2011年01月24日

山城国一宮 賀茂別雷神社


賀茂別雷神社 一之鳥居



山城国一宮 賀茂別雷神社 (かもわけいかづちじんじゃ)   通称 上賀茂神社

〔鎮座地〕 京都府京都市北区上賀茂本山339
                                                   〔神紋〕 二葉葵
〔御祭神〕 賀茂別雷大神 (かもわけいかづちのおおかみ)

〔御神徳〕 厄除・方除・八方除・電気の守護神

〔社格〕 旧官幣大社  山城国愛宕郡の式内社・賀茂別雷神社  二十二社

〔御由緒〕  賀茂川の上流から流れてきた丹塗矢と、玉依比売命との神婚により誕生したのが賀茂別雷大神であり、背後の神山(こうやま)へ降臨され山城国を開拓したと伝える。 奈良朝以前からの古社で、神孫である賀茂県主一族により連綿と奉仕されてきた。
 上賀茂・下鴨両社とも『延喜式』に名神大社、月次・相甞・新甞の奉幣に預かる神社として記載され、名神祭・祈雨・止雨の奉幣にも預かった。 二十二社制度では両社とも上七社に列し、明治四年には官幣大社筆頭に列格するなど、いつの時代にも朝廷による格別の尊崇を受けている。 武門の崇敬も集め、源頼朝は全国各地の荘園を安堵し、江戸幕府も多くの朱印状を寄せた。
 五月十五日の賀茂祭は両社の例祭・勅祭で「葵祭」と呼ばれる。 勅使による祭文奏上や東遊の奉納などがあり、京都御所を出立し下鴨神社から当社へ至る祭礼の行列は盛大である。
-『全国一の宮めぐり』から-



一之鳥居をくぐり境内に入ると一面の芝生の広場。 中央の参道を進むと二之鳥居
二之鳥居から境内を流れる御手洗川(ならの小川)の間に重要文化財の細殿・橋殿・土舎・楽舎等が建ち並ぶ。



立砂 (たてすな)
二ノ鳥居を入ると、細殿の前に一対の立砂がある。円錐形の麗しい御神体山である神山をかたちどったもので一種の神籬(ひもろぎ・神様が降りられる憑代)である。鬼門、裏鬼門にお砂「清めのお砂」をまくのはこの立砂の信仰が起源である。
-賀茂別雷神社パンフレットから-





細殿の東に御手洗川(ならの小川)が流れ、御物忌川と合流している。
御手洗川を渡ると朱塗りの荘厳華麗な楼門がそびえ立つ。

楼門 (重要文化財 1628年建造)




楼門をくぐると正面に中門
中門から内部は撮影禁止となっている。
中門の奥には国宝の本殿・権殿のほか末社杉尾社(杉尾神)・末社土師尾社(建玉依比古命)・摂社若宮神社(若宮神)が立ち並んでいるという。


社殿  本殿・権殿東西に並び建ち、共に流れ造の典型として国宝に指定されている。文久三年(一八六三)の造替で、他の祝詞舎(のりとのや)、透廊(すいろう)等四十二棟の建物は、おおむね寛永五年(一六二八)の再建で重要文化財に指定されている。又、境内全域は平成六年(一九九四)十二月十七日「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコが制定する人類共有の世界文化遺産に登録された。


〔左〕 中門の脇には末社棚尾社(豊石窓神・櫛石窓神)。

〔右〕 中門の東側に新宮門
新宮門の中に摂社新宮神社(高靇神)と末社山尾社(大山津見神)がある。



〔左〕 新宮門の側に伊勢神宮遥拝所

〔右〕 新宮門の南、御物忌川の側に御物忌川の守り神末社川尾社(罔象女神)。



〔左〕 摂社片岡社(玉依比賣命)
(式内社・片山御子神社)
祭神は本宮祭神の母神。
〔右〕 摂社須波神社(式内社須波神社)
祭神は前庭の守護神で、阿須波神・波比祇神・生井神・福井神・綱長井神。


〔左〕 御手洗川(ならの小川)の樟橋の傍らに末社橋本社(衣通姫神)。

〔右〕 藤原家隆歌碑
 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
      みぞぎぞ夏の しるしなりける


〔左〕 御手洗川に沿って曲水の宴が開催された渉渓園

〔右〕 渉渓園の北に摂社賀茂山口神社(式内社・賀茂山口神社)
祭神は御歳神。


〔左〕 賀茂山口神社の東に二葉姫稲荷の朱の鳥居。

〔右〕 御手洗川を下ると神事橋の東に、
摂社・奈良神社(奈良刀自神)と庁ノ舎(北神饌所)


奈良神社の南、御手洗川沿いに

〔左〕 末社・山森社
(素盞嗚神・稲田姫命・田心姫命)
〔右〕 末社・梶田社
(瀬織津姫神)




       風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
                      みぞぎぞ夏の しるしなりける
                                                    従二位家隆


  

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2011年01月01日

白兎神社


明けまして おめでとうございます
卯年にちなんで 因幡の白兎


                  白兎海岸        気多之前と淤岐ノ島



因幡国 白兎神社 (はくとじんじゃ)

〔鎮座地〕 鳥取県鳥取市白兎宮腰603

〔社格〕 旧村社

〔御祭神〕 白兎神    〔合祀〕 保食神


参道には兎がいっぱい



白兎神社
御祭神  白兎神を主神とし保食神を合祀している
鎮座地  鳥取市白兎六〇三番地
例祭日  四月十七日御輿途御行事あり
 白兎神社は古事記、日本書紀に記されている由緒の明らかな所謂「因幡の白兎」で有名な神社である。
 古事記に曰く淤岐ノ島に流された兎海の和邇を欺きて気多之前まで渡らむとせしが欺きを知りたる和邇により悉く衣服を剥がれ泣き悲しむ兎に八十神の命もちて海塩を浴みて風に当り伏せれば前にも増して痛みはげしく、ここに大穴牟遅神(大国主命)その兎に教へたまはく「今急くこの水門に往きて水もて汝が身を洗ひて、水門の蒲黄を取りて敷き散らしその上に輾転てば汝が身、本の膚の如必ず差えなむものぞ」と教へたまひき。かれ教の如せしかば、その身もとの如くなりき。・・・・・・・
 日本医療の発祥の地であり古来病気傷痍に霊験あらたかな神様である。
 尚、大国主命と八上姫との縁を取りもたれた(仲人された)縁結びの神様でもある。
-境内案内板から-







