2011年04月30日

第53番 圓明寺


四国八十八カ所 第53番札所 圓明寺




須賀山 正智院 圓明寺 (えんみょうじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市和気町1-182

〔宗派〕 真言宗智山派

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅命により、行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩を彫って安置し、伽藍を備えたのが始まり。 当時は、和気浜の西山という海岸にあり、海岸山圓明密寺と称した。 のちに大師が、荒廃した諸堂を整備し、四国霊場として定めた。 たび重なる兵火で衰微し、元和元年(1615)に須賀重久によって現在の地に移され、寛永13年(1636)には寺号も改められた。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 キリシタン灯ろう (十字架形灯ろう)
高さ40cm。合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたとの説もある。

〔右〕 銅板の納札
 大正十三年三月、アメリカのシカゴ大学教授スタール博士は、四国八十八ヵ所を巡拝するが、圓明寺の本尊厨子に打ちつけてあった銅板の納札(縦24cm、幅9.7cm、厚さ約1mm)を見て高く評価し、世に紹介せられた。 この納札は慶安三年(1650)、京都の住人家次が巡拝中打ちつけたもので、「遍路」の文字が記された最古の納札であり、遍路の歴史を知る上で貴重な資料といえる。
 以来、圓明寺は納札のある寺として知れわたり、スタール博士は「お札博士」といわれた。



         中門                 観音堂              市杵島明神





          来迎の 弥陀の光の 圓明寺
                          照りそふ影は 夜な夜なの月


  

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2011年04月29日

第52番 太山寺


四国八十八カ所 第52番札所 太山寺




瀧雲山 護持院 太山寺 (たいさんじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市太山寺町1730

〔宗派〕 真言宗智山派

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 真野長者

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 当山の創建者は、豊後国の真野長者。 用明2年(586)、長者が高浜沖で嵐にあった。 一心に観世音菩薩に祈ると、五彩の光明がさして嵐がおさまり、一命を助けられたという。 長者はそのお礼として、瀧雲山に用材を運び込み、一夜のうちに本堂を建立した。 のちに聖武天皇の勅願により、行基が十一面観世音菩薩と四天王像を刻んで安置。 天長年間(824~834)には大師が胡摩ヶ森で護摩を修法して、四国霊場と定めた。
-『四国八十八カ所』から-



             国宝の本堂                       本堂内部外陣










国宝 太山寺 本堂 (鎌倉時代の建立)
 本堂の建物は、昭和27(1952)年の解体修理によって、嘉元3(1305)年の再建と判断されたが、内陣の床下からは焼土が発見され、その以前に火災によって焼け落ちた事実も判明した。 当時、架構の面で五間堂から格段の発展を遂げた七間堂が出現するが、その全国的にも稀少な遺構の一つで、桁行(正面)7間、梁間9間、一重、入母屋造、二軒(ふたのき)、本瓦葺である。 その9間梁行に大きく妻壁を置いての入母屋造は雄大な屋根の広がりを見せ、密教本堂としては全国屈指の規模を誇る。 柱・梁などの木組みは大きく、豪放な規模を持つとともに、和様を基本にしながら、虹梁とその挿肘木には大仏様(だいぶつよう)の手法が併用されるなど、折衷様(せっちゅうよう)としての表現力にも優れている。 またこの頃になって初めて現れた「六枝掛(ろくしがけ)」という、斗きょうと垂木(たるき)の割り付けから柱間隔が決められてゆく技法も明らかに認められる。さらにその内陣が土壇となっているのは、当時の密教本堂としては珍しく、正面柱間の中備(なかぞなえ)に置かれた蟇股(かえるまた)は、鎌倉時代の力強い作風を示す代表作と評価されている。
-『松山市ホームページ』から-



        大師堂          仁王門(国の重要文化財)      三の門 (四天王門)



        鐘楼堂                稲荷堂               聖徳太子堂





          太山に 登れば汗の 出でけれど
                         後の世思えば 何の苦もなし


  

