2011年05月30日

第65番 三角寺


四国八十八カ所 第65番札所 三角寺




由霊山 慈尊院 三角寺 (さんかくじ)

〔所在地〕 愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 天平年間(729~749)、聖武天皇の勒願による行基の開創と伝わる。 弘仁6年(815)、大師が境内に三角形の護摩壇を築き、国家の安泰と衆生の福祉を祈願して、21日間の降伏護摩の秘法を行った。 このときの遺跡がいまの境内に残る三角の池である。 寺号もこれに由来している。 天正年間(1573~1592)には兵火によって堂宇を焼失。 現在の本堂の建造物は、嘉永2年(1849)に再建されたものである。
-『四国八十八カ所』から-


              本堂                           大師堂












三角の池・大辨天


當處ハ髙祖大師四國八十八ヶ所開創ノ砌三角ノ護摩壇ヲ築キ護摩ノ秘法ヲ修セラレシ遺跡也
-境内石碑から-


三角の池
 周囲10数メートル、池のなかに三角形の島があり、現在は弁財天が祀られている。
 弘仁6年(815)、大師は不動明王像を彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。 降伏護摩秘法は大法であり、四国霊場中、唯一ここ三角寺だけに伝えられているという。
 この三角形の護摩壇の跡が、「三角の池」だといわれ、寺号は、護摩壇の三角形に由来する。



 
〔左〕 山門 
釣り鐘が架かる鐘楼仁王門

〔右〕 小林一茶の句碑
 これでこそ  登りかひあり  山桜
                      一茶




      おそろしや  三つの角にも  入るならば
                           心をまろく  慈悲を念ぜよ


  

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2011年05月23日

和泉国一宮 大鳥大社


大鳥大社 一の鳥居



和泉国一宮 大鳥大社 (おおとりたいしゃ)     通称 大鳥さん

〔鎮座地〕  大阪府堺市西区鳳北町1-1

〔社格〕  旧官幣大社 和泉国大鳥郡の式内社・大鳥神社 (名神大 月次・新甞)

〔御祭神〕  日本武尊 (やまとたけるのみこと)
        大鳥連祖神 (おおとりむらじのみおやのかみ)

〔御由緒〕  日本武尊が東夷を征討の帰途、病にかかり伊勢の能褒野(亀山市)で亡くなられた。 その御霊は白鳥と化して飛び去り、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に当地に留まられたので、社を建立したのが創祀という。 また大鳥連祖神は、大中臣と祖先を同じくする大鳥氏の祖である。
  文武の神として武家の崇敬も篤く、平清盛、同重盛父子は熊野参詣の途次、当社に祈願して和歌及び名馬を奉納。 信長・秀吉・家康の三武将も社領の寄進、社殿の造営も行った。
  本殿は大鳥造と称される独特の建築様式であり、出雲の大社造に酷似し、切妻造・妻入の社殿は古い形式を伝える。 社殿は天正年間の兵乱に遭い、慶長七年豊臣秀頼により再興、寛文二年徳川家綱の命により再建されたが、明治三十八年雷火により焼失した。 現社殿は明治四十二年に再建されたもの。
  境内は一万五千余坪あり、往古白鳳が飛来してこの地に止まり、一夜にして種々の樹木が繁茂したとの伝えから「千種の森」と称される。
-『全国一の宮めぐり』から-



          八角鳥居と拝殿                     大鳥造の本殿











社殿
 本殿は大鳥造と申しまして、神社建築史上一種の様式を保っており、その構造は出雲の大社造に酷似しており、切妻造、妻入社殿で出雲大社造に次ぐ古い形式を今日に伝えております。
 社殿は天正年間の兵乱によって炎上し、慶長七年豊臣秀頼によって再興せられましたが、更に寛文二年には徳川家綱の命によって堺町奉行石河土佐守の手によって再建され、明治三十五年には特別保護建造物に指定されましたが、同三十八年八月に雷火の為に再度炎上し、現社殿は明治四十二年に従来の形式通りに再建されたものであります。
 昭和九年国費で御屋根替、更に昭和三十六年御祭神日本武尊御増祀の為、造営奉賛会の手によって内部の模様替と原型解体に近い大修理が行はれました。
-大鳥大社パンフレットから-




