2013年08月15日

加賀国一宮 白山比咩神社

北陸鎮護の大社  加賀国一宮

白山比咩神社 (しらやまひめじんじゃ)





加賀国一宮  白山比咩神社 (しらやまひめじんじゃ)   通称 しらやまさん

〔鎮座地〕 石川県白山市三宮町ニ105-1

〔社格〕 旧国幣中社  加賀国石川郡の式内社・白山比咩神社

〔御祭神〕 白山比咩大神 (しらやまひめのおおかみ) = 菊理媛尊 (くくりひめのみこと)
       伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
       伊弉冉尊 (いざなみのみこと)

〔御由緒〕 霊峰白山を神体山として仰ぎ奉り、全国に三千余の御分社を数える白山神社の総本宮。 その創祀は崇神天皇の御代と伝えられ、朝野の崇敬を集め『延喜式』にもその名が記載される。 養老元年(717)、僧泰澄が初めて白山に登拝して後は全国に信仰が広まり、中世には山岳信仰、修験道の聖地として大いに勢力を伸ばし隆盛を極めた。 特に木曾義仲による崇敬は篤く『平家物語』や『源平盛衰記』にも見ることができる。
  文明十二年(1480)に社殿が焼失し、現在の鎮座地である白山市三宮町に遷座され、その後一向一揆の影響を受けるも、前田利家により社殿が復興され、江戸時代には加賀藩主前田家の庇護を受け大いに栄えた。 明治四年国幣小社、大正三年国幣中社に列格。
 境内には白山の伏流水が湧き出しており、霊水として有名である。
 奥宮は白山の主峰御前峰(標高2702m)に鎮座し、夏山の時期には大勢の登拝者で賑わう。
-『全国一の宮めぐり』から-



御社殿

              神門                          外拝殿・本殿












御社殿

外拝殿(げはいでん)
 切妻造り、銅板葺き、檜造りの優美な姿の外拝殿。 もともとは、大正9年(1920)に建てられた旧拝殿でしたが、昭和57年(1982)の増改築で外拝殿になりました。 その後ろに、直会殿(なおらいでん)、拝殿、幣殿(へいでん)、本殿までが一直線に並びます。

直会殿(なおらいでん)
 直会とは、神事の最後に神饌(しんせん)や神酒を参加者一同で分かち、飲食する行事です。 現在の建物は、大正9年(1920)に建てられた旧幣殿を昭和57年(1982)に直会殿としたものです。

幣拝殿(へいはいでん)
 拝殿は、人が神様に対して拝礼する場所です。 拝殿と幣殿は一体化しており、内部は総檜造りで、本殿とは30段の木階登廊で結ばれています。

本殿(ほんでん)
 ご祭神である白山比咩大神(菊理媛尊)を祀る社殿です。 江戸時代の明和7年(1770)に、加賀藩10代藩主前田重教(しげみち)の寄進によって造営されました。 造営は、前田家御抱(おかか)えの大工や地元の職人の手で行われました。



摂社・末社

摂社 荒御前神社(あらみさきじんじゃ)
 神門の傍らに鎮座する境内摂社。
 荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られています。
 荒御前大神は、『日本書紀』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場します。


末社 住吉社(すみよししゃ)
 禊場の横に鎮座する境内末社。 住吉社は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から戻って禊を行った際に生まれた底筒男尊(そこつつのおのみこと)、中筒男尊(なかつつのおのみこと)、表筒男尊(うわつつのおのみこと)の三柱をご祭神とし、禊祓いの神として崇敬されています。




古宮跡 (安久濤の森)




古宮跡
 白山に源を発する手取川の川岸、安久濤の森にある旧鎮座地、現在は古宮公園となっている。
 霊亀2年(716)から文明12年(1480)までこの地に鎮座していた。 現在は、手取川扇状地を潤す七ヶ用水の水門を守る水戸明神が祀られている。

水戸明神(みとみょうじん)
御祭神  水戸の神 (速秋津比子・速秋津比売)
 七ヶ用水の前進である富樫用水が作られた時に祀られ、七ヶ用水の完成後、昭和29年に安久濤の森に社殿が建てられた。
 この神は湊、河口すなわち水門を守る神であり、祓除の神でもある。




名所・旧跡

        一の鳥居              二の鳥居              三の鳥居



        琵琶滝           大ケヤキ(天然記念物)         御神木(老杉)



       禊社・禊場            白山奥宮遙拝所           手水舎(亀岩)



      南参道鳥居               神馬舎                盤持石





松尾芭蕉の句碑




芭蕉翁の句碑

    風かをる   越(こ)しの白嶺(しらね)を   國(くに)の華(はな)       翁
 この俳句は元禄二年(西暦一六八九年)七月、俳聖芭蕉翁が「奥の細道」の途次、北陸の中天に麗しく聳える白山の姿を讃えて詠んだもので、元禄五年の中秋翁生存中に出版された『柞原集(ははそはらしゅう)』(白山比咩神社奉納句集)の巻頭に記載されている。
 句碑は昭和三十六年五月鶴来町在住の郷土史家武閑雲翁が古希の記念として建立・奉納されたものである。
-境内案内板から-


               風かをる
                   越しの白嶺を
                      國の華           翁


  

Posted by 閑人 at 14:42Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年08月09日

第24番札所 雨引観音


坂東三十三ヶ所 第24番札所 雨引観音





雨引山 (あまびきさん)  楽法寺 (らくほうじ)      通称 雨引観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県桜川市本木1

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 法輪独守居士 (ほうりんどくしゅこじ)

〔創建〕 用明天皇2年 (587)

〔御本尊〕 延命観世音菩薩

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 『縁起』によれば用明天皇(587)の時、中国より渡来した法輪独守居士によって開創され、推古天皇の御平癒を祈って効験あり、勅願寺となったとされる。
 光明皇后の御産(730)のみぎり、皇后は遥かに当山に安産を祈らせられて「法華経」を書写してご奉納になられた。 その効験があって安産なされたので、三重塔を寄進された。
 弘仁12年(821)、常陸国の大旱魃の折、嵯峨天皇は法華経を書写して納め給い、当山の観音さまに降雨を祈られたところ、三日にわたって満天下に雨が降ったという。 これより「天彦山」の山号を「雨引山」に改めたといわれる。 建長4年(1252)、宗尊親王が諸堂を建立、北條時頼はお前立ち本尊を納めている。 建武2年(1335)足利尊氏は祈願所に指定した。 慶長七年(一六〇二)徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与え、寺観を整えた。
 現在の本堂は天和2年(1682)の建立。 入母屋造、本瓦葺の建築で尾垂木や肘木の龍、木鼻の獏、手挟の牡丹、正面左右の窓にはめ込まれた地獄極楽図など、数多くの極彩色彫刻が印象的である。