             拝殿                            本殿













〔左〕 菊座石  本殿を支える土台石(六ケ)に菊の紋章が彫刻(二十八弁)してある。近郷の社はもちろん、全国的にも珍しい。神社創設が皇室と何らかの関係があったものと云われている。
〔右〕 御身洗池 (不増不滅の池)



〔左〕 北里蘭 歌碑
鰐の背に 似たる岩見ゆ 蒲ならぬ 波の花散る 気多の御前に

〔右〕 田村虎蔵先生 碑    大黒さま
石原和三郎 詞    田村虎蔵 曲




大黒様       作詞:石原和三郎   作曲:田村虎蔵

       1、 大きな袋を 肩にかけ   大黒様が 来かかると
          ここに因幡の 白うさぎ   皮をむかれて 赤裸
       2、 大黒様は あわれがり   きれいな水に 身を洗い
          がまの穂綿に くるまれと  よくよく教えて やりました
       3、 大黒様の いうとおり    きれいな水に 身を洗い
          がまの穂綿に くるまれば  うさぎはもとの 白うさぎ
       4、 大黒さまは 誰だろう    大国主の命とて
          国を開きて 世の人を    助けなされた 神様よ


  

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2010年12月13日

因幡国一宮 宇倍神社


武内宿禰命終焉の地
因幡国一宮 宇倍神社
 (うべじんじゃ)


難波高津宮(仁徳天皇)五十五年春三月、大臣武内宿禰、御年三百六十余歳で因幡国に下向され、亀金に双履を残してお隠れになった。 因幡国法美郡の宇倍山の麓に神社があり、武内宿禰の御霊である。
-『因幡国風土記』逸文から-
















因幡国一宮 宇倍神社 (うべじんじゃ)

〔鎮座地〕  鳥取県鳥取市国府町宮下一宮651

〔社格〕  旧国幣中社  因幡国法美郡の式内社・宇倍神社(名神大)

〔御祭神〕  武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)


因幡国一之宮 宇倍神社
御祭神武内宿禰命は上古、景行天皇以下五期の天皇に歴任され、奥羽から九州の果てまで東奔西走、日本の発展に努力され、さらに神功皇后を御輔けして日本の統一に尽力されました、また応神天皇のご成長を見守られながら大陸文化を導入されて平和と繁栄の礎を築き国の功神として我が国最初の大臣とされました。
武内宿禰命は仁徳天皇五十五年因幡国に下向され御社背後の亀金岡にて双履を残し、三百六十余歳を以て昇天されました。
この由緒をもって創建された宇倍神社は平安時代には名神大社、因幡国一ノ宮として尊崇され、明治四年には国幣中社に列せられました、また明治三十二年、現在の御社殿新築のおり命の御尊像と共に当社全景が全国で最初に紙幣に載せられ、以後大正、昭和と五円、一円紙幣で広く国民に親しまれて来ました。
古くから福徳長寿、厄除けの神として、また病気平癒交通安全や子供の成長を祈り、さらに志を打ち立てる社として広く崇敬されております。
 春例大祭 四月二十一日   秋祭 九月二十一日
-宇倍神社境内案内板から-



ご祭神 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)
大臣の祖  武内宿禰命は第十二代景行帝より、成務・仲哀・応神・仁徳帝の5朝にお仕えされ、まことをつくして天皇の信任篤く、わが身を投げうって東奔西走、日本の統一に尽力されました。 わが国で最初に「大臣」の称を賜わり、総理大臣の祖ともいえる国の功神です。
子供の神  命はまた進んだ大陸文化を導入されて、古代大和朝廷の最盛期を築き上げられました。特に神功皇后を補佐して北九州に出陣されご活躍になったことは有名で、ご幼少の応神天皇(八幡さま)を抱き奉る姿は五月端午の節句に掲げる幟の絵柄となっております。
長寿の神  命は仁徳天皇五十五年春三月因幡国の亀金岡に双履を遺し、三百六十余歳でお隠れになったと記されています。古くから宇倍神社本殿の後丘にその霊跡と伝える石があり、双履石と呼ばれています。 日本一長寿の神さま御昇天の地です。
-『宇倍神社パンフレット』から-



              拝殿                            本殿














双履石(そうりせき)
御祭神「武内宿禰命」は第十二代景行天皇から仁徳天皇までの五朝にお仕えされ、大臣の祖として日本の国づくりに御活躍の後、仁徳天皇五十五年春三月、この亀金の岡に双履を遺し齢三百六十余歳にてお隠れになりました。  その石を双履石と称し命御昇天の霊石として今に伝わる当社の原点です。



 七宝水(延命水)  このお水は平安時代に百人一首にも詠まれた、いなば山の中腹から湧き出る清水をここまで引いたものです。 古くから日本一長寿の神「武内宿禰命」に由縁があり、病を除き延命に霊験あらたかなお水です。 また、体をととのえ飲むと美人になれる等、七つの効きめがあると云われ、七宝様のお水と呼ばれ親しまれています。



  武内宿禰命終焉之地石碑          福徳亀                国府神社





      立ち別れ  いなばの山の峰に生ふる
                    松とし聞かば  今かへり来む
                                                中納言在原行平


  

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2010年11月21日

志摩国一宮 伊射波神社


安楽島の加布良古崎にある御食つ国・志摩の一宮





志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ)   通称 かぶらこさん

〔鎮座地〕  三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020

〔社格〕  旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)

