2011年10月21日

丹後国一宮 籠神社


お伊勢さまのふるさと  元伊勢籠神社




丹後国一宮 籠神社 (このじんじゃ)     古称 吉佐宮 (よさのみや)

〔鎮座地〕 京都府宮津市字大垣430

〔社格〕 旧国幣中社  丹後国與謝郡の式内社・籠神社(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕 主神  天照國照彦火明命 (あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
       相殿  豊受大神 (とようけのおおかみ)
            天照大神 (あまてらすおおかみ)
            海神 (わたつみのかみ)
            天水分神 (あめのみくまりのかみ)

〔御由緒〕 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は国常立とも云う)を大氏神としていただいて当地方に天降られた彦火明命(ひこほあかりのみこと)は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになり、真名井原に御鎮座。 第十代崇神天皇の時に天照大神の御霊代が大和国笠縫邑から当宮にお遷りになり、與謝宮(吉佐宮)と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされた。 その後、天照大神は十一代垂仁天皇の御代に、また豊受大神は二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになった。 それに依って当社は元伊勢と云われている。 両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、又丹後国一の宮として朝野の崇敬を集めて来た。
 社殿の様式は伊勢の神宮と同じ唯一神明造で、古式の心御柱や棟持柱があり、特に高欄上の五色の座玉(すえたま)は伊勢の神宮御正殿と当社以外には拝されないもので、神社建築として最古の様式と高い格式を表している。
-『全国一の宮めぐり』から-



              神門                            拝殿











狛犬 阿吽一対 (鎌倉時代作 重要文化財)
 この狛犬は日本様式化された狛犬の傑作と云われ、他社の狛犬の形と全く違い、頭は小さく胴体と脚が大きく、どっしりと安定しており、然もその姿勢は静と動を同時に表現して命あるもののように、ア・ウンの見事な調和をみせています。
 鎌倉時代の名作として重要文化財に指定されていますが、その昔作者の魂が狛犬にこもり、石の狛犬あ天橋立にあばれ出て通行の人を驚かしたので、たまたま仇討に来ていた豪傑岩見重太郎が一夜待ち伏せ、剛刀で狛犬の脚を切ったところ、それ以来社頭に還り、魔除の狛犬と云われて霊験あらたかになったと伝えられています。
-籠神社パンフレットから-



         唯一神明造の本殿                高欄上の五色の座玉(すえたま)










本殿
 御社殿は伊勢神宮とほぼ同様式の唯一神明造であって、古来、三十年毎に御造替の制となっている。 御本宮の勝男木は十本で、千木は内削ぎになっていて、色々の古儀が昔のままに伝えられている。 心御柱があるが、之に就き社記に「御柱一名天御量柱 是則一氣起、天地之形、陰陽之源、万物之体也」と見えている。
 高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、神宮御正殿以外には拝せられないもので、元伊勢宮として、又山陰道第一の大社として、諸社に越える古来の御神徳、御社格を象徴するものであり、日本神社建築史上特に貴重なものとされている。 尚、本殿は弘化二年(一八四五年)の造替で、京都府文化財指定建造物である。
-籠神社公式サイトから-




千古のたたずまいを見せる奥宮
真名井神社 (まないじんじゃ)



真名井神社 (まないじんじゃ)

磐座主座 (天御中主大神霊畤)
〔御祭神〕 豊受大神 (とようけのおおかみ)
  相殿  罔象女大神 (みつはのめのおおかみ)
       彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
       神代五代神
 豊受大神 亦名 天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。 天御中主神は宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。 相殿に、罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。

磐座西座 (天照大神小宮霊畤)
〔御祭神〕 天照大神 (あまてらすおおかみ)
       伊射奈岐大神 (いざなぎのおおかみ)
       伊射奈美大神 (いざなみのおおかみ)
 この磐座は日之小宮と申し、主神は天照大神であらせられる。奈岐・奈美二神は大八州(日本)の国生みの伝で有名であらせられる。当社奥宮境内真名井原に降臨せられ、天橋立(天地通行の梯)をお造りになられた大神で、夫婦和合、家内安全、授子安産、延命長寿、縁結びの御徳が著名であらせられる。