御本尊の御影




御住職の法話

   延命長寿を授ける延命観音さま     雨引山楽法寺前貫首 川田聖定

 当山延命観世音菩薩は、今から一千三百余年前の用明天皇二年、梁の人法輪独守居士が請来した仏像であり、特に人の寿命をお守り申し上げることをご誓願とせられる、霊験あらたかな尊い観世音菩薩であります。
 ゆえに当山観世音菩薩を信仰し、日々観世音菩薩のご真言をお唱え申し、至心に祈念する時は、延命観世音菩薩の加持カをこうむることを得て、無病息災にして天寿を全うすることができるといわれているのであります。
 当山にご参詣のお方は必ず仁王門前の百四十五枚の大石段をお登りになりますが、この石段は俗に〝厄除け長命の石段〟といわれ、ご真言を唱えながらこの石段を登ることにより、長命できると信ぜられております。
 幾百年の長きにわたり、人々の足によってすり減って丸くなった花崗岩の石段の一つ一つに、ご利益の探遠さと延命長寿を祈念した人々の信仰の跡を感ずるものがあります。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕    「常陸国」
               「延命観世音」
               「雨引山」

     〔御朱印〕    「坂東二十四番」
               「蓮華火焔宝珠に三宝珠」
               「常州  楽法寺  雨引」





観世音菩薩の種子「サ」




         へだてなき  誓をたれも  仰ぐべし
                             佛の道に  雨引の寺


  

2013年08月01日

第23番札所 佐白観音


坂東三十三ヶ所 第23番札所 佐白観音





佐白山 (さしろさん)  正福寺 (しょうふくじ)  (旧観世音寺)   通称 佐白観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県笠間市笠間1056-1

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 粒浦氏 (つうらし)

〔創建〕 白雉2年 (651)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『佐白山縁起』によれば、白雉2年(651)この土地の狩人粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍らで護る霊木をもって千手観音像を仏師に刻ませ、安置したのがこの寺の創始と伝わる。 白馬・白鹿・白雉に因み山号を「三白山」としたという。 孝徳天皇の勅願所となり、平安・鎌倉時代には関東における有数な霊場になっていた。
 建保2年(1214)、笠間氏の焼き討ちにあい焼失したが、その後笠間氏の帰依を得て笠間城内に観音堂を再建し、六ヶ坊を建て「佐白山」の山号に改められた。
 その後笠間氏の衰退とともに寺運も衰えた。 天正18年(1590)、宥明によって再興され勝福寺と改められたが、江戸時代に入り貞享3年(1686)に正福寺となった。
 明治初年の神仏分離に伴う廃仏毀釈により焼失して衰微し、本尊をはじめとする仏像などは散逸してしまったが、昭和5年に現在地に仮の本堂が建てられ、昭和59年3月に「観世音寺」と寺号を改められた。
 現在の寺号は平成24年9月18日付けで、古より続く「正福寺」という名称に変更され、宗派も真言宗に改められた。


御本尊の御影




御住職の法話

  すばらしい方にお目にかかる巡礼の旅    観世音寺前住職 天津忠興

「お観音さまへの巡礼って何ですか?」
 こんな質問に、
「すばらしい方にお目にかかりに出る旅ですよ」
と答えます。
 世にもお優しく美しいお姿で、三十三もの手だてを立てて人々をお導きお救いくださるすばらしい方にお目にかかるのですから、写経をさし上げる、せめて読経をしてご印をいただくようにと申し上げている毎日です。
 生きていく上には、さまざまな喜びや悲しみに出会います。 お観音さまはそのお胸の中に、限りない人々の喜びや悲しみを優しく受けとめられ、喜びの中にいる人には感謝の心を持つように、悲しみの中にいる人には生きる勇気を持つように導き続けてこられた、そういう方がお観音さま・・・・・・。 このように思いいたる時、お観音さまの前ではたいそうすなおな心になることができます。
 巡礼の旅を通して、日頃の暮らしや生き方をもう一度見なおしてみたいものです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

     〔御墨書〕       「笠間」
                  「千手観世音」
                  「佐白山」

     〔御朱印〕       「坂東二十三番」
                  「佛法僧寶」
                  「正福寺印」




千手観音の種子「キリク」





        夢の世に  ねむりもさむる  佐白山
                          たえなる法や  ひびく松風


  

2013年07月24日

海上釣堀 辨屋

7月23日  晴  (大潮)
三重県度会郡南伊勢町礫浦
海上釣堀  辨屋






ゲッターさんのグループに仲間入り、総勢8人で貸し切り。

酷暑の中、全員貧果に終わってしまった。



朝一は前日の感謝デーの残り福を狙うがアタリは全く来ない。

放流までに全体でもマダイ2匹のみ。



7時頃の最初の放流では、大量のマダイが放流されたのだが、誰にもアタリは来ない。

30分過ぎて、やっとマダイを1匹。 後も続かない。

3時間経過しても、全体でマダイ5匹。  ボーズが5人。

どうなってんだろう、今日のイカダは? 両隣の枡では結構賑わっているのだが。



2回目の放流は10時頃、青物6本の放流。 何としてでも全部釣り上げたいものだ。

直ぐに青物祭りが始まった。 リレー釣法で青物5本。

祭りが終わって、置き竿に2本。 この日、全体では7本の青物。



その後は35度を超える猛暑の中、釣り辛く、集中できない。

イカダを周り歩いてマダイを3匹追加したが、これが限界、暑さに負けた。

周りでもマダイとイサキが単発に釣れるだけ、連続には釣れない。



今回の釣行では、全体(個人的にも)で、今年度最低の釣果であった。

これは猛暑のせいである。 (言い訳に過ぎない)


不思議なこともあった。 閑人、マダイ4匹釣ったはずなのだが?

暑さで溶けた?  夏の日の幻想か?




