2014年05月22日

海上釣堀 マルヨ


5月21日  雨のち晴  強風  (小潮)
三重県度会郡南伊勢町方座浦
つりぼり  マルヨ



イシダイ ヒラメ ハタマス








〔6人の釣果〕  28

ワラサ 1    カンパチ 2
シオ 4    シマアジ 3
ヒラメ 1    ハタマス 1
イシダイ 1    マダイ 15




〔閑人の釣果〕  9

シオ 1 (活きアジ)
ヒラメ 1 (活きアジ)
ハタマス 1 (シラサ)
イシダイ 1 (アオムシ)
マダイ 5 (ダンゴ3・アマエビ1・シラサ1)



  

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2014年03月20日

海上釣堀 辨屋


3月19日  晴 (中潮)
三重県度会郡南伊勢町礫浦
海上釣堀  辨屋



ブリゲット!





3か月のブランク。 今年初めての釣行。

Kさんのグループに仲間入り。 小イカダを7人で貸し切り。



仲間の遅刻があって、30分遅れでスタート。

朝一は喰い渋り、閑人のマダイ1枚のみ。

3か月のブランクは大きい、竿さばきがシックリこない。



最初の放流はマダイを中心に、一人当たり2枚ほどか。

やや活性が上がり、グループ全員にアタリ。

Uさんにはブリがヒット。

閑人にはマダイ1枚、なかなか調子は上がらない。

得意のシラサでマダイを狙うが、アタリは遠い。



青物放流はブリ・カンパチ・ワラサの6本。

閑人にはブリとワラサがヒット。

全体では7本の青物をゲット。



青物祭りが終わると、イカダ全体に沈黙がおとずれた。

閑人は徹底してマダイねらい。

空いているコーナーを巡って、マダイを3枚。

ダンゴ餌にしか喰ってこない、シラサは不発。



昼過ぎからアマエビにアタリが出始めた。

アマエビで連続5枚のマダイ。

アマエビにアタリが遠のくとアオムシで2枚。



終日シラサを使い続けるも、この日はノーヒット。

こんな日もあるのか、シラサ使いの難しさを改めて実感した。






〔閑人の釣果〕  13

ブリ  1(活きアジ)
ワラサ  1(活きアジ)
マダイ  11(アマエビ5・ダンゴ4・アオムシ2)


  

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2014年01月12日

但馬国一宮 粟鹿神社


但馬国一宮
粟鹿神社
 (あわがじんじゃ)





但馬国一宮 粟鹿神社 (あわがじんじゃ)

〔鎮座地〕 兵庫県朝来市山東町粟鹿鴨ヶ端2152

〔社格〕 旧県社  但馬国朝来郡の式内社・粟鹿神社(名神大)

〔御祭神〕 粟鹿大神 (あわがのおおかみ) (合わせて十一柱の神々が本殿に祀られている)

  〔主祭神〕 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)
         天美佐利命(あめのみさりのみこと)
         日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)

〔御由緒〕 当社は背後の粟鹿山(標高962m)を神奈備とし、京都府に隣接する山陰道の宿場町として栄えた要所に鎮まっている。
 祭神は十一柱を総称して粟鹿大神というが、以下の三神を主な祭神としてとしている。 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)は開化天皇の第三皇子であり、四道将軍の一で丹波国に派遣された丹波道主神と共に丹波・但馬地方を平定し開拓した。 本殿の後方には円墳があり、日子坐命の陵墓であると伝える。 また『粟鹿大明神元記』には、大国主命の御子神である天美佐利命(あめのみさりのみこと)を鎮め祀ったと記している。 他に、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)が塩満珠(しおみちのたま)を当社に奉納したという伝承から、この神を祀ったといわれている。
 『正倉院文書』に「天平九年神戸租調稲凡二〇七六束」とあり、他の古文献にも神階昇叙の記述がみえ、既に但馬国の名社として朝廷に知られていたことがわかる。 『延喜式』に名神大社として記載され、以降も但馬国の守護神として崇敬を集めた。 明治以降県社に列格した。
-『全国一の宮めぐり』から-



勅使門 (ちょくしもん)
 朝来市指定文化財 (建造物)
 粟賀神社 勅使門   昭和47年4月1日指定
 勅使門は、勅使が神社に参向する際、出入りする門である。 粟賀神社では、四回の勅使参向があったことが記録に残っている。 創建年は不詳。 桁行三.九五メートル、梁間三.三メートル、妻造りの四脚門形式で、建材の大部分は欅である。 屋根は現在銅板葺であるが、以前は桧皮葺であった。 柱は上下に、粽を施して基盤の上に立っている。 柱上の組物、中備えの三斗詰組、海老虹梁、木鼻等は唐様の手法を示している。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれている。 頭貫には簡単な若草模様が見え、全体的には唐様であるが、妻梁を受ける本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。 度々の災禍も免れたと伝えられ、数少ない遺構の一つである。
  平成二十四年三月      朝来市教育委員会
-「境内案内板」から-



随神門  (日の出門)

 随神倚像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
 狛犬像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
-「境内案内板」から-





御社殿

              拝殿                            本殿













境内社

        茗荷神社             猿田彦神社              厳島神社


茗荷神社 (みょうがじんじゃ)
〔御祭神〕 草野姫命 (かやのひめのみこと)
(粟鹿神社の神紋抱き茗荷は境内にこの末社を祀るによる)

猿田彦神社 (さるたひこじんじゃ) (庚申社)
〔御祭神〕 猿田彦神 (さるたひこのかみ)
(交通安全・除災の神)

厳島神社 (いつくしまじんじゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
(海上守護・財福技芸の神)


        床浦神社              稲荷神社               天満宮


床浦神社 (とこうらじんじゃ)
〔御祭神〕 大己貴神 (おおなむちのかみ)
(医療・縁結びの神)

稲荷神社 (いなりじんじゃ)
〔御祭神〕 保食神 (うけもちのかみ)
(農業・食物の神)

天満宮 (てんまんぐう)
〔御祭神〕 菅原道真公 (すがわらのみちざねこう)
(学問の神)




御陵

日子坐王御陵


御陵  本殿背後に丘陵あり、古来より御陵または神墓・御塚とも呼ばれ、日子坐王の御墳墓と云はれている。 高さ六米、方の辺の長さ約四六米、重湟ありしも現在は内湟の一部が残る。
-『粟賀神社由緒』から-



主なる御祭神

一、天美佐利命(あめのみさりのみこと) (大國主命の御子)
 『粟鹿大明神元記』に依れば「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神(あらぶるかみ)、即ち天美佐利命の神狀を朝廷に申出で、幣帛を給って鎮め祭らしむ」と記されている。 即ち社記と併せて推察するに、祀られし場所は、粟鹿山中腹の池ヶ平(いけがなる)と推定される。