〔左〕 八角鳥居
八角柱の鳥居

〔右〕 日本武尊像




境内摂社 大鳥美波比神社


摂社 大鳥美波比神社 (おおとりみはひじんじゃ) (式内社・和泉国大鳥郡大鳥美波比神社)
〔御祭神〕  天照大神
〔相殿〕  菅原道真公
〔御由緒〕  本社の境内東側に鎮座、もと当社は北王子村御鎮座だあったのを明治十二年に現在地に御移したものであります。  主神の外七柱を合祀申し上げています。
-大鳥大社パンフレットから-



平清盛歌碑
 平治元年、平清盛、重盛父子が熊野参詣の途中、都にて兵乱あるとの急報を聞いて都に帰る途中、大鳥神社に参拝し、戦勝を祈願した。 この時

かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神

 この和歌一首と神馬一頭を献じた。  明治初年大鳥大社大宮司富岡鉄斎翁の筆により建てられた自然石の碑です。
-境内案内板から-



与謝野晶子歌碑

   和泉なる  わがうぶすなの  大鳥の 
             宮居の杉の  青き  ひとむら


                       晶子歌   田辺聖子書


  

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2011年05月19日

大和国 大和神社


大和神社  一の鳥居



大和神社 (おおやまとじんじゃ)

〔鎮座地〕  奈良県天理市新泉町306

〔社格〕  旧官幣大社  式内社・大和坐大國魂神社三座 (並名神大 月次相嘗新嘗)

〔御祭神〕  日本大国魂大神 (やまとおおくにたまのおおかみ)   〔中央〕
        八千戈大神 (やちほこのおおかみ)   〔向右〕
        御年大神 (みとしのおおかみ)   〔向左〕

〔御正殿〕  宮中三殿式の特異な御社殿

〔例祭〕  四月一日 (通称 ちゃんちゃん祭)

〔御由緒〕 当神社の主神は、日本の全国土の大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)に坐します。
  上古伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ同六年(二千数十年前)当神社の主神を市磯邑(いちしのむら 大和郷)に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として祀らしめ給う。
  延喜式に大社大和坐大国魂神社三座とある。 斬様に尊い御由緒は類まれなところで御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封もまた大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸の六カ国に於いて三百二十七戸に及び境内も六十四ヘクタールの広大なり。と古記録に見ゆる。
  また、戦中は世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。 同艦も、昭和二十年四月七日、鹿児島県坊の岬沖にて撃沈され、その英霊である第二艦隊司令長官伊藤整一命外二七三六柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。
-大和神社パンフレットから-


          二の鳥居と参道                       拝殿前境内












〔左〕 拝殿

〔右〕 本殿の屋根




境内摂社


摂社 増御子神社 (ますみこ) 
〔祭神〕 猿田彦神・天鈿女神・市磯長尾市命
(知恵の神)
受験合格・就職・産業開発を祈る崇敬者が多い。
例祭 四月一日



摂社 高靇神社 (たかおおかみ)
〔祭神〕 高靇大神
天候・産業を司り水利を受け給ります。
祈雨・祈晴・暴風除けを祈る賽者が多い。
当社は古く、大倭神社注進状にも記載され
丹生川上神社上社の本社でもある。
例祭 六月一日



摂社 朝日神社 (あさひ) 
〔祭神〕 朝日豊明姫神 (天照坐皇大神)
殖産を興し交易を奨めさせ給う。
桜井・奈良街道を行く方は必ず詣でしと言う。
例祭 十一月三十日




境内末社

〔左〕 末社 厳島神社 (いつくしま)
〔祭神〕 厳島大神
美容をすすめ 絃楽の技を司どり給う。
水産の業を奨め給う 神威いやちこなり。
〔右〕 末社 事代主神社 (ことしろぬし)
〔祭神〕  事代主大神
織物業を繁栄させ一言の願い事を叶える神威を授けさせ給う。  世にエビス様と称す。



