2011年01月09日
第29番 土佐国分寺
四国八十八カ所 第29番札所 土佐国分寺
摩尼山 宝蔵院 土佐国分寺 (とさこくぶんじ)
〔所在地〕 高知県南国市国分546
〔宗派〕 真言宗智山派
〔本尊〕 千手観世音菩薩
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん ばさら たらま きりく
〔略縁起〕 四国各県に1ヶ所ずつある国分寺のうち、土佐高知のものがここ。 他の国分寺と同じく、聖武天皇の勅命によって天平13年(741)頃に建立。 そして行基菩薩が千手観世音菩薩を彫って本尊とした。 その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れた際、大師はここで厄除けの「星供(ほしく)の秘法」を修めたとされる。 ここ国分寺の弘法大師像が「星供大師」と呼ばれるのはこのためだ。 寺は歴代天皇から厚い加護を受けたが、何度かの兵火に遭っている。 それを再建したのは、かの天正の兵火で知られる長宗我部元親・国親。 柿茸(こけらぶ)き、寄棟造りで室町時代の特色を残した本堂が国の重要文化財に指定されているほか、往時の栄華を伝える境内全域が国の史蹟になっている。 なお、「土佐日記」の著者として知られる平安の歌人・紀貫之は、国分寺にほど近い国府に4年間滞在していた。
-『ドライブお遍路』から-
金堂(重要文化財)
桁行五間 梁間六間 単層四柱造柿茸本尊 千手観世音菩薩
金堂は七堂伽藍の中心となる建物で 本尊を安置するお堂。 現在の建物は永禄元年(一五五八年)に長宗我部国親・元親親子により創建時の金堂跡に再建されたもので 柿茸(こけらぶき)と天平時代のたてものに模した寄棟造りに特徴がある。 又、内部の海老虹梁は土佐最古といわれ吹寄垂木等に室町時代の特色がうかがわれる。 明治三十七年に国の特別保護建造物に指定され現在にいたる。
-境内案内板から-
山門 明暦元年建立 ひとこと地蔵 (酒断地蔵尊) 開山堂 本尊 行基菩薩
土佐国総社
比江に国庁が置かれ国司が土佐を治めていた時代に、国内の代表神社(式内社)を巡拝することに代えて土佐国二十一社(安芸三、香美四、長岡五、土佐五、吾川一、幡多三)を国庁所在地に勧請して一社を建設したのがこの総社といわれる。 当初は国分新町の南方にあり、次いで元国分寺境内の現在地に移されたものである。-境内案内板から-
国を分け 宝を積みて 建つ寺の
末の世までの 利益のこせり
2011年01月08日
第28番 大日寺
四国八十八カ所 第28番札所 大日寺
法界山 高照院 大日寺 (だいにちじ)
〔所在地〕 高知県香南市野市町母代寺476
〔宗派〕 真言宗智山派
〔本尊〕 大日如来
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん ばさら だどばん
〔略縁起〕 天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願により、行基が開基。弘仁6年(815)に大師が四国霊場の一つとして再興した。17世紀初頭の慶長年間以降は土佐藩の祈願所として栄えるも、明治に入って神仏分離令後の廃仏毀釈により廃寺となる。しかし、その間も地元の人たちは本堂を大日堂と改称して本尊を守りつづけた。 そのかいあって、明治27年に寺は再興。 現在の堂宇は、平成9年に建立されたものである。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
〔左〕 山門
〔右〕 六角堂
露霜と 罪を照らせる 大日寺
などか歩みを 運ばざらまし
2011年01月07日
第27番 神峯寺
四国八十八カ所 第27番札所 神峯寺
竹林山 地蔵院 神峯寺 (こうのみねじ)
〔所在地〕 高知県安芸郡安田町唐浜2594
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔本尊〕 十一面観世音菩薩
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
〔略縁起〕 神峯山(標高452m)の山頂近くに建つこの寺は遍路泣かせの急勾配で、古くから「土佐の関所」と呼ばれる。神功皇后が、戦勝祈願のため天照大神など諸神を祀ったのが始まり。その後、天平2年(730)聖武天皇の勅願で行基が十一面観世音菩薩を本尊とし、大師が大同4年(809)に堂宇を建立し、神仏合祀を行い、四国霊場の一つと定めた。明治初年の神仏分離令で廃寺となるが、明治17年に再興され、いまに至っている。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 御本尊十一面観世音菩薩
