2011年04月24日

若狭国一宮 若狭彦神社(3)


遠敷川の「鵜の瀬」は、若狭彦神・若狭姫神の降臨ましましたところ
若狭下根来の白石神社は若狭彦神社創祀の社
この地に生まれた良弁和尚は奈良東大寺の初代別当となった
若狭神宮寺の実忠和尚は東大寺二月堂を建て、「お水取り」の行事を始められた


若狭彦神社境外社  白石神社


白石神社由緒
白石神社  小浜市下根来白石鎮座
 祭神は若狭彦神、若狭姫神を白石大神、または鵜の瀬大神とたたえて奉祀。
 若狭彦神社創祀の社、と伝えるが年代不詳。
 境内に椿が群生し、目通二・一四米。樹高一二・三〇米の大木は、市の天然記念物に指定。
 この社の北方一五〇米、遠敷川をはさんで、若狭彦神社の飛地境内がある。鵜の瀬という霊域にして、清流が巨巌に突当るところの深淵を、奈良二月堂の若狭井の水源と伝えておる。
 この巨巌は、若狭彦神、若狭姫神の降臨ましましたところ。またこの鵜の瀬は、若狭彦神社の送水神事(豊作を祈願する神事)の斎場でもある。
-若狭彦神社パンフレットから-



史跡  鵜の瀬


史跡 「鵜の瀬」 由緒記
 天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后 天平勝宝四年(七五三)に二月堂を創建し修二会を始められ その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。 それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。 その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。 この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜 この淵の根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
  小浜市
-鵜の瀬案内板から-




 良辨和尚生誕之地石碑                                     良弁和尚
良弁和尚(ろうべんおしょう)
 良弁和尚は、伝説によれば、689年(持統3)ここ小浜下根来で生まれましたが、子供の時に鷲にさらわれ、奈良金鐘寺(東大寺の前身)で育てられました。 彼は東大寺で法相宗を義淵に学び、新羅の僧審祥を講師に招き華厳経講を開いて華厳宗を広めました。 その後東大寺の建立に尽力し、初代別当となり、773年(宝亀4)84歳で亡くなりました。 お水取り行事を始めた実忠は、若狭出身の良弁が師匠であり、若狭遠敷明神が魚釣りをしていて「修二会行事」の勧請に遅れたお詫びとして十一面観音にお供えする閼伽水(あかみず)を送ることとなったという逸話から二月堂の井戸を「若狭井」と名づけました。
-人の駅・良弁和尚案内板から-



お水送りの寺  若狭神宮寺


若狭神宮寺の由来
 この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。 その秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。 これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
 又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、二月堂を建て、お水取り行法を始められた。
 その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある。
-若狭神宮寺パンフレットから抜粋-



        瀬にしみて  奈良までとどく  蝉の声
                                                   山口誓子




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