2011年12月10日

熊野三山 熊野本宮大社


日本第一大靈驗所 熊野本宮大社




熊野三山 熊野本宮大社 (くまのほんぐうたいしゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県田辺市本宮町本宮

〔旧社地〕 大斎原 (おおゆのはら)

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国牟婁郡の式内社・熊野坐神社 (名神大)

〔御祭神〕 東御前 (若宮) 天照皇大神 (あまてらすすめおおかみ)
       御本社 (證誠殿) 家都美御子大神 (けつみみこおおかみ)  (素戔嗚尊の別名)
       西御前 (速玉宮) 御子速玉大神 (みこはやたまおおかみ) 
             (結宮) 熊野牟須美大神 (くまのむすみおおかみ) 

〔御由緒〕 当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く世に知られています。
 御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊(すさのうのみこと)と申し、樹木を支配される神であり、紀国(きのくに)(木ノ国)の語源もここから起こっております。
大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるとともに生命の育成発展を司られた霊神で第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営して鎮祭したと伝えられています。
 奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、ますます神威が広まりました。延喜七年(約千年前)宇多法皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、女院の御幸は実に百数十回に及びました。 これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来といって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者は全国各地から熊野の深山幽谷を埋め「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度どちらが欠けても片参り」などとうたわれるとともに全国に御分社を祭り、その数は現在約五千数社を数えています。
 その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の渦中にありながら、人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに全国に伝播して明治時代にいたりました。
 現在の社殿は享和二年徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原)(指定文化財)に建立されましたが、明治二十二年の大出水にあって現社地に修造して遷座されたものであります。 この社殿のつくり方を「熊野造」と申し上げます。
 なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に中四社、下四社を、東方に元境内摂末社を合祠してあります。
-熊野本宮大社案内板から抜粋-


〔御神紋〕 八咫烏


八咫烏 (やたがらす)  由来

熊野では八咫烏を神の使者と言われています。 三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すとも言われ、当社では主祭神家都美御子大神(素盞嗚尊)の御神徳である「智・仁・勇」、又「天・地・人」の意をあらわしています。
 烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野に迷う給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。
 又、日本サッカー協会のシンボルマークは八咫烏です。(明治時代にサッカーが日本に始まった。この頃から使用されているそうです) サッカー協会のマークに使用された意味は、考えるに目的とする相手チームのゴールをはずすことなく、きちんととらえて納めるという意ではないでしょうか。
八咫烏のお祭りに関わる祭典

毎年一月七日、夕闇深き時刻(午後五時)厳修斎行される(年始め牛王刷り初め)があり、当社の年中行事の中でも中心となるお祭りです。
-熊野本宮大社社務所-



              拝殿                            神門











古色蒼然とした檜皮葺の社殿


 神門内は撮影禁止。 社殿の画像は社務所で購入した『参拝の栞』からお借りした。
 神門をくぐると、古色蒼然とした檜皮葺の熊野造(入母屋造り)の社殿三棟が建ち並ぶ。 社殿は瑞垣によって囲まれ、各殿毎に鈴門という礼拝所が設けられている。

 向かって左の社殿は、御子速玉大神を祀る速玉宮と熊野牟須美大神を祀る結宮が相殿となる西御前。 西御前は只今、屋根の檜皮葺き替え工事の覆屋で覆われ拝観できない。 横に長く二殿相殿の平入り社殿のようだ。
 中央は、主座の家都美御子大神(素盞嗚尊)を祀る證誠殿。 妻入りの熊野造の社殿。 檜皮葺の屋根には内削ぎの千木と4本の堅魚木を載せる。
 右側が天照皇大神を祀る若宮。 社殿の造りは、中央の證誠殿と規模・形式とも全く同じ。

 以前読んだことがある原田常治の著『古代日本正史』に、熊野本宮大社を批判して、「出雲造りの三角形のほうに玄関のある第四殿に、日向一族の中心神である天照大神がお祀りされている。さぞ、住みにくいのではないかと、参拝しながら御同情申し上げた。」と言っている。 原田常治は主神の家都美御子大神を天火明饒速日尊(あまのほあかりにぎはやひのみこと)と見なし、速玉大神を素盞嗚尊とする。 まことに面白い見解である。

