2011年05月23日

和泉国一宮 大鳥大社


大鳥大社 一の鳥居



和泉国一宮 大鳥大社 (おおとりたいしゃ)     通称 大鳥さん

〔鎮座地〕  大阪府堺市西区鳳北町1-1

〔社格〕  旧官幣大社 和泉国大鳥郡の式内社・大鳥神社 (名神大 月次・新甞)

〔御祭神〕  日本武尊 (やまとたけるのみこと)
        大鳥連祖神 (おおとりむらじのみおやのかみ)

〔御由緒〕  日本武尊が東夷を征討の帰途、病にかかり伊勢の能褒野(亀山市)で亡くなられた。 その御霊は白鳥と化して飛び去り、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に当地に留まられたので、社を建立したのが創祀という。 また大鳥連祖神は、大中臣と祖先を同じくする大鳥氏の祖である。
  文武の神として武家の崇敬も篤く、平清盛、同重盛父子は熊野参詣の途次、当社に祈願して和歌及び名馬を奉納。 信長・秀吉・家康の三武将も社領の寄進、社殿の造営も行った。
  本殿は大鳥造と称される独特の建築様式であり、出雲の大社造に酷似し、切妻造・妻入の社殿は古い形式を伝える。 社殿は天正年間の兵乱に遭い、慶長七年豊臣秀頼により再興、寛文二年徳川家綱の命により再建されたが、明治三十八年雷火により焼失した。 現社殿は明治四十二年に再建されたもの。
  境内は一万五千余坪あり、往古白鳳が飛来してこの地に止まり、一夜にして種々の樹木が繁茂したとの伝えから「千種の森」と称される。
-『全国一の宮めぐり』から-



          八角鳥居と拝殿                     大鳥造の本殿











社殿
 本殿は大鳥造と申しまして、神社建築史上一種の様式を保っており、その構造は出雲の大社造に酷似しており、切妻造、妻入社殿で出雲大社造に次ぐ古い形式を今日に伝えております。
 社殿は天正年間の兵乱によって炎上し、慶長七年豊臣秀頼によって再興せられましたが、更に寛文二年には徳川家綱の命によって堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年には特別保護建造物に指定されましたが、同三十八年八月に雷火の為に再度炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。
 昭和九年国費で御屋根替、更に昭和三十六年御祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手によって内部の模様替と原型解体に近い大修理が行はれました。
-大鳥大社パンフレットから-




〔左〕 八角鳥居
八角柱の鳥居

〔右〕 日本武尊像




境内摂社 大鳥美波比神社


摂社 大鳥美波比神社 (おおとりみはひじんじゃ) (式内社・和泉国大鳥郡大鳥美波比神社)
〔御祭神〕  天照大神
〔相殿〕  菅原道真公
〔御由緒〕  本社の境内東側に鎮座、もと当社は北王子村御鎮座だあったのを明治十二年に現在地に御移したものであります。  主神の外七柱を合祀申し上げています。
-大鳥大社パンフレットから-



平清盛歌碑
 平治元年、平清盛、重盛父子が熊野参詣の途中、都にて兵乱あるとの急報を聞いて都に帰る途中、大鳥神社に参拝し、戦勝を祈願した。 この時

かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神

 この和歌一首と神馬一頭を献じた。  明治初年大鳥大社大宮司富岡鉄斎翁の筆により建てられた自然石の碑です。
-境内案内板から-



与謝野晶子歌碑

   和泉なる  わがうぶすなの  大鳥の 
             宮居の杉の  青き  ひとむら


                       晶子歌   田辺聖子書




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