          真名井神社拝殿                     磐座主座・磐座西座










〔御由緒〕 古代丹波の最高神である豊受大神(天御中主神又は國常立とも云う)を大氏神として戴いただいて当地方に天降られた天照國照彦火明命は、大神様をお祭りするのにふさわしい神聖なところとして、常世の波の寄せる天橋立のほとりのこの地をお選びになりました。 こうして造化の名勝天橋立の北端眞名井原に御鎮座、第十代崇神天皇の時に天照大神の御霊代が當宮にお遷りになり、吉佐宮(よさのみや)と申して豊受大神と御一緒に四年間お祭りされました。 元伊勢の御由緒の起こりです。 奥宮は今、神代が現代に生きている聖地として、心ある信仰者の熱い祈りが日々捧げられています。
-籠神社パンフレットから-



奥の磐座
 鹽土老翁 (亦名住吉同体) (大綿津見神) (亦名豊受大神)
 宇迦之御魂 (稲荷大神)
 熊野大神 (須佐之男神)
 道祖神
 愛宕大神


       波せき地蔵           産盥(うぶたらい)       御霊水 天の真名井の水



〔境内摂社〕



蛭子神社 (えびすじんじゃ)
 之の社は恵美須神社とも云い、彦火火出見命と倭宿祢命を祭る。




天照大神和魂社 (あまてらすおおかみにぎみたましゃ)
 祭神は天照大神の和魂、或は荒魂とも伝えられる。 當社鎮座地は「大垣」であるが、神宮の御神領を書かれた神鳳抄の中に、大垣御厨(ミクリヤ)が所見する。




真名井稲荷神社 (まないいなりじんじゃ)
 祭神は、宇迦御魂、保食神、豊受比売。 古代から明治末期迄、奥宮真名井原に祭られていたのを、平成三年九月九日、八十年ぶりに本社境内に再建。




〔境内末社〕

〔左〕 春日大明神社
 春日四神を祭るが、古代には建甕槌社と呼ばれたと伝える。
〔右〕 猿田彦神社
 猿田彦神は、古来大世多大明神と呼ばれる。 之は大佐田大明神の意であろう。



                           倭宿禰命像


倭宿禰命 (やまとのすくねのみこと)
別名  珍彦(うずひこ)・椎根津彦(しいねつひこ)・神知津彦(かむしりつひこ)
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖
 神武東遷の途次、明石海峡(速水門・はやすいなど)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとのすくね)の称号を賜る。
 外に大倭国造(やまとのくにのみやつこ)、倭値(やまとのあたい)とも云う。
 大倭(おおやまと・だいわ)の字音は、後の大和(やまと)の国号に深い関係があると云われる。
 亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族(あまぞく)の始原の一面を語り、又海氏(あまうじ)と天系(あめけい)との同一出自をも示唆するようである。
御神徳
人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護
  元伊勢 籠神社  八十二代宮司  海部光彦
-籠神社境内案内板から-




         神の代に 神の通ひし 跡なれや
                         雲居につづく 天橋立
                                                  村田春海


  

Posted by 閑人 at 20:23Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2011年10月14日

御礼参り 高野山



南無大師遍照金剛




高野山

 弘法大師と同行二人で巡った四国八十八ヶ所のお遍路。 その旅は高野山への参拝で締めくくりとなる。 弘法大師が入定し、今なお人々の救済を祈り続けているとされる高野山。 杉の老木が立ち並ぶ参道を抜けて奥の院へ。 霊気漂う聖域の再奥で、お遍路の長い道のりは「満願成就」を迎える。
 この地に弘法大師が高野山を開いたのは弘仁7年(816)。 嵯峨天皇の勅許を得て開かれて以来、真言密教の聖地として現在に至っている。 1000m級の八つの山々に囲まれ、諸堂が軒を連ねる様相は「蓮の花が開いたよう」と形容され、「八葉の峰」とも呼ばれている。 ここに金剛峯寺を総本山として、117ヶ寺の壮大な伽藍が広がる。 2004年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。