 閑人も少し原田説を補足してみよう。 素盞嗚尊崇敬の閑人には、中央の證誠殿に違和感があった。 なんと屋根の千木が内削ぎになっているのである。 出雲の神祖、雄々しい素盞嗚尊に内削ぎの千木はふさわしくない。 剣を折られて、さぞ、悔しい思いをしているのではないかと、参拝しながら御同情申し上げた。
 この證誠殿の御祭神を原田説のように饒速日尊(にぎはやひのみこと)と見なせば面白い。 『先代旧事本紀』には饒速日尊の正式諡名として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と記す。 饒速日尊も天照(あまてらす)なのである。 證誠殿の内削ぎの千木は、太陽に向かって両手を広げ、手のひらを太陽にかざしている様にも見える。 真に、天照(あまてらす)に相応しいお住まいとなる。


     境内末社・功霊社        境内末社・祓戸大神         境外末社・産田社




熊野本宮大社旧社地 大斎原 (おおゆのはら)




旧社地 「大斎原」 (おおゆのはら)

 ここは、大斎原と称して熊野本宮大社の旧社地です。 明治二十二年夏、熊野川未曾有の大洪水にて、上、中、下各四社の内、上四社を除く中下社の八社殿二棟が非常なる災害を蒙り、明治二十四年、現在地(ここより西方七〇〇米の高台)に御遷座申し上げ、今日に至っております。 中四社、下四社並びに摂末社の御神霊は、ここ大斎原に、仮に石祠二殿を造営し、左に中、下各四社を、右に、元境内摂末社(八咫烏神社・音無天神社・高倉下神社・海神社他)をお祀りしています。
〔中四社〕
第五殿 忍穂耳命 (おしほみみのみこと)
第六殿 瓊々杵尊命 (ににぎのみこと)
第七殿 彦穂々出見尊 (ひこほほでみのみこと)
第八殿 鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)
〔下四社〕
第九殿 軻遇突智命 (かくつちのみこと) (火の神)
第十殿 埴山姫命 (はにやまひめのみこと) (土の神)
第十一殿 弥都波能売命 (みづはのめのみこと) (水の神)
第十二殿 稚産霊命 (わくむすびのみこと)
-大斎原案内板から抜粋-


       大斎原境内             石祠二殿           一遍上人神勅名号碑




熊野牛王神符 (本宮)



熊野牛王神符 (くまのごおうしんぷ)

 熊野牛王又は宝印神符ともいう、俗に「オカラスさん」ともよばれ、カラス文字でかゝれた熊野山獨得の御神符であります。
 その起源は詳らかではありませんが、当社の主祭神家都美御子大神(素盞嗚尊)と天照皇大神との高天原のおける誓約、或は神武天皇御東征の際の熊野烏の故事に由縁するとも云われています。
 当社の熊野牛王は、烏文字を木版で手刷りのもので、当社のお烏さんの数八十八羽で、古く天武朝白鳳十一年(約1300年前)始めて熊野僧徒牛王宝印奉ると記せられている。 (東牟婁郡誌)
 時代が降るに伴いこの御神符も色々な方面に用いられ、鎌倉時代には「誓約書」ともなり江戸時代には「起誓文」の代りとして用いられた。
 古くから、熊野権現への誓約を破ると熊野大神の使である烏が一羽亡くなり、本人も血を吐き地獄におちると信じられてきたのである。
 この様に「熊野牛王神符」は熊野信仰の人々を凡ゆる災厄から護っていただいた御神符で
     カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
     門口にまつれば盗難を防ぎ
     懐中して飛行機、船に乗れば、船酔い災難をまぬがれる
     病人の床にしけば、病気平癒となる
 今日当社で、神前結婚式の誓詞の裏に貼布しているのも右の故事によるものである。  敬白
     熊野本宮大社
-熊野牛王神符説明文から-



熊野の牛王神符は、烏と宝珠で文字化され、三山それぞれデザインが異なる。
熊野本宮大社の牛王神符は、88羽の烏と8個の宝珠で画かれている。
何と読むのだろうか?  右は「熊・野」と読めるのだが、後はちんぷんかんぷん。
社務所の神官さんに聞いてみた。

〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    寳 (たから)
〔左〕    璽 (みしるし)
と読むそうです。

三山を巡り、それぞれの牛王神符について神官さんに尋ねてみると、各神社で解釈が異なっていた。 古く昔からのことなので、今では不明なところもあるという。
そこで、三枚の牛王神符を見比べて、閑人勝手流の解釈を試みた。

〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    璽 (みしるし)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳 (たから)
と読むこともできるのではないか。 あくまで素人の解釈です。




〔後記〕
 熊野を旅するにあたって、閑人には二つの想いがあった。
① 熊野という地名は、出雲の国の熊野に由来するのではないか?
② 熊野の御祖神は、我が尾張国と同祖の天火明饒速日尊(あめのほあかりにぎはやひのみこと)である。 どのように祀られているのであろうか?

