2011年08月05日

河内国一宮 枚岡神社


神事宗源 天孫輔弼  枚岡神社




河内国一宮 枚岡神社 (ひらおかじんじゃ)

〔鎮座地〕 大阪府東大阪市出雲井7-16

〔社格〕  旧官幣大社  河内国河内郡の式内社・枚岡神社四座(並名神大。月次・相甞・新甞)

〔御祭神〕 〔第一殿〕 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
       〔第二殿〕 比賣御神 (ひめみかみ)
       〔第三殿〕 斎主命 (いわいぬしのみこと)=経津主命(ふつぬしのみこと)
       〔第四殿〕 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)

〔御由緒〕 奈良から生駒山の暗峠を越えて真直ぐに西へ降った古い街道、山麓近くに朱の春日造りの社殿が西向きに鎮座し、神社の主神は天児屋根命即ち我国の祭祀の始めを掌り給い、中臣・藤原氏の祖神であり、春日大社の第三殿(天児屋根命)と第四殿(比賣御神)の神は、神護景雲年間(西暦七六七~七七〇)に当社から春日神社へ分祀せられた為、当社を元春日と呼び習わして来た。 因に、当社の第三殿・第四殿の二神は、宝亀九年(七七八)春日大社から迎えて配祀せられた。 神階は次第に昇り、貞観元年(八五九)には正一位に叙せられ、『延喜式』には名神大社に列した。 古くから中臣氏の一族平岡連の斎く社であったが、平安末期から水速家が祀職となり、河内一宮として朝野から篤く祀られた。 天喜四年(一〇五六)・宝治元年(一二四七)・天正二年(一五七四)と度々火災に遭い、慶長七年(一六〇二)豊臣秀頼が社殿を修復した。 現社殿は文政九年(一八二六)氏子の総力を挙げての修造である。 社領は百石を有した。
 明治四年官幣大社に列し、神宮寺等が廃された。 本社四殿の他に、本殿背後の神津嶽に摂社神津嶽本宮、本殿南に摂社若宮神社更に南に末社天神地祇社が祀られ、その南部一帯は、「枚岡神社梅林」として春は観梅の人達で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-



参道広場

夏越大祓の茅の輪





拝殿
 明治12年に新築されました。 平成の修造で檜皮葺きから、銅板葺きに葺き替えられました。 正面に掲げられた神額は、三條實美公揮毫であります。





中門
 明治12年に改築、明治38年に現在の場所に移設され、昭和26年、平成3年に修復され現在に至っています。




本殿


 現在の御本殿は、文政9年(1826)に、近郡の氏子の奉納により造営されました。それより以前、『御神徳記』によりますと、天喜4年(1056)と宝治元年(1247)に焼亡し、其の都度造営され、文明9年(1477)にも近郡の氏子により造営されたと記されています。また、天正7年(1579)年9月、織田信長の兵火により類焼をうけ、本殿以下諸建物が焼失しましたが、慶長7年(1602)豊臣秀頼公が社殿の造営をし立派に復旧しました。その後、徳川の時代にはいり、当社に対する崇敬は薄れて衰退を余儀なくされましたが文政9年に造営がなされ、その後屋根の葺き替えや塗替え修理がおこなわれ、最近では平成の大修造(平成元年から3年)を経て現在に至っております。
 建築様式は、枚岡造(王子造)と呼ばれ四殿並列極彩色の美しい神社建築です。(市指定文化財)



遥拝所
 榊の木を通して、宮中の皇霊殿(春分・秋分の皇霊祭)・伊勢神宮(神嘗祭)・橿原神宮(紀元祭)を遥拝する他、神津嶽を遥拝する所です。




摂社 若宮社 (わかみやしゃ)
 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)がお祀りされています。 天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子神様です。この神様は、天児屋根命の命によって、天の二上に登り、皇御孫尊(すめみまのみこと)の御膳水(みけつみず)を取ってきたと伝えられております。 社殿は、明治20年に改築され現在にいたっております。


出雲井 (いずもい)
 摂社若宮社奥にある井戸です。 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)が水にかかわる神様であるためか、若宮社の左奥にあり、古くより神聖な水が湧き続けています。 枚岡神社の鎮座地は、出雲井町でありこの井戸の名称から、そう呼ばれるようになったのではないかと考えられます。



末社 天神地祇社 (てんしんちぎしゃ)
 天津神・国津神がお祀りされています。 この社には、もと境内にあった19末社の椿本社(猿田彦神)、青賢木社(天磐立神)、太力辛雄社(天手力雄命)、勝手社(受鬘神)、地主神(枚岡社地の地主神)、笠社(風神)、住吉社(住吉明神)、飛来天神社(天之御中主命)、岩本社(岩本明神)、佐気奈辺社、一言主社(一言主神)、坂本社(山王権現)、素盞鳴命社(素盞鳴命)、八王子社(王子八神)、戸隠社(天八意思兼命)、大山彦社、門守社(櫛石窓神・豊石窓神)、角振社(角振神)、宮社(土佐坊正命)と合せて、氏子近郡の村の氏神としてお祀りされていた、出雲井村の八坂神社、豊浦村の春日神社・東山神社、額田村の額田神社・若宮八幡宮社・山神社・蛭児神社、五条村の八幡宮社、客坊村の一杵島姫神社、四条村の春日神社・素盞鳴命神社、松原村の春日神社・八幡宮社等の神々が、明治5年に合祀されお祀りされています。
-枚岡神社公式サイトから-



御祭神
 主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。
経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。

