2011年12月16日

熊野三山 熊野速玉大社


全国熊野神社総本宮 熊野速玉大社




熊野三山 熊野速玉大社 (くまのはやたまたいしゃ)   通称 新宮(しんぐう)

〔鎮座地〕 和歌山県新宮市新宮1番地

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊国牟婁郡の式内社・熊野早玉神社 (大)

〔御祭神〕 第一殿  結霊宮  熊野結大神 (いざなみの命)
       第二殿  速霊宮  熊野速玉大神 (いざなぎの命)
       第三殿  証誠殿  家津美御子命・国常立命
       第四殿  若宮  天照大神
       第五殿  神倉宮  高倉下命
       第六殿  禅地宮  天忍穂耳命
       第七殿  聖宮  瓊々杵命
       第八殿  児宮  彦火々出見命
       第九殿  子守宮  鸕鷀草葺不合命
       第十殿  一万宮・十万宮  国狭槌命・豊斟渟命
       第十一殿  勧請宮  埿土煮命
       第十二殿  飛行宮  大斗之道命
       第十三殿  米持宮  面足命
       奥御前三神殿
       新宮神社
       熊野恵比寿神社
-熊野速玉大社案内板から-



神門



〔御由緒〕 熊野速玉大社は、悠久の彼方、熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行天皇五十八年の御代(西暦一二八年)初めて瑞々しい神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。 我々の祖先は、美し国熊野に坐しますこの真新しい新宮に大自然の恵みを献じて神々を斎き祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。
 このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮」と号するゆえんであります。 この尊称は、まさに熊野速玉大社が、天地を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有することの証といえ、平成十六年七月には世界文化遺産に登録されました。
 中世、熊野御幸は百四十一度を仰ぎ、第四十六代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また一千二百点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。 また、境内には、熊野信仰の象徴たる「梛の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。
-熊野速玉大社パンフレットから-



      拝殿 後方に結霊宮と速霊宮           瑞垣と鈴門 後方に上三殿と八社殿










 荘厳華麗な朱塗りの御社殿四棟が建ち並ぶ。 拝殿の真後ろに主神の熊野速玉大神を祀る速霊宮。熊野造の妻入社殿。銅葺屋根に外削ぎの千木と5本の堅魚木を載せる。
 その左側に同様式の結霊宮。但し千木は内削ぎで堅魚木は4本。
 速霊宮の右側に上三殿。横に長い平入社殿。千木は外削ぎで堅魚木は5本。上三殿前の瑞垣には三つの鈴門。
 その右に小ぶりな平入の八社殿。外削ぎの千木に5本の堅魚木。瑞垣には二つの鈴門。

 四棟と言ったが、実はもう一棟。速霊宮と上三殿の間に隠れている奥御前三神殿がある。瑞垣からのぞき込まなければ見えない。外削ぎ千木に3本堅魚木の小さな妻入社殿。御祭神は書かれていない。社務所で聞くと、造化三神(天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神)とのこと。それ以上聞くと失礼かと思いやめにした。どうしてこの様な祀り方をしているのかは謎のままだ。


〔左〕鑰宮 手力男神社   〔右〕八咫烏神社


八咫烏神社 (やたがらすじんじゃ)
御祭神  建角見命(たけつぬみのみこと)
御由緒  当大社末社として、古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。 神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者とも言われて交通安全、招福の御神徳が高い。

鑰宮 (かぎのみや) 手力男神社 (たぢからおじんじゃ)
御祭神  天之手力男命(あめのたぢからおのみこと) 
御由緒  延喜式神名帳に紀伊國牟婁郡手力神社小とある由緒の古い社で、もと神門内に祀られていたが、嵯峨天皇の弘仁四年(西暦八一三年)に勅命によって現社地近くへ遷り、明治四十年に新宮神社へ合祀された。 武道、健康、開運の御神徳が高い。
-熊野速玉大社案内板から-



        新宮神社            熊野恵比寿神社          熊野稲荷神社



御神木 なぎの老樹


天然記念物   御神木 なぎの老樹
 当熊野権現の御神木で平重盛公御手植として知られ、幹廻り六米、高さ二十米、吾国最大のなぎの巨木であります。
 なぎは凪に通じ昔から家内安全和楽の信仰があり、熊野詣のしるしになぎの小枝を手折った事は古書にも見えて居ります。
 なぎの実で奉製した「なぎ人形」は家内安全の御守りとして有名です。

        千早振る 熊野の宮の なぎの葉を
                   変わらぬ千代の ためしにぞ祈る
                                             藤原定家



神倉神社と天磐盾(ゴトビキ岩)


神倉神社 (かみくらじんじゃ)
〔鎮座地〕 和歌山県新宮市神倉1丁目
〔社格〕 熊野速玉大社の摂社
〔御祭神〕 高倉下命
〔御由緒〕 文正六年(?)、神倉山に小社を造営。 大正二年(1913)二月五日遷座。 祭神の高倉下命は、神武東征に韴霊神剣を天神の命により持ち下った。 社殿裏に接してゴトビキ岩という巨岩があり、『日本書記』の天磐盾をこれに充てる説もある。 『紀南響導記』に神倉山は魔所なので申の刻以後は参らないと伝う。 六月一八日扇立祭、二月六日御燈祭という松明をともして急坂の参道を駆けおりる行事がある。
-『神社辞典』から-




熊野牛王符 (新宮)


熊野牛王符 (くまのごおうふ)