二、日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと) (開化天皇の第三皇子)
 この命は第十代崇神天皇の御代、四道将軍の一人として旦波・若狹および山陰地方を平定巡按せられ、当地に於ひて薨去、鴨ヶ端の現社殿背後の丘陵に祀る、と伝へられている。
 第十四代仲哀天皇の御后で命の四代目の孫にあたる神功皇后は、新羅に軍を進める前に、勅使を粟賀神社に差遣して戰勝を祈願せられ、凱旋の後に其の報賛として右丘陵の南端に新しく社殿を建て、池ヶ平(いけがなる)の神社御祭神を遷座奉安せられ、合はせて命をも御祭神として祀られた、と云はれる。(粟鹿大社縁起)

三、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと) (古事記に傳へる山狹知毘古)
 尊が海神から授けられたと云ふ満・干二珠を、神功皇后が新羅に捧持せられ、凱旋のとき塩満珠を粟賀神社に奉納せられし故事から、尊を御祭神として祀ったものと考へられる。

四、以上の神々と共に左の神々が本殿に祀られている。
 阿波奈岐尊 (あわなぎのみこと)
 伊弉奈岐尊 (いざなぎのみこと)
 天照大日孁尊 (あまてらすおほひるめのみこと)
 籠神 (このかみ)
 鵜草葺不合尊 (うがやふきあへずのみこと)
 月讀尊 (つきよみのみこと)
 素盞嗚尊 (すさのをのみこと)
 豊玉姫尊 (とよたまひめのみこと)
-『粟賀神社由緒』から-



  

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2013年12月18日

海上釣堀 傳八屋


12月17日  晴  強風  (大潮)
三重県度会郡南伊勢町迫間浦
釣り堀 傳八屋



今年のささやかな幸運はボスジャンが当たったことかな。

街着ではちょっと恥ずかしいので、釣り用の防寒着として使うことにした。


この幸運に恵まれて、今年最後の釣行は?






今年最後の釣行は久しぶりの傳八屋へ。

辨屋のアイゴに嫌気がさしていたので、丁度良い。

大筏を9人で貸し切り。


今回の目玉は、大ブリがイカダに1本放流されることである。

誰が釣るのか?  確率は9分の1?  誰にも釣れないかもしれない。




閑人は西南に陣取って、一斉のスタート。

朝一は、ダンゴ餌の第1投でマダイ。 第2投でもマダイ。

第3投は素針を引いた。 第4投もマダイ。

釣り座に恵まれたのか、幸先が良すぎる。 あとが恐い。

釣り座を皆に譲って、一服。



最初の放流はマダイとイサキ。

1人当たり1匹とは、少ない放流量に大いに不満。

少ない放流にもかかわらず、マダイは良く釣れた。

皆さん頑張って、放流量の3倍は釣ってしまった。



2回目の放流は、本日メインの大ブリ放流。

大ブリ1本に5本の青物。 ツバスにマダイ少々。



この大ブリ誰が釣る?  そりゃあ我でしょう。

活きアジつけて第1投。

誘い続けて2分間、来ました我に。

この重量感たまりません。

でも、カンパチでした。 残念。



活きアジ付け直して第2投。

誘い続けて5分間、ついに来ました大ブリが。

格闘すること8分間、見事大ブリ釣り上げました。



今日はこれで大満足。

それでも欲張って、もう1本。

今度は、大きなハタマスでした。

この季節、鍋物には良いですね。 貴重な食材です。



一年の締めくくり釣行。 大満足の1日でした。





〔9人の釣果〕  55

大ブリ  1
カンパチ  2
ハタマス  3
シマアジ  2
マダイ  33
ツバス  5
イサキ  9



〔閑人の釣果〕  13

大ブリ  1 (活きアジ)
カンパチ  1 (活きアジ)
ハタマス  1 (活きアジ)
シマアジ  1 (シラサ)
マダイ  8 (ダンゴ6・シラサ2)
イサキ  1 (ダンゴ)




  

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2013年12月07日

第33番 那古観音


坂東三十三ヶ所 第33番札所 那古観音





補陀洛山 (ふだらくさん)  那古寺 (なごじ)       通称 那古観音

〔所在地〕 (安房国) 千葉県館山市那古1125

〔宗派〕 真言宗智山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 養老元年 (717)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『那古寺縁起』によれば、養老元年(717)、僧行基が老翁のお告げにより、ここの海中より香木を得て千手観音像を刻んだ。 元正天皇の御悩平癒の祈念したところ、直ちに効験があったので、勅願によって山上に伽藍が建てられたとある。 のちに慈覚大師が止住せられ、さらに正治年間(1199~1201)、秀円上人(しゅうえんしょうにん)に至って真言密教の霊場となった。
 源頼朝がこの御本尊に帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏・里見義実もあつい信仰を捧げた。 特に里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張し、江戸時代初期には末寺十五ヶ寺、駕籠側八人衆、三百石を領する大寺となった。
 元禄16年(1703)の大震災で堂塔は全壊したが、江戸幕府は岡本兵衛を奉行として、宝暦8年(1758)、場所を現在地に遷して再建された。



御本尊の御影





御住職の法話

    山主の観音日誌より         那古寺第六十二世山主 石川良泰

 ある日一人の老婦人が本堂での読経後静かに私に語りかけた。
 私は近くの農村から戦前横浜に嫁いだ者です。 空襲で焼け出され幼い子供の手を引いて故郷の母を頼って帰りました。 ある時、母と二人、郡古観音さまの緋縁に座し、このまま田舎に帰って百姓をするか、再び横浜に出るか迷いに迷いました。
 その時母に「今のお前にはいずれにしても住むに家なしだ。 故郷で兄にわずかな農地を分けてもらい、小百姓となってもうだつもあがらぬ。 苦労も多い。 同じ苦労するなら空襲で死んでしまったつもりで横浜へ出て一生懸命働きなさい」と言われて、泣き泣き横浜へ出た。
 それからは頑張りに頑張って働いた。 おかげで子供も成功を収め、今では親戚一番の幸せ者とほめられるようになった。 私は毎年故郷へ帰るとまずお観音さまに詣で、次に今はなき母の墓前にぬかづき、さらに親戚廻りをすることにしています。
 郡古観音の朱塗りの縁で母が私にさとしてくれた言葉は、母の口を通して語られたお観音さまのお告げであると固く信じて今日まで過ごして参りました。 お観音さまのお慈悲ほど有難いものはございません、と。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

     〔御墨書〕     「奉拝」  「安房國」
                梵字「キリク」  「大悲殿」
                「那古寺」

     〔御朱印〕     「坂東三十三番惣納札所」
                蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                「那古寺印」
                「結願」





千手観音の種子「キリク」





        補陀洛は  よそにはあらじ  那古の寺
                         岸うつ波を  見るにつけても



  

2013年11月30日

第32番 清水観音


坂東三十三ヶ所 第32番札所 清水観音





音羽山 (おとわさん)  清水寺 (きよみずでら)       通称 清水観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県いすみ市岬町鴨根1270

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈覚大師円仁 (じかくだいしえんにん)