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2011年04月28日

第51番 石手寺


四国八十八カ所 第51番札所 石手寺




熊野山 虚空蔵院 石手寺 (いしてじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市石手2-9-21

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 薬師如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 開創は古く、神亀5年(728)、越智玉純が聖武天皇の勅願により伽藍を建立し、安養寺と名づけた。 このときは法相宗に属していたが、のちに大師が来錫した際、真言宗に改めた。 石手寺と称するのは、寛平4年(892)のこと。 衛門三郎の伝説からこの名がついた。 平安から室町に至るまで寺運は隆盛を極め、七堂伽藍を有したが、長宗我部氏の兵火で大半を焼失。 しかし、仁王門、本堂、三重塔、鐘楼はいまも現存している。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












       阿弥陀堂                三重塔                鐘楼




〔左〕 衛門三郎の像

〔右〕 正岡子規の句碑
身の上や 御鬮を引けば 秋の風
                      子規




         西方を よそとは見まじ 安養の
                           寺に詣りて 受くる十楽


  

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2011年04月27日

第50番 繁多寺


四国八十八カ所 第50番札所 繁多寺




東山 瑠璃光院 繁多寺 (はんたじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市畑寺町32

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 薬師如来

〔開基〕 行基菩薩  

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 天平勝宝年間(749~757)に、孝謙天皇の勅願により行基が開基。 このとき、寺号は光明寺といった。 のちに大師がこの地を巡錫、寺名を光明寺から繁多寺に改める。 弘安2年(1279)には、後宇多天皇の勅名を受けて聞月上人が蒙古退散の祈祷を当山で行っている。 応永元年(1394)には、天皇家の菩提寺、泉涌寺の快翁和尚が後小松天皇の勅命で当山住職となったと伝えられ、16弁の菊の紋章瓦が残されている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 歓喜天堂

〔右〕 鐘楼の天井画
御伽草子の挿絵が描かれている





          よろずこそ 繁多なりとも 怠らず
                  諸病なかれと 望み祈れよ



  

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2011年04月26日

第49番 浄土寺


四国八十八カ所 第49番札所 浄土寺




西林山 三蔵院 浄土寺 (じょうどじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市鷹子町1198

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 釈迦如来

〔開基〕 恵明上人

〔真言〕 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

〔略縁起〕 天平勝宝年間(749~757)、恵明上人の開基とされ、のちに大師が再興して霊場と定めた。 戦火で焼失するも、文明14年(1482)に国主の河野通宣によって再建された。 この寺近在の人々は、この一帯を「空也谷」と呼ぶ。 これは、70年間の生涯を民間での念仏教化に捧げたといわれる空也上人が、ここに3年間滞在していたため。 上人がこの地を去るときに自ら刻んだという空也像は、現存しており、寺宝とされている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 愛染堂と阿弥陀堂

〔右〕 正岡子規の句碑
霜月の空也は  骨に生きにける
                        子規




          十悪の 我身を棄てず そのままに
                        浄土の寺へ まゐりこそすれ


  

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2011年04月25日

第48番 西林寺


四国八十八カ所 第48番札所 西林寺




清滝山 安養院 西林寺 (さいりんじ)

〔所在地〕 愛媛県松山市高井町1007

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 天平13年(741)、行基が現在の松山市小野播磨塚近くに開基。 約60年後の大同2年(807)、弘法大師が当時の国司、越智実勝とともに寺を現在地に移し伽藍を再建、四十八番目の札所に定めた。 境内の西南150mほどの場所にある杖の渕は、大師の伝説がある。 日照りに苦しむ人のため、大師が地に錫杖を突き立て一心に祈願すると、清水が湧き出て淵(泉)となり、人々の困苦を救った。 この淵の水は、「名水百選」に選ばれている。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 閻魔堂