      吽形像                   大門                    阿形像


大門   -重要文化財-
 高野山の入り口にそびえ建つ仁王門。 高野山一山の総門。 旧表参道に建ち、高さ41.8mという威風堂々たる重層建築(桁行十間・梁間四間)の楼門。 現在の建物は宝永2年(1705)に建てられたもので、晴天の日はここから遠く淡路島が展望できる。 両脇の金剛力士像は江戸時代の仏師康意(阿形像)、法橋運長(吽形像)によるもの。


壇上伽藍
 高野山開創の折にまず諸堂が建立された所、真言密教修行の根本道場である。 現在は、根本大塔、金堂、西塔、東塔、御社、山王院、御影堂、准胝堂、孔雀堂、愛染堂、三昧堂、大塔の鐘、大会堂、不動堂、六角経蔵などが建立されており、奥の院とともに高野山の二大聖地である。



根本大塔

 弘法大師が高野山を開創され、一番最初に着手されたのが、この根本大塔である。 高さ48.5メートルの現在の大塔は、昭和12年(1937)に完成したもので、高野山の、いや真言密教のシンボルである。




金堂
 高野山一山の総本堂で、弘法大師により弘仁10年(819)に創建されたが、再三火災に遭い、現在の堂宇は昭和7年(1932)に建立された鉄筋コンクリート造りである。 高野山の主な恒例法会はここで執り行われる。 本尊は高村光雲作の阿閦如来(薬師如来)、内部の壁画は木村武山画伯の筆による。


御影堂
 弘法大師御在住中は僧房であったと伝えられる建造物である。 現在の建物は弘化4年(1847)に再建されたもので、真如親王の御筆による大師御影を奉安している。 宝形造りのゆるやかな桧皮葺の屋根は大師御住房に相応しい落着きを見せている。 御影堂の前には、大師が中国から投げた三鈷が引っ掛かっていたと伝わる伝説の「三鈷の松」が植えられている。



大塔の鐘 (高野四郎)
 弘法大師発願により真然大徳が完成させた。 火災により三度改鋳されているが、現在の銅鐘は天保16年(1547)に鋳造。 鐘楼は昭和34年(1959)に竣工。 「高野四郎」と呼ばれ毎日五回、山内に時を知らせる。




不動堂   -国宝-
 鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により建久9年(1198)に行勝上人により一心院谷に建立され、明治43年(1910)に現在の場所に移された。 平安朝の上流住宅様式をもつ伽藍最古の建築として有名。 本尊は木造・不動明王像、脇士の八大童子像は運慶の作。



重要文化財    御社と山王院    指定 昭和40年5月29日
 壇上の西端にあり、三社が並列する。 右から丹生明神、高野明神、十二王子・百二十伴神をまつる。 弘法大師は高野山開創にあたり、仏教の諸尊と日本在来の神祇との融和に意を用いられ、高野山の地主神として丹生明神と高野明神(狩場明神)を勧請された。 その本社は山麓天野にある。 大師以後今日に至るまで山内の住侶はこの両明神を篤く崇敬してきた。 文禄3年(1594)再建。 御社の前の拝殿を山王院という。 ここで毎年きまった日に竪精や月並問講などの儀式を行う。 山内住侶の重要な宗教的行事である。 
   和歌山県教育委員会・総本山金剛峯寺               -壇上伽藍案内板から-