〔創建〕 大同2年 (807)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば延暦年間(782~806)、伝教大師最澄がこの地を巡錫中に熊野権現に導かれて庵を結び観音像を感得した。 後に、慈覚大師円仁が最澄ゆかりの地に師の志をつぎ、楠の霊木で千手観音像を刻んで安置した。 大同2年(807)、坂上田村麻呂が堂宇を建立して祀ったという。
 京都の清水寺(西国16番札所)と山号・寺号とも同じ、どちらも坂上田村麻呂にまつわる伝承がある。 これに播州清水寺(西国25番札所)を加えて、「日本三清水」といわれる。



御本尊の御影




御住職の法話

     景清身代り観音               清水寺住職 井上享海

 当山にはよく知られた千手、十一面の両観世音のほかに、景清身代わり観世音が安置されています。 お名前のみでその由来などあまり知られておりませんが、由緒あるお像です。
 御名の因となった平景清は、上総国布施の産、笠松右衛門景高の息で、伯父大日坊殺害のため悪の一字を冠せられ悪七兵衛景清と呼ばれた平家の勇者でした。 弱年より観世音を信仰し、日夜誦経を怠らなかったと申します。
 源平の戦に平氏は敗れ、景清虜となって三尺の詰牢に押しこまれましたが、信心いよいよ強くお経を念じて怠ることありませんでした。 時に「景清の首打って直見に仰えよ」との頼朝公の仰せあり、御前に差し出されたその首を頼朝公がご覧じなされると、こはいかに景清の首にあらず、勿体なくも観世音の御首でございました。 頼朝公大いに驚かれ、「景清や如何に」と尋ねれば、景清牢中にて一心に経を唱えていたということでございます。 かくて、悪七兵衛景清、日頃信心せし観世音の宏大なるお慈悲により、この身を解き放たれたのでございました。
 ただいま当山にございます身代り観世音像は、この時のままの御首と両の御手のみのお姿ながら、なおも優しい笑みを浮かべて広く衆生をご覧になっておられます。 あまりにおいたわしいお姿なので、ただいまは秘仏として厨子にお納めし、非公開とさせていただいております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「上総國」
                梵字「キリク」  「大悲殿」
                「清水寺」

     〔御朱印〕     「坂東三十二番」
                蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                「上総國音羽山清水寺」





千手観音の種子「キリク」




        濁るとも  千尋の底は  澄みにけり
                           清水寺に  結ぶ閼伽桶


  

2013年11月23日

海上釣堀 マルヨ


11月22日  曇  (中潮)
三重県度会郡南伊勢町方座浦
つりぼり  マルヨ






夏から秋の釣行では不調が続き、年間平均二桁釣りが危うくなってきた。

そこで今回は数を釣るべく、マダイ中心に小物狙いに徹した。

Kさんのグループに仲間入り、小筏を6人で貸し切った。



朝一は、第一投でマダイをゲット。 その後は何もあたらない。

放流まで閑人のマダイ1枚のみ、他のメンバーはボウズ。

青物が中層に回遊しているのが見えるのだが、誘ってみても見向きもしない。



早めの青物放流では、メンバー2名に青物が。

閑人にはノーヒット。 マダイ狙いに切り替えて、マダイとツバス。



青物放流から20分後にはもうマダイ放流。 いくら何でも間隔が短すぎる。

マダイ狙いの閑人には好都合なのだが、マダイの放流量は少なくてガッカリ。

文句ばかり言ってる閑人だが、釣り堀屋さんの事情もあることだから致し方ない。



放流後も喰いはたたない、お魚さんはお腹いっぱいか。

1時間に1回ぐらいの渋々アタリをとらえてマダイを3枚。

コーナーのイサキと遊んで2匹。



11時ころからマダイが浮きはじめた。 青物と一緒に回遊している。 初めて見る光景だ。

3メートルに棚をセットして、マダイを3枚、ツバス1本。 



残り1時間、いつものように深場ねらいに切り替えた。

9メートルの棚でマダイを4枚。 おまけにハタマス。



時間いっぱいまで頑張って、合計17匹。

まずまずの釣果。 年間平均二桁釣りが見えてきた。





〔6人の釣果〕  42

カンパチ  1
ワラサ  4
シマアジ  2
ハタマス  1
ヒラメ  1
ツバス  4
マダイ  24
イサキ  5




〔閑人の釣果〕  17

マダイ  12 (シラサ8・ダンゴ4)
ハタマス  1 (シラサ)
ツバス  2 (シラサ)
イサキ  2 (シラサ)




  

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2013年11月15日

越後国一宮 居多神社


越後国一宮
居多神社
 (こたじんじゃ)





越後国一宮 居多神社 (こたじんじゃ)

〔鎮座地〕 新潟県上越市五智6-1-11

〔社格〕 旧県社  越後国頸城郡の式内社・居多神社

〔御祭神〕 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
       奴奈川姫 (ぬながわひめ)
       建御名方命 (たけみなかたのみこと)

〔御由緒〕 祭神の奴奈川姫は越後国の姫神で、大国主命との間に建御名方命(諏訪神)を産んだ。 建御名方命は信濃国一の宮である諏訪大社の御祭神であるが、同社の御分社は新潟県に多く鎮座し、この三神は信越地方の開拓神として大いに尊崇されている。
 当地は国府の所在地にあたり、近くに越後国分寺がある。 貞観三年(861)には朝廷より神階従四位下を贈られている。 神社は春日山城にも近く、ここを居城とした上杉謙信、ほか越後守護上杉氏の崇敬を受け隆盛、徳川家光も社領を寄進している。 また江戸時代には、松尾芭蕉が「奥の細道」よりの帰途に参拝している。
 社殿は天正六年(1578)、上杉謙信没後、養子景勝と景虎との家督争い「御館の乱」に巻き込まれて社殿が損傷、後に再建される。 日本海近くに鎮座していたが、明治十二年海岸の浸食を受け、現在地へ遷した。 平成二十年、新社殿が造営された。
-『全国一の宮めぐり』から-



              拝殿                            本殿













境内社

〔左〕 雁田神社 (かりた)
御祭神 高皇産霊神・神皇産霊神
(子宝・安産の神 )
〔右〕 稲荷神社 (いなり)
御祭神 倉稲魂命
(商売繁昌の神)




名所・旧跡


〔左〕 大国主命・沼河姫像


〔右〕 大国主命沼河姫妻問歌碑





親鸞聖人御像



 親鸞聖人は、承元元年(1207)、35歳のときに朝廷より専修念仏の弾圧をうけ(承元の法難)、ここ越後国府に流罪の身となられた。 『親鸞聖人御一代記』によれば、聖人は、親不知の難所をこえて同年3月28日に居多ヶ浜に到着されている。
                                           越後七不思議「片葉の葦」
 聖人は居多ヶ浜に御上陸された後、越後一の宮、居多神社を参拝された。 聖人は日の丸に六字名号を書かれ、「末遠く法をまもらせ居多の神、弥陀と衆生のあらむ限りは」と一首を詠んで神前に供え、早期の恩赦免と念仏の興隆を祈願したところ、一夜にして境内の草が片葉になったという。 すなわち、今日も境内に群生する親鸞聖人越後七不思議の一つ「片葉の芦」の由来である。