〔右〕 正岡子規の句碑
  秋風や 髙井のていれぎ 三津の鯛
                          子規




        弥陀仏の 世界を訪ね 行きたくば
                             西の林の 寺に詣れよ


  

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2011年04月24日

若狭国一宮 若狭彦神社(3)


遠敷川の「鵜の瀬」は、若狭彦神・若狭姫神の降臨ましましたところ
若狭下根来の白石神社は若狭彦神社創祀の社
この地に生まれた良弁和尚は奈良東大寺の初代別当となった
若狭神宮寺の実忠和尚は東大寺二月堂を建て、「お水取り」の行事を始められた


若狭彦神社境外社  白石神社


白石神社由緒
白石神社  小浜市下根来白石鎮座
 祭神は若狭彦神、若狭姫神を白石大神、または鵜の瀬大神とたたえて奉祀。
 若狭彦神社創祀の社、と伝えるが年代不詳。
 境内に椿が群生し、目通二・一四米。樹高一二・三〇米の大木は、市の天然記念物に指定。
 この社の北方一五〇米、遠敷川をはさんで、若狭彦神社の飛地境内がある。鵜の瀬という霊域にして、清流が巨巌に突当るところの深淵を、奈良二月堂の若狭井の水源と伝えておる。
 この巨巌は、若狭彦神、若狭姫神の降臨ましましたところ。またこの鵜の瀬は、若狭彦神社の送水神事(豊作を祈願する神事)の斎場でもある。
-若狭彦神社パンフレットから-



史跡  鵜の瀬


史跡 「鵜の瀬」 由緒記
 天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼供養を指導の后 天平勝宝四年(七五三)に二月堂を創建し修二会を始められ その二月初日に全国の神々を招待され、すべての神々が参列されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは見えず ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時過ぎに参列された。 それは川漁に時を忘れて遅参されたので、そのお詫びもかねて若狭より二月堂の本尊へお香水の閼伽水(あかみず)を送る約束をされ、そのとき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出てその穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け その水を汲む行事が始まり、それが有名な「お水取り」である。 その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良までもぐっていったと伝える。 この伝説信仰から地元では毎年三月二日夜 この淵の根来八幡の神人と神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を行う習いがある。
  小浜市
-鵜の瀬案内板から-




 良辨和尚生誕之地石碑                                     良弁和尚
良弁和尚(ろうべんおしょう)
 良弁和尚は、伝説によれば、689年(持統3)ここ小浜下根来で生まれましたが、子供の時に鷲にさらわれ、奈良金鐘寺(東大寺の前身)で育てられました。 彼は東大寺で法相宗を義淵に学び、新羅の僧審祥を講師に招き華厳経講を開いて華厳宗を広めました。 その後東大寺の建立に尽力し、初代別当となり、773年(宝亀4)84歳で亡くなりました。 お水取り行事を始めた実忠は、若狭出身の良弁が師匠であり、若狭遠敷明神が魚釣りをしていて「修二会行事」の勧請に遅れたお詫びとして十一面観音にお供えする閼伽水(あかみず)を送ることとなったという逸話から二月堂の井戸を「若狭井」と名づけました。
-人の駅・良弁和尚案内板から-



お水送りの寺  若狭神宮寺


若狭神宮寺の由来
 この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。 その秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。 これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
 又、神願寺の開山赤麿(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い、当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後、東大寺開山良弁僧正になられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに、二月堂を建て、お水取り行法を始められた。
 その若狭井の水源が白石の鵜の瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い、同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜の瀬へお水送り神事がある。
-若狭神宮寺パンフレットから抜粋-



        瀬にしみて  奈良までとどく  蝉の声
                                                   山口誓子


  

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2011年04月23日

若狭国一宮 若狭彦神社(2)


若狭国一宮 若狭姫神社 (下社)




若狭国一宮 若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)   通称 遠敷明神(おにゅうみょうじん)