大師堂 山門(仁王門) 不動明王像
み仏の 恵みの心 神峯
山も誓ひも 高き水音
2011年01月07日
第26番 金剛頂寺
四国八十八カ所 第26番札所 金剛頂寺
龍頭山 光明院 金剛頂寺 (こんごうちょうじ)
〔所在地〕 高知県室戸市元乙523
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
〔略縁起〕 寺域が3万3000㎡もあるこの寺は、大同2年(807)、嵯峨天皇の勅願により大師が開基した。「土佐西寺」と呼ばれ、室戸三山の一つである。鎌倉期には3500石に寺領を持つ大寺であったが、文明11年(1479)に焼失。現在の寺塔は、多宝塔を除きすべて旧観どおり再建されたものである。大師の遺品と伝わる阿弥陀如来像(木造)、旅壇具(金銅製)、真言八祖像(板彫)、朝鮮鐘(銅製)などが所蔵されている。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
山門(仁王門) 一粒万倍の釜 霊宝殿
往生に 望みをかける 極楽は
月のかたむく 西寺のそら
2010年12月28日
第25番 津照寺
四国八十八カ所 第25番札所 津照寺
宝珠山 真言院 津照寺(しんしょうじ)
〔所在地〕 高知県室戸市室津2652
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔本尊〕 延命揖取地蔵菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん かかかび さんまえい そわか
〔略縁起〕 室戸岬を見下ろす小高い山に佇む津照寺は、通称「津寺」と呼ばれている。大師が四国を巡錫の際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ていることから、この地を霊地と考え、延命地蔵菩薩を自ら刻んで本尊とし、寺号を真言院津照寺とした。本尊の延命地蔵菩薩は、土佐藩主、山内一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭った際、大僧に身を変えて船を救ったことから「揖取地蔵」とも呼ばれ、海の仕事に従事する者の信仰を集めている。
-『四国八十八カ所』から-
鐘楼門 大師堂 山門
法の舟 入るか出るか この津寺
迷ふ吾身を のせてたまへや
2010年12月28日
第24番 最御崎寺
四国八十八カ所 第24番札所 最御崎寺
室戸山 明星院 最御崎寺 (ほつみさきじ)
〔所在地〕 高知県室戸市室戸岬町4058-1
〔宗派〕 真言宗豊山派
〔本尊〕 虚空蔵菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまり ぼり そわか
〔略縁起〕 室戸岬は、仏門に入って間もない弘法大師が苦修練行を重ねた地。弱冠19歳だった大師は洞窟にこもり、虚空蔵求聞持法を修行した。厳しい修行がつづいたある夜、虚空蔵菩薩の仮現である明星が飛来して大師の口の中に入ったという。のちの大同2年(807)、唐から帰国した大師は、再びこの地を訪れて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本堂を建立したという。第二十六番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれるのに対し、当山は「東寺」と呼ばれる。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
多宝塔 鐘楼堂
明星の 出ぬる方の 東寺
暗き迷いは などかあらまじ
2010年11月03日
第23番 薬王寺
四国八十八カ所 第23番札所 薬王寺
医王山 無量寿院 薬王寺 (やくおうじ)
〔所在地〕 徳島県海部郡美波町奥河内寺前285-1
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、平城天皇の勅令を受け、弘法大師が薬師如来を刻んで本尊とし、二十三番目の札所とした。 本堂には二体の薬師如来が安置されているが、うち一体の大師作とされる薬師如来には不思議な伝説がある。 文治4年(1188)、火災を逃れようと自ら玉厨子山に飛び立った薬師如来が、新しい本尊が入仏する日に戻り、新しい像の後ろに鎮座したという。 以来、この本尊は「後ろ向き如来」と呼ばれている。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 本堂内陣
大師堂 山門
皆人の 病みぬる年の 薬王寺
瑠璃の薬を 与えましませ
2010年11月02日