〔8人の釣果〕  24

ヒラマサ  1
カンパチ  2
ワラサ  4
マダイ  11
イサキ  6



〔閑人の釣果〕  7

    ヒラマサ  1 (活きアジ)
    カンパチ  1 (鰹)
    ワラサ  2 (活きアジ・小イカ)
    マダイ  3 ?(ダンゴ2・鰹1・アオムシ1)



  

Posted by 閑人 at 19:00Comments(0)TrackBack(0)釣行記

2013年07月16日

第22番札所 北向観音

坂東三十三ヶ所 第22番札所 北向観音





妙福山 (みょうふくさん)   佐竹寺 (さたけでら)     通称 北向観音

〔所在地〕 (常陸国)  茨城県常陸太田市天神林町2404

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 元密上人 (げんみつしょうにん)

〔創建〕 寛和元年(985)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか




〔略縁起〕 佐竹寺は清和源氏の一家系である中世の常陸国の武家であった佐竹氏ゆかりの寺である。
 創建は『坂東霊場記』によれば、寛和元年(985)に坂東巡礼中の花山院が随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。
 約250年を経た保延6年(1140)、源義光の孫の源昌義(初代佐竹昌義)は御本尊に深く帰依し、居城の鬼門除けに寺領を寄進し、佐竹氏代々の祈願所と定め、寺観を大いに整えた。 昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。
 天文12年(1543)に兵火により焼失するが、同15年に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城の鬼門除けとして現在地に再建した。 北向観音といわれる所以である。 最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の合戦の後、慶長7年(1602)佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。 それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より寺門は急速に荒廃した。 本堂が明治39年特別保護建造物、昭和4年に国宝に指定されながらも無住の寺となっていた。 昭和24年前住職が普山、その努力によって漸く寺観も整い今日に至る。


御本尊の御影




御住職の法話

     霊験について                佐竹寺前住職 高橋隆宥
 これは「坂東霊場記」にのせてある話ですが、江戸時代のある夏の日のことでした。 駿河の国富士曲村の矢作又右衛門が坂東巡礼のとき、もう五、六町で佐竹寺へ着くというところで、折からの炎暑のため路傍に倒れてしまいました。 自分はたとえ道芝の露となってもかまわないが、故郷に残してきた年老いた母のことが気にかかって悩んでいました。
 そこで一心に観音さまを念じておりますと、一人の僧が現われ、「十句観音経」を授け、持っていた瓶水を身にそそいで「早く我が寺へ来るべし」と告げて立ち去りました。 すると又右衛門の苦しみは洗うが如く去り、佐竹寺へお参りすることができたのです。 そして、あの僧こそ佐竹寺のご本尊十一面観音さまの化身であったとますます信心を深めたというのであります。
 このような霊験を語ることは、次元の低い世界の話だなどという人もありますが、それは間違いだと思います。 信仰には必ず現証がともないます。 ですから私たちはそれをすなおに有難く受けとっていけばよいのです。 佐竹氏がこのご本尊さまから煩いた霊験も実に尊いものです。 佐竹城の鬼門除け、その故に「北向観音」といわれるご本尊さまを、どうぞ深くご信仰になられ、「厄除け」のご霊験を皆さまもお受けくださるよう祈ってやみません。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳

   〔御墨書〕    「奉拝」
             梵字「キャ」  「大悲殿」
             「佐竹寺」

   〔御朱印〕    「阪東二十二番」
             蓮華宝珠の中に、十一面観音の種子「キャ」
             寺紋(佐竹氏の家紋)「扇に月丸」  「佐竹寺章」
             「國寶」




佐竹氏の家紋「扇に月丸」


※ 佐竹氏の家紋は「扇に月丸」である。 一般的には「日の丸扇」と呼ばれているが、「五本骨扇に月丸」が正しいものである。
 佐竹氏の「扇に月丸」紋については、『吾妻鏡』の文治五年(1189)八月二十六日条に、「佐竹四郎(第三代秀義)、常陸国より追って参加、佐竹持たしむる所の旗・無文(紋)の白旗也。 二品(源頼朝)咎めしめ給ふ。 御旗と等しくすべからざるの故也。 よりて御扇を賜ひ、佐竹に於いては、旗の上に付くべきの由、仰せられる。」とある。 これを受けて、『佐竹系図』では、以後「五本骨月丸扇を旗に結び家紋とした」とある。
 佐竹氏は源頼朝と同じ清和源氏であり、『別本佐竹系図』には、「家紋、隆義(第二代)までは白旗なり。 秀義(第三代)のとき頼朝に従い、始めてこの紋を賜るなり」と記されている。 源頼朝から賜った扇を旗に付けたことから、次第に家紋に変化していったものである。



十一面観音の種子「キャ」




        ひとふしに  千代をこめたる  佐竹寺
                       かすみがくれに  見ゆるむらまつ



  

2013年07月12日

第21番札所 八溝山

坂東三十三ヶ所 第21番札所 八溝山





八溝山 (やみぞさん)  日輪寺 (にちりんじ)      通称 八溝山

〔所在地〕 (常陸国) 茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉2134

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 役行者 (えんのぎょうじゃ)

〔創建〕 天武天皇2年(673)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 八溝山日輪寺は茨城・福島・栃木の三県にまたがる八溝山(標高1022m)の8合目にある。 昔から「八溝知らずの偽坂東」といわれるほど道程が困難で、坂東札所第一の難所であった。 八溝山山頂には、日本武尊の創祀と伝わる八溝嶺神社がある。
 寺伝によれば、天武天皇2年(673)役行者により創建されたと伝わる。 大同2年(807)に弘法大師が来山し、二体の十一面観音を刻み、日輪・月輪の二寺を建て、観音霊場とされた。 仁寿三年(853)には慈覚大師(円仁)の来錫を緑として天台の法流に属した。
 鎌倉時代には源頼朝が寺領を寄せて信仰し、室町時代の文明年間(1469~87)には本堂・雷神門・札堂・薬師堂・不動堂などが甍を並べる大伽藍となったという。
 江戸時代には二度の火災で堂宇は焼失し、水戸藩の保護により再建されたが、天保3年(1832)の水戸藩の廃仏運動で、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難されるほどの法難に遭遇した。 明治13年の火災で惜しくも堂宇は全焼し、大正4年に仮堂が建てられた。 現在の本堂は昭和49年、茨城・福島・栃木の三県にわたる信徒及び全国からの巡礼者の浄財によって五間四面の観音堂が完成した。


御本尊の御影




御住職の法話

        因果応報
 よく私たちは、因果応報という言葉を使います。 因果応報という言葉は、原因があって、必ずそれに応じた結果が伴うということです。 私たちは、常々この言葉は良い方の意味では使いませんし、理解しませんが、そうではありません。 七佛通戒偈の中に、「もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善を行え、それが仏の教えである」と、お釈迦さまもおっしゃっているように、仏教とは簡単な教えであるが、守ること、行うことは大変難しいことでありますから、善因善果であり、悪因悪果なのです。
 つまり、米の種を蒔けば、米の芽が出て、米の花が咲き、穂がなります。 また、麦を蒔けば、麦の芽が出て、麦の花が咲き、麦の実となります。 すばらしい種を蒔けば、良い芽が出、良い花が咲き、良い実が結びます。 それは、自然のことわりであり、人間だけが逃れるものではありません。 良い種を蒔くも、悪い種を蒔くも・・・・・・。
  南無大慈大悲観世音菩薩
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