 赦免はそれから5年後のことであるが、聖人は関東へ向かわれるまでの約7年間を越後で過ごされた。 厳しい自然のなか、恵信尼公との結婚、家族に囲まれ、民衆に溶け込みながら流人として越後で過ごされたことが、「非僧非俗」をもって「愚禿」と名乗られた聖人の念仏者としての道を深めたといわれ、越後での生活は、親鸞聖人の思想に深く影響しているとされている。



親鸞聖人御詠歌

         すゑ遠く  法を守らせ  居多の神
                      弥陀と衆生の  あらん限りは



  

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2013年11月09日

海上釣堀 辨屋


11月8日  晴 (中潮)
三重県度会郡南伊勢町礫浦
海上釣堀  辨屋






天気は最高。 しかし海の中は最悪。

エサ取りアイゴの猛攻撃を受け、楽しさ半減。

気分良く釣れたのは、最初の30分だけ。



朝一はマダイ竿に、マダイ・シオ・イサキの3目ヒット。

しばらくしてアイゴが湧き出すともうダメ。 釣りにならない。



最初の放流ではアイゴのアタリがあるだけで何も釣れない。

かろうじて、イサキ1匹。



青物放流でワラサをゲット。



以後もアイゴの猛攻撃は最後まで続いた。

マダイ竿にはノーフィッシュ。

青物用置き竿に運良くシオ3本。




マダイ釣りが好きな閑人にとっては面白くない日であった。

当分の間、辨屋には行きたくない気分になってしまった。

何とかしてこのアイゴ対策を考えねばならない。

未だその術は見つからない。





〔8人の釣果〕  33

ワラサ  3
シオ  4
マダイ  21
イサキ  5
(アイゴ  多数)



〔閑人の釣果〕  8

ワラサ  1 (活きアジ)
シオ   4 (活きアジ3・アマエビ1)
マダイ  1 (シラサ)
イサキ  2 (シラサ1・ダンゴ1)



  

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2013年11月01日

第31番 笠森観音


坂東三十三ヶ所 第31番札所 笠森観音





大悲山 (だいひさん)   笠森寺 (かさもりじ)         通称 笠森観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県長生郡長南町笠森302

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 伝教大師最澄 (でんぎょうだいしさいちょう)

〔創建〕 延暦3年 (784)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん ろけい じんばら きりく そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば延暦3年(784)、伝教大師最澄が東国巡錫の折、尾野上の山頂に霊光を拝され、楠の霊木で七尺六寸の尊像を刻み仮堂を建てて安置し、開基になられたという。 『縁起』に大悲山楠光院と号したという。
 天慶年間(938~947)、箕作りの貧しい娘於茂利(おもり)は観音堂の雨漏りで尊像も濡れていたので不憫に思い、自分の箕笠を尊像に掛けてやった。 国司の奏上で都に上った於茂利は朱雀天皇の寵愛を得て、ついに后妃となった。 後に於茂利は尾野上に壮麗な観音堂を建立、於茂利の笠ということで、笠森と呼ばれるようになったといわれる。
 長元元年(1028)、後一条天皇の勅命で飛騨の工匠一条康頼と堀川友成が棟梁となって舞台造りの本堂が建てられた。 現在の本堂は桃山時代の再建で、国指定重要文化財。 他に例を見ない四方懸造で、岩の上に高々と組み上げられている。 二代目広重の「諸国名所百景」の錦絵にも画かれたお堂である。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音さまのお心を自らの心に・・・・・・           笠森寺住職 小川長宏

 観音さまは仏の位にありながら、仏になってしまうと衆生を救えないということであえて菩薩となっていらっしゃいます。 巡礼をされる方々は、この観音さまのお心を自らの心とするように心掛けてほしい。 菩薩の道とは一言でいえば「上求下化」ということで、自分は常に道を求めながらそのことによって下を教化する、ということです。 ですから、せっかく札所巡りを発心されたからには、姿形だけ白く清浄にするだけでなく、心から清浄になってほしいと思うわけです。
 笠森寺は草深い山の中で何もないところですが、何か心を洗われるものがあるはずです。 そのような場所であってほしいと願えばこそみんなが信仰して観音さまをお守りしております。 私自身も三百六十五日お供え物とお花を切らしたことはありません。 街なかでは当り前のことが、この山中ではなかなか難しいことです。 観音さまは生きていらっしゃると思うので、外出した折には必ず観音さまにお土産を買ってまいります。 自分が何かお願いするのに何も差し上げないわけにはいかないという気持ちからで、山寺の一和尚が一生懸命に生きている姿を、日々観音さまにご覧いただいているつもりです。
 読経の終わりを「願わくはこの経の功徳をもって遍く一切に及ぼし、我らと衆生とみな仏道を成ぜんことを」と結びますが、拙いお経でどうか衆生が救われますように、と願うが故です。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕    「奉拝」   「上総國」
               梵字「キャ」   「大悲閣」
               「笠森寺」

     〔御朱印〕    「坂東三十一番」
               火焔宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
               「大悲山笠森寺之印」





十一面観音の種子「キャ」




         日はくるる  雨はふる野の  道すがら
                        かかる旅路を  たのむかさもり


  

2013年10月18日

第30番札所 高倉観音


坂東三十三ヶ所 第30番札所 高倉観音





平野山 (へいやさん)  高蔵寺 (こうぞうじ)        通称 高倉観音

〔所在地〕 (上総国) 千葉県木更津市矢那1245

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 徳義上人 (とくぎしょうにん)

〔創建〕 用明天皇の御代 (6世紀後半)

〔御本尊〕 正観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 縁起によれば、草創は6世紀後半の用明天皇の御代。 徳義上人が木の梢に現れた4寸ほどの観音像を祀り、安置する堂宇を建立したという。
 この観音さまの霊験は矢那郷の猪長官(いのうちょうかん)に現われる。 四十歳になっても子のないのを嘆いた長官が、この観音さまに百日参拝の願をかけ祈ったところ一女を授けられた。 長官は大いに喜び、子与観(しよかん)と名づけた。 子与観は心清く、親切ですばらしい娘になったが、器量があまり良くないので二十歳を過ぎても良縁がなく困っていた。 そこで再び観音さまにお祈りして願ったところ、ある夜「鹿島へ行きて日天を拝せよ」とのお告げをいただき、そのとおりにして結婚、めでたく男子を得たが、これぞ藤原氏の祖「藤原鎌足」であったという。 鎌足は白雉元年(650)、七間四面の本堂、五間四面の阿弥陀堂、三層の塔、輪蔵、鐘楼、仁王堂を建立し報謝し奉ったという。
 のちに行基菩薩が丈余の観音像を彫み、その頭部内に梢で感得の尊像を納めて本尊とした。 貞観年間(859~877)には慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めたともいう。



