2012年07月22日

御礼参り 善光寺

御礼参り   元善光寺  北向観音  善光寺



元善光寺




定額山 (じょうがくさん)  元善光寺 (もとぜんこうじ)     旧 坐光寺 (ざこうじ)

〔所在地〕 長野県飯田市座光寺2638

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 本多善光

〔創建〕 推古天皇10年(602) 

〔御本尊〕 一光三尊阿弥陀如来像 (善光寺如来)

〔御真言〕 おん あみりた ていせいから うん

〔略縁起〕 推古天皇十年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人、本多善光卿が難波の堀から一光三尊の御本尊様をおむかえしたのが元善光寺の起元で、その後皇極天皇元年にその御本尊様は現在の長野市へ遷座され、できたお寺が善光卿の名をとって「善光寺」と名付けられました。 それから飯田の方の当山は勅命によって、木彫りで同じ御尊像が残され「元善光寺」と呼ばれるようになりましたが、仏勅によって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰りきて衆生を化益せん」というご誓願を残されたとのことで、長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣りと昔から云われるゆえんであります。     -『元善光寺公式サイト』から-


     一度詣れよ 元善光寺  善光寺だけでは 片詣り




北向観音




北向山  照明院  常楽寺  観音堂        通称 北向観音

〔所在地〕 長野県上田市別所温泉1666

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 円仁 (慈覚大師)

〔創建〕 天長2年 (825)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら だるま きりく

〔略縁起〕 北向観音の創建は天長2年(825)、常楽寺背後の山から轟音と共に大地が揺れ周辺に甚大な被害をもたらした。 それを見た慈覚大師が大護摩を焚き祈祷した所、紫雲が立ち金色の光とともに観世音菩薩が現れ大地を清浄化した。 大師はこの観世音菩薩を模った木像を刻み、小堂に祀ったのが始まりと伝えられる。
 北向観音という名称は堂が北向きに建つことに由来する。 これは「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」という観音の誓願によるものといわれている。
 また、南向きの善光寺に向き合っているところから「北向観音」と呼ばれ、善光寺が「未来往生来世の利益」を祈願するのに対し北向観音は「現世の利益」に御利益があることから「片方だけでは片詣り」と言われている。



薬師堂 (瑠璃殿)
 観音堂の西方崖の上に建てられた薬師堂は「医王尊瑠璃殿」と呼ばれる文化6年(1809)に再建された建物。
 入母屋、妻入、本瓦葺、京都の清水寺に見られる懸け造りの形式で内部には温泉薬師信仰から薬師如来を祀っている。



愛染かつら
 境内にある愛染桂は樹齢1200年といわれている大木で、樹高22m、幹周5.5m、枝張14m。(上田市指定天然記念物)
 愛染桂は北向厄除観音の霊木としてあがめられ、伝説によると天長2年の大火の際、どこからともなく現れた千手観音がこのカツラの樹の上で避難民を救ったといわれている。 霊木の傍らに建つ愛染堂の本尊、愛染明王の愛とこの桂を結んで「愛染かつら」の名で親しまれている。
 小説・映画の『愛染かつら』の作者川口松太郎は北向観音の信者であった。




観音の  いらか見やりつ  花の雲          芭蕉

観音の この大前に奉る 絵馬は信濃の 春風の駒     北原白秋





善光寺




定額山 (じょうがくさん)  善光寺 (ぜんこうじ)

〔所在地〕 長野県長野市元善町491

〔宗派〕 無宗派

〔開基〕 皇極天皇 (勅願)

〔創建〕 皇極天皇3年 (644)

〔御本尊〕 善光寺式阿弥陀三尊像 (一光三尊阿弥陀如来像)

〔御真言〕 おん あみりた ていせいから うん

〔由緒縁起〕 善光寺は、無宗派の単立寺院である。 山号は「定額山」(じょうがくさん)。 山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。 「大勧進」の住職は「貫主」と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。 「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺で、住職は「善光寺上人」と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。 現在の「大本願上人」は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。 善光寺の住職は、「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。
 日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。 また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女人救済の寺院である。
 本堂の中の「瑠璃壇」には、百済渡来の絶対秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に安置されると伝えられている。 本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできない絶対秘仏である。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかり、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができる。 開帳では前立本尊が代わりに公開される。
 また、日本百観音(西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。


善光寺本堂  -国宝-


善光寺本堂  -国宝-
 善光寺の本堂は、皇極天皇元年(642)の創建以来十数回の火災に遭っており、現在の建物は  宝永四年(1707年)の再建です。 間口は約24メートル、奥行は約54メートル、高さは約26メートルあり、江戸時代中期を代表する仏教建築として、昭和28年に国宝に指定されています。
 本尊を祀る仏堂に、参拝者のための礼堂が繋がった特殊な形をしており、棟の形が鐘を撞くT字型の道具・撞木(しゅもく)に似ていることから「撞木造り」と呼ばれます。 国宝建造物の中では東日本最大、檜皮葺建造物の中では日本一の規模を誇る広大な建物です。
 床下には約45メートルの暗闇の回廊があり、秘仏のご本尊・善光寺如来さまと結縁する「お戒壇めぐり」をすることができます。                              -境内案内板-


  大勧進  大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねている。 貫主は代々比叡山延暦寺より推挙される慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕される。 大勧進には本堂の万善堂の他、無量寿殿・不動堂・地蔵八角円堂・紫雲閣・宝物殿・僧侶が修行をする聖天堂などがある。 また、奥書院は明治天皇御巡幸以来、大正天皇、昭和天皇両陛下の御駐泊により、昭和八年に行在所に指定された。