      〔御墨書〕   「奉拝」  「八溝山」
               梵字「キャ」  「大悲殿」
               「日輪寺」

      〔御朱印〕   「坂東二十壱番」
               蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
               「日輪寺印」





十一面観音の種子「キャ」





        迷ふ身が  今は八溝へ  詣りきて
                         仏のひかり  山もかがやく



  

2013年07月05日

海上釣堀 マルヨ

7月4日  曇時々雨  (若潮)
三重県度会郡南伊勢町方座浦
つりぼり  マルヨ






今回は4の日、初めてのマルヨデーに参加。

Kさんのグループで、8人の貸し切り。

3回の大量放流で、爆釣とは言い難いが、やや好釣果であった。






〔8人の釣果〕  57

ヒラマサ  2
カンパチ  3
ワラサ  5
ハタマス  4
シマアジ  1
マダイ  34
イサキ  8



〔閑人の釣果〕  18

     カンパチ  1 (活きアジ)
     ハタマス  1 (活きアジ)
     マダイ  13 (ダンゴ10・シラサ2・アオムシ1)
     イサキ  3 (シラサ2・ダンゴ1)





  

Posted by 閑人 at 12:05Comments(0)TrackBack(0)釣行記

2013年06月28日

遠江国一宮 小國神社

厳としてたたずむ太古の社

遠江国一宮  小國神社 (おくにじんじゃ)





遠江国一宮  小國神社 (おくにじんじゃ)

〔鎮座地〕 静岡県周智郡森町一宮3956番地の1

〔社格〕 旧国幣小社  遠江国周知郡の式内社・小國神社

〔御祭神〕 大己貴命(おおなむちのみこと) = 大国主命(おおくにぬしのみこと)

〔御由緒〕 創祀は神代と伝えられ詳らかではないが、延宝年間(1673~81)の社記によれば、第二十九代欽明天皇の御代十六年(555)二月十八日に本宮峯(本宮山)に御神霊鎮斎せられた。 後、山麓約六kmの現在地に都より勅使が派遣せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた。
 爾来、年々奉幣に預り、勅使が下向され、特に文武天皇大宝元年(701)春十八日には十二段の舞楽を奉奏せられた。
 平安時代の『延喜式』では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤かった。 江戸時代には徳川家康公により社殿の造営、社領の寄進など代々の徳川将軍家から崇敬された。
 明治六年六月十三日には、国幣小社に列せられ、今は遠江国一の宮として、親しみ、崇敬され、信仰を広くあつめている。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿












摂社・末社

  飯王子社(いいおうじしゃ)   例祭 二月十五日
〔御祭神〕 保食神(うけもちのかみ)
 昔遠州横須賀の地方に毎年旱天長雨の為め五穀稔らず住民ごぞって一宮様に詣で祈り豆を捧げしところ、神託により社殿を横須賀の方に向け祭り、爾来此の地の不作絶へたと言はれ、祭に上げた大豆を馬や牛に与へれば災なく無病に育つと伝へられる。


  鉾執社(ほことりしゃ)    例祭 三月十八日
〔御祭神〕 社家神人先祖代々の祖霊
 神社に奉仕された先祖代々の社家神人の魂を仰ぎ御神徳の御発揚を祈念し神人和楽神主家を始めとする社家四十一家の祖先に感謝し社頭の隆昌神人後裔の繁栄御加護を祈念し神と人との厳鉾の中執持の功績を称え延宝の記録に典據し建鎮祭する。


  宗像社(むなかたしゃ)   例祭 二月十五日
〔御祭神〕 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命
 宗像三女神は水徳の神であり、また恵比須神として信仰され漁民や商人の崇敬が篤い。
 三女神の一神「市杵島姫命」は仏神の弁財天と結びつき、女性の守護神と敬われ学問・芸術・財産の神といわれる。


  八王子社(はちおうじしゃ)   例祭 一月十七日
〔御祭神〕 国狭槌命(くにのさづちのみこと)・五男神三女神
 国土の守護神であり災難除けの御神徳極めて高い。
 例祭には奉射神事があり、五穀豊穣・疫神鎮送を祈り二手半(五本)射る。



  全國一宮等合殿社(ぜんこくいちのみやとうごうでんしゃ)
〔御祭神〕 全國一宮等御祭神七十三柱    例祭 四月八日
 延宝八年の社記の社頭配置図に依ると全國一宮等御祭神七十三柱が境内社として各所に祀られていたが明治の初めに本社焼失により境内末社八王子社に仮合祀されたものを平成元年十二月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭する。


  瀧宮社(たきのみやしゃ)    例祭 十二月十八日
〔御祭神〕 須佐之男命
 古来より滝宮地内の守り神と仰がれ、また病魔除け・災難除けの神として崇敬される。
 社殿より眼下には小さな滝がある。




名所・旧跡


       一の鳥居               二の鳥居              舞殿・舞楽舎



事待池(ことまちいけ)
 本社に詣で願掛けをして心願成就すれば池に鯉を放つので「ことまち池」という。
 又池の水を汲み「いぼ」に付けると「いぼ」がとれるというので「いぼとり池」ともいう。



勅使参道
 人皇二十九代欽明天皇の御代に奇瑞ありて天聴に達し正一位の神階を授けられた。 大宝元年春十八日勅使参向し十二段舞楽(国指定重要無形民族文化材)を奉奏以来毎年勅使奉幣し舞楽を奉奏せられた当時の勅使参道跡にて一般参拝者は通行しない。


家康公立ちあがり石
 徳川家康公の天下統一の基は浜松在城十五年間の辛苦の賜ものといわれる。 三方原合戦の前年元亀三年九月願文と三条小鍛冶宗近の太刀を当社に奉り、天正二年四月犬居城攻略の道すがら参拝し此の石に腰掛けて休息されたと伝えられる。 以来此の事を悲境をのりこえた「立ちあがり石」と言われ石にあやかりたいとして人生の再起を念じて石に腰かけて帰る者少なくない。


      木化石          大宝槌           金銀石          ひょうの木







  

Posted by 閑人 at 14:15Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年06月21日

第20番札所 益子観音

坂東三十三ヶ所 第20番札所 益子観音





獨鈷山 (とっこさん)  西明寺 (さいみょうじ)        通称 益子観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県芳賀郡益子町大字益子4469