御本尊の御影




御住職の法話

       観音信仰 = 極楽生活                高蔵寺住職 宮寺弘正

 最近は車で来られる方が多くなりましたので駐車場を設けましたが、ちょうど手頃なのでしょぅか、いわゆる暴走族と思われる若者もよくやって来ます。 初めは困ったことだと見ておりましたが、お正月にこの者たちが服装を正して観音さまにお参りに来ました。 その神妙な姿を見て、やはりこの人たちも心のどこかによりどころを求めているのだなあ、と感じ入りました。
 観音さまは本堂やお厨子の中に安置してありますが、実は私たちのこの世界におられるのです。 道を歩いている時、急に自動車が来たら、近くにいる人が「危い」と注意してくださる、それが観音さまのお姿でありお声です。 この慈悲の心が観音さまです。 観音さまはこの実社会の中に方便をもって現われ、法を説いておられます。 こう思うと、誰の言うことも観音さまの声だからよく聞かなければならないということがわかります。 ここに気づくことが極楽に入ったことになるのです。 周囲に観音さまがおられるのだから悪いことや災難は一切逃れることができるのです。 金持ちも貧しい人も、みなこの身このまま観音さまのお膝に乗って安楽に暮らすことができます。 こうなったら立腹も喧嘩もすることなく、このまま極楽生活になる ― これが観音信仰です。
 先生に連れられて来た幼稚園の子供たちが、きちんと手を合わせている姿をよく見かけます。
「ああ勿体ない」と思う次第です。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「奉拝」   「上総國」
               梵字「サ」   「観世音」
               「高蔵寺」

    〔御朱印〕     「坂東三拾番」
               蓮華宝珠の中に、中尊として正観音の種子「サ」
               左脇侍に不動明王の種子「カン」
               右脇侍に毘沙門天の種子「バイ」
               「高蔵寺印」




         毘沙門天「バイ」        正観音「サ」        不動明王「カン」





       はるばると  登りて拝む  高倉や
                      富士にうつろう  阿裟婆なるらん


  

2013年10月10日

海上釣堀 辨屋


10月9日  曇のち雨  強風 (中潮)
三重県度会郡南伊勢町礫浦
海上釣堀  辨屋






またもや台風の影響で悪コンディション。

それに加えて、後半はエサ取りアイゴの猛攻撃。

前半の貯金で、なんとか平均的釣果。



釣りには最高の季節になったのだが、このところ釣果は今ひとつ。

年間釣果アベレージ二桁台を目指しているのだが、果たしてどうなることやら。




〔8人の釣果〕  37

ヒラマサ  1
カンパチ  1
ワラサ  10
シマアジ  1
マダイ  16
イサキ  8



〔閑人の釣果〕  8

カンパチ  1 (活きアジ)
ワラサ  1 (ダンゴ)
シマアジ  1 (シラサ)
マダイ  5 (シラサ2・アマエビ2・ダンゴ1)



  

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2013年10月02日

能登国一宮 氣多大社


能登国一宮
氣多大社
 (けたたいしゃ)





能登国一宮  氣多大社 (けたたいしゃ)

〔鎮座地〕 石川県羽咋市寺家町ク-1

〔社格〕 旧国幣大社  能登国羽咋郡の式内社・気多神社 (名神大)

〔御祭神〕 大国主神 (おおくにぬしのかみ) = 大己貴命 (おおなむちのみこと)

〔御由緒〕 創祀は詳らかではないが、大国主神が能登地方を平定・開拓した由縁により、能登半島の玄関口であるこの地に鎮まったものとされる。 『万葉集』に、大伴家持が越中守として「気太神宮」を参詣して詠んだ「之乎路から直越え来れば羽咋の海 朝凪ぎしたり船楫もがも」がある。
 ご神威は早くより朝廷に知られており、『延喜式』に名神大社としてその名が記され、神階は貞観元年(859)に従一位となるなど、古くより朝廷や国司、武家の崇敬を集めた北陸地方屈指の大社である。
 前田利家ほか歴代の金沢藩主も当社を庇護し、たびたび社領などが寄進された。 現在の拝殿は入母屋造、本殿は流造でともに重要文化財に指定されている。 本殿裏手には一万坪の原生林「入らずの森」(国天然記念物)が広がり、神職でも年一度しか入らない神聖な場所である。
 明治四年国幣中社、大正四年に国幣大社へ昇格した。
-『全国一の宮めぐり』から-



              神門                            拝殿












        若宮神社               本殿                白山神社


摂社 若宮神社   〔御祭神〕 事代主命
本殿   〔御祭神〕 大国主神
摂社 白山神社   〔御祭神〕 菊理姫命


        楊田神社              太玉神社              菅原神社


楊田神社   〔御祭神〕 荒御魂神
太玉神社   〔御祭神〕 太玉命
菅原神社   〔御祭神〕 菅原道真


       奥津島神社          養老大黒像奉安殿           入らずの森




正覚院 (旧気多神社神宮寺)


正覚院
 当山は、気多神社の神宮寺(別当寺)として創建され、元正天皇御代養老二(718)年に越前の大徳泰澄大師が、夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられている。
 その後、文徳天皇の斉衡二(855)年に亀鶴蓬莱山気多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数を三人と認めるから、永久に絶やすことのないように」との指令が出される。 (文徳実録)
 以来、一千有余年神社に奉仕してきたが、明治の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。 しかし今でも神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫の神鏡」を初め、開かずの宮といわれる護摩堂本尊「不動明王」、重文「阿弥陀如来」など多くの寺宝を秘蔵する。   山主敬白
-正覚院案内板から-



赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首
之乎路可良 多太古要久礼婆 波久比能海 安佐奈藝思多理 船梶母我毛


     之乎路から  直越え来れば  羽咋の海
               朝凪ぎしたり  船楫もがも          大伴家持

-『万葉集』巻17 4025-



  

Posted by 閑人 at 14:10Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年09月27日

海上釣堀 マルヨ


9月26日  晴  強風  (小潮)
三重県度会郡南伊勢町方座浦
つりぼり  マルヨ






割高になってしまったが、大筏を6人で貸し切り。

台風の影響で大風。

とにかく釣りづらい。 竿も体も吹き飛ばされそう。

何とか頑張って、青物2本。

風に弱い閑人であった。




〔6人の釣果〕  22

カンパチ  2
ワラサ  1
シマアジ  5
ヒラメ  2
マダイ  12





〔閑人の釣果〕  5

カンパチ  1 (活きアジ)
ワラサ  1 (ダンゴ)
シマアジ  1 (シラサ)
マダイ  2 (シラサ・ダンゴ)



  

Posted by 閑人 at 11:53Comments(0)TrackBack(0)釣行記

2013年09月21日

第29番札所 千葉寺


坂東三十三ヶ所 第29番札所 千葉寺





海上山 (かいじょうざん)  千葉寺 (せんようじ)     通称 千葉寺(ちばでら)