第一殿 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
 天兒屋命・天之子八根命・天子屋根命とも書き、太詔戸命・櫛眞智命中臣の神とも称え奉られます。
 天の岩戸開きに功績をあげられますが、はじめてお祭りを行い、祝詞を奏上された事から「神事宗源 (しんじそうげん)」の神と称えられています。
 天孫降臨の神話では、瓊々杵尊 (ににぎのみこと)に御供仕え奉った神々の中でも、特に重責を担った神であり、天照大御神 (あまてらすおほみかみ)・高皇産霊神 (たかみむすひのかみ)から、皇孫を助け斎ひ護るようにとの神勅により、その重責をはたし皇運の基礎を固めきづかれた事から、「天孫輔弼 (てんそんほひつ)」の神とも称えられています。

第二殿 比売御神 (ひめみかみ)
 諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命 (あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命 (あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。

第三殿 経津主命 (ふつぬしのみこと)
 香取神宮の御祭神。比古自布都命 (ひこじふつのみこと)・斎主命 (いわいぬしのみこと)・伊波比・斎ノ大人とも称え奉られています。 武甕槌命と同じく、神話「国譲り」において出雲国に派遣され、見事にその役を果たされた神様で、武運守護の大神と仰がれています。

第四殿 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
 鹿島神宮の御祭神。建御雷之男神 (タケミカヅチノオノカミ)、建御雷神建御賀豆知命、布都御魂神と称え奉られています。 神話の中の国譲りにおいて、高天原の最高司令神の名で地上の国を平定する切り札として出雲国に派遣され、見事にその役を果たされ、国の平定における武力と権威の象徴ともいうべき神様です。
-枚岡神社公式サイトから-



祭事
 当社三大祭は、例祭二月一日・祈年祭二月十七日・新嘗祭十一月二十三日であるが、祭礼神賑を伴った「秋郷祭」(十月十五日)は氏子の秋祭として各町の布団太鼓台約二十台が、神社の神輿に続いて境内へ勢揃いし、前日の宵宮祭・当日の本祭と、氏子青壮年の叩く太鼓の音が終日鳴り響き、緑に包まれた神社境内もこの時ばかりは大阪・奈良その他からの参拝者・露店があふれ十数万人の人出で境内は埋め尽される。 周辺道路の規制は勿論であるが、河内国の祭の総力が此処にこの日に集結したかと思われる盛大な大祭となる。
 年中恒例の中・小公式祭の他、節分祭の夕刻と八月第四日曜の夕刻には千灯明奉納神事があり、境内の釣灯篭・石灯篭を始め参道に添って釣灯篭が淡い灯をともし、春日大社の万灯篭を想わせる境内となる。 八月の千灯明奉納は、河内音頭の奉納があり、近在の氏子の子女の輪踊りで夜遅く迄賑わう。 又、夏越の大祓(六月三十日)は、茅の輪を立ててくぐり抜ける蘇民将来の古伝、夏病除けの信仰を伴う。
 除夜・元日の所謂「年越詣り」は当社でも盛んで、夜中から正面参道に参拝者が列を作って並び、元日午前零時の新年初太鼓と共に参拝が始まる。 境内では、氏子の奉仕する神酒授与の拝載所に人の列が並び終日参拝者の列は切れない。
 三月一日には梅花祭、四月三日には桜花祭があり、境内梅林と紅白梅・桜花の季節は花見を兼ねた参拝者で賑わう。
-枚岡神社パンフレットから-





〔後記〕
 本殿の配置が特殊であることに気づいた。 枚岡造と呼ばれる本殿は四殿が並列に配置されている。 てっきり左翼(向かって右)から第一殿・第二殿・第三殿・第四殿の順と思い込んでいた。
 ところが本殿の画像をよく見ると、向かって一番右側の第一殿と思われた本殿の千木だけが内削で、他の三殿は外削である。 このような場合、住吉大社でも見られるように、内削の千木は女性神をあらわしていると思われる。 女神ならば第二殿の比賣御神(ひめみかみ)ということになる。  一番左翼が第二殿?  これはいったいどういうことなのか、解せぬ!

 考えても、わかる術はない。  早速、枚岡神社へ電話して聞いてみた。
 枚岡神社からの説明では、「本殿の配置は、向かって右から第二殿・第一殿・第三殿・第四殿の順番です。 内削の千木は女神を示し、比賣御神を祀る第二殿です。 少し変わった配置となっています。」との回答であった。
 自分の推理が正しかったことに少しは納得したものの、まだ腑に落ちない。 普通ならば、左側が上位であるはず、どうして第二殿が最左翼なのだろう? 第二殿の比賣御神とは何者なのであろうか?

 比賣御神とは、女性の大神と解釈すればよいのだろうか、あまりにも抽象的な神名である。 神社側の説明では、「諸説があり詳細は不明ですが、天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)とも称えられ天児屋根命の后神で、常に夫神を助けられ内助の功績多く、御子神天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を強く賢く育てられる等、良妻賢母、女性の鑑と仰がれています。」とある。 詳細は不明といいながら、かなり具体的である。 なんだか主祭神の天児屋根命と摂社若宮社の祭神天押雲根命との関連で辻褄合わせの説明をしているような気がする。

 閑人は思う。 第一殿の主神天児屋根命を差し置いて、その上位に君臨する女神とは、これはもう「天照大御神」以外には考えられない。
 境内には伊勢神宮の遥拝所もあり、何よりも本殿の特殊な配置が、 比賣御神=天照大御神 を如実に物語っているのである。



  

Posted by 閑人 at 22:15Comments(3)TrackBack(0)神社巡詣