戦艦大和には、大和神社の御分霊が祀られていた

末社 祖霊社


末社 祖霊社
〔御祭神〕 大国主命
       戦艦大和戦没英霊
       氏子信徒祖霊

〔例祭〕  四月七日 戦艦大和第二艦隊戦没者慰霊祭    八月七日 戦艦大和みたま祭

 戦艦大和には、当神社の御分霊が祀られた。
 我が国の国力を傾注して建造された戦艦大和は、大東亜戦中輝かしい戦果を上げ帰還のたび毎に艦長以下幕僚等奉謝の特別参拝をされた。
 併し同艦は終戦の昭和二十年四月沖縄本島救援の為特攻艦隊を編成し、出撃されたが空中を守る飛行機は皆無にて九州西南洋上に於いて米国機の集中攻撃を受け、激戦二時間余終に戦没されたが、その際艦と運命を共にせられた故海軍大将伊藤整一命以下二七三六柱の英霊は其後末社祖霊社に合祀せられ、更に昭和四十七年九月廿四日戦闘巡洋艦矢矧外駆逐艦八隻の戦没将士英霊をも合祀して、三七二一柱は国家鎮護の神として祀られている。
-大和神社パンフレットから-



  

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2011年05月13日

越前国一宮 氣比神宮


北陸道総鎮守 越前国一之宮 氣比神宮





越前国一宮 氣比神宮 (けひじんぐう)    通称 けえさん

〔鎮座地〕 福井県敦賀市曙町11-68

〔社格〕 旧官幣大社  越前国敦賀郡の式内社・氣比神社七座 (並名神大)

〔御祭神〕  伊奢沙別命 (いささわけのみこと)
        仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう)
        神功皇后 (じんぐうこうごう)
        應神天皇 (おうじんてんのう)
        武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)
        日本武尊 (やまとたけるのみこと)
        玉妃命 (たまひめのみこと)

〔由緒〕 当社は北陸道から京都へ向かう交通の要衝にあり、眼前には敦賀湾が広がり、大陸との交易も行われてきた古来重要な地に鎮座し、北陸道総鎮守の社である。 産業発展また海上の守護神として崇敬された。
 古くから神威は朝廷にも及んでおり、度々奉幣の記録が残り、『延喜式』には「氣比神社」とあり、祭神七座とも名神大社として記載がある。 神宮寺も早くから成立し、共に隆盛を極めた。
 しかし戦乱の世に入り、国主の朝倉氏と共に織田信長の北陸進出を拒んだため、社殿僧坊とも灰燼に帰した。 江戸時代に入り慶長十九年(一六一四)、福井藩祖結城秀康公により社殿造営、百石の社領を寄進された。 明治二十八年には神宮号宣下により社名を氣比神宮と改め、同時に官幣大社に列格した。 本殿は旧国宝であったが昭和二十年戦災により他の建造物と共に焼失、昭和二十五年に本殿が再建、諸建物も昭和三十七年に復興された。
-『全国一の宮めぐり』から-


           中鳥居と拝殿                         拝殿












         拝殿内部本殿を望む                       本殿












             大鳥居                           扁額


大鳥居 (重要文化財)
 高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ヶ原から伐採奉納した榁樹(むろのき)で、正保二年建立した。 明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。 正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
-氣比神宮パンフレットから-


九社之宮

〔左〕 摂社・伊佐々別神社(いささわけ)
〔祭神〕 御食津大神荒魂神

〔右〕 末社・擬領神社(おほみやつこ)
〔祭神〕 武功狭日命
 一説に大美屋都古神又は玉佐々良彦命とも云う


〔左〕 摂社・天伊弉奈彦神社
〔式内社〕越前国敦賀郡・伊佐奈彦神社
〔祭神〕 天伊弉奈彦大神

〔右〕 摂社・天伊弉奈姫神社
〔式内社〕越前国敦賀郡・天比女若御子神社
〔祭神〕 天比女若御子大神



〔左〕 摂社・天利劔神社(あめのとつるぎ)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・天利劔神社
〔祭神〕 天利劔大神

〔右〕 末社・鏡神社(かがみの)
〔祭神〕 神功皇后奉宝鏡



〔左〕 末社・林神社(はやしの)
〔祭神〕 林山姫神(はやまひめのかみ)

〔右〕 末社・金神社(かねの)
〔祭神〕 素盞嗚尊(すさのをのみこと)





   末社・劔神社(つるぎ)
   〔祭神〕 姫太神尊(ひめおほかみのみこと)






境内神社


摂社・角鹿神社 (つぬが)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・角鹿神社
〔祭神〕 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)
〔合祀〕 松尾大神
 崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。 天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。 その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の地名はもと「角鹿(つぬが)」でこの命の御名に因る。 殿内に宝物獅子頭を安置す。 除災招福の信仰が篤い。 天保十年松尾大神を合祀、酒造家の信仰が篤い。