〔所在地〕 (下総国) 千葉県千葉市中央区千葉寺町161

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 和銅2年 (709)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『千葉寺縁起』によれば、和銅2年(709)この地を訪れた行基菩薩が池に浮かぶ蓮の花の中に阿弥陀如来と観音菩薩の二尊が並ぶお姿を感得し、丈六の観音像を刻み奉安したのがこの寺の始まり。 聖武天皇から勅額を賜り、海照山千葉寺と称したという。 発掘調査により、奈良時代後期には、金堂を中心に南大門・東大門・西大門・講堂などの伽藍を配した大寺であったことが判明している。
 平安時代末期には火災により堂宇の大半を焼失するが、中世には、源頼朝の旗揚に大きな力を与えた豪族千葉氏の祈願所となり、堂宇の修築がなされ大いに栄えた。 鎌倉幕府成立後、源頼朝はこの寺に運慶作の愛染明王像を寄進している。
 しかし豊臣秀吉の小田原攻めの際に北條氏と共に千葉氏は滅亡した。 天正18年(1590)、徳川家康が朱印百石を寄せ、二代将軍秀忠の参詣も再度にわたり、元和9年(1623))に観音堂が新築され、将軍家とのゆかりによって大いに寺格を高めた。 その後幾度の火災に遭い、堂舎什宝を失うも、そのつど近隣への勧進をはじめ、江戸へご本尊の出開帳を催すなどして浄財をあつめ再興している。
 文政11年(1828)建立の広壮な構えで知られた観音堂は昭和20年の戦災で失われたが、昭和51年に再建された。


御本尊の御影





御住職の法話

      観音さまと私           千葉寺前住職 藤澤利恭

「アッ、この子だ、おじいちゃんの生まれ代わりの子は」叔父たちは私の頭にあるあざを指して叫んだ。 大正四年の夏母の里帰りの日のことである。
 母の生家は奈良県桜井市白木中森家で、祖父は医者であったが、西国八番札所長谷寺に毎朝参拝し、来世は僧に生まれ代わるよう願をかけていた。 祖父の死後霊媒者にその死後のことを尋ねると「私は極楽の上座に住むことができた。 私の分身はもう生まれている。 頭に印があり、天竺に詣り天寿を全うする・・・・・・」等々。
 それから十七年後、私は長谷寺で八十日の加行にも堪え、インドの釈尊遺跡巡拝など、予言どおりになった。 人の大半は生まれ代わるのである。
 ありがたい観音さま、いつも真心をもってお祈りすれば必ずお救いくださることを信じないわけにはいかない。 ありがたい、すまない、もったいないと拝む人は拝まれる人でもある。
 浄業成就を祈る。
 南無大慈大悲観世音菩薩           合掌
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕     「海上山」
                梵字「キャ」   「大悲閣」
                 「千葉寺」

     〔御朱印〕     「坂東廿九番」
                「?」 (判読不明)
                「千葉寺印」





御宝印
 難解な御宝印である。 文字と思われるのであるが、判読不明である。
 お寺の話でも、十一面観音に因む御宝印とだけ伝わっており、詳しいことは判らないという。
 何らかの意味をもつ御宝印と思われますので、判る方いらっしゃれば、お教え願いたい。





十一面観音の種子「キャ」




        千葉寺へ  詣る吾が身も  たのもしや
                          岸うつ波に  船ぞうかぶる


  

2013年09月13日

第28番札所 滑河観音


坂東三十三ヶ所 第28番札所 滑河観音





滑河山 (なめかわさん)  龍正院 (りょうしょういん)    通称 滑河観音

〔所在地〕 (下総国)  千葉県成田市滑川1196

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 慈覚大師 (円仁)

〔創建〕 承和5年 (838)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 縁起によれば、承和5年(838)、下総一帯が冷害に見舞われた時、領主の小田将治が観世音菩薩に祈願したところ、老僧が小田川から十一面観音像をすくいあげ「この淵より湧く乳水をなめよ」と教えた。 これが滑河の地名の由来で、この観音像を納めて堂を建立したのが始まりという。 開山は慈覚大師円仁で、大師の高弟修円が伽藍を整えたと伝えられる。 江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう下知状(現存)を下された天台宗門の古刹である。
 大きな注連縄がかかる仁王門は永仁6年(1298)の造営。 享保年間(1716~1736)の火災にはこの仁王尊が大きな扇で火焔をあおぎかえし、門前集落を救ったという。 これより火伏の仁王尊として信仰が篤く、竜神型の注連縄が毎年正月8日に奉納される。



御本尊の御影





御住職の法話

    観音さまのご利益              龍正院住職 廣瀬孝泉

 娘が小学校一年生の時、盲腸炎で入院したことがあります。 朝からお腹が痛いと言うので近くのお医者さんに診ていただいたところ盲腸炎、すぐ入院手術をするようにと言われました。 家内は下の子を出産して一ヶ月もたたないので、私が付添いました。
 手術も無事終わり、病室に戻って来ました。 「お腹を切ったところが痛くなったらお父さんの手ををぎゅっと握りなさい。 観音さまが直してくれるからね」 「はい」 幼いながらもわかったのでしょう。 時々「う-ん」と唸りながら私の手を握ります。 少し経つと眠り、また手を握りしめ、を繰り返して夜が明け、一声も泣きませんでした。 翌朝隣室のおばさんが「どうしたのよ、ひとつも泣かないで。 昨夜は眠れないと覚悟していたのよ」とびっくりしていました。 娘は「観音さまが痛くないようにしてくれたの」 「う-ん。 そうだったの。 ありがたいねぇ」
 おかげさまで隣室の方々にも迷惑はかけずにすむし、私もおろおろせずにすみ、これが本当のご利益と感銘を受けたことでした。 小さい時から私と一緒に本堂に上りお勤行をしておりましたため、観音さまのご利益をいただけたと思っております。 その娘も今は二児の母親となり、母子共に健康に暮らしてまいりました。 また、観音様のご縁をいただいて、現在は当山の住職となりました。 二人の孫は得度して、お弟子となりました。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「下総国」
               梵字「キャ」  「観世音」
               「滑河山」

    〔御朱印〕     「坂東二十八番」
               蓮華宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
               「滑河山龍正院」




十一面観音の種子「キャ」




         音にきく  滑河寺の  朝日ヶ渕
                         あみ衣にて  すくふなりけり


  

2013年09月07日

第27番札所 飯沼観音


坂東三十三ヶ所 第27番札所 飯沼観音





飯沼山 (いいぬまさん)  圓福寺 (えんぷくじ)      通称 飯沼観音 (銚子観音)

〔所在地〕 (下総国)  千葉県銚子市馬場町293

〔宗派〕 真言宗

〔開基〕 弘法大師

〔創建〕 神亀5年 (728)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『坂東霊場記』によれば、神亀5年(728)二人の漁師が光り輝く海から十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、仮堂を造って安置し、出家して寺を守ったという。 のちに弘法大師が訪れて本尊の蓮座を造り、さらに土地の豪族海上(うなかみ)長者が大師の高徳を慕ってこの本尊に深く帰依し、大伽藍を建立したと伝わる。
 鎌倉から足利時代にかけては、千葉氏同族の海上氏(うなかみし)の保護のもとに、十ヶ坊を有する大寺院となり、坂東観音霊場の札所として栄えた。 天正19年(1591)、徳川家康より朱印を賜わり諸堂を整備し、十間四面の大本堂が造営された。 このお堂が戦災前まで広壮な姿を見せていたのは人のよく知るところである。
 昭和20年に空襲に遭い、本坊客殿以外のすべての堂宇を焼失した。 観音堂の再建は、昭和46年に衆庶の信助によって竣功され、平成21年には五重塔が建立された。