〔御祭神〕  稚日女尊(わかひめのみこと)
        伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
        玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
        狭依姫命(さよりひめのみこと)

〔御由緒〕  天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。 倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたおされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。 発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。 この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。 玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。 狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。 境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
-『全国一の宮めぐり』から-




安楽島バス停の前にある安楽島舞台から歩くと
海岸に手造りの案内板がある
屋根が ← 印
海岸左側に加布良古崎が見える




椎や椨(たぶのき)などの原生林の中を進むと
海に面して鳥居、式内伊射波神社の標石
ここから標高80メートルの山頂まで上ると社殿がある



              拝殿                            本殿













             本殿脇に2つの石積祠                 意味深長な美保留神




御祭神について

 伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられています。後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。

 玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の娘と記されています。

 大二座のもう一座は、稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射披神社。 霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました。 「加布良古の外峯(とみね)に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ 我もなびかん。加布良古の大明神に、遊びの上分(じょうぶん)参らする請玉(うけたま)の宝殿(たからのみやから)」 これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行なわれ、その様子を歌ったものです。 加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。 この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されます。 『神宮紀(じんぐうき)』によれば、「尾田(おだ)(加布良古の古名)の吾田節(あごとうし)(後の答志郡)の淡郡(あわのこうり)(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。

 狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご祭神でもあります。安楽島では、粟嶋と呼称されていたころ、神乎多乃御子神社(小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻瀬とある)という島嶼(とうしょ)にお祭りされていましたが、戦国の世地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。
-伊射波神社パンフレットから-
  

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2010年11月16日

備後国一宮 素盞嗚神社

神と仏の和合の姿を求めて
「風土記」の世界へ旅立った
そこは茅の輪くぐり発祥の地












  備後国一宮 素盞嗚神社 (すさのおじんじゃ)

  〔鎮座地〕  広島県福山市新市町戸手1-1

  〔社格〕  旧県社   備後国深津郡の式内社・須佐能袁能神社 

  〔御祭神〕  素盞嗚尊・奇稲田姫命・八王子

疫隈の郷 (江ノ隈の里)
この附近は江熊の里とよばれたところ、古くは江隈とも記された。
江は入江であり、隈はかたすみとも読める。江ノ隈の読みから、穴の海の入江で逢ったことが伺われる。
奈良時代には古山陽道がこのあたりを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えたところでもある。
茅の輪神事
 備後の國(きびのみちのしり)の風土記に曰(いわ)く、疫隈の國社(くにつやしろ)。
昔、北海に坐します武塔(むとう)神・・・・・・南海の出でまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)、甚く貧しく、弟の巨旦(こたん)将来、屋倉一百(いえくらもも)ありき・・・・・・即ち、詔(の)りたまひしく「吾(あ)は速須佐雄(はやすさのお)の神なり、後の世に疫気(えやみ)あらば、汝(いまし)、蘇民将来の子孫(うみのこ)と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。 (備後風土記逸文)より
蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上、最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式(えんぎしき)神名帳にみえる古い歴史をもっている。
現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。
素盞嗚尊は武塔天神あるいは祇園牛頭天王(ごずてんのう)とも称され、出雲神話の祖である。
本社は、備後三祇園の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。
明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天竜院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した。                              -素盞嗚神社境内石碑から-


〔左〕 随神門


〔右〕 舞殿



 城門
 当神社境内には、相方城の城門二棟と櫓一棟が伝えられています。櫓は1970年代に火災により消失しました。  城門に関する資料が無いので建築年代は確定できないが建築様式と部材の風化状態から16世紀末から17世紀初と推定される。 三間一戸の切妻造の薬医門 装飾の少ない簡素な門 山城禁止令により移築、改築。
          -『素盞嗚神社公式H.P』から-

天満宮 〔本地堂〕  (御祭神) 菅原道真公
 古くは 日本には天の神への信仰がありました。天は農耕に必要な恵みの雨をもたらす反面大雨・ひでり・雷などのように人々に災いをも、もたらします。古代の人々は、人知を超えた天の動きに畏敬の念をも抱き、農耕の神として「天の神」を祀りました。 道真公が藤原時平の中傷により、大宰府に左遷させられ、59歳で悲しみのうちに亡くなられた後、御所に雷が落ちたり、藤原時平が亡くなるなど、京都では様々な異変が起こりました。 人々は不正義を憎む「天の神」が道真公の不遇の死を嘆き災いをもたらしているに違いないと考えました。これらの災いを鎮めるために道真公への信仰が始まりました。 今では、菅原道真公は「学問の神」として、広く敬愛されています。
本地堂  現在の天満宮は、もともと戸手祇園社(早苗山天竜院天王寺)の本地堂として建立されており、現在の社殿は延享3年(1746)に福山藩寺社奉行に対して本地堂の再建を申し出、延享5年(1748)の再建されたものです。 その後、明治の廃仏毀釈により取り壊されるところを、天満宮に変更して現在まで伝えてきました。  再建時からの改修の痕跡は、明治初期の廃仏毀釈の際になされた若干の改変のみで、当時の様子がほぼ完全に保存されています。  平成10年(1998)に建物老朽化のために屋根の全面葺き替えと若干の修復を行い再建時の姿に復元されました。                                   -『素盞嗚神社公式H.P』から-