末社・大神下前神社 (おおみわしもさき)
〔式内社〕 越前国敦賀郡・大神下前神社
〔祭神〕 大己貴命(おほなむちのみこと)
〔合祀〕 稲荷神社・金刀比羅神社
 氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。



末社・児宮 (このみや)
〔祭神〕 伊弉册尊
 徳川時代から子育ての神と称され小児の守り神として信仰が篤い。




末社・猿田彦神社
〔祭神〕 猿田彦大神
 氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。
 一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。




末社・神明両宮
〔祭神〕 天照皇大神(内宮)・豊受大神(外宮)
 外宮は慶長十七年三月二十八日、内宮は元和元年九月二十八日それぞれ勧請奉祀されたものである。
-氣比神宮パンフレットから-



氣比宮古殿地遥拝所


氣比宮古殿地の事
  氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触れるべからず 畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが 嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり 傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる
  土公は陰陽道の土公神の異称で 春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ 其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に播けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた 戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の已む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された 大宝二年(七〇二)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた 此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遙拝設備が立派に完成されるに至った次第である
-境内石碑から-




松尾芭蕉の銅像・句碑
 松尾芭蕉は 「おくのほそ道」 の旅の途中に、ここ敦賀に訪れ、氣比神宮にも立ち寄り、句を詠みました。

        月清し   遊行の
                持てる   砂の上
                                     ばせを


  

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2011年05月12日

第64番 前神寺


四国八十八カ所 第64番札所 前神寺




石鈇山 金色院 前神寺 (まえがみじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市洲之内甲1426

〔宗派〕 真言宗石鈇派

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 役行者小角

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 山岳宗教の聖地、石鎚山の麓にあり、開創は修験道の祖・役行者小角。 のちに桓武天皇が勅使を送って、病気回復を当山に祈願した。 無事平癒したので、その霊験をたたえ、七堂伽藍を建立し前神寺と寺号を決めた。 石鎚山は大師の思い出の修行地。 大師は、当山に逗留し、四国霊場と定めた。 江戸期は西条藩主、松平家の祈願所なるなど、寺運は隆盛を極める。 昭和22年には、真言宗石鈇派の総本山として独立した。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












石鈇大権現


石鈇山縁起之事
  當山は、天武天皇五年神変大菩薩の開山でありまして、石鈇大権現を感見得仏され、石鈇山中に鎮護国家、仏道修行の道場を開山されました。
  延暦年間、桓武天皇の叡信篤く国司に命じ伊予橘の里(現 石鎚神社の所)に七堂伽藍を建立し金色院前神寺と命ぜられ、以来勅願寺として文徳、高倉、後鳥羽等各天皇は仏像経典を奉納、又堂塔を建立せられました。  当地、西条藩も祈願寺として境内に東照宮(現西条神社)を祀る等帰依篤く寺紋であります三つ葉葵を許されました。
  石鈇開山以来、石鈇山頂上、常往奥前神寺、里前神寺、入峰修行参道をはじめ七里四方の寺領を有し、石鈇山の根本道場として全国より参詣の信徒の中心として尊信せられました。
  然るに明治初年、所謂「廃仏毀釈」の暴論により當山の境内地、建物、参道、寺領等総てを没収しその跡に石鎚神社を設立しました。
  時の住職大律上人は、石鈇開山以来石鈇信仰の中心であります石鈇大権現を奉じて現在地に移り石鈇山根本道場として古来よりの修験道の法灯を伝えました。
  前神寺は、真言宗石鈇派の総本山として、石鈇修験道の根本道場として、また四国六十四番霊場として数々の法灯を伝え現在に至っています。
     総本山 前神寺
-境内案内板から-



        薬師堂                お滝不動              金毘羅堂




           前は神  後は仏  極楽の
                         よろずの罪を  くだくいしづち


  