奥の院 満願寺



 圓福寺から南東約4kmの景勝地・犬吠埼の近くには、奥の院・満願寺がある。
 満願寺は圓福寺の御本尊十一面観世音菩薩の写しの尊像を奉安し、坂東札所巡りの巡礼が中心になり、満願成就した報恩感謝のために昭和51年に開創されたもの。  現在は27番飯沼観音・圓福寺の奥の院となっている。



御本尊の御影





御住職の法話

     観音信仰の奇跡              円福寺住職 平幡良雄

 現観音堂完成間近のこと、二十日ほど前から湯水も喉を通らず危い状態であった観音地内入口の砂場食堂のおじいさん宅から、すぐ来て欲しいと連絡を受けました。 急いで行くと、当時竣工間際だった観音堂再建工事が心配だったようで、半紙に大きく「観音さまをお願いします」と私宛の遺言状がありました。 翁はすでに死相を呈していました。 「観音さまがお守りくださるから大丈夫ですよ」と励まし、寺へ戻って病気平癒の御護摩を奉修、お札を翁の枕元に安置しました。 翁は戦火で焼失したお堂再建に最も熱心な総代で、長い間私を励まし慰めてくださった一生の恩人です。 この恩人を救えるのは観音さましかいない、信仰あつい恩人をお救いくださいと祈念したのでした。
 私が終生忘れることのできない驚くべき奇跡が起こったのはそれからです。 翁は翌日湯水も少し通るようになり少し持ち直しました。 それから一月ほどで一応全快、部屋の中を歩けるまでに回復したのです。 観音さまの御加護で信仰深い翁は守られたのでした。
 飯沼観音は古来より家運長久、息災延命、福智増長、求子安産など諸々の善願成就すること、谷の響きに応ずるが如し、と尊信されています。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」  「銚子港」
                梵字「キャ」  「十一面観世音」
                「飯沼山」

    〔御朱印〕      「坂東第廿七番」
                「佛法僧寶」
                「飯沼山圓福寺納経所」




十一面観音の種子「キャ」





         このほどは  よろずのことを  飯沼に
                          きくもならはぬ  波の音かな


  

2013年08月31日

第26番札所 清瀧観音


坂東三十三ヶ所 第26番札所 清瀧観音





南明山 (なんめいさん)  清瀧寺 (きよたきじ)     通称 清瀧観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県土浦市大字小野1151

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 推古天皇15年 (607)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、推古天皇の勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したのが始まりと言われる。 後に、行基菩薩が龍ヶ峰の滝で行をおこない、自ら観音像を彫り山頂の滝口に安置したとも伝わる。 さらに後、花山法皇が老人や幼子にも縁が結ばれるようにと願ったことから、徳溢法師が、堂を不便な山頂から山の中腹に移転したとの伝承もある。
 鎌倉時代には幕府の功臣八田知家の庇護のもとに栄えた。 天正年間(1573~1592)の兵火で七堂伽藍の大堂宇を焼失するも、元禄年間(1688~1701)に、現在地へ本堂が再建された。
 しかし、明治の神仏分離と廃仏毀釈の影響を受けて寺運は急速に衰えた。 寺は無住となるが、小野の村人たちが輪番でこれをささえてきた。 しかし昭和44年、不審火により仁王門のみを残して焼失、御本尊も失われてしまう。
 現在の本堂は昭和52年に地元の人々の篤志でようやく再建されたもの。 新しい御本尊の聖観音像は、23番札所観世音寺のご住職より寄進され、昭和54年に開眼された。 寺は現在も無住だが、地元の人々が寺を管理し、老人会有志が納経所奉仕を行なって、札所としての歴史を伝えている。


御本尊の御影




御住職の法話

      桃咲く里で                 清瀧寺住職 古幡章善

   今もなお 人の心の変らずや
       桃咲く里の 清瀧の寺

 どなたかが、そっとご本尊にお供えしてゆかれた歌です。 清瀧寺に参られた時、何か心に感じて帰られたのでしょう。
 この寺は、近年災難が相続きましたが、多くの方々のご協力を得て、旧に増して整えることができました。
 寺も、お人の暮しも、整うというのは建物だけではありません。
 ご本尊にご奉仕する者一同、
「人の心の変らずや・・・・・・」
 という問いかけに、
「桃咲く里の清瀧寺にまたお参りください。 里人の心は今も変わりありませんよ」
と申し上げられる寺であり続けたいと念願いたしております。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「南明山」
                「聖観世音」
                「清滝寺」

    〔御朱印〕      「坂東二十六番」
                「佛法僧寶」
                「清瀧」




聖観音の種子「サ」





          わが心  今より後は  にごらじな
                         清瀧寺へ  詣る身なれば


  

2013年08月24日

遠江国一宮  事任八幡宮


ことだまの社  遠江国一宮

事任八幡宮 (ことのままはちまんぐう)





遠江国一宮 事任八幡宮 (ことのままはちまんぐう)    古称 己等乃麻知神社

〔鎮座地〕 静岡県掛川市八坂642

〔社格〕 旧県社  遠江国佐野郡の式内社・己等乃麻知神社

〔御祭神〕 己等乃麻知比売命 (ことのまちひめのみこと)
       誉田別命 (ほんだわけのみこと) = 応神天皇
       息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと) = 神功皇后
       玉依比売命 (たまよりひめのみこと)

〔御由緒〕 当神社は「言霊(ことだま)の社」として篤い信仰を集め、すでに平安時代の『延喜式』や『枕草子』にその名が見え、「ことのままの明神は大変格式が高く、願い事のままに叶えて下さる頼もしい神様」と記され、己等乃麻知神社(ことのまちかむやしろ)と称した。
 創建は定かではないが、成務天皇の御代といわれ、康平五年(1062)に京都の石清水(いわしみず)八幡宮から八幡神を勧請してより「八幡宮」を併称するようになった。 従って武家の信仰篤く、徳川家康が本殿を造営したほか幕府は御朱印領百石を献じている。
 明治元年、東京遷都の行幸の際、神祇ご用掛り上松少将が勅使として官幣を奉り、明治五年県社に列せられ「八幡神社」と称していたが、戦後由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づき「事任八幡宮」と改称した。
-『全国一の宮めぐり』から-


御社殿

              拝殿                            本殿












御祭神

主祭神
己等乃麻知比売命 (ことのまちひめのみこと)
 言霊の神・興台産命(こことむすびのみこと)の后神でいらっしゃいます。 言の葉で事をとり結ぶ働きをもたれる神、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として広く人々にうやまわれています。
 春日大社・枚岡神社にお祭りされている天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神様です。