第22番 平等寺
四国八十八カ所 第22番札所 平等寺
白水山 医王院 平等寺 (びょうどうじ)
〔所在地〕 徳島県阿南市新野町秋山177
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 弘仁5年(814)、大師41歳のとき、厄除け修行のためこの地を訪れると、空中に5色の瑞雲がたなびき、その中に金色の梵字があらわれた。 大師が喜んでこの梵字を加持すると、四方に光が照り輝いて、薬師如来い姿を変えたという。 そこで、大師は加持水を求めて杖で井戸を掘ると、乳白色の水が湧き出した。 山号はその水に由来する。 また、大師はその水で、人々が平等に救済されることを祈念して、寺号を平等寺と定めたという。
-『四国八十八カ所』から-
平等に 隔てのなきと 聞く時は
あら頼もしき 仏とぞみる
2010年11月01日
第21番 太龍寺
四国八十八カ所 第21番札所 太龍寺
舎心山 常住院 太龍寺 (たいりゅうじ)
〔所在地〕 徳島県阿南市加茂町龍山2
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 虚空蔵菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんあり きゃまりぼり そわか
〔略縁起〕 延暦17年(798)、桓武天皇の勅願で、国司、藤原朝臣文山が寺塔を建て、大師が開基した。 この寺のある標高602mの大瀧嶽は、大師の青年時代の修行地でもあり、大師の思想形成に大きな影響を与えた場所。 山号の「舎心」とは捨身の意で、大師の苦行のすさまじさがしのばれる。 また寺号は、修行中の大師を守護したという大龍(龍神守護)からとられた。 開基後、幾度も興廃をへるが、平成3年には大修理がなされた。
-『四国八十八カ所』から-
鐘楼門 持仏堂の天井画 竹村松嶺画
本堂 大師堂
太龍の 常にすむぞや げに岩屋
舎心聞持は 守護のためなり
2010年11月01日
第20番 鶴林寺
四国八十八カ所 第20番札所 鶴林寺
霊鷲山 宝珠院 鶴林寺 (かくりんじ)
〔所在地〕 徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 地蔵菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん かかかび さんまえい そわか
〔略縁起〕 延暦17年(798)、桓武天皇の勅願により開かれた。 大師がこの地で修行中、雌雄の2羽の白鶴がかわるがわる老杉に舞い降りては、小さな黄金の地蔵菩薩を守護しているのを見た。 大師はすぐに3尺(約90㎝)の地蔵菩薩を彫り、その胸の部分に黄金の地蔵菩薩をおさめて本尊としたという。 また、この寺の山の姿がインドの山の一つ、霊鷲山に似ていることから、山号名づけられた。 本堂両わきには、伝説の白鶴の像がある。
-『四国八十八カ所』から-
しげりつる 鶴の林を しるべにて
大師ぞいます 地蔵帝釈
2010年10月31日
第19番 立江寺
四国八十八カ所 第19番札所 立江寺
橋池山 摩尼院 立江寺 (たつえじ)
〔所在地〕 徳島県小松島市立江町若松12
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 延命地蔵菩薩
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん かかかび さんまえい そわか
〔略縁起〕 天平19年(747)、行基が光明皇后の安産を祈願して1寸8分(約5.5㎝)ほどの黄金の地蔵菩薩を彫り、それを本尊として堂宇を建立したのが始まり。 のちの弘仁6年(815)、大師がこの地を訪れた際、本尊のあまりの小ささから紛失を恐れ、大師自ら6尺(約180㎝)の地蔵菩薩を刻み、本尊をその胎内におさめたという。 そのときに寺号を立江寺とし、第十九番目の札所に定めた。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 本堂の格天井画
山門 (仁王門) 大師堂
いつかさて 西の住居の わが立江
弘誓の船に 乗りていたらむ
2010年10月31日
第18番 恩山寺
四国八十八カ所 第18番札所 恩山寺
母養山 宝樹院 恩山寺 (おんざんじ)
〔所在地〕 徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 もともとこの寺は、大日山福生院密厳寺と号し、女人禁制の寺であった。 開基より100年ほどのち、大師がこの地で修行をしていた際に、母君である玉依御前が讃岐からやってきて大師に会おうとした。 しかし、寺は女人禁制であるためかなわない。 そこで大師は、7日間にわたって女人解禁の秘法を行い、ついに成就して母を迎え入れ孝行をしたという。 そして、このとき山号と寺号を母養山恩山寺と定めた。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂と玉依御前の剃髪所