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2011年05月11日

第63番 吉祥寺


四国八十八カ所 第63番札所 吉祥寺




密教山 胎蔵院 吉祥寺 (きちじょうじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市氷見乙1048

〔宗派〕 真言宗東寺派

〔本尊〕 毘沙門天

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん べい しらまんだや そわか

〔略縁起〕 弘仁年間(810~824)、大師がこの近くで光る檜を見つけ、一帯に霊気が満ちるのを感じて一堂を建立したのが始まり。 もとは坂元山の広大な寺領に二十一坊を有する大寺だったが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国攻めの兵火にあって全焼してしまう。 万治2年(1659)に、末寺の檜木寺と合伴して、現在の地で再建された。 毘沙門天を本尊とするのは四国霊場中ここだけ。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 お迎え大師・くぐり吉祥天女
皆さん ごくろうさんです 私も毎日修行していますよ
   くぐると富を授かる御利益がある吉祥天女

〔右〕 成就石
目を閉じて、石の穴に杖を通すと願いが叶うという




         身のうちの 悪しき悲報を 打ち捨てて
                              みな吉祥を 望み祈れよ


  

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2011年05月10日

第62番 宝寿寺


四国八十八カ所 第62番札所 宝寿寺




天養山 観音院 宝寿寺 (ほうじゅじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町新屋敷甲428

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 十一面観世音菩薩

〔開基〕 道慈律師

〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか

〔略縁起〕 天平年間(729~748)に、伊予一の宮の別当寺(御法楽所)として創建。 当初は金剛宝寺と称していた。 大同年間(806~810)に大師が来錫。 十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、四国霊場に定めた。 山手川、中山川近くにあったため、寺はしばしば洪水の被害を受け、一時は荒れるにまかせていたが、天養元年(1144)には再建された。 山号はそのときの年号にちなんだもの。 伊予三島水軍の菩提寺にもなった。
-『四国八十八カ所』から-



             本堂                             大師堂













         さみだれの あとに出でたる 玉の井は
                                白坪なるや 一の宮川


  

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2011年05月09日

第61番 香園寺


四国八十八カ所 第61番札所 香園寺




栴檀山 教王院 香園寺 (こうおんじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町南川甲19

〔宗派〕 真言宗御室派

〔本尊〕 大日如来

〔開基〕) 聖徳太子

〔真言〕 おん あびらうんけん ばざら だどばん

〔略縁起〕 開基は古く、6世紀後半の用明天皇の時代に、聖徳太子が父である天皇の病気回復を祈願して建立した。 天平年間(729~749)には行基が、大同年間(806~810)には弘法大師が来錫し、霊場に定めた。 大師は、門前で身重の女性が苦しむのを見て秘法の加持を行った。 女性は無事に男子を産み、加持の際に大師が栴檀の香をたいて修法したことが山号の由来になっている。 以後、戦国期の戦火で焼失。 大正2年に再建された。
-『四国八十八カ所』から-



          大聖堂内 本堂                    大聖堂内 大師堂













〔左〕 子安大師堂 
日々無事安産、子授かりを祈願する参拝者が多数訪れる。

〔右〕 聖徳殿
 当山の開祖、聖徳太子を祀る。




          後の世を 思へば詣れ 香園寺
                           止めて止まらぬ 白瀧の水


  

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2011年05月07日

第60番 横峰寺


四国八十八カ所 第60番札所 横峰寺




石鈇山 福智院 横峰寺 (よこみねじ)

〔所在地〕 愛媛県西条市小松町石鎚甲2253

〔宗派〕 真言宗御室派

〔本尊〕 大日如来

〔開基〕 役行者小角

〔真言〕 おん あびらうんけん ばざら だどばん

〔略縁起〕 開基は修験僧の開祖、役行者小角。 白雉2年(651)、小角が石鎚山頂で修行しているときに蔵王権現の姿を見て、その姿を石楠花の木に刻んで開山したという。 大同年間(806~810)には、大師が当山を訪れて大日如来を刻み、小角の刻んだ像をその胸におさめて安置したと伝わる。 その後、寺は石鎚神社の別当寺とされたが、明治の神仏分離令で、石鎚山西遥拝所横峰社となり、明治42年には横峰寺に戻った。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂













〔左〕 星供大師
右手に剣、左手に星供の巻物を持った大師像

〔右〕 聖天堂




           たて横に 峰や山辺に 寺建てて
                           あまねく人を 救ふものかな


  

Posted by 閑人 at 19:01Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年05月06日

第59番 伊予国分寺


四国八十八カ所 第59番札所 伊予国分寺




金光山 最勝院 伊予国分寺 (いよこくぶんじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市国分4-1-33

