2012年01月13日

第3番 粉河寺


西国三十三ヶ所 第3番札所 粉河寺




風猛山 (ふもうざん)   粉河寺 (こかわでら)

〔所在地〕 (紀伊國) 和歌山県紀の川市粉河2787

〔宗派〕 粉河観音宗 (総本山)

〔開基〕 大伴孔子古 (おおとものくじこ)

〔創建〕 宝亀元年 (770)

〔本尊〕 千手千眼観世音菩薩

〔真言〕 おん ばざら だるま きりく


     大門 (仁王門) -重要文化財-         中門 (四天王門) -重要文化財-










〔略縁起〕 開創の由来は、当寺所蔵の『粉河寺縁起絵巻』(国宝)に伝えられている。
 奈良時代末の宝亀元年(770)、紀伊国那賀郡に住む猟師大伴孔子古が光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。 ある日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願いを叶えるため、七日七夜庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
 時は移り、河内国の長者佐太夫の一人娘の長患いを、童行者が千手陀羅尼を誦して祈祷、娘の病は回復した。 童行者は長者のお礼を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴を手に、「紀伊国那賀郡粉河の者」とのみ告げて立ち去った。
 翌年春、長者一家は粉河を訪れ庵を発見、扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。
 粉河寺は鎌倉時代には七堂伽藍が整い隆盛をきわめたが、天正十三年(1585)、豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。 その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。
 現在の諸堂は大小20有余数えられるが、何れも江戸時代の代表的な寺院建築物であり、西国三十三ヶ所の中では最も大きい本堂を初め、千手堂・大門・中門の4棟は重要文化財に指定されている。 又、本堂前の左右に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭と云われ、名勝に指定されている。


        本堂 -重要文化財-                千手堂 -重要文化財-











        童男堂               産土神社                念仏堂






御本尊 (秘仏)  千手観音立像

 鎌倉時代の絵巻物の傑作として知られる『粉河寺縁起絵巻』(国宝)にも描かれる粉河寺の本尊は、絶対秘仏となっている。 御開帳の前例がなく、そのお姿を拝することはできない。
 その代わりに、こちらも秘仏である千手堂の本尊が御開帳される。 本堂の本尊と同様、千手観音立像である。 像高70cm、木造寄木造。
 この像と『粉河寺縁起絵巻』に描かれた姿から、絶対秘仏のお姿に思いをはせてみてはどうだろう。





納経帳
〔御墨書〕  「奉拝」
        「大悲殿」
        「粉河寺」

〔御朱印〕  「西國第三番」
  蓮華台に「粉河寺」
  宝珠の中央に千手観音の種子「キリク」
  下から時計回りに「オン」・「バ」・「ザラ」・「ダ」・「ラマ」の梵字
        「粉河寺印」




  梵字は、千手観音の真言「おん ばざら だるま きりく」と読める。



          「オン」    「バ」    「ザラ」    「ダ」    「ラマ」   「キリク」




         父母の 恵みも深き 粉河寺
                        ほとけの誓ひ たのもしの身や




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