子を産める その父母の 恩山寺
とぶらいがたき ことはあらじな
2010年10月31日
第17番 井戸寺
四国八十八カ所 第17番札所 井戸寺
瑠璃山 真福院 井戸寺 (いどじ)
〔所在地〕 徳島県国府町井戸北屋敷80-1
〔宗派〕 真言宗善通寺派
〔本尊〕 七仏薬師如来
〔開基〕 天武天皇勅願
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 天武天皇の勅願により開かれ、もとは瑠璃山妙照寺といった。 弘仁6年(815)、大師は本尊の七仏薬師如来を拝むために当地を訪れた。 その際、濁り水に難渋している村人を見た大師は、自らの杖で一夜のうちに井戸を掘り、清らかな水を湧き出でさせたという。 現在の寺号はこれに由来。 寺はのちに細川頼之の戦乱で焼失。 現存のものは、慶長年間に再興された。 また、大師自ら刻んだとされる十一面観世音菩薩は、国の重要文化財。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
井 戸 寺 縁 起
当山は四十代天武天皇御勅願白鳳二年(西暦六七三年)の御開基なり、元瑠璃山妙照寺と号し、弘仁六年(西暦八一五年)春弘法大師四十二才の御時、四国八十八ヶ所霊場御開創の砌、しばらく御留錫あって一刀三礼にて御丈尺余の土面観世音菩薩(一木一体の御作、旧国宝)を御彫刻なされ、当地方濁水なるをあわれみ給ひ、大師みづから錫杖にて一夜のうちに井戸を掘り清水湧出すおもかげを写し石に御影を彫刻した御尊像あり日を限って誓願すれば直に御利益多く世に日限大師として名高し、当山御詠歌に「おもかげをうつしてみれば井戸の水むすべばむねのあかやおちなむ」とその後寺号を井戸寺附近を井戸村と名付けられたり当山御本尊七佛薬師如来七躯は全国唯一にして七難即滅七福即生開運厄除難病平癒の霊験あらたかにして護摩堂不動明王は除災交通安全の守護あらたかなり 当山大門は蜂須賀重善大谷別邸の門を寄贈されて有名なり-『境内案内板』から-
おもかげを うつして見れば 井戸の水
むすべば胸の あかや落ちなん
2010年10月30日
第16番 観音寺
四国八十八カ所 第16番札所 観音寺
光耀山 千手院 観音寺 (かんおんじ)
〔所在地〕 徳島県徳島市国府町観音寺49-2
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 千手観世音菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん ばさら たらま きりく
〔略縁起〕 聖武天皇が全国に国分寺、国分尼寺を創立させたのと時期を同じくして開かれたと伝えられる。 のちの弘仁7年(816)、大師がこの地を訪れ、千手観世音菩薩を刻んで本尊とし、現在の寺号を定めたとされる。 同時に大師は鎮護国家を祈って毘沙門天を、悪魔退散の意をこめて不動明王を刻み、本尊の脇侍として安置した。 寺はのち戦火によって焼失したが、万治2年(1659)に僧宥応が再建し、現在に至っている。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
八幡大神宮・惣社大御神
八幡総社両神社の由緒 阿波国の総社として、阿波国府の所在地に設けられた神社。 国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり奈良時代国司はこれらの神社に幣を奉り、これに詣ずるを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通りに行われなくなり、従来国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府(国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのが総社の起源である。 当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政三年(一八五六年)再建の棟札を存する。 「寛保改神社帳」には「観音寺村惣社大明神」「観音寺村八幡宮」とある。 なお、南方五〇〇メートルほどはなれた所に、面積約三千坪に及ぶと言われる当社の旧社地があったとされ、「総社が原」の呼称が現在に伝わっている。主祭神 (八幡神社) 応神天皇 (総社) 阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四六社あり、国府町内では大御和神社(府中の宮)、八倉比売神社などが式内社である。