〔宗派〕 真言律宗

〔本尊〕 薬師瑠璃光如来

〔開基〕 行基菩薩

〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか

〔略縁起〕 国分寺は聖武天皇の勅願により全国に建設された寺。 四国各県にも一カ寺ずつあり、いずれも四国霊場である。 伊予の国分寺であるこの寺は、受難の歴史をへている。 天慶2年(939)、藤原純友の乱によって堂宇は焼失、さらに元歴元年(1184)には、源氏平家の戦いに巻き込まれた。 戦火のたびに堂宇は焼失し、寛政元年(1789)に現在の本堂が再建されるまで、茅葺きのお堂が建つのみだったという。
-『四国八十八カ所』から-



              本堂                           大師堂












国指定 史跡   国分寺塔跡


国指定  史跡  国分寺塔跡
  奈良時代聖武天皇の勅願によって、桜井国分に伊予の国分寺が建てられたが、国分はその境内の跡で金堂の他七堂伽藍の大きな堂塔が造営されていた。 この巨大な花崗岩の13個の塔礎石は、1.5m~2mの自然石で表面に頭大の繰形突起があり、径50cm程度の繰形座の柱受けが刻み出され、天平時代の荒打ちのみのあとも鮮やかで豪壮なものである。 礎石間の間隔は約3.6mで多少傾いたのもあるが整然と並んでいる。
  調査の結果、いく段にもつきかためた粘土の層の上に置かれた礎石は、創建当時の姿をそのまま残しているといわれている。 この上にあった七重の塔は200尺(約60m)ともいわれ、広大な国分寺の姿をしのぶ重要な遺構である。        大正10年3月3日指定  文部省
  史跡・名所の小路  今治市
-史跡「国分寺塔跡」案内板から-




〔左〕 春日神社
(伊予国分寺の鎮守)

〔右〕 鐘楼




  握手修行大師像    薬師如来の薬壺              七福神石仏





         守護のため 建ててあがむる 国分寺
                            いよいよ恵む 薬師なりけり


  

Posted by 閑人 at 18:22Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年05月05日

第58番 仙遊寺


四国八十八カ所 第58番札所 仙遊寺




作礼山 千光院 仙遊寺 (せんゆうじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市玉川町別所甲483

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 千手観世音菩薩

〔開基〕 越智守興

〔真言〕 おん ばさら たらま きりく

〔略縁起〕 天智天皇の勅願により国守、越智守興が開基。 のちに大師が伽藍を整ととのえて四国霊場と定めた。 昭和22年の火災で全焼したが、本堂、大師堂と順次再建されている。 この寺で40年間、読経三昧で暮らした阿坊仙人が、ある日突然、雲と遊ぶかのように姿を消した。 寺号の仙遊寺はこれによっている。 また山号は、海から上がった童女が、本尊の千手観世音菩薩を一刀刻むごとに三度礼拝したという伝説から、その名がついた。
-『四国八十八カ所』から-


             本堂                            大師堂













境内からは今治の街としまなみ海道が一望




          立ち寄りて 佐礼の堂に 休みつつ
                           六字を称え 経を読むべし


  

Posted by 閑人 at 20:32Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所

2011年05月04日

第57番 栄福寺


四国八十八カ所 第57番札所 栄福寺




府頭山 無量寿院 栄福寺 (えいふくじ)

〔所在地〕 愛媛県今治市玉川町八幡甲200

〔宗派〕 高野山真言宗

〔本尊〕 阿弥陀如来

〔開基〕 弘法大師

〔真言〕 おん あみりた ていぜい からうん

〔略縁起〕 嵯峨天皇の勅願で大師が弘仁年間(810~824)に開基。 近海で海難がしばしば起こることを聞いた大師は、府頭山の山頂で海神供養の護摩を修法。 すると、海中から阿弥陀如来があらわれた。 そこで堂宇を建立して霊場と定めたという。 のちに行教上人が、境内に八幡大菩薩を勧請し、神仏混合の石清水八幡宮を創建した。 明治期の神仏分離令によって、寺は現在の地に移転する。 現在の大師堂は、山頂にあった建物を移築したもの。
-『四国八十八カ所』から-


              本堂                           大師堂













           この世には 弓矢を守る 八幡なり
                             来世は人を 救う弥陀仏


  

Posted by 閑人 at 18:05Comments(0)TrackBack(0)四国八十八ヶ所