2010年12月01日

海上釣り堀 傳八屋

  
ボヤッキ~さんからのお誘いで 三重の海で遊んできました





11月29日  晴  (小潮)

三重県度会郡南伊勢町迫間浦

海上釣り堀 傳八屋


T・N会の親睦釣り会  今回は2人タッグ4組8名による釣りバトル





根性のKさん大ブリ釣り上げて大物賞







閑人チームは小物沢山釣って優勝

〔閑人の釣果〕 
マダイ 3  シマアジ 3  ニザダイ 1  イサギ 8





12時の早上がり こんな時はあのお方のもとへ

亀山市にある日本武尊の能褒野陵に参拝しました




                   日本武尊能褒野陵 (能褒野王塚古墳)




能褒野王塚古墳

 (景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)
 御幣川と安楽川の合流点に近接する、標高45m程度の段丘端部に所在する前方後円墳である。 全長90m、後円部径54m、同高9m、前方部幅40m、同高6.5mで、北勢地域最大規模の古墳である。 この古墳から採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から四世紀末頃の築造と考えられる。 これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、機内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたらされたものであると考えられよう。
 日本武尊(倭健命)が東征の帰途に伊勢国能褒野(能煩野)で薨じたとの『記紀』記述により、明治十二年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、墳丘の修復に併せて、畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。 しかしながら、近世においてはこの古墳が日本武尊の墓という認識はほとんどなかったものと見られる。
 周囲に十数基の円墳が所在し「培塚」とされているが、これらは後期古墳と考えられる。
    平成十五年十月                     亀山市教育委員会
-『能褒野王塚古墳案内板』-





         倭は  国のまほろば
                    たたなづく  青垣
                              山隠れる  倭し美し




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