八幡大神
誉田別命 (ほんだわけのみこと)
 応神天皇(第十五代天皇)で神功皇后の御子でいらっしゃいます。 百済王の子阿直伎や王仁を招き、日本に新たな文字や産業などの文化を招来させたすぐれたお方です。

息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと)
 第十四代仲哀天皇の皇后さまで神功皇后さまです。

玉依比売命 (たまよりひめのみこと)
 第一代神武天皇の母神さまで、海神の大海津見神(おおわたつみのかみ)の娘神様です。
-『参詣のしおり』から-


境内社

        五社神社              稲荷神社              金比羅神社



五社神社 (ごしゃじんじゃ)    祭日 九月一日
〔御祭神〕 天照大神 (あまてらすおおみかみ)  (光の神様)
       八意思兼神 (やごころおもいかねのかみ)  (知恵の神様)
       大国主命 (おおくにぬしのみこと)  (経営の神様)
       火之迦具土神 (ほのかぐつちのかみ)  (火の神様)
       東照大権現 (とうしょうだいごんげん)  (徳川家康公)

稲荷神社 (いなりじんじゃ)    祭日 二月十七日
〔御祭神〕 宇迦乃御魂神 (うかのみたまのかみ)

金比羅神社 (ことひらじんじゃ)    祭日 十月十日
〔御祭神〕 大物主神 (おおもののぬしのかみ)



名所・旧跡


一の鳥居
 太鼓橋を渡って、事任八幡宮への入り口の鳥居。 昔は、東海道から境内への入り口はこの「一の鳥居」からだけでした。





南口鳥居
 南口鳥居は、車での参拝が増えて南側の道路が整い、駐車場も整った後平成22年1月に建立されました。





結びの神様
 大きな石を抱いて、種類の違う二本の木が重なりあって生えています。 「結びの神様」とつながり、良いご縁をいただけるということで、子授けや良縁祈願に来られる方が多くいらっしゃいます。




本宮遙拝所
 本宮は遠い昔からことのままの神がお祀りされているお宮です。 里宮(現在の本殿)には西暦807年にお遷しされ、山に登らなくてもお参りできるようになりました。




御神木の大杉 -天然記念物-
 高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2m。 昔から「八幡宮の大杉さん」と親しまれ、本殿の東奥にあることから、御神木として「東の宮様」と敬われております。 一説では坂上田村麻呂お手植えとも言われております。



大楠
 大きく枝を張って境内を覆っています。 樹齢500~600年くらいの大楠。 この大楠には耳のような穴があり、皆の言葉を聞いているようです。 言霊の神様と通じるところですので、神様がお喜びになる良いお言葉を沢山使いましょう。





   神かけて  頼みしかども  東路の
           ことのままには  あらずぞありける       相模



   またも来ん  わがねぎことの  ままならば
           しばし散らすな  木々のもみじ葉       鴨長明


  

Posted by 閑人 at 14:45Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年08月18日

第25番札所 大御堂観音


坂東三十三ヶ所 第25番札所 大御堂観音





筑波山 (つくばさん)  大御堂 (おおみどう)       通称 大御堂観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県つくば市筑波748

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 徳溢法師 (とくえつほうし)

〔創建〕 延暦元年 (782)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく


筑波山神社随神門 (旧仁王門)



〔略縁起〕 寺伝によれば、延暦元年(782)徳溢法師によって開かれ、弘仁年間(810~824)弘法大師によって真言密教の霊場となった。 これが知足院中禅寺で、神仏習合の山岳仏教の霊場として栄えた。 鎌倉時代には常陸守護の八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、のち出家して明玄となり、この寺の別当をつとめて隆盛を示した。 応永5年(1398)には落雷で堂塔を失った。 江戸時代に入り、徳川家の庇護を受けて中興。 三代将軍家光は三重塔、鐘楼、楼門を寄進するなど幕府の崇敬もあり、寺領千五百石の寺格を有し、18支院、300の住僧を数える大寺となり大いに栄えた。
 しかし、明治の神仏分離と廃仏毀釈で堂塔は破壊され、廃寺同然となる。 仁王門からは金剛力士像が取り去られ、筑波山神社の随神門とされてしまった。 わずかに本尊の千手観音像だけは破却を免れた。 寺院再興の決定がなされたのは昭和5年、その後仮堂が建てられた。 現在の本堂は、昭和36年に民家を改修して再建されたもの。



筑波山神社拝殿



筑波山神社 (つくばさんじんじゃ)

〔鎮座地〕 茨城県つくば市筑波1

〔社格〕 旧県社  常陸国筑波郡の式内社・筑波山神社二座(名神大・小)

〔御祭神〕 筑波男大神(つくばおのおおかみ) = 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
       筑波女大神(つくばめのおおかみ) = 伊弉冉尊(いざなみのみこと)

〔由緒沿革〕 筑波山頂の東西二峯に筑波男神、筑波女神二座を拝し、御神体山と仰いだ。 『常陸国風土記』、『万葉集』、『古今集』に見られる筑波山神の信仰は著しく、弘仁一四年官社と為り延喜の制、男神は名神大(従三位)、女神は名神小(正四位下)に列せられる。 筑波国造奉仕。 中世神仏習合となり慶長五年徳川家康は江戸城鎮護の霊山と崇め、春秋両度御座替祭を斎行、寛永一〇年将軍家光は神祠、堂舎を寄進改築せり。 歴代将軍尊崇篤く社領千五百石、別当、知足院改め護持院となりて明治に至る。 明治六年一〇月県社に列す。 (神社本庁別表神社)
-『神社名鑑』から-



御本尊の御影




御住職の法話

     六観音さま

 三十三観音札所は観音さまの三十三身応現の数にあわせた信仰であります。 ですが白衣観音とか瀧見観音とか魚藍観音さまなどの「三十三観音」の信仰とは別のものであります。 すなわち各札所のご本尊さまは聖・十一面・千手・馬頭・如意輪・准胝あるいは不空羂索の観音のうちの一尊をおまつりしているのです。
 当寺のご本尊さまは千手観音さまです。 千本の手を持っておられるわけですが、一本の手で二十五本の手を代表しているお姿もあります。 この多くの手はわたしたちを幸せにしてくださるために、その人、その人に応じたいろいろな方法手段を観音さまが用意しておられるためのお姿なのです。 たしかにこれだけ多くの手ですと一度に何人でも救っていただけるわけで、まことに有難いことです。
 それにこの千本の手には一つずつ眼がありますので、そのどれかの眼で見守っていてくださると思うと、とても安心です。 ですから拝んでいても千本の手が少しも不思議ではありません。 坂東では十一面観音さまが十四ヶ寺、次いで千手観音さまが十二ヶ寺と多いのも、この千手観音さまを心から頼みにしている証拠でしょう。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕    「筑波山」
              梵字「キリク」   「大悲殿」
              「大御堂」

    〔御朱印〕    「坂東二十五番」
              火焔宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
              「筑波山大御堂」





千手観音の種子「キリク」





        大御堂  かねは筑波の  峯にたて
                       かた夕暮れに  くにぞこひしき