 〔左〕 蘇民神社  (御祭神) 蘇民将来
 備後風土記(ふどき)の逸文によれば「昔、北海に坐す武塔神が南海の神女のもとに行かれる途中、日が暮れ一夜の宿を求めて此の地で富み栄えていた弟の巨旦将来(こたんしょうらい)の所へ行ったが断られ、貧しかった兄の蘇民将来は快く宿をお貸しした。年を経て、命は八人の王子をつれて還られた時、蘇民将来の家に立ち寄られ「吾は速須佐能神(すさのおのかみ)なり、後の世に疫病あらば、汝は蘇民将来の子孫と云いて、茅の輪を以って腰に着けたる人は免れるであろう」といわれ、巨旦を誅滅された伝説が残っている。これが今日伝わっている茅の輪くぐりの神事の起こりである。 今では、この伝説は遠く青森県、岩手県にまで伝わり、ほぼ全国に茅の輪くぐりの神事が執り行われ、「蘇民将来子孫ノ家」と書かれたお札が出されているようである。
 〔右〕 疱瘡神社  (御祭神) 比比羅木其花麻豆美神
 創建不詳なれど疫病の流行たる時に祀られたものと考えられる。
                                       -『素盞嗚神社公式H.P』から-
比比羅木其花麻豆美神(ひひらきそのはなまずみのかみ)
 聞き慣れない神名であるが、『古事記』に大国主神五世の孫多比理岐志麻流美神(たひりきしまるみのかみ)の妻となった活玉前玉比売神(いくたまさきたまひめのかみ)の親神に比比羅木其花麻豆美神の神名が記される。 柊の花の精霊神と思われ、柊の棘が邪を払う呪力を有するものとして信仰されたのであろうか。                                 -注 閑人-











    本殿は入母屋造・千鳥破風・桧皮葺              本殿の床柱は八角柱


ここでも見つけた八角柱  スサノオには八の字がよく似合う

八雲  八重垣  八岐大蛇  八坂  八剣  八王子

八幡はどうであろうか?
閑人、本来の八幡神はスサノオではないかと思うようになってきた
  

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2010年11月13日

木地師のふるさと(3)


筒井峠にある木地師の祖神・惟喬親王の御陵に参拝しました





筒井神社と筒井公文所
 縁起書に「惟喬親王、貞観七年十一月八日筒井に宇佐八幡宮を勧請す」とあり、藤原良房一門の権勢により母方が紀家であった親王は都を追われ、筒井峠の山中に幽棲、剃髪して素覚と号し、常に法華経を読誦され轆轤を発明して木地師の元祖になられたと伝える。
 宇佐八幡と惟喬親王を祭る筒井神社は筒井公文所と共に明治年間までは北方の山中筒井峠に、筒井千軒の遺跡と共にあった。
 筒井公文所は古来全国木地師の総支配所であり木地師免許、諸国関所往来手形、山入り許可状などを常に発行していた。
 全国各地への氏子狩は古く、尺文、永禄年間に始まるが、正保四年~明治十五年の氏子駆帳(県町指定文化財)には諸国の木地師名五万余人が記され、巡国先は北は羽前、羽後、陸前、磐城、岩代から中部、近畿、中国、四国、更に豊前、豊後、肥後、日向の四十六ヶ国と全国にまたがり、なお現在も各地よりの参詣者が後を絶たない。
  永源寺町教育委員会
-筒井神社案内板から-



           惟喬親王尊像                      惟喬親王御陵












            筒井八幡宮                筒井神社旧跡 惟喬親王御霊塔石碑



  

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2010年11月13日

木地師のふるさと(2)


木地師のふるさと滋賀県の小椋谷を訪ねてきました





大皇器地祖神社 (おおきみきぢそじんじゃ)

〔鎮座地〕 滋賀県東近江市君ケ畑町977  (旧永源寺町)

〔御祭神〕 惟喬親王 (これたかしんのう)

〔御神紋〕 十六菊

〔旧社格〕 村社


器地祖神社と高松御所
 文徳天皇第一皇子惟喬親王は、母が紀家である事より藤原良房は其の娘明子の生んだ第四皇子惟仁親王を皇位継承者と定めた。
 惟喬親王は都を逃れ出て遠く此の山里に幽棲、自ら法華経の紐を引くと軸の回る原理より轆轤を発明され、日本国木地師の元祖になられたと伝えられる。(木地師縁起書)
 のち地名を君ヶ畑、親王住居を高松御所金龍寺、親王を祭神に器地祖神社が祀られた。
 其の後木地師は全国の山々に分散したので此の地より諸国への氏子狩が始められ、元禄七年~明治二十六年の氏子駆帳(県町指定文化財)には、北は羽前、岩代、武蔵、相模、信濃、越前から、南は伯耆、石見、安芸、安房、伊予、土佐、日向に至るまで、戸主のみで一万人余が記載され、明治五年には一五六三戸が君ヶ畑を本籍地として戸籍の届出を行なっており、今日もなお各地よりの団参者が後を絶たない。
 永源寺町教育委員会
-『社前案内板』から-



         大皇器地祖神社境内                   惟喬親王御廟所












         蔵皇山金龍寺山門                   高松御所 (金龍寺)












惟喬親王幽棲の跡 木地師発祥之地
貞観元年(八五九)人皇五十五代文徳天皇第一皇子惟喬親王はこの地に幽棲され蔵皇山金龍寺他二ヶ寺を創建、佛教に帰依された。 親王は金龍寺にお住まいになり、村人はこれを高松の御所と崇め親王の御仁徳を慕った、元慶三年(八八〇)親王遺命薨去された時、村人は氏神大皇大明神として祀ることとした。 これが現在の 大皇器地祖神社である、親王は在世中に轆轤を用ちい、木地で椀器を製作する業を村人に授けられた、その業を伝承する者を木地師と称し現在全国にあって親王を祖神と崇敬し工業界に活躍している。
 永源寺町教育委員会
-『金龍寺案内板』から-



  

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2010年11月12日

木地師のふるさと(1)


木地師のふるさと滋賀県の小椋谷を訪ねてきました





筒井神社 (つついじんじゃ)

〔鎮座地〕  滋賀県東近江市蛭谷176  (旧永源寺町)

〔御祭神〕  宇佐八幡大神 (うさはちまんおおかみ)
        惟喬親王 (これたかしんのう)