〔鎮座地〕  福井県小浜市遠敷65-41

〔社格〕  旧国幣中社  若狭国遠敷郡の式内社・若狹比古神社二座(名神大)

〔御祭神〕  豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) (若狭姫大神)

〔御神徳〕  御神徳は広大無辺にして、古来、皇室の御崇敬をはじめ、庶民一般の信仰が篤いが、就中農業、漁業、安産育児、また、畳、敷物商工業の守護神としての信仰が深い。
 奈良二月堂のお水取りは名高い行事であるが、このお水取りは、東大寺の実忠和尚と遠敷明神との神約にもとづくものであって、この遠敷明神は、遠敷神社、即ち、若狭姫神社の祭神若狭姫神-豊玉姫命である。  東大寺には、二月堂の右手裏に遠敷神社が奉祀してある。
-若狭彦神社パンフレットから-


由緒記
名称  若狭国一宮  若狭彦神社下社
   又、若狭姫神社、遠敷神社とも称し、上社と併せて若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる
     延喜式名神大社
祭神  若狭姫大神 (豊玉姫命)
     龍宮伝説で名高い豊玉姫命を若狭姫大神とたたえて奉祀する
所在地  福井県若狭国遠敷郡遠敷村遠敷
       昭和二十六年、町村合併により小浜市遠敷となる
創建   奈良時代養老五年辛酉二月十日   昭和五十八年より一千二百六十二年前
祭日   下社  三月十日    上社  十月十日
-若狭姫神社案内板から-


若狭姫神社 (下社) 本殿・神門・瑞垣


本殿、神門、楼門及び社叢
福井県有形文化財に指定
本殿は享和二年(1802)建立の三間社流造。
神門は享和三年(1803)造営の切妻造平入、檜皮葺の八脚門。
社叢は、社殿裏山に広がり、若狭地方を代表する暖地性広葉樹林であり、
建物とみごとに調和、太古からの荘厳な様相をよくとどめている。
                                
-若狭彦神社パンフレットから-


 若狭姫神社 (下社) 本殿
本殿は享和二年(1802)建立の三間社流造。  向拝一間、檜皮葺、素木造で、本殿を囲む透塀がある。
福井県有形文化財指定




随神門 (ずいしんもん)
随神門は入母屋造平入、檜皮葺で寛保三年(1743)の造立。  上社と同じく随神八軀を安置する。
随神像は鎌倉時代の作。  全国唯一独特の様式で、極めて貴重な存在である。  若狭彦神、若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族(けんぞく)(郎党)の方々である。
-若狭彦神社パンフレットから-



   〔左〕 摂社・中宮神社
祭神 玉依姫命
当社祭神豊玉姫命の妹を祀る
   〔右〕 末社・日枝神社(山王さま)
祭神 大山咋神 (山の神)
相殿の神  夢彦神・夢姫神・宗像神・愛宕神・琴平神・稲荷神


   〔左〕 末社・玉守神社
祭神 玉守神    上社祭神彦火火出見尊の潮満珠・潮涸珠の守護神
   〔右〕 子種石(こだねいし)
古来、この素朴な陰陽石(いんようせき)に祈れば霊験いやちこ、子宝に恵まれると伝え、又、女性に恋と安産を授けます。



神木 千年杉
下社瑞垣内にある。
目通六米。 樹高四〇米。
遠敷の千年杉として名高い。
秀麗この上なく、
古来、不老長寿の象徴として篤く信仰される。

-若狭彦神社パンフレットから-




      玉造る 若狭の国の 国なかに
              神代の神を をかむけふ哉



      とこしへに 竝ひています わかさ彦
              わかさ姫こそ うらやましけれ


               明治四十二年六月二十四日参拝      民俗学者 柳田国男先生詠


  

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2011年04月22日

若狭国一宮 若狭彦神社(1)


若狭国一宮 若狭彦神社(上社)




若狭国一宮 若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)  通称 遠敷明神(おにゅうみょうじん)

