「風土記」の世界へ旅立った
そこは茅の輪くぐり発祥の地












  備後国一宮 素盞嗚神社 (すさのおじんじゃ)

  〔鎮座地〕  広島県福山市新市町戸手1-1

  〔社格〕  旧県社   備後国深津郡の式内社・須佐能袁能神社 

  〔御祭神〕  素盞嗚尊・奇稲田姫命・八王子

疫隈の郷 (江ノ隈の里)
この附近は江熊の里とよばれたところ、古くは江隈とも記された。
江は入江であり、隈はかたすみとも読める。江ノ隈の読みから、穴の海の入江で逢ったことが伺われる。
奈良時代には古山陽道がこのあたりを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えたところでもある。
茅の輪神事
 備後の國(きびのみちのしり)の風土記に曰(いわ)く、疫隈の國社(くにつやしろ)。
昔、北海に坐します武塔(むとう)神・・・・・・南海の出でまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)、甚く貧しく、弟の巨旦(こたん)将来、屋倉一百(いえくらもも)ありき・・・・・・即ち、詔(の)りたまひしく「吾(あ)は速須佐雄(はやすさのお)の神なり、後の世に疫気(えやみ)あらば、汝(いまし)、蘇民将来の子孫(うみのこ)と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。 (備後風土記逸文)より
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上、最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式(えんぎしき)神名帳にみえる古い歴史をもっている。
現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。
素盞嗚尊は武塔天神あるいは祇園牛頭天王(ごずてんのう)とも称され、出雲神話の祖である。
本社は、備後三祇園の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。
明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天竜院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した。                              -素盞嗚神社境内石碑から-


〔左〕 随神門


〔右〕 舞殿



 城門
 当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられています。櫓は1970年代に火災により消失しました。  城門に関する資料が無いので建築年代は確定できないが建築様式と部材の風化状態から16世紀末から17世紀初と推定される。 三間一戸の切妻造の薬医門 装飾の少ない簡素な門 山城禁止令により移築、改築。
          -『素盞嗚神社公式H.P』から-

天満宮 〔本地堂〕  (御祭神) 菅原道真公
 古くは 日本には天の神への信仰がありました。天は農耕に必要な恵みの雨をもたらす反面大雨・ひでり・雷などのように人々に災いをも、もたらします。古代の人々は、人知を超えた天の動きに畏敬の念をも抱き、農耕の神として「天の神」を祀りました。 道真公が藤原時平の中傷により、大宰府に左遷させられ、59歳で悲しみのうちに亡くなられた後、御所に雷が落ちたり、藤原時平が亡くなるなど、京都では様々な異変が起こりました。 人々は不正義を憎む「天の神」が道真公の不遇の死を嘆き災いをもたらしているに違いないと考えました。これらの災いを鎮めるために道真公への信仰が始まりました。 今では、菅原道真公は「学問の神」として、広く敬愛されています。
本地堂  現在の天満宮は、もともと戸手祇園社(早苗山天竜院天王寺)の本地堂として建立されており、現在の社殿は延享3年(1746)に福山藩寺社奉行に対して本地堂の再建を申し出、延享5年(1748)の再建されたものです。 その後、明治の廃仏毀釈により取り壊されるところを、天満宮に変更して現在まで伝えてきました。  再建時からの改修の痕跡は、明治初期の廃仏毀釈の際になされた若干の改変のみで、当時の様子がほぼ完全に保存されています。  平成10年(1998)に建物老朽化のために屋根の全面葺き替えと若干の修復を行い再建時の姿に復元されました。                                   -『素盞嗚神社公式H.P』から-



 〔左〕 蘇民神社  (御祭神) 蘇民将来
 備後風土記(ふどき)の逸文によれば「昔、北海に坐す武塔神が南海の神女のもとに行かれる途中、日が暮れ一夜の宿を求めて此の地で富み栄えていた弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の所へ行ったが断られ、貧しかった兄の蘇民将来は快く宿をお貸しした。年を経て、命は八人の王子をつれて還られた時、蘇民将来の家に立ち寄られ「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり、後の世に疫病あらば、汝は蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪を以って腰に着けたる人は免れるであろう」といわれ、巨旦を誅滅された伝説が残っている。これが今日伝わっている茅の輪くぐりの神事の起こりである。 今では、この伝説は遠く青森県、岩手県にまで伝わり、ほぼ全国に茅の輪くぐりの神事が執り行われ、「蘇民将来子孫ノ家」と書かれたお札が出されているようである。
 〔右〕 疱瘡神社  (御祭神) 比比羅木其花麻豆美神
 創建不詳なれど疫病の流行たる時に祀られたものと考えられる。
                                       -『素盞嗚神社公式H.P』から-
比比羅木其花麻豆美神(ひひらきそのはなまずみのかみ)
 聞き慣れない神名であるが、『古事記』に大国主神五世の孫多比理岐志麻流美神(たひりきしまるみのかみ)の妻となった活玉前玉比売神(いくたまさきたまひめのかみ)の親神に比比羅木其花麻豆美神の神名が記される。 柊の花の精霊神と思われ、柊の棘が邪を払う呪力を有するものとして信仰されたのであろうか。                                 -注 閑人-











    本殿は入母屋造・千鳥破風・桧皮葺              本殿の床柱は八角柱


ここでも見つけた八角柱  スサノオには八の字がよく似合う

八雲  八重垣  八岐大蛇  八坂  八剣  八王子

八幡はどうであろうか?
閑人、本来の八幡神はスサノオではないかと思うようになってきた


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