〔御神紋〕  十六菊

〔旧社格〕  村社


筒井神社由緒

貞観七年(865)十一月人皇五十五代文徳天皇第一皇子惟喬親王はこの地より約二粁北にある筒井峠に宇佐八幡宮を勧請せられて筒井八幡宮を創建された。
其の後筒井峠は轆轤発祥の地木地都市として栄え、筒井千軒の豪華さを𧦅われるようになった。また後世迄全国津々浦々にわったてロクロ師に免許を与え且これらを支配してきた公文所(政所)を設けられていた。近代工業発展の今日に至っても轆轤師の業挽物関係の工業を継ぐ者は当神社を崇敬し遠隔をとわず常に参拝者が後を絶たない状況である。
因みに昭和五十五年四月木地屋民芸品資料展示館が文化庁の助成に依り建設され民俗学上貴重な資料とされている氏子駈帳其の他重要な文献並びに作品が数多く展示されている。
尚現在の神社は明治初年管理の都合上筒井峠から現在地に遷宮されたものである。
  木地屋資料館
-『門前案内板』から-



           筒井神社拝殿                        帰雲庵















境内にある木地師資料館では「氏子駈帳」などの貴重な文献や二人挽き轆轤・東北地方の伝統こけしが多数展示されています。


  

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2010年11月04日

阿波国一宮 大麻比古神社


阿波国一宮 大麻比古神社




阿波国一宮 大麻比古神社 (おおあさひこじんじゃ)

〔鎮座地〕  徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13

〔社格〕  旧国幣中社  阿波国板野郡の式内社・大麻比古神社(名神大)

〔御祭神〕 大麻比古大神 (おおあさひこのおおかみ)
       猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)


              拝殿                            本殿












阿波一宮 大麻比古神社御由緒

御祭神  大麻比古大神・猿田彦大神。

由緒  神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業の基を開き、国利民福を進め給い、その守護神として太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。 大麻比古神社は、太祖天太玉命と猿田彦大神の御神徳を称えて奉った御社名と伝えられる。
 猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り、本社に合せ祀ると伝えられる。 延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え、阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。 清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給う。 斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って社殿の造営を行い、年々祭費を奉らる。 明治六年国幣中社に列す。
 明治十三年国費をもって本殿以下の造営が行われた。 現在の祝詞殿、内拝殿、外拝殿は昭和四十五年氏子崇敬者の寄進によって造営された。
 大麻比古神社は、古来 方除、厄除、交通安全の神として霊験を授け給い県内外の氏子崇敬者から「大麻さま」「大麻さん」「大麻はん」と親しみをこめた御名で崇められ、厚い信仰が寄せられている。

祭礼及び特殊神事

例祭  十一月一日 氏子崇敬者の奉仕によって神輿の渡御及び獅子舞の奉納などの神賑がある。

奥宮例祭  旧七月十八日 大麻山頂に鎮座する奥宮峯神社の例祭が行われ、氏子崇敬者の奉仕によって神幸祭が行われる。 旧七月十七日宵宮から十八日早暁にかけて三回氏子崇敬者の安全を祈念する大祈祷祭が行われる。

神迎祭  旧正月元旦、二日、三日、本殿に於て旧正月の神事が行われる。

湯立神楽  旧三月十二日 社務所前庭に湯竈を築き、忌火によって湯を立て、湯花を本殿に奉り、無病息災と五穀豊穣を祈念する。

神火大祭  二月節分当日 氏子崇敬者が願旨を記して奉納した祈祷木を神火によって焚き上げ、除災招福を祈願する。
-『境内案内板』から-




ご神木
大麻比古神社境内にある楠の大木。
樹齢千年余で、大麻比古神社のご神木としてあがめられています。
幹周り8.3m 樹高22m。
鳴門市指定の天然記念物です。






 〔左〕 豊受社
      (祭神) 豊受大神

 〔右〕 山神社
      (祭神) 大山祇神



 〔左〕 中宮社
      (祭神)  ?

 〔右〕 奥宮峯神社の逢拝所



他に境内末社五祠を確認する。
西宮社 (天照大神)
水神社 (水波女神)
丸山神社 (丸山神)
丸山稲荷社 (倉稲魂命)
丸山八大龍王社 (八大龍王神)



〔左〕 メガネ橋

〔右〕 ドイツ橋




メガネ橋  大麻比古神社内にあるこのミニチュア石橋は約75年前当時近くにあったドイツ兵俘虜収容所の兵士達が造った橋として残されています。

ドイツ橋  第一次世界大戦当時、坂東俘虜収容所で捕虜生活を過ごしたドイツ兵士が、すぐれた母国の土木技術を生かして大麻比古神社境内の丸山公園に造った橋で、日独両国民の友情の架け橋として大きな役割を果たしています。
-『大麻比古神社公式サイト』から-



  

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2010年10月26日

阿波国一宮 一宮神社


阿波国一宮  一宮神社





阿波国一宮  一宮神社 (いちのみやじんじゃ)

〔鎮座地〕  徳島県徳島市一の宮町西丁237

〔社格〕  旧県社  阿波國名方郡の式内社・天石門別八倉比賣神社(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕  大宜都比売命 (おおげつひめのみこと)
        天石門別八倉比売命 (あまのいわとわけやくらひめのみこと)

〔由緒沿革〕  延喜式内社天石門別八倉比売神に充てられる。延喜の制では大社に列す。後醍醐天皇の御代一宮城主小笠原長宗が大宮司に任じ、世々相嗣ぎ、後蜂須賀候入国するや厚く崇敬し、寛永七年松平忠鎮公社殿再建の事あり、明治六年郷社、昭和一七年県社に列す。
-『神社名鑑』から-