御社 (みやしろ)   -重要文化財-
 高野山の地主神・丹生都比売明神と狩場明神を大師がこの地に勧請されたものである。 建物は大永2年(1523)の再建。
第一の宮  丹生都比賣命  気比明神
第二の宮  高野明神(狩場明神)  厳島明神
第三の宮  十二王子  百二十伴神
 御大師様は黒白二匹の犬を連れる一人の狩人に身を変えられた高野明神に導かれて高野山麓の天野に至り丹生明神より高野山の地を与えられたと云われ丹生・高野の両大明神は高野山の地主神である。                                     -御社案内板から-


山王院
 地主山王を拝する場所として藤原時代に建てられた。 現在の建物は文禄3年(1594)に再建。 毎月十六日には山内の僧侶による「法楽論議」が営まれる。






東塔
 大治2年(1127)、白川院の御願により醍醐三宝院勝覚権僧正の創建。 天保14年(1843)に焼失し、昭和59年(1984)に再建された。





大会堂
 鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子親王が父帝追福のために蓮華乗院に建立されたが、西行によって現在の地に移された。 現在の建物は嘉永元年(1848)再建。 本尊は丈六の阿弥陀如来、脇仏は観音・勢至菩薩。




三昧堂
 済高座主が延長6年(928)頃に建立。 別の場所にあったのを西行法師がここに移したとされる。 堂前には「西行手植の桜」がある。 現在の建物は文化13年(1816)の再建。






愛染堂
 建武元年(1334)後醍醐天皇の綸旨により建立。 現在の建物は嘉永元年(1848)の再建による。 本尊は後醍醐天皇等身大の愛染明王を安置。






六角経蔵 (荒川経蔵)
 鳥羽上皇妃の美福門院が浄書した紺紙金泥一切経を納めるために建立。 現在の建物は昭和8年(1933)に再建された。





西塔
 真然大徳が光孝天皇の勅により仁和3年(887)に、大師の認めた「御図記」に従って建立。 現在の建物は天保5年(1834)の再建。 本尊は金剛界大日(重文)と胎蔵四仏である。






准胝堂
 光孝天皇の御願により真然僧正の建立。 現在の建物は明治16年(1883)に再建。 本尊の准胝観世音像は大師自らの彫刻と伝えられる。





孔雀堂
 後鳥羽法皇御願による請雨成就により正治2年(1200)に建立された。 現在の建物は昭和58年(1983)に再建。 本尊の孔雀明王像(重文)は仏師快慶作。






大師教会本部大講堂
 大正14年(1925)高野山開創千百年記念として建立。 本尊は弘法大師。 御詠歌や宗教舞踊などの大会や諸行事が開催される。






総本山金剛峯寺



 「金剛峯寺」の寺号は弘法大師が名付けたもので、元来は高野山全体を指す総称であった。 現在は高野山真言宗の総本山の名称となっている。
 文禄2年(1593)に豊臣秀吉が亡母追善のために建立した青巌寺と、応其上人の建てた興山寺を合併し、明治2年(1869)に金剛峯寺と改称した。 以後、高野山真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを「金剛峯寺」と称している。 高野山のすべての土地は金剛峯寺の所有で、高野山真言宗の一切の宗務を司る宗務所がおかれている。




金剛峯寺主殿
 現在の建物は文久3年(1863)に再興されたもので、東西35間の大建築である。 柳の間は豊臣秀次自刃の間として有名。






奥の院



 弘法大師御入定の浄域。 弘法大師の御廟があり、弘法信仰の中心聖地である。
 一之橋を渡ると霊気はいよいよ身に迫るようである。 亭々とそびえる老杉の間をぬって一筋の石畳の参道が大師の御廟に通じる。 十八町(約二千メートル)の参道の両側には諸国諸大名をはじめあらゆる人々の墓碑や供養塔が二十万基以上も立ち並び、宗派を越えた天下の総菩提所として日本の歴史を如実に物語っている。


         老杉の間の石畳参道                  中之橋付近の参道











                    江姫の墓所 (崇源夫人五輪石塔)