 大本願  大本願の創建以来、尼公上人をもって住職とし、代々皇室関係の方々が入山されている。 近世において、尼僧では伊勢・慶光院、熱田・誓願寺とともに日本三上人といわれていたが、今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されている。 大勧進の貫主と共に善光寺住職を兼ねており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事(お勤め)に出仕される。  大本願には、本誓殿・奥書殿・明照殿・表書院・光明閣・寿光殿・宝物館などがある。


仁王門
 仁王門は宝暦2年(1752)に建立されたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在のものは大正7年(1918)に再建されたもの。
 この門には善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられている。
 仁王像並びに仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に高村光雲・米原雲海の作であり、その原型は善光寺史料館に展示されている。


山門 (三門) -重要文化財-
 寛延三年(1750年)に建立された二層入母屋造りの門。 屋根は大正年間の檜皮葺きから、平成大修理で、建立当時と同じサワラの板を用いた栩葺き(とちぶき)に復原された。  楼上には輪王寺宮筆の「善光寺」と書かれた額が掲げられる。 通称「鳩字の額」と呼ばれており、3文字の中に鳩が5羽隠されている。 更に「善」の一字が牛の顔に見えると言われ、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を物語っている。


延命地蔵尊  如来堂跡
 仲見世通り中央西側に「如来堂旧地」という石碑がある。 この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所であり、延命地蔵尊は現本堂落成から5年後の正徳5年(1712)に造立された。
 当時の地蔵尊はその後の災害や供出により現存しないが、現在は昭和二十四年に復興された地蔵尊が安置されている。





釈迦堂  釈迦涅槃像 -重要文化財-
 世尊院の小御堂である釈迦堂の御本尊は、鎌倉時代の作とされる我が国唯一の等身大(1.66メートル)の銅造釈迦涅槃像である。
 戦国時代には善光寺の御本尊・御三卿像・御印文と共に全国を流転した。




ぬれ仏 (延命地蔵)
 享保7年(1722)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊。
 江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。





六地蔵
 宝暦9年(1759)に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、昭和19年に金物供出に出された。 現在の六地蔵は昭和29年に再興されたもの。
 六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界で我々衆生を救ってくださる菩薩様である。





駒返り橋
 仲見世通りが終わり、三門へ進む参道の入り口にある石橋は、建久8年(1197)、源頼朝が善光寺を参詣した時に、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという話から「駒返り橋」と呼ばれている。
 その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができる。



経蔵 -重要文化財-
 宝暦9年(1759)に建立された宝形造りのお堂。
 内部中央には八角の輪蔵があり、その中には仏教経典を網羅した『一切経』が収められている。 輪蔵に付属している腕木を押し回すことでこの『一切経』を全て読んだことと同じ功徳が得られるといわれる。 経蔵内には輪蔵を考案した傅大士、並びに伝教・慈覚の両大師像が祀られている。 現在、建物老朽化に伴う検査のため、内部参拝を停止している。


鐘楼  梵鐘 -重要美術品-
 嘉永6年(1853)に再建された檜皮葺の建物で、南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられている。
 梵鐘は寛文7年(1667)鋳造の名鐘であり、重要美術品に指定されている。 毎日午前10時から午後4時の毎正時に時を知らせる鐘として、更に長野オリンピックの開会を告げた鐘として親しまれている。



日本忠霊殿 善光寺史料館
 戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでに亡くなられた240万余柱の英霊を祀る、我が国唯一の仏式による霊廟。 御本尊は秘仏の善光寺如来様の分身仏で、高村光雲門下の関野聖雲の作。
 1階には善光寺所蔵の什物を展示する「善光寺史料館」が併設され、絵馬などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができる。




御本尊  善光寺式阿弥陀三尊像  (一光三尊阿弥陀如来像)

 善光寺の御本尊様は、一光三尊阿弥陀如来像です。 中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が一つの光背の中にお立ちになっています。 しかし、御本尊様は絶対秘仏で、今日そのお姿を拝むことはできません。
 『善光寺縁起』によれば、善光寺如来様は、遠くお釈迦様在世の時にインドで出現なさったといわれております。 その後、百済にお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、日本に仏教が伝来した時に、百済より贈られたと語られています。
 御本尊様は古来より「生身の如来様」といわれております。 人肌のぬくもりを持ち、人と語らい、その眉間の白毫から智恵の光明を発しているというのです。 奈良の法隆寺には「善光寺如来御書箱」という、聖徳太子と善光寺如来様が取り交わした文書を入れた文箱が現存しています。 このように、人々と触れあう如来様として信仰を集めて参りました。
 善光寺の御本尊様の印相は特徴的であるといわれております。 中央、阿弥陀仏の印相は、右手は手のひらを開き我々の方に向けた施無畏印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし他の指は曲げるという刀印です。 これは法隆寺金堂の釈迦三尊像に代表される、飛鳥・白鳳時代頃の仏像に特徴的な印相です。 左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左の掌に右の掌を重ね合わせる珍しい印相をしています。 その掌の中には真珠の薬箱があるといわれています。 また、三尊像は蓮の花びらが散り終えて残った蕊が重なった臼型の蓮台に立っておられます。 このような特徴を全て備えた一光三尊阿弥陀如来像を通称、善光寺式阿弥陀三尊像といっております。
                                         -『善光寺公式サイト』から-



阿弥陀三尊の種子

         勢至菩薩「サク」     阿弥陀如来「キリク」      観音菩薩「サ」






        身はここに  心は信濃の  善光寺
                         導きたまへ  弥陀の浄土へ




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