               境内                           拝殿











一宮神社略記
一  大宜都比売命 天石門別八倉比売命を奉祀する 衣食 農業 開運の神で 又縁結び安産の守護神と信仰する人が多い
一  延喜式内大社天石門別八倉比売神社に充てられる古社で 一宮大明神と奉称せられ 阿波国一宮 八倉比売命祀るから 明治維新神まで八月八日に祭典を行ひ神佛分離まで四国巡拝の霊場であった
一  小笠原氏は一宮城を構え 一宮大宮司に任じ 蜂須賀候も社殿を造営 御初穂 御神馬を奉献篤く崇敬した 氏子の尊崇は今に変らない
一  一宮町の地名 一宮城の称等は一宮大明神が千年の昔から此の地に御鎮座ましますに由来すると思う
一  例祭 十月十八日  春祭 四月二日  新嘗祭 十二月十八日
-『境内案内板』から-



 本殿



  重要文化財 建造物 一宮神社本殿 (附棟札九枚)     平成5年4月20日 国指定
 この本殿は、身舎(もや)の正面柱間が三間で、屋根が後方に短く前方に長く曲線形に流れる「三間社流造」である。 棟前方に千鳥破風を飾り、さらに先端の中央一間分に軒唐破風を設け、木階(きざはし)前方の庇柱まで浜床を張り出す。また各所に上品な彫刻が埋められ、全体に彩色を施しながらも過度の装飾には陥らずに、華やかな本殿に仕上げている。向拝の木鼻や身舎妻飾りの大瓶束(たいへいづか)下部には蓮華が、繋海老虹梁(つなぎえびこうりょう)や向拝頭貫(かしらぬき)虹梁の底面には錫杖が彫られるなど、神仏混淆の様相を表している。
 棟札と正面千鳥破風板の墨書から、寛永7年(1630)の建築であることが判明している。同じ三間社流造で重要文化財である鳴門市大麻町の宇志比古神社本殿〔桃山時代・慶長4年(1599)〕とともに、徳島県の近世初期を代表する装飾的な大型本殿建築である。
  徳島県教育委員会  徳島市教育委員会
-『境内案内板』から-



本殿脇に末社七祠が確認された

若宮神社  宗像神社
大己貴神社・事代主神社
天神社  猿田彦神社  若葉神社
眾灵神様(シュウレイジンサマ)




境内の北側は県道を挟んで四国霊場十三番札所・大日寺があり、神仏習合の面影が偲ばれる


            大日寺山門                       大日寺本堂











四国八十八カ所 第13番札所 大栗山 花蔵院 大日寺
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、大師が現在の寺領に近い「大師の森」で修行を行っていると、空中に大日如来があらわれ、「この地は霊地ゆえ、一寺を建立せよ」と告げたという。 大師はさっそく大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建てて大日寺を寺号と決めた。 のちに、一宮神社の別当寺(神社境内に建てられ、その経営管理を行う寺)となり、明治の神仏分離令で一宮神社の本地仏、十一面観世音菩薩が移され、本尊とされた。
-『四国八十八カ所』から-



  

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2010年09月09日

武蔵国一宮 氷川女體神社(3)





女体神社とは、なんとなまめかしい名だ

閑人あらぬ想像をめぐらせて

胎中祭祀

を夢想してしまった



  〔左〕 鳥居に掲げられた扁額

   「武蔵國一宮 氷川女體神社」



  〔右〕 拝殿に掲げられた扁額

   「武蔵國一宮」







  神紋  八雲

  拝殿前の賽銭箱についていました

  神紋は氷川神社と同じ八雲でした









  十二角の鳥居の藁座

  男体の氷川神社は八角だった

  女体の氷川女體神社は十二角

  どうして違うの?


  

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2010年09月08日

武蔵国一宮 氷川女體神社(2)


氷川女體神社前の見沼代用水に架かる橋の向こうには、
不思議な柄鏡形の磐船祭祭祀遺跡がある。
まるで池に浮かぶ船のようだった。





浦和市指定史跡      氷川女体神社磐船祭祭祀遺跡
指定年月日 昭和五十四年三月二十八日
氷川女体神社のかつての最も重要な祭祀は御船祭でした。 しかし、享保十二年(一七二七)の見沼干拓によりそれが不可能となり、代わりに社頭の旧見沼内に柄鏡形の土壇場を設け、周囲に池をめぐらし、ここにその祭祀を移して行うことになりました。 それが磐船祭です。 実際にここで祭祀が行われたのは江戸時代中期から幕末ないしは明治時代初期までの短い期間ですが、その祭祀は見沼とは切り離せない古来からのきわめて重要なものです。 この遺跡は保存状態も良く、また、これを証すべき文書や記録も残されており、史跡としての価値が高いといえます。
面積 三九七一平方メートル
祭場(四本竹跡) 径三〇メートル
御幸道 長さ六五メートル
なお、昭和五十七年度に、復原整備事業を実施しました。
昭和五十九年十月   氷川女体神社・浦和市教育委員会
-氷川女体神社案内板から-




 長い御幸道を進むと、

 円形の祭祀遺跡が見えてくる。

 神秘的な雰囲気!





 円形の祭祀場
 中央に四本の榊 注連縄が張り巡らされた神籬
 ここは異次元の世界
 ひとり佇むと、心安まる

 ここは母の胎内
 丸い祭場は子宮  長い御幸道は産道
 生命発現の場所

 そんな気がする。



 御幸道の途中に、

 弁天島のような宗像社(?)が浮かぶ。

 市杵島比売命が祀られていたのかな?

 思い出せない!