江姫の墓所 (崇源夫人五輪石塔)  -県指定史跡-
 この供養塔は、駿河大納言忠長が慈母崇源院(江姫)の追善供養のため、1627年(寛永4年)に建立したものです。 奥の院墓石群の中でも最も大きい(高さ6.6m、台石は八畳敷)ことから「一番石」の名で広く知られています。
 江姫は、浅井長政とお市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹にあたります。 徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけ波乱万丈の人生を送り、1626年(寛永3年)享年54歳でこの世を去りました。
 平成23年NHK大河ドラマ「江」、ヒロイン江姫供養塔。      -高野町 菩提所 蓮花院-



御廟橋


御廟橋
 玉川の清流に架かる御廟橋。 この橋からいよいよ霊域に入る。 無明の橋ともいわれ、板石は三十六枚で橋全体を一尊として金剛界三十七尊を表わしている。 奥に見えるのが灯籠堂で、そのさらに奥が弘法大師御廟。 御廟は大師信仰の中心聖地である。 承和二年(835)三月二十一日大師御入定の後、かねて大師自ら選定あそばされていた地に定窟を築き、その上に三間四面の宝形造りの廟が建立されている。 御廟橋の先は浄域。 ここに立つと、えも言われぬ高揚感とともに、粛々とした心の平静を感じる。 身と心を整え、合掌礼拝して御廟に参拝した。



          ありがたや 高野の山の 岩かげに
                      大師はいまだ おわしますなる  

Posted by 閑人 at 18:36Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年10月09日

紀伊国一宮 丹生都比売神社


神仏融合はじまりの社




紀伊国一宮 丹生都比売神社 (にうつひめじんじゃ)    通称 天野神社

〔鎮座地〕 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230

〔社格〕 旧官幣大社  紀伊國伊都郡の式内社・丹生都比女神社(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕 第一殿  丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)  (丹生明神)
       第二殿  高野御子大神(たかのみこのおおかみ)  (狩場明神)
       第三殿  大食都比売大神(おおげつひめのおおかみ)  (気比明神)
       第四殿  市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)  (厳島明神)

〔御由緒〕 丹生都比売大神(丹生明神)は稚日女(わかひるめのかみ)と同神とされ、天野明神とも称される。 紀伊国を巡歴され開拓し、最後にこの天野の地へ千七百年前に鎮まったのが当社の創祀と伝える。
 弘法大師空海は真言密教の根本道場を開山するにあたり丹生都比売大神より神領地の一部である高野山を借り受けたと伝え、高野山の鎮守神として山上のも祀られている。 のち承元二年(一二〇八)に大食都比売大神(気比明神)と市杵島比売大神(厳島明神)が勧請され、現在の四社形態となった。
 当山は高野山とともに隆盛し、社宝として国宝を含む多くの重要文化財を所有、境内の諸建造物もほとんどが文化財に指定されている。 本殿は四社とも、現存する最大の一間社春日造で、社殿の内部に宮殿があり、その中に御神体を納める形式は類例がない。 大正時代には官幣大社に列格、境内が国の史跡に指定、世界文化遺産にも登録されている。
                                          -『全国一の宮めぐり』から-


          楼門 (重要文化財)                  楼門から本殿を望む












                 一間社春日造の本殿四棟 (重要文化財)



     若宮(行勝上人)     佐波神社(上天野地区諸社合祀)      鏡池の弁天島



        外鳥居                中鳥居              輪橋(りんきょう)




       高野山 仰ぐを更に 仰ぐかな
                     にふつ姫神 ふもとながらに
                                                   契沖


  

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2011年10月06日

紀伊国一宮 伊太祁曽神社


天なるや 八十の木種を 八十国に まきほどこしし 神ぞこの神


木の国 神話の社 伊太祁曽神社




紀伊国一宮 伊太祁曽神社 (いたきそじんじゃ)