平成二十一年十月吉日 八幡総社両神社氏子中・夢ロマンの町国府協議会
-『境内石碑』から-
忘れずも 導きたまへ 観音寺
西方世界 弥陀の浄土へ
2010年10月29日
第15番 阿波国分寺
四国八十八カ所 第15番札所 阿波国分寺
薬王山 金色院 阿波国分寺 (あわこくぶんじ)
〔所在地〕 徳島県徳島市国府町矢野718-1
〔宗派〕 曹洞宗
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 行基菩薩
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 天平13年(741)、聖武天皇の勅命により全国68ケ所に創建されたのが国分寺、国分尼寺。 四国霊場にも四つの国分寺があり、ここ徳島の国分寺が札所順では最初だ(高知、愛媛、香川も一カ所ずつ国分寺が札所となっている)。 寺を開いたのは行基菩薩で、本尊も行基作とされる。 弘法大師は弘仁の頃(810~824)にここを訪れて四国霊場に定め、宗派を真言宗とした。 当時は広大な寺領(寺の領地)を持ち、金堂や七重塔も建つ壮大な伽藍を誇っていた。 しかし長宗我部元親による天正の兵火からは逃れられず焼失してしまった。 その後、江戸中期に阿波藩郡奉行・速水角五郎によって再建され、その際に宗派が曹洞宗に改められた(曹洞宗の札所は四国霊場でここだけ)。 重層の入母屋造りとなる堂々とした本堂や、山門脇にある七重塔の礎石に、かつての繁栄ぶりが偲ばれる。
-『ドライブお遍路』から-
山門 大師堂
徳島県指定文化財 史跡 阿波国分寺跡 昭和28年7月21日指定
国分寺(金光明四天王護国之寺)は、741年(天平13)の聖武天皇の勅旨により、尼寺とともに全国に建立された官立寺院である。 阿波国分寺跡は、昭和53年度以降の発掘調査で、金堂から延びると想定される回廊跡や築地跡、寺域を画する溝などが確認されたことから、かつては西に塔を配置し、金堂・講堂などが一直線に並ぶ東大寺式伽藍配置を有し、現国分寺を中心とした方2町(約218m四方)に及ぶ範囲に存在していたと考えられている。 現在境内の隅に残る塔心礎は、寺の南西側の「塔ノ本」の字名が残る水田の中から出土したと伝えられるものであり、また周辺地域には東門・西門・北門・坊などの字名が現在も残っている。 出土遺物の一部は、徳島市立考古資料館で収蔵・展示公開している。
平成14年11月15日設置 徳島県教育委員会 徳島市教育委員会
-『境内案内板』から-
本堂 七重塔心礎石
薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば
流転生死の 秋の紅葉ば
2010年10月29日
第14番 常楽寺
四国八十八カ所 第14番札所 常楽寺
盛寿山 延命院 常楽寺 (じょうらくじ)
〔所在地〕 徳島県徳島市国府町延命606
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 弥勒菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん まい たれいや そわか
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、大師の修行中、弥勒菩薩が多くの菩薩を従えてあらわれた。 大師は霊木にその姿を刻んで本尊とし、当山を開いた。 その後は、弟子の真然僧正、祈親法師によって整備され、七堂伽藍がそびえ立つ大寺となる。 しかし、戦国期の戦火によって焼失。 万治2年(1659)に、蜂須賀家によって再興され、文化15年(1818)にため池を造るために現在の場所に移された。 本尊の弥勒菩薩は、八十八カ所中、唯一。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
あららぎ大師 大師像
常楽の 岸にはいつか いたらまし
弘誓の船に 乗り遅れずば
2010年10月24日
第13番 大日寺
四国八十八カ所 第13番札所 大日寺
大栗山 花蔵院 大日寺 (だいにちじ)
〔所在地〕 徳島県徳島市一宮町西丁263
〔宗派〕 真言宗大覚寺派