〔宗派〕 真言宗豊山派

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔創建〕 天平9年 (737)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 西明寺は東日本の焼き物の代表「益子焼」で有名な益子の町を見下ろす高舘山の中腹にある。 寺伝によれば、天平9年(737)行基菩薩が十一面観音を刻み、安置したのが草創という。 のちに天平宝字元年(757)に唐僧恵林が入山し、観音堂を建てたと伝わる。
 『坂東霊場記』によると、延暦年間(782~806)に弘法大師が来山し、「貴賎渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧ら挙げて大師の徳を妬み岩窟におしこめた」と記されている。 大師は所持していた独鈷でこの難を逃れ、この地にとどまり、近隣の人々を帰依せしめ、山内十二坊、四十八伽藍を設けて独鈷山と改称したといわれている。
 たびたびの兵火によって堂宇は焼失衰亡するも、康平年間(1058~65)紀正隆が高舘山に居城を築き、益子氏を名乗り大いにこの寺を保護した。 さらに宇都宮景房、続いて北条時頼が本堂を修営、益子寺を西明寺と改め、寺容を旧に復した。
 今も残る本堂内陣の逗子には応永元年(1394)の墨書があり、楼門は明応元年(1492)、三重塔は天文7年(1538)の造立。 いずれも国の重要文化財に指定されており、西明寺は室町建築の宝庫である。


御本尊の御影





御住職の法話

     菩薩とは・・・・・・                西明寺住職 田中雅博
 弘法大師の著作から観音菩薩について紹介しましょう。
 「浄妙国土に於ては仏の身を現成し、雑染五濁の世界に住せばすなわち観自在菩薩たり」
 仏の身を完成しておられる観自在菩薩は、煩悩に染まった現実の世間に住んでおられます。 不著生死(仏であり)、不住涅槃(世間に住む)が菩薩の理想です。
 「観自在菩薩は手に蓮華を持し、一切有情の心中の如来蔵性、自性清浄光明を観じたもう」
 心を本尊に集中して、雑念がなく浄らかになった心の状態を信(清浄心)といいます。 そこには、すべての他人を自分自身と観る慈悲の心が備わっています。 これが仏の心であり、誰もが本来持っているので如来蔵性といいます。 蓮の花は泥の中から出てくるが、垢に染まらない。 それで観音さまは蓮華を持ちそのように本来浄らかな人々の心を観じられるのです。
 「この菩薩の加持によって、離垢清浄を得て、聖者に等同なり」
 このような観音さまを本尊として修行すれば、ついには自身が観自在菩薩であることを悟れるのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」  「獨鈷山」
                「十一面観世音」
                「西明寺」

    〔御朱印〕      「阪東廿番」
                蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
                「西明寺印」





十一面観音の種子「キャ」




        西明寺  ちかひをここに  尋ぬれば
                      ついのすみかは  西とこそきけ




  

2013年06月14日

下野国一宮 宇都宮二荒山神社


下野国一宮
宇都宮二荒山神社 (うつのみやふたあらやまじんじゃ)





下野国一宮 宇都宮二荒山神社 (うつのみやふたあらやまじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1

〔社格〕 旧国幣中社  下野国河内郡の式内社・二荒山神社(名神大)

〔御祭神〕 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)

〔相殿神〕 大物主命 (おおものぬしのみこと)
       事代主命 (ことしろぬしのみこと)

〔御由緒〕 豊城入彦命は第十代崇神天皇の御子で、弟の活目尊(いくめのみこと)と共に優れておられたので、夢占を行い、豊城入彦命は四道将軍として東国平定を任ぜられ、活目尊は第十一代垂仁天皇として即位された。
 仁徳天皇の御代、祭神の四世孫となる奈良別王(ならわけのきみ)が国造として大和より下野の地へ入られ、国土の開拓を行い、同時に自らの祖先神である豊城入彦命を、現在の下之宮の地へ祀ったのが当社の創祀であるという。 その後承和五年(838)に現在の臼ヶ峰の地へ遷座されたと伝える。
 『延喜式』には名神大社として記載され、社務職を代々の城主が兼ねるなど当国の総氏神として朝野の崇敬を集めた。
 武神としても尊崇され、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷をはじめ、源頼朝、徳川家康らによる戦勝祈願が行われ、社領の寄進や社殿の改修が度々行われた。 現在の社殿は戊辰の役の際に焼失し、明治十年(1877)に再建されたもの。 境内には末社が十二社、多くの記念碑が建立されている。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿











社殿
 神社は何度も火災にあい、現在の社殿は明治10年に再建されたものです。
 神社は宇都宮城の真北に当り、大通りの大鳥居から表参道石段・95段を登り詰めた処に唐破風神門があり左右八間の廻廊が配されています。 神門を入ると東側に神楽殿、西側に手水舎及び神符守札授与所があり、中央奥に御本社(本殿・拝殿)があります。
 以前の本殿は入母屋造(いりもやづくり)でしたが今は神明造(しんめいづくり)になり、拝殿は入母屋造です。 神明造の本殿と入母屋造の拝殿が相の間で結ばれた少し変った様式です。
 当社創建の旧荒尾崎(馬場町)には摂社下の宮を祀り神社発祥の聖地を守っています。
-宇都宮二荒山神社公式サイト-


       唐破風神門              神楽殿               明神の井戸




境内末社

     市神社・須賀神社            女体宮               初辰稲荷神社


    市神社    〔御祭神〕 大市姫命 (市・商業の神)
    須賀神社    〔御祭神〕 素戔嗚尊 (お天王さん)
    女体宮    〔御祭神〕 三穗津姫命 (安産の神)
    初辰稲荷神社    〔御祭神〕 倉稲魂命 (豊穣・商業の神)


       十社          松尾神社          荒神社           水神社


   十社(県内式内社の神) 〔御祭神〕 素戔嗚尊・天兒屋命・味耜高彦根命・武甕槌命・
                   豊城入彦命・大山咋命・事代主命・下照姫命・譽田別尊・日本武尊
   松尾神社   〔御祭神〕 大山咋神・中津島姫命 (醸造の神)
   荒神社   〔御祭神〕 素戔嗚尊 (疫病鎮め神)
   水神社   〔御祭神〕 罔象女大神 (水の守神)


        菅原神社               劍宮                 十二社


   菅原神社   〔御祭神〕 菅原道眞公 (学問の神)
   劍宮    〔御祭神〕 素戔嗚尊 (武徳の神)
   十二社(肇国の神)   〔御祭神〕 国常立神・国狭槌神・豊斟渟神・埿土煮神・沙土煮神・
   大戸之道神・大苫邊神・面足神・惶根神・伊弉諾神・伊弉冉神・天照皇大神・天忍穗耳神・
   彦火瓊々杵神・彦火々出見神・鵜茅葺不合神