〔鎮座地〕 和歌山県和歌山市伊太祈曽558

〔社格〕 旧官幣中社  紀伊国名草郡の式内社・伊太祁曾神社(名神大・月次相嘗新嘗)

〔御祭神〕  五十猛命(いたけるのみこと)    大屋毘古神(おおやびこのかみ)とも称する
(左脇殿)  大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)
(右脇殿)  都麻津比賣命(つまつひめのみこと)

〔御由緒〕 五十猛命は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神で、植林の神として信仰されている。 『日本書紀』には五十猛命と姫神が大八洲国に植樹したと記されており、最後に鎮まった地を「木の国」と呼んだとされる。 奈良時代に「紀伊国」と改められた。 本殿の両脇に、五十猛命の妹神である大屋津比売命(おおやつひめのみこと)と都麻津比売命(つまつひめのみこと)を祀る。
 神社の文献上の初見は『続日本紀』大宝二年(七〇二)に三神分遷のことが見え、それ以前より祀られていた事がわかる。 太古は秋月の地に祀られたが、日前宮の鎮座と共に山東の地へ遷されたと伝える。 周辺には古墳群があり、『延喜式』では名神大社となるなど、古くからこの地方が栄えていたことが伺える。
 戦国時代に豊臣秀吉が社領を没収するも秀長により回復、のち和歌山城主となった浅野幸長による社地の寄進、江戸時代には紀州徳川家の崇敬より隆盛した。 現在も紀伊国一円の崇敬はもとより、山林・木材の守護神として全国的に信仰されている。
-『全国一の宮めぐり』から-



右脇宮拝殿 都麻津比賣命       本宮拝殿 五十猛命      左脇宮拝殿 大屋津比賣命





〔左〕 本殿と右脇宮

〔右〕 本殿と左脇宮






氣生神社
〔御祭神〕 五十猛命の荒魂(いたけるのみことのあらみたま)
 本殿南側に鎮座しています。毎年12月12日に例祭(氣神祭)が執り行われます。





祇園神社
〔御祭神〕 素盞鳴尊(すさのおのみこと)
       天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
       埴安比売命(はにやすひめのみこと)
 境内南方の山中にあり、五十猛命の父神である素盞鳴尊を主祭神としてお祀りしています。 毎年旧暦6月7日の夜に祇園祭が行われます。 明治の合祀令によって、氏子地区内の祇園神社も合祀されています。



蛭子神社
〔御祭神〕 蛭子大神(ひるこのおおかみ)
       氏子地区内の22社の神々
 明治の神社合祀令によって、氏子地区である東西山東の各大字に祀られていた22の神社が合祀されています。




櫛磐間戸神社
〔御祭神〕 櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)
       豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)
 一の鳥居横に鎮座するこの神社は、伊太祁曽神社の入口を守る門神様として親しまれています。 毎年6月1日に例祭(門宮祭)が執り行われます。



いのちの水・御井社
〔御祭神〕 彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)
 境内山中の井戸より湧く水は、古来より いのちの水と呼ばれてきました。病人に飲ませると活力を得ると伝えられ、今日でも遠方より汲みに来る方が絶えません。



お猿石
 猿の頭の形をしたこの石は、首より上の病に霊験が著しいと云われています。 古くは本殿横にあり、参拝者は本殿参拝の前に手をあてて心気を鎮めて参詣したと云います。 現在は蛭子神社前に移設され、多くの方が撫でてお参りされています。




御神木の大杉・木の俣くぐり
 木の神五十猛命を祀る当神社の御神木として永くこの地に聳え、その樹齢は千年とも云われていました。 昭和三十七年落雷により炎上、それが原因で枯れるに至る。 古幹が保存され、大屋毘古神が木の俣を利用して大国主命を助けた神話にちなんで、この穴を潜り抜けると災難を除けられると云われています。



       一之鳥居                二之鳥居               太鼓橋





       山々の 木々の栄えを 木の国の
                        栄えと守る 伊太祁曽の神
本居太平



  

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