〔鎮座地〕 若狭彦神社(上社)  福井県小浜市龍前28-7
       若狭姫神社(下社)  福井県小浜市遠敷65-41

〔社格〕  旧国幣中社  若狭国遠敷郡の式内社・若狹比古神社二座(名神大)

〔御祭神〕  若狭彦神社(上社)  彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
        若狭姫神社(下社)  豊玉姫命(とよたまひめのみこと)

〔由緒〕 若狭彦神社は、若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)の二社からなる。 共に遠敷川の左岸、上流に上社が、下流に下社が鎮座する。 両社の社殿配置は同一で、共に巨樹・古木の鬱蒼と茂る中に本殿が静かに鎮座し、神さびた風情を漂わせている。
 社伝によると、上社の創建は霊亀元年(七一五)、下社は養老五年(七二一)であり、下社は上社より分祀されたとも伝える。 近隣では遠敷明神と呼ばれて親しまれ、また朝廷や武家からの崇敬も篤かった。 明治四年に両社は共に国幣中社に列格したが、のちに若狭彦神社へ包括された。
 祭神が降臨したという鵜の瀬は、奈良県の東大寺二月堂の若狭井に通じているとされ、上流一五〇mの対岸に創祀の社と伝える白石神社がある。 二月堂の右裏手には遠敷明神を祀る遠敷神社が鎮座している。
-『全国一の宮めぐり』から-


若狭彦神社(上社) 本殿・神門・瑞垣


由緒記
名称  若狭国一宮  若狭彦神社上社
      又、下社と併せて若狭彦神社とも、上下宮ともたたえまつる   延喜式名神大社
祭神  若狭彦大神
      海幸山幸の神話で名高い彦火火出見尊を若狭彦大神とたたえて奉祀する
所在地  福井県若狭国遠敷郡遠敷村龍前  昭和二十六年、町村合併により小浜市龍前となる
創建  奈良時代霊亀元年乙卯九月十日  昭和五十八年より一千二百六十八年前
祭日  上社 十月十日    下社 三月十日
-若狭彦神社案内板から-



若狭彦神社(上社) 本殿










若狭彦神社(上社) 本殿
本殿は文化十年(1813)造営の三間社流造、檜皮葺、素木造。内削の千木、10本の堅魚木。
中門は切妻造平入、檜皮葺の四脚門で、天保元年(1830)の建立。 (福井県有形文化財指定)



末社  若宮神社

祭神  鸕鷀草葺不合尊 (うがやふきあえずのみこと)
例祭  十月十日
「神名の由来」
 当上社御祭神の大后豊玉姫命(下社御祭神)が安産を祈り、霊鳥といわれる鵜の羽を草として特別に産屋を建てたが、まだ屋根の葺きおえないうちに御子神をお生みになったので、御子神を「ウガヤフキアエズノミコト」と尊称したのである。
相殿神  蟻通神 (ありとうしのかみ) (知恵の神様)   例祭 九月二日
       大山祇神 (おおやまつみのかみ) (山を司る神様)   例祭 三月六日
-境内案内板から-



神木  夫婦杉 (めおとすぎ)

   上社境内楼門(随神門)前にある。 二本が根本においてぴったり
   密着しておる。
   夫の木  目通三・五米。 樹高四〇米。
   婦の木  目通三米。 樹高三〇米。
-若狭彦神社パンフレットから-



随神門


随神門 (ずいしんもん)
随神門は十八世紀末の造営と推定され、桁行三間梁間二間の八脚門で床高の随神座を持つ。
随神は四軀ずつ左右対称して安置されている。
随神(ずいしん)は、上社及び下社の楼門に八柱づつ安置してある。 鎌倉時代の作。 全国唯一独特の様式で、極めて貴重な存在である。 若狭彦神、若狭姫神がこの地にご鎮座になったとき、お供をした眷族(けんぞく)(郎党)の方々である。         -若狭彦神社パンフレットから-