境外摂社 下之宮




二荒山神社 摂社 下之宮

 当神社は二荒山神社の発祥の地(荒尾崎)に創建された神社で「二荒山神社摂社下之宮」と称し御祭神は本社(臼ヶ峰)に鎮斎される二荒山神社と同神「豊城入彦命」をおまつりしております。
 ご由緒は大変古く第十六代仁徳天皇の御代下毛野の国造であった奈良別王が東国治定の功績高い豊城入彦命を御祭神として国社をこの地に建立後世八三八年に峰続きの臼ヶ峰に本社を造営し発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきました。
 下之宮は長い歴史の中で丘陵は道路で分断され、招魂社は護国神社として移設しおよりの鐘は寺領に納め更に小高い丘は削滅しビル陰にて奉祀されてまいりました。
 相生町再開発事業と共に由緒深き聖地に下之宮のご復興をみたものである。
-摂社下之宮案内板-




     あづま路や  多くの夷  平らげて
               背けばうつの  宮とこそきけ      権律師謙忠


     鶏は羽に  はつねをうつの  宮柱          宰鳥(与謝蕪村)


  

Posted by 閑人 at 20:00Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年06月12日

第19番札所 大谷観音


坂東三十三ヶ所 第19番札所 大谷観音





天開山 (てんかいざん)  大谷寺 (おおやじ)      通称 大谷観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県宇都宮市大谷町1198

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 弘法大師

〔創建〕 弘仁元年 (810)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 弘法大師が弘仁元年(810)に造立したと伝わる大谷寺の御本尊は、本堂背面に聳える凝灰岩層(大谷石)の洞穴壁面に彫られた日本最古の磨崖仏である。 洞内壁面には御本尊の千手観音像(像高3.89m)、釈迦三尊像(像高3.54m)、薬師三尊像(像高1.15m)、阿弥陀三尊像(像高2.66m)の4組10体の石心塑像が彫られ、いずれも平安時代造立のもので、国の特別史跡及び重要文化財に指定されている。
 この地は平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定され、鎌倉時代には下野宇都宮氏の保護の下で隆盛し、坂東三十三ヶ所の一に定められた。 豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると一時は衰退を余儀なくされたが、江戸時代に入ると徳川家康の娘奥平亀姫が深くこの尊を信じ、元和年間(1615~1624)には天海大僧正の弟子であった伝海僧正によって中興され、以後天台宗に属し、輪王寺の末寺としての寺格を誇った。 今も葵紋の幔幕が本堂の向拝を飾っている。


御本尊の御影




御住職の法話

    身代わりになくなったお守り         大谷寺住職 高橋敬忠
 当山ご本尊の千手観音は、弘仁元年(八一〇)弘法大師の作と伝えられており、古くから大谷観音と称され親しまれております。
 さて、近年は観光旅行のブームに乗り、観光主体の参拝者が増えておりますが、とても信心深い青年のことをお話ししましょう。
 親子代々信仰の厚い家に育ったその青年が、、交通安全のお守りを下さい、と当山お守り授与所へ飛び込んで来ました。 しかし、彼は数日前に同じお守りを受けていたのです。 訳を尋ねますと、車の運転中に子供が道路に飛び出して来たそうです。 避けられないと思いながらも急ブレーキを踏み、「アッ」と叫んだ時、不思議にも子供が向きを変え、無事に事故を避けられたということです。 冷や汗を抗うような出来事があったその後、ふと気がつくとお守りがなくなっていたそうです。 もちろん、どこかでなくしたのかも知れないとも話しておりましたが、彼は同じ交通安全のお守りを受けて帰って行ったのでした。
 千手観音は、千の手と千の目を持っておられ、いつも大きなお慈悲の心で私達を見守って下さっています。 参拝の折は、感謝の気持ちを持って合掌礼拝して頂きたいものです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕      「天開山」
                 「千手大悲殿」
                 「大谷寺」

     〔御朱印〕      「坂東十九番」
                 蓮華宝珠の中に、千手観音の種子「キリク」
                 「大谷寺印」





千手観音の種子「キリク」





        名を聞くも  めぐみ大谷の  観世音
                      みちびきたまへ  知るも知らぬも


  

2013年06月07日

下野国一宮 日光二荒山神社


関東総鎮守  下野国一宮
日光二荒山神社 (にっこうふたらさんじんじゃ)





下野国一宮 日光二荒山神社 (にっこうふたらさんじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県日光市山内2307

〔社格〕 旧国幣中社  式内社・下野国河内郡二荒山神社(名神大)

〔御祭神〕 大己貴命 (おおなむちのみこと)
       田心姫命 (たごりひめのみこと)
       味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)

〔御由緒〕 天応二年(782)に下野国芳賀郡の勝道上人が、関東平野北方に聳える男体山(二荒山)の山頂(標高2486m)に奥宮を創建、その二年後には中禅寺湖畔(海抜1230m)に中宮祠を創建した。 山頂には祭祀遺跡が確認され多数の出土品があり、古代より関東の霊地として信仰されてきたことがわかる。
 当社は男体山を神体山とし、「日光」の地名は二荒を音読みして付けられたという。 『延喜式』に名神大社として記載され、また下野国一の宮として古くより朝野の尊崇を集めた。
 元和三年(1617)、隣接地に徳川家康を祀る東照宮が建立されると、幕府より地主神として篤く崇敬され、境内建物の整備が進められた。 本殿や拝殿は元和五年(1619)、将軍徳川秀忠の造営、日光最古の建造物で、社殿は全て重要文化財に指定。 平成十一年には、当社と東照宮、輪王寺の二社一寺が「日光の社寺」として世界文化遺産に登録され、本社や神橋など二十三の建造物が指定されている。
-『全国一の宮めぐり』から-



         楼門               銅鳥居と境内            神門と御神木



              拝殿                            本殿













神苑内 三社 (世界遺産)

        日枝神社               大国殿              朋友神社


  〔左〕 日枝神社 (ひえじんじゃ)   御祭神 大山咋命 (おおやまくいのみこと)
  〔中〕 大国殿 (おおくにでん)     御祭神 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
  〔右〕 朋友神社 (みともじんじゃ)  御祭神 少名彦名命 (すくなひこなのみこと)



神苑内 名所旧跡

     神輿舎(世界遺産)       大国田道間守の石像         日光連山遙拝所



       二荒霊泉             唐銅燈籠(重文)          子授け安産の石





日光二荒山神社 別宮
本宮神社 (ほんぐうじんじゃ)

           本宮神社拝殿                      本宮神社本殿












別宮 本宮神社 (ほんぐうじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県日光市山内

〔御祭神〕 味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)

