2010年11月13日

木地師のふるさと(2)


木地師のふるさと滋賀県の小椋谷を訪ねてきました





大皇器地祖神社 (おおきみきぢそじんじゃ)

〔鎮座地〕 滋賀県東近江市君ケ畑町977  (旧永源寺町)

〔御祭神〕 惟喬親王 (これたかしんのう)

〔御神紋〕 十六菊

〔旧社格〕 村社


器地祖神社と高松御所
 文徳天皇第一皇子惟喬親王は、母が紀家である事より藤原良房は其の娘明子の生んだ第四皇子惟仁親王を皇位継承者と定めた。
 惟喬親王は都を逃れ出て遠く此の山里に幽棲、自ら法華経の紐を引くと軸の回る原理より轆轤を発明され、日本国木地師の元祖になられたと伝えられる。(木地師縁起書)
 のち地名を君ヶ畑、親王住居を高松御所金龍寺、親王を祭神に器地祖神社が祀られた。
 其の後木地師は全国の山々に分散したので此の地より諸国への氏子狩が始められ、元禄七年~明治二十六年の氏子駆帳(県町指定文化財)には、北は羽前、岩代、武蔵、相模、信濃、越前から、南は伯耆、石見、安芸、安房、伊予、土佐、日向に至るまで、戸主のみで一万人余が記載され、明治五年には一五六三戸が君ヶ畑を本籍地として戸籍の届出を行なっており、今日もなお各地よりの団参者が後を絶たない。
 永源寺町教育委員会
-『社前案内板』から-



         大皇器地祖神社境内                   惟喬親王御廟所












         蔵皇山金龍寺山門                   高松御所 (金龍寺)












惟喬親王幽棲の跡 木地師発祥之地
貞観元年(八五九)人皇五十五代文徳天皇第一皇子惟喬親王はこの地に幽棲され蔵皇山金龍寺他二ヶ寺を創建、佛教に帰依された。 親王は金龍寺にお住まいになり、村人はこれを高松の御所と崇め親王の御仁徳を慕った、元慶三年(八八〇)親王遺命薨去された時、村人は氏神大皇大明神として祀ることとした。 これが現在の 大皇器地祖神社である、親王は在世中に轆轤を用ちい、木地で椀器を製作する業を村人に授けられた、その業を伝承する者を木地師と称し現在全国にあって親王を祖神と崇敬し工業界に活躍している。
 永源寺町教育委員会
-『金龍寺案内板』から-





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