若狭彦大明神の御神託

        みな人の  直き心ぞ  そのまゝに
                  神の  神にて  神の  神なり

この御歌は、宇多帝の御子敦実親王に、夢中に告げ給ひしとなり。 四神の御歌と云ふ、是なり。
                                           後鳥羽院勅撰 『和論語』



  

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2011年04月13日

近江国一宮 建部大社


近江国一宮 建部大社 一之鳥居



近江国一宮 建部大社 (たけべたいしゃ)

〔鎮座地〕 滋賀県大津市神領1-16-1

〔御祭神〕 (本殿) 日本武尊(やまとたけるのみこと)
       (相殿) 天明玉命(あめのあかるたまのみこと)
       (権殿) 大己貴命(おおなむちのみこと)

〔社格〕  旧官幣大社  近江国栗太郡の式内社・建部神社(名神大)

〔御神徳〕  日本武尊   厄除開運・受福出世・火難除神
         大己貴命   商売繁盛・縁むすび・病気平癒・醸造の神

〔御由緒〕 御祭神の日本武尊は僅か十六才にて熊襲を討ち更に東国を平定され、三十二才にして伊勢の能褒野に於て遂に崩御された。 父君景行天皇は尊の亡くなったことを大変嘆かれ、御名代として建部を定めその功名を伝えられた。 景行天皇四十六年(三一六)神勅により、日本武尊の御妃、布多遅比売命が御子、稲依別王と共に住んで居られた神崎郡建部の郷に社殿を創建し、尊を祀られたのが創祀とされる。
 天武天皇白鳳四年(六七五)四月に建部公安麿が国司の命を奉じて近江国府の設けられた瀬田郷大野山山頂に近江国の守護神として遷し奉り、孝謙天皇天平勝宝七年(七五五)に建部公伊賀麿が大野山の嶺から現在の地、瀬田神領に奉遷したと伝えられる。 又、大和国一宮大神神社より大己貴命を勧請して権殿に配祀された。
 歴朝の御尊信、武門武将の崇敬篤く、中でも源頼朝は伊豆に流される途中当社に参籠して武運長久を祈願し、後年源氏再興の宿願成って上洛の際、幾多の神宝と神領を寄進した。
-『全国一の宮めぐり』から-



     二之鳥居と参道              神門            拝殿と御神木・三本杉


  

      本殿前拝所              本殿と権殿             権殿と本殿



摂社 (四社)

〔左〕 摂社・聖宮神社 
〔祭神〕 大足彦忍代別命(景行天皇)
日本武尊の御父

〔右〕 摂社・大政所宮神社
〔祭神〕 播磨稲日大郎姫(景行天皇皇后)
日本武尊の御母



〔左〕 摂社・藤宮神社
〔祭神〕 布多遅能伊理毘売命
日本武尊の御妃

〔右〕 摂社・若宮神社
〔祭神〕 稲依別命
建部租神・日本武尊の御子



末社 (八社)


       〔左〕 末社・行事神社
       〔祭神〕 吉備臣武彦
             大伴連武日

       〔右〕 末社・弓取神社
       〔祭神〕 弟彦公



      〔左〕 末社・箭取神社
      〔祭神〕 石占横立
            尾張田子之稲置
            乳近之稲置

  〔右〕 末社・蔵人頭神社 (膳夫神社)
    〔祭神〕 七掬脛命 (料理の租神)



  〔左〕 末社・大野神社
  〔祭神〕 草野姫命
      (地主神)

  〔右〕 末社・武富稲荷神社
  〔祭神〕 稲倉魂命



 〔左〕 末社・八柱神社
〔祭神〕 素盞之男命他七柱命
 〔右〕 末社・檜山神社遥拝所
     (檜山神社旧本殿)
〔祭神〕 伊邪那美命・大山祇命・息長足姫命・武内宿禰大臣・住吉大神


  

Posted by 閑人 at 12:20Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