〔御由緒〕 二荒山神社発祥の地、すなわち日光の原点である。 天平神護2年(766)、勝道上人が大谷川(だいやがわ)を渡って日光に入って四本龍寺を開き、翌年その傍ら(現在の本宮神社の場所)に二荒山の神を祀った。 これが二荒山神社と輪王寺の開創であり、元は本宮神社の辺りが日光の中心であった。
 嘉祥3年(850)、昌禅座主が現在の二荒山神社本社の地に社殿を造営し(新宮)、元の社地には太郎山の神(味耜高彦根命)を祀った。 これが本宮神社である。
 男体山の神(大己貴命)を祀る新宮(本社)、太郎山の神(味耜高彦根命)を祀る本宮神社に、女峰山の神(田心姫命)を祀った滝尾神社を合わせて「日光三社権現」と称した。
 社殿は貞享2年(1685)の再建で、重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。


     勝道上人笈掛石          四本龍寺三重塔          四本龍寺観音堂





神橋 (しんきょう)




神橋 (しんきょう)      (重要文化財・世界遺産)

 天平神護2年(766)、勝道上人が二荒山へ入ろうとしたが、大谷川(だいやがわ)の激流に阻まれた。 困り果てた上人が一心に祈念すると、一人の神人が現れた。 身の丈は1丈余(3m余)、左手には赤と青の2匹の蛇が巻き付いていた。 そして上人に「我は深沙大王(じんしゃだいおう)である。汝を彼の岸に渡すべし」と言い手にもった蛇を放った。 蛇はたちまち岸を結んで虹のような橋となり、背に山菅が生えた。 上人一行が橋を渡り終え、後ろを振り返ると橋も神人も消えていたという。 上人は合掌して、深砂大王の加護に感謝し、それ以来この神橋を「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」とも称する。                           深沙王堂(蛇王権現堂)
 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永3年(1626)に現在のような神橋に造り替えられてから、東照宮の遷宮以後は神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に架けられた日光橋を使うこととされた。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(当橋・山口県錦帯橋・山梨県猿橋)の一つに数えられている。 橋の長さは28m、幅7.4m、高さ(水面より)10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)、橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。
 昭和57年男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より大修理が行われた。
 日光二荒山神社の建造物で、国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録された。




        君もこす  人もとはずば  しもつけや
              二荒の山と  我やなりなむ            能因法師



        春風の  二荒のやまは  おほらかに
              雲井にそびえ  またはかくるる        清水比庵


  

Posted by 閑人 at 16:39Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年05月31日

第18番札所 中禅寺


坂東三十三ヶ所 第18番札所 中禅寺





日光山 (にっこうさん)   中禅寺 (ちゅうぜんじ)      通称 立木観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県日光市中禅寺歌ケ浜2578

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 勝道上人 (しょうどうしょうにん)

〔創建〕 延暦3年 (784)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 寺伝によれば、延暦3年(784)、日光を聖地として開いた勝道上人が開基。 上人は天平勝宝6年(754)20歳で出家し、出流山(17番札所)の霊窟に参籠し、深く観音菩薩に帰依された。 そして観音浄土への強いあこがれから、やがて男体山を開くに至った。
 27歳の天平神護2年(766)、日光の地に四本龍寺を建立し、それから16年を要し、ついに延暦元年(782)前人未踏の男体山の頂上をきわめられた。
 中禅寺は延暦3年(784)、上人が中禅寺湖周遊の折、湖上に千手観音の尊容を感得され、桂の巨木を選んで立木のまま観音像を刻んだ。 これが中禅寺の始まりで、寺の通称「立木観音」はこれに由来する。
 「日光」という地名は「二荒」から出ており、二荒山とは男体山のことである。 二荒は「フタラ」と読み、音読で「ニコウ」、これに「日光」の文字をあてたもの。 この「フタラ山」こそ観音浄土の「補陀洛山」なのである。



御本尊の御影




御住職の法話

      観音さまのお声                輪王寺前門主 鈴木常俊 

 ある夏の日、七十歳前後のおじいさんが、中学生ぐらいの孫をつれて、ご本尊立木観音さまの前で、一心に観音経を読誦している。 その姿があまりに真剣なので、後刻声をかけてみると、実は、と言いながら次のようなことを話してくださった。
 私は若い頃、経済的な悩みごとで人生に失望、死ぬつもりで華厳の滝まで来たが、この世の最後にと思い立木観音さまをお参りしたところ、「死んではいけない。頑張りなさい」という観音さまのお声が聞こえてきたのです。
 観音さまのお言葉で死ぬのを思い留まり、それからは一生懸命働いてきました。 おかげさまで今日の私があるのです。 年に一度必ず参拝お礼を申し上げているのですが、おそらくほかにも私のような人がいると思いますよ、とのことであった。
 観音さまをお参りしたため、華厳病から救われている人が何人もいるということは本当に有難いことです。
   南無大慈大悲観世音菩薩
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」   「日光山」
                「立木大悲殿」
                「中禅寺」

    〔御朱印〕      「坂東十八番」
                宝珠の中、中央に千手観音の種子「キリク」
                周りに観音経の一句 「福聚海無量」
                「日光山中禅寺」





千手観音の種子「キリク」





        中禅寺  のぼりて拝む  みずうみの
                        うたの浜路に  たつは白波


  

2013年05月27日

第17番札所 出流観音


坂東三十三ヶ所 第17番札所 出流観音





出流山 (いづるさん)  満願寺 (まんがんじ)        通称 出流観音

〔所在地〕 (下野国) 栃木県栃木市出流町288

〔宗派〕 真言宗智山派別格本山

〔開基〕 勝道上人 (しょうどうしょうにん)

〔創建〕 天平神護元年 (765)

〔御本尊〕 千手観世音菩薩 (弘法大師御作)

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765)、日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山された。 弘安11年(820)、弘法大師が勝道上人の徳を慕って参詣し、山中にあった名木で千手観音を造立し、山麓に一堂を建て「千手院」としたのが始まり。
 「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があり、下野の国司の高藤介の妻が「観音の霊窟」に籠り、男の子を授かった。 この子がのちの勝道上人で、以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されている。
 本堂(大御堂)は、後小松天皇の応安元年(1368)、足利義満公の寄進によって、観音堂として建立されたが、元文五年(1740)の大火により焼失。 今の大御堂は中興第十七世道呆(どうごう)和尚が営々辛苦の末に明和元年(1764)に再建したものである。 八間四面入母屋造り、唐破風向拝(からはふうごはい)つき、三手先竜(みてさきりゅう)の彫刻がほどこされ、筑波山の大御堂(現在の筑波神社本殿)、奈良の輿福寺大御堂と共に日本三御堂の一つと称せられ、徳川中期の堂宇建築の代表的なものと言われる。 元治元年(1864)、本堂と書院を焼失したために、現在は大御堂をもって本堂としている。



