2012年05月07日
第21番 穴太寺
西国三十三ヶ所 第21番札所 穴太寺
菩提山 (ぼだいさん) 穴太寺 (あなおじ)
〔所在地〕 (丹波國) 京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻46
〔宗派〕 天台宗
〔開基〕 大伴古麿 (おおとものこまろ)
〔創建〕 慶雲2年 (705)
〔御本尊〕 聖観世音菩薩
〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか
〔略縁起〕 宝徳2年(1450)成立の『穴太寺観音縁起』によれば、慶雲2年、文武天皇の勅願により、大伴旅人の甥大伴古麻呂が薬師如来を本尊として開創したという。 その後さびれていたが、村上天皇(926~967)の時代に郡司の宇治宮成(うじのみやなり)が妻の依頼で、仏師感世(かんせい)を都から招いて聖観世音菩薩を刻ませたという。 宮成は感世に愛馬をお礼に与えたが惜しくなり、待ち伏せして感世を射殺し、馬を取り戻して帰ったところ、矢は観音の胸に刺さり、感世も無事に帰京していた。 宮成は観音様が身代わりになられたと罪を悔い、寺を再建して聖観世音菩薩を本尊として安置したといわれる。
この伝説が『今昔物語集』や『扶桑略記』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として当寺が知られていたことがわかり、穴太寺の観音は「身代わり観音」として篤く信仰された。
寺は兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代中期に再建されたものである。
本堂 多宝塔
観音堂 鎮守堂(天満宮) 鐘楼
御本尊 (秘仏) 聖観音立像(伝・感世作) (現・佐川定慶作)
寺伝やさまざまな説話にも登場する、感世作とされる木造漆箔の観音像は、像高110.0cmで鎌倉時代の制作。 国の重要文化財にも指定される貴重な像であった。 しかしこの像は昭和43年に盗難に遭い、いまだ所在がわからない。
現在は、昭和の名工・佐川定慶(さがわじょうけい)作の像を秘仏として逗子のなかに祀っている。
納経帳
〔御墨書〕 「奉拝」
「聖大悲殿」
「穴太寺」
〔御朱印〕 「西國廿一番」
蓮華宝珠の中に聖観音の種子 「サ」
「穴穂」
※ 寺印の「穴穂」は「穴太」に同じ。 「穴太」は本来「あなほ」と読み、「穴穂」「孔王」とも書く。
例えば、聖徳太子の母は、『日本書紀』では穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、『古事記』では間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)、『天寿国蔓茶羅繍帳』に孔王部間人母王(あなほべのはしひとのははみこ)とある。
穴太(あなほ)は古代の氏族名であり、この地は穴太部(あなほべ)の居住した地であろう。
聖観音の種子 「サ」
かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと
思はで頼め 十声一声
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