2013年04月06日

第11番札所 吉見観音

坂東三十三ヶ所 第11番札所 吉見観音





岩殿山 (いわどのさん)  安楽寺(あんらくじ)       通称 吉見観音

〔所在地〕 (武蔵国) 埼玉県比企郡吉見町御所374

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)

〔創建〕 大同元年 (806)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 寺の草創は僧行基が東国巡錫の折、この地を霊地と定め、聖観音像を刻み、岩窟に納めたのが始まり。 のちの桓武天皇の時、奥州征討に向かう坂上田村麻呂が戦勝を祈願。 この戦いに勝利した田村麻呂が、大同元年(806)、七堂伽藍を建立したと伝えられる。
 その後、安楽寺の発展に力を注いだのは、源頼朝の異母弟にあたる源範頼。 範頼は、平治の乱のあと助命され、この寺の稚児僧として育てられたという。 範頼とその一族は鎌倉幕府成立とともにこの地の領主となり、その折の報恩にと、所領の半分を安楽寺に寄進し、三重塔、大講堂などを建立したという。 源範頼の子孫は当時の武将の多くが行なったように領地の地名を自らの名として「吉見氏」と名乗った。
 天文年間(1532~1555)の松山城の攻防戦で安楽寺の伽藍は焼失、住僧は離散という衰運を迎えた。 そののち下総国印旛郡出身の僧杲鏡(ごうきょう)が法華経読誦千日、別時念仏の行を積み、復興に精進、近里の檀越を勧請して五間四面の観音堂と現存朱塗りの三重塔を再建した。


御本尊の御影





御住職の法話

    貧者の福を得た霊験記           安楽寺住職 島本虔栄

 元禄の中頃、細谷村の某氏当山の観世音に皈依して月詣りを怠らず修行しておりましたが、事業が不如意で朝暮悩んでおりました。
 ある時感慨して自分は過去に慳貪邪見にて布施行の善因を積まぬためこのような境遇にあるのではなかろうかと反省いたしました。 そこで三ヵ年日参の願を立ていかなる風雪もいとわず毎夜登山精誠に祈念いたしました。
 ようやく千日成満の夜、ご宝前に籠り、観音大悲の宝号を唱えておりましたが、暁の頃夢の中に須弥壇のうしろより香衣の老僧が出て、「お前の願い浄心なればこの摩尼珠を与える」と掌中へ黒色の玉を賜わりました。 某氏は驚き、目が覚め掌を開き見ると棗大の黒色の玉がありました。 これは観音さまが自分の願いを顧み福衆の宝珠を賜わったのであろうと喜び、住僧の教えに従って観音さまを造り、胎内に感得の宝珠を納め朝夕祈念しておりました。
 その後家業は繁昌し、子孫も孝順の者ばかりにてますます繁栄されたといいます(坂東観音霊場記)。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕     「岩殿山」
               梵字「サ」  「正観世音」
               「安楽寺」

    〔御朱印〕     「坂東十一番」
               蓮華宝珠に聖観音の種子「サ」
               「吉見岩殿山安楽寺之印」





聖観音の種子「サ」





         吉見よと  天の岩戸を  押し開き
                           大慈大悲の  誓いたのもし




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