  

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2010年09月08日

武蔵国一宮 氷川女體神社(1)


武蔵国一宮 氷川女體神社




武蔵国一宮 氷川女體神社

〔鎮座地〕  埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1  (旧浦和市)

〔社格〕    旧郷社  

〔御祭神〕  奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)  

〔配祀〕    大己貴命(おおなむちのみこと)・三穗津姫命(みほつひめのみこと)

〔御由緒〕  三室 氷川女體神社   さいたま市緑区宮本鎮座
 当社は崇神天皇の御代に、出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。 主祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命を配祀している。 当社の御手洗瀬である見沼を囲み大宮氷川神社(男体社)大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに、三社深い関係にあり、「三室」を伝えてきた。 古代、女神を祀ることや、社殿が東方に向いているなど、その創立の由緒を偲ばせている。 中世以来、武門の崇敬を集めており、これらにゆかりある宝物も多い。 徳川家康からは社領五十石を寄進され、また、徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。 古来からの御船遊神事は、見沼干拓後、磐船祭として行なわれ、その遺跡が現存している。 また、暖地性植物が繁茂する社叢は、天然記念物であり、ふるさとの森にも指定されている。
-境内案内板から-




 社叢は常緑広葉樹が繁茂し、下草は暖地性植物の群
 生地として、県の「ふるさとの森」に指定されている。

 石段を上り、「武蔵國一宮 氷川女體神社」の扁額が
 掛かった赤い鳥居をくぐる。





鬱蒼とした樹木が生い茂る広い境内。

御社殿は 三間社流造り。

寛文6年(1666)に、徳川家綱(四代将軍)の命により再興されたもの。

市指定の有形文化財となっている。



 社殿の裏の杜の中、

 四祠の末社が並ぶ。

 他に二祠を確認する。

 社名・祭神の案内はなく、詳細は分らなかった。




本殿は板玉垣に囲まれ、剥げ落ちた朱塗りのお姿は古さを感じる。

銅板葺屋根には四本の堅魚木。左側に内削ぎの千木、
右の千木は朽ち果て、その姿は痛々しい。

『神社名鑑』によると、本殿は権現造りであるという。
石の間は確認できなかった。

  

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2010年09月04日

八角の謎

閑人ここ数日悩んでいる。慣れないブログ始めたことが原因であるかもしれない。

悩むというよりも、心の中に何かモヤモヤとしたものがあり、どうもスッキリしないのだ。

そこでこの際、思い切ってここに ゲロ して、気分をスッキリさせることにした。

氷川神社で撮った画像を整理していたら、思わぬものを見つけてしまったのだ。

三之鳥居の柱の幹の部分が八角形の藁座(?)で覆われているのだ。

どうして、八角形?  何の意味があるの?

答えは見つかる筈もなく悩んでいるのだ。

閑人は八の字が好きなので、  にこだわっているのだ。

一之鳥居・二之鳥居はどうであろうか?

今となっては確認するすべもないが、便利なものがあった。

グーグルマップのストリートビューの画像に写っていたのだ。

一之鳥居・二之鳥居とも同じ八角の藁座であることが判った。

他にも氷川神社で八角形はあるのかな?

撮った画像を調べてみるともう一つあった。

楼門前の朱色の立灯籠(?)の柱が八角であった。

これ以上は見つからなかった。

今回の氷川神社の滞在時間は1時間程、画像も少ない。

拝殿で参拝していた時、団体さんの御祈祷が始まり

“拝殿内でのカメラ・ビデオの撮影はご遠慮下さい” とのアナウンス。

肝心の拝殿内や扉越しにかすかに見える本殿を撮ることはあきらめた。

2つの八角形を見つけたことで満足しなければいけないところなのだが、本殿が気にかかる。

どんな構造になっていたのか?

八角形はあったのだろうか?

もしかして、八角の柱?

と、バカげた思いがかけ巡る。

八角形にこだわる閑人である。

閑人は以前、大阪の大鳥大社で八角柱の鳥居を拝見したことがある。

住吉大社では四角柱の鳥居・四角筒の堅魚木。

いずれも閑人にとっては珍しく、出会った時は感動ものであった。

灯籠については今まで関心がなく、これが珍しいものかは判らない。

もしかして、八角の柱?

と思ったのには訳がある。

10年程前のことであるが、閑人はこの八角柱の本殿に偶然巡り合ってしまった。

名古屋市緑区にある氷上姉子神社である。

ここの本殿は尾張造で珍しかった。

拝殿内を撮影すると、見事に本殿の八角の床柱が写ってしまった。

その時はそれほど関心がなく、後日調べてみて驚いた。

「摂社 氷上姉子神社・・・現在の本殿は明治26年改造以前の別宮八剣宮の本殿を移築したものである。・・・」-小冊子・熱田神宮から抜粋-

現在の別宮八剣宮は唯一神明造で熱田本宮と同祭神・同社殿型式となっている。

それならば熱田神宮の本殿は昔は八角柱の尾張造であったのだろうか。

「熱田神宮は明治26年神器奉斎の故をもって、従来の尾張造の様式をあらため伊勢の神宮とほぼ同様の神明造に改造せられた。・・・昭和29年5月正式に、皇大神宮(内宮)古正殿譲渡の決定を見た。本殿は唯一神明造国宝級の内宮古正殿建物をそのまま譲渡を受けたわけである。屋根は市街地であるため建築基準法に準拠して銅板葺とし、掘立柱を沓石据えとし改築された。・・・」-小冊子・熱田神宮から抜粋-

尾張造ではあったが八角柱とは書かれていない。

しかし、八剣宮の八角柱は閑人も確認しているので、同祭神・同社殿型式の熱田本宮は当然八角柱でなければならない。

と閑人は勝手に思い込むのだった。

証拠はあるのだ。今でも八角柱の名残りがあるのだ。

熱田神宮に参拝してみて下さい。

あなたの頭上には 八角 が輝くのだ。

熱田神宮の拝殿・玉垣門の屋根には八角の堅魚木が載っているのだ。



おっと、話がそれて埼玉の氷川神社から名古屋に帰って来てしまった。

氷川神社の須佐之男命は熱田神宮にも祀られていることだし、これで良しとしよう。

閑人、にこだわりすぎか?

仕方がない 名古屋人だから 名古屋のマークはマル

このマル 熱田の八角柱に由来するとか

これって本当?   あること?  ないこと?  