 熊野牛王(くまのごおう)(牛玉)とは、熊野三山で授与する独特の神札で、熊野権現のお使いと伝えられる烏で社名をあらわしているところから、俗に「おからすさま」とも云う。 牛王の名称については諸説があるが、牛胆から得る牛黄(ごおう)(牛玉)という霊薬を密教で加持祈祷に用い、これを印色として護符に使ったので、牛王宝印(ごおうほういん)と称したのであろう。
 熊野牛王宝印は中世以後、いろいろの誓約に用いられ、熊野の修験者及び熊野比丘尼によって全国に配布され、これを家屋玄関に貼れば盗難除、病気には烏を切りぬいて浮かべた水をいただくと効ありと言う。
 この牛王は厄払い、家内安全の神札(おふだ)としても尊ばれ、熊野詣の人々は、熊野牛王を拝受することを、古来からの慣習としている。
 全国熊野神社総本宮  熊野速玉大社
-熊野牛王符説明文から-



熊野速玉大社の牛王符は、48羽の烏と7個の宝珠で画かれている。
読み方について、社務所の神官さんに聞いてみると、
〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    印 (いん)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳(たから)
印(いん)が気にかかる。「しるし」ですかと聞くも、あくまで「印(いん)」だそうです。

閑人の読み方は、
〔右〕    熊 (くま) ・ 野 (の)
〔中〕    璽 (みしるし)
〔左〕    山 (やま) ・ 寳 (たから)
という解釈もできるのではないかな。





〔後記〕 (大いなる勘違い)
熊野速玉大社は「新宮」とも称され、市の名称ともなっている。 「新宮」のほうが一般的で通りがよい。
「新宮」とは、「熊野本宮」に対する「新宮」と思い込んでいた。
これが、重大な勘違いであった。 考え方を180度転換しなければならなくなった。

参拝からの数日後、『熊野速玉大社公式サイト』を閲覧して、茫然自失となった。
「熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と申します。」-熊野速玉大社公式サイトから抜粋-
「新宮」とは、「元宮・神倉神社」に対しての「新宮」であったのだ。

神倉神社(かみくらじんじゃ)。 あのゴトビキ岩(天磐盾)のある神社だ。
御祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。
建国の功臣、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)の御祖神。 我が尾張国の開拓の御祖神でもある。
熊野と尾張がここに結ばれた。
閑人に一筋の光明がさす。 本宮での失望が、新宮で希望へと変わっていく。

「新宮」の御祭神は、「元宮」と同一神でなければならない。
つまり、「新宮・熊野速玉大社」の正式な御祭神は、「高倉下命」でなければならない。
強引な推論と思われるかもしれない。 しかし、日本国中の神社を見渡しても例外はなく、「新宮」は「元宮」と同一神である。 よって、これが正論である。

少しばかりの証明を試みる。
熊野三山の神々は、平安時代の本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想により、熊野三所権現・熊野十二所権現と呼ばれ信仰されるようになった。
仏が本地であり、仏が神の姿をとなって現われたのが垂迹である。 神が権現と呼ばれる由縁である。
神社といえど、祀られている十二の神々には、それぞれに本地仏があった。
本宮の家津美御子大神は阿弥陀如来。 新宮の熊野速玉大神は薬師如来。 那智の熊野夫須美大神は千手観音などである。

熊野速玉大社は熊野十二所権現の御社頭である。
荘厳華麗な朱塗りの御社殿四棟には、熊野十二所権現の神々が祀られている。
向かって左から、「結霊宮」に熊野夫須美大神(第一殿)。 次に、「速霊宮」に主神の熊野速玉大神(第二殿)。 続いて、三社相殿の「上三殿」には証誠殿の家津美御子大神・国常立命(第三殿)、若宮の天照大神(第四殿)、神倉宮の高倉下命(第五殿)。 最後に、八社相殿の「八社殿」には、禅地宮の天忍穂耳命(第六殿)、聖宮の瓊々杵命(第七殿)、児宮の彦火々出見命(第八殿)、子守宮の鸕鷀草葺不合命(第九殿)、一万宮・十万宮の国狭槌命・豊斟渟命(第十殿)、勧請宮の埿土煮命(第十一殿)、飛行宮の大斗之道命(第十二殿)、米持宮の面足命(第十三殿)である。
長々と書き連ねたが、これには訳がある。

数えてみると不思議なことが判ってくる。
   1殿1神+1殿1神+3殿4神+8殿9神=13殿15神
4棟の13殿に15柱の神が祀られている。 十二所権現とは数が合わない。
明らかに、十二所権現以外の神が含まれているのである。

十二所権現以外の神とは?
これは簡単、「熊野本宮大社」の十二祭神を差し引けば、すぐに判ると思った。
ところが、「本宮大社」と「新宮大社」では第九殿以下の御祭神に食い違いがあった。(これは新たな大発見)  比較はできるが、正確な答えは出てこない。
今度は、「那智大社」と比較。 こちらは「新宮大社」と御祭神が一致した(滝宮は十二所権現ではないので除外)。
「新宮大社」の御祭神から「那智大社」の十二所権現を差し引けば、答えは一つ。
既にお分かりかと思う。  神倉宮の高倉下命である。  本地仏を持たない純粋な神だ。

垂迹の神を取り除いてみれば、本当の神が見えてくる。
本地垂迹の霧が晴れると、本来の神に光がさした。
後世の本地垂迹思想の影響を受けながらも、太古の神は生き続けているのだ。

熊野の人々は、太古の昔から引き継がれる御祖神を大切に守り、崇敬し続けて来た。
「元宮」から「新宮」へ遷されても、その想いは変わらなかった。
本地垂迹の嵐が吹き荒れる中でも、熊野の人々は御祖神を守りぬいて来た。
それで今でも、垂迹神の影に隠れながら、御祖神・高倉下命は祀られているのである。
これが真相ではないだろうか。

熊野速玉大社の本来の御祭神は、熊野の御祖神・高倉下命(たかくらじのみこと)であったのだ。




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