2012年02月28日

第9番 南円堂


西国三十三ヶ所 第9番札所 興福寺 南円堂




興福寺 (こうふくじ)  南円堂 (なんえんどう)

〔所在地〕 (大和國) 奈良県奈良市登大路町48

〔宗派〕 法相宗大本山

〔開基〕 藤原冬嗣

〔創建〕 弘仁4年 (813)

〔御本尊〕 不空羂索観世音菩薩 (ふくうけんざくかんぜおんぼさつ)

〔真言〕 おん はんどま だら あぼきゃ じゃやでい そろ そろ そわか

〔略縁起〕  興福寺は、天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。 その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。 平城遷都に伴い、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。 その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。
 南円堂は弘仁4年(813)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善の為に建てた。 基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。 また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。
 不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。
 興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。 その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。 創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。 江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。



南円堂



             東金堂                           五重塔













     御本尊 (秘仏)  不空羂索観音   -国宝-
 木造  像高341.5cm  鎌倉時代 (1189)
 力感に富み、生命力がみなぎるこの像は運慶の父で南都仏師の棟梁だった康慶の傑作。 平氏による南都焼き討ちで興福寺は壊滅的ば打撃を受けたが、藤原氏の氏寺である興福寺は国家的なプロジェクトとして復興され、これが慶派仏師の大躍進の契機となった。
 不空羂索観音は三目八臂の姿で、左手に持った羂索(投げ縄)で衆生を絡めとり、救いへと導くとされる。 藤原氏は伝統的に不空羂索観音への崇敬の念が強かったとされ、南円堂だけでなく東大寺三月堂の本尊など藤原氏にゆかりのある像が多い。
 秘仏だが、毎年10月17日の大般若経転読会の時に特別開扉される。





納経帳

 〔御墨書〕   「奉拝」
          「南圓堂」
          「興福寺」

 〔御朱印〕   「西國第九番」
    「上り藤紋」の中に不空羂索観音の種子「モー」
          「興福寺南圓堂」



 興福寺は藤原氏の氏寺であった。 宝印に藤原氏の家紋が用いられている。
 火焔宝珠に見立てた「上り藤」が使われているところが面白い。



不空羂索観音の種子 「モー」




         春の日は  南円堂に  かがやきて
                         三笠の山に  晴るるうす雲



この記事へのトラックバックURL

http://manyuuki.mediacat-blog.jp/t76245