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2010年09月02日

武蔵国一宮 氷川神社(2)



武蔵国一宮 氷川神社 (ひかわじんじゃ)





武蔵国一宮 氷川神社 (ひかわじんじゃ)

〔鎮座地〕  埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407 (旧大宮市)

〔社格〕    旧官幣大社  式内社武蔵国足立郡氷川神社(名神大・月次・新甞)

〔御祭神〕  須佐之男命(すさのおのみこと)
        稲田姫命(いなだひめのみこと)
        大己貴命(おおなむちのみこと)

〔御由緒〕  氷川神社は今から凡そ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。当神社は、歴朝の御崇敬・武将の尊敬も篤く、景行天皇の御代日本武尊は東夷鎮圧の祈願をなされ、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し、善政を布かれてから益々神威輝き、格式高く聖武天皇の御代武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預り又臨時祭にも奉幣に預っています。武家時代になってからは鎌倉、足利、徳川の各将軍家等相継いで尊仰し、奉行に命じて社殿を造営し社領を寄進する等、祭祀も厳重に行われていました。 明治の御代に至っては明治元年、都を東京に遷され当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と御定めになり天皇御親ら祭儀を執り行われました。次いで明治四年には官幣大社に列せられました。 昭和九年昭和天皇御親拝、昭和三十八年今上陛下が皇太子時に御参拝になられ、昭和四十二年十月、明治天皇御親祭百年大祭が執り行われ社殿、その他の諸建物の修復工事が完成し、十月二十三日昭和天皇・皇后両陛下御揃いで親しく御参拝になられました。昭和六十二年七月には天皇・皇后両陛下(当時皇太子・同妃殿下)が御参拝になられました。
-境内案内板から-



カーナビまかせで車を走らせると社前に無事到着

鬱蒼とした杜が広がり、三之鳥居が眼前に

鳥居をくぐると境内

右側に神楽殿・額殿 その奥に天津神社・六社






摂社 天津神社(あまつじんじゃ)

〔御祭神〕 少彦名命(すくなひこなのみこと)





末社 六社(ろくしゃ)
(山祇神社)  大山祇命(おおやまづみのみこと)
(石上神社)  布都御魂命(ふつのみたまのみこと)
(愛宕神社)  迦具土命(かぐつちのみこと)
(雷神社)    大雷命(おおいかづちのみこと)
(住吉神社)  底筒男命(そこつつのおのみこと)
          中筒男命(なかつつのおのみこと)
          上筒男命(うわつつのおのみこと)
(神明神社)  天照大御神(あまてらすおおみかみ)




左側に社務所・みこ神楽殿が並び
その先に松尾神社

末社 松尾神社(まつおじんじゃ)
〔御祭神〕 大山咋命(おおやまくいのみこと)






松尾神社の前を西へ進むと南側に稲荷神社


末社 稲荷神社(いなりじんじゃ)

〔御祭神〕 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)




北側の神池の中に宗像神社

摂社 宗像神社(むなかたじんじゃ)

〔御祭神〕 多起理比売命(たぎりひめのみこと)
       市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
       田寸津比売命(たぎつひめのみこと)






神池に架かる神橋を渡ると荘厳華麗な楼門が見えてくる






回廊の東門の外に門客人神社・御嶽神社

〔左〕摂社 門客人神社(もんきゃくじんじんじゃ)
〔御祭神〕 足摩乳命(あしなづちのみこと)
       手摩乳命(てなづちのみこと)

〔右〕末社 御嶽神社(みたけじんじゃ)
〔御祭神〕 大己貴命(おおなむちのみこと)
       少彦名命(すくなひこなのみこと)






回廊内に舞殿・拝殿・本殿が建ち並ぶ









本殿は拝殿と二重の玉垣によって護られ

そのお姿を直接拝見することは出来ない








拝殿越しに本殿の銅葺き屋根が望まれる

外削ぎの千木に5本の堅魚木を載せた流造のようだ  

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2010年09月01日

武蔵国一宮 氷川神社(1)







なんだ こりゃ~

氷川神社で見つけた謎のマーク?

拝殿前の献木奉納箱に描かれていました。

社務所の神官さんに尋ねると、

これは氷川神社の神紋で、珍しい雲紋の一種  八雲  だと教わりました。

あの八雲? そうだ、あの八雲だ!

スサノオ大好きの閑人はひとりで納得、感慨にふけった。


     八雲立つ  出雲八重垣  妻籠みに
                八重垣作る  その八重垣を



須佐之男命が出雲国の肥河上で八俣大蛇をやっつけ、櫛名田比売を救った時に詠んだ歌である。

『古事記』『日本書紀』にも載せられた我が国第一番目の歌謡である。

八雲は出雲にかかる枕詞。

出雲国の肥河(ひかわ)〔現在の斐伊川〕の地名が氷川神社の氷川(ひかわ)の語源となったものである。

氷川神社は出雲系の神スサノオノミコトを祀る神社であったのだ。



氷川神社楼門





                                                    〈 続く 〉

  

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2010年08月31日

一番始は一宮

さて、最初はどこへ行こうかな。

やはり、一番始は一宮!

神様好きの閑人、ここまでは直ぐに決まった。

でも、どこの一宮?

一宮は全国に100社以上もあるとか。

閑人ここで迷った。 迷った時は神頼み、運まかせ!

地図帳取り出し、目を閉じて、ページを開き、指さした所は~?

日本のほぼ中央     埼玉県

埼玉か~。

昔、川越市に行ったことはあるのだが、それは20年も前の話。

埼玉県の旧国名は武蔵国。 武蔵国の一宮は氷川神社。

氷川きよしを祀ってあるのかな? (これは冗談!)

決行日は次の休日、8月29日。

さぁ~ 行ってらっしゃ~い!  埼玉県

なんだか、ダーツの旅になってきたな、こりゃ。


  

Posted by 閑人 at 20:48Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