 ①については以外にあっさりと解決した。 熊野本宮大社の主祭神・家都美御子大神(けつみみこおおかみ)とは素盞嗚尊(すさのおのみこと)の別名であった。 境内案内板の由緒書にハッキリと書かれてある。 又、神社から頂いた『参拝の栞』に、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと)とも書かれてあった。 この熊野加武呂乃命という神名が重要ポイントであった。
 熊野加武呂乃命とは、出雲国一の宮・熊野大社の祭神である「神祖熊野大神櫛御気野命(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)」を略した神名なのである。 出雲の熊野大社も神祖熊野大神櫛御気野命を素盞嗚尊として祀られている。 更に、『古事記』『日本書紀』にも載っていない、聞き慣れない家都美御子大神という神名は御気野命から引用されたものであろう。
 素盞嗚尊は熊野本宮大社の由緒書に、「樹木を支配される神であり、紀国(きのくに)(木ノ国)の語源もここから起こっております。」とあるように木の神(紀の神)である。
 以前紹介した紀伊国一宮・伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の祭神は素盞鳴尊の御子神、五十猛命(いたけるのみこと)・大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)・都麻津比賣命(つまつひめのみこと)であった。 伊太祁曽神社の由緒書に、「五十猛命は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、植林の神として信仰されている。 『日本書紀』には五十猛命と姫神が大八洲国に植樹したと記されており、最後に鎮まった地を「木の国」と呼んだとされる。 奈良時代に「紀伊国」と改められた。 本殿の両脇に、五十猛命の妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)と都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀る。」とある。 この様に実際に紀伊国に植樹したのは御子神、五十猛命であろう。
 出雲出身の五十猛命は父神素盞鳴尊を偲んで、植樹したこの地に、出雲の熊野山に鎮まる素盞鳴尊の霊を奉斎した。 よってこの地も「熊野」と呼ぶようになった。


 ②については、見つけることはできなかった。 かろうじて、旧社地・大斎原(おおゆのはら)の石祠に、元境内社の高倉下神社を見つけた。 天火明饒速日尊の御子、高倉下命(たかくらじのみこと)を祀っていたのだろう。
 手がかりはあったのだ。 『参拝の栞』に、「熊野大神を斎き祀ったのは、熊野国造家(くまのこくぞうけ)ですが、この氏族は天照大神の孫、饒速日命(にぎはやひのみこと)またの名を天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫で物部氏の祖に当たります。 饒速日命の孫が味饒田命(うましにぎたのみこと)=熊野連(くまののむらじ)に当たり、さらに二世を経て大阿斗足尼(おおあとのすくね)が成務天皇の御代に国造(くにのみやつこ)を賜っており爾来この子孫が代々大神に奉仕し、近く江戸時代の末に及んだのであります。」と記載されていた。 つまり、天火明饒速日命の子孫である熊野国造家・熊野連が代々熊野大神を斎き祀って来たのである。
 元来、日本人は何よりもまず御先祖様を優先して奉斎する。 古代においては尚更のことである。 なのに、饒速日命・天火明命は祀られていない。 味饒田命も大阿斗足尼もだ。 これはおかしい! いったいどういうことだ!  熊野本宮大社には失望した。 御先祖神を祀っていないとは。

我が尾張の国では、御先祖神・天火明命を丁重にお祀りしている。
尾張国一宮・真清田(ますみだ)神社
御祭神 天火明命
「当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。」-真清田神社境内案内板から- 

たった1時間程度の参拝と調査で失望してはいけないと、反省。
調査不足と見落としも多いだろう。 神社には公にしない秘伝も数多くあるという。
希望をもって、次の熊野速玉大社へ進もう。




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