〔本尊〕 十一面観世音菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、大師が現在の寺領に近い「大師の森」で修行を行っていると、空中に大日如来があらわれ、「この地は霊地ゆえ、一寺を建立せよ」と告げたという。 大師はさっそく大日如来を刻んで本尊とし、堂宇を建てて大日寺を寺号と決めた。 のちに、一宮神社の別当寺(神社境内に建てられ、その経営管理を行う寺)となり、明治の神仏分離令で一宮神社の本地仏、十一面観世音菩薩が移され、本尊とされた。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
しあわせ観音 県道を挟んで一宮神社があり、神仏習合の面影が偲ばれる
阿波の国 一の宮とや ゆふだすき
かけて頼めや この世後の世
2010年10月21日
第12番 焼山寺
四国八十八カ所 第12番札所 焼山寺
摩盧山 正寿院 焼山寺 (しょうさんじ)
〔所在地〕 徳島県名西郡神山町下分地中318
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 虚空蔵菩薩
〔開基〕 役行者小角
〔真言〕 のうぼうあきゃしゃきゃらばや おんありきゃまりぼりそわか
〔略縁起〕 大宝年間(701~704)、役行者小角(修験道の祖)が修行のため開山した。 弘仁6年(815)、大師はこの地に棲みついた大蛇から人々を守ろうと、寺塔建立を思い立ち山を登る。 大蛇は大師を阻もうと、全山を火の海に。 ひるまず大師は摩盧(梵語で水輪の意)を結んで進むと、火は衰えた。 さらに大師は、襲いかかる大蛇を虚空蔵菩薩の力を借りて退治し、岩に閉じ込めたという。 寺の山号の由来はここからついている。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
三面大黒天堂 十二社神社
後の世を 思へば恭敬 焼山寺
死出や三途の 難所ありとも
2010年10月20日
第11番 藤井寺
四国八十八カ所 第11番札所 藤井寺
金剛山 一乗院 藤井寺 (ふじいでら)
〔所在地〕 徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
〔宗派〕 臨済宗妙心寺派
〔本尊〕 薬師如来
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、大師42歳の厄年に、衆生と自らの厄災を除くため薬師如来を刻み、堂宇を建てて安置したのが始まりとされる。また、そのとき大師は境内に5色の藤を植えたとされ、寺号の由来にもなっている。開基から江戸期に入るまでは真言宗の寺だったが、戦火にもあい、衰退はなはだしい寺を南山国師(阿波藩主の帰依した僧)が入山して再興した際、宗派を臨済宗に改めた。本尊の薬師如来は、国の重要文化財。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 内陣
林雲渓作の天井画 大師堂
白龍弁財天堂 山門 (仁王門)
色も香も 無比中道の 藤井寺
真如の波の たたぬ日もなし
2010年10月19日
第10番 切幡寺
四国八十八カ所 第10番札所 切幡寺
得度山 灌頂院 切幡寺 (きりはたじ)
〔所在地〕 徳島県阿波市市場町切幡129
〔宗派〕 高野山真言宗
〔本尊〕 千手観世音菩薩
〔開基〕 弘法大師
〔真言〕 おん ばさら たらま きりく
〔略縁起〕 弘仁6年(815)、この山麓を行脚中であった大師は、綻んだ衣を繕おうと近くの民家を訪ねた。 すると家の中で機を織っていた娘が、織りかけの布を惜しげもなく裁ち切って差し出した。 これに感動した大師は、布のお礼として娘の願いを聞き入れ、一晩で観音像を刻んで灌頂を授けた。 すると、たちまち娘の身から7色の光明が放たれ、千手観音の姿にかわったという。 大師はこれを嵯峨天皇に申し出、寺をこの地に建立したのが始まり。
-『四国八十八カ所』から-
本堂 大師堂
〔左〕 はたきり観音
機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像
右手にはさみを左手に布を持つ姿である
〔右〕 山門(仁王門) 得度山の扁額が掛かる
国指定重要文化財 切幡寺大塔
この大塔は元、徳川家康の勧めに依り、豊臣秀吉の増進菩提のため慶長十二年(1607)豊臣秀頼が大坂・住吉大社神宮寺に建立したものである。明治初頭、同寺が神仏判然令により廃寺となったため明治六年(1874)当山第四十五世住職天祐上人が買い受け、ここに解体移築したが同上人の時代には初重部のみ仕上がり、続いて智堪上人が二重部を仕上げ、完成に十年を要した。
その特徴は五間四面にして、初重と二重との間が方形をなす大塔である。今日この形式の遺構は本邦唯一であり、国指定重要文化財たる所以である。
総高二十四・一六米
指定 昭和五十年六月二十三日
-境内案内板から-
欲心を ただ一筋に 切幡寺
後の世までの 障りとぞなる