御本尊の御影




御住職の法話

    観音さまと護摩祈禱の寺           出流山住職 竹村智優 

 出流山では、ご信者のみなさまのお願いごとが成就するように、毎日ご宝前で護摩祈禱が行われております。 当山のご本尊千手観世音菩薩は、観音経の言葉どおり私たちの願いを即時にかなえて霊験ますますあらたかであります。
 護摩祈禱とは、私たちのさまざまな願いごとを観音さまの智慧の火によって浄めて成就させる法要であります。 私たちが生きている現実は、悟りも迷いも、間違いも入りまじっているわけです。 私たちの願いごとも、身勝手で迷いも間違いもまじっているかも知れません。
 それを全部洗いざらい観音さまにぶつけて一心に祈願すると、私たちの迷いや間違いが洗い浄められて、自分自身の本当の願いが何であるか明確になり、その願いが実現できるという弘法大師の秘法が護摩祈禱であります。
 もちろん、ご信者のみなさまにも、一緒に観音経を唱和していただけば、山深い本堂に響くお経の声はみなさまの心に深くしみ入って、観音さまの妙智力はみなさまのものになるに違いありません。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

    〔御墨書〕      「奉拝」    「出流山」
                「大御堂」
                「満願寺」

    〔御朱印〕      「坂東十七番」
                蓮華宝珠の中に千手観音の種子「キリク」
                「出流山」





千手観音の種子「キリク」





       ふるさとを  はるばるここに  たちいづる
                        わがゆくすえは  いづくなるらん


  

2013年05月22日

海上釣堀 辨屋

5月21日  晴  (中潮)
三重県度会郡南伊勢町礫浦
海上釣堀  辨屋







釣りには最高の季節です。

閑人、今年一番の爆釣!















〔9人の釣果〕  52

ヒラマサ  2
カンパチ  8
ワラサ  7
シマアジ  3
イシダイ  2
マダイ  29
サクラマス  1




〔閑人の釣果〕  17

カンパチ 4 (活きアジ)
ワラサ 2 (活きアジ・小イカ)
マダイ 11 (ダンゴ各種)



  

Posted by 閑人 at 12:21Comments(0)TrackBack(0)釣行記

2013年05月18日

第16番札所 水澤観音


坂東三十三ヶ所 第16番札所 水澤観音





五徳山 (ごとくさん)  水澤寺 (みずさわでら)     通称 水澤観音

〔所在地〕 (上野国) 群馬県渋川市伊香保町水沢214

〔宗派〕 天台宗

〔開基〕 恵灌僧正 (えかんそうじょう)

〔創建〕 推古天皇の朝 (593~629)

〔御本尊〕 十一面千手観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん ばざら たらま きりく





〔略縁起〕 『縁起』には、「推古天皇の朝に当り、上野の国司高光中将菩提の所となさんがため、奏聞を経、御勅宣を以て高麗来朝の僧恵灌僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置し建立する寺なり」とある。 以来、歴代天皇の勅願寺として、また上野の国司の菩提所として栄えた。
 伝承によると、持統天皇の時代(690~97)には国司と水沢寺門徒が対立し御堂30余棟、坊舎300余棟、仏像180余体が焼失したと伝えられている。 その後、東円によって再興され寺運も隆盛するが、永正8年(1511)と大永2年(1524)の火災により多くの堂宇が焼失したが、その都度再建を重ねた。 
 江戸時代に入ると幕府から庇護され朱印状を賜り、伊香保温泉の湯治客や坂東三十三ヶ所巡礼が盛んになり再び隆盛した。
 現在の水澤寺は、天明7年(1787)に再建された観音堂や仁王門、六角二重塔があり、それぞれ渋川市指定重要文化財に指定されている。
 御本尊は伊香保姫の御持仏の十一面千手観世音菩薩と伝えられ、霊験あらたか、七難即滅七福即生のご利益がある。



御本尊の御影




御住職の法話

      五徳のこころ                水澤寺住職 山本徳明

 五徳山水澤寺は、推古天皇の祈願により創立以来千三百有余年、年中お参りの絶えない所です。
 山号、五徳山は、水の五つの徳をたたえたもので、五徳とは一、〝常に己れの進路を求めてやまざるは水なり〟 居着いても止まることなく自分の進路に向かって進みなさい。 二、〝自ら活動しで他を動かすは水なり〟 自分から進んで動きなさい。 三、〝障害に逢ってその勢力を倍加するのは水なり〟 障害にぶつかればぶつかった時以上のカをつけて進みなさい。 四、〝自ら潔くして他の汚濁を洗い而して、清濁併せいるは水なり〟 怠けないで悪い人も良い人も一緒に連れて行きなさい。 五、〝洋々として大海を充し、発しては雲となり雨と変じ凍っては玲瓏たる氷雪と化して、其の性を失わざるは水なり〟 長年連れ添った妻を今になってイヤになったというようなことはしてはいけない、の五つで、一切の生命を生かそうとする観音さまのお心から出てきたものです。 私は「如何なる国、如何なる所でも一刹那として観世音の光の中にあって世間をみて、目にみえる物、心の感じるもの一つ一つを生かそうと努力する」気持ちが強く、ご本尊をお参りせず去ろうとする人を大声で叱りとばしたことがあります。
 観音さまはいわば自然の声ですから自然にお参りしてほしい。 心の向くまま、どんなことでもよい、熱心におがめばよいのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-



納経帳
    〔御墨書〕      「奉拝」   「上野国」
                梵字「キリク」   「千手大悲閣」
                「水澤寺」
    
    〔御朱印〕      「坂東十六番」
                蓮華宝珠の中に、八つの梵字種子
                「サ」
                「バイ」?  「カン」
                「キリク」 「サ」 「キリク」 「キャ」 「カン」
                「水澤寺印」




御宝印
蓮華火焔宝珠の中に八つの種子
上段に中尊として、観世音菩薩の種子「サ」
脇侍仏として、右に不動明王の種子「カン」、左に毘沙門天の種子「バイ」か?
下段に、五観音の種子か?
右から、馬頭観音「カン」・十一面観音「キャ」・千手観音「キリク」・聖観音「サ」・如意輪観音「キリク」であろうか?



※ 納経帳の御本尊の種子が御墨書と御朱印とでは異なっているのは何故だろうか?
御墨書では「キリク」、御宝印には「サ」が使われている。
 お寺の話では、この御宝印の起源については不詳であるが、原型は江戸時代まで遡ることができるという。
 閑人思うに、江戸期以前には、「水澤寺の観音さま」と信仰され、単に「観世音菩薩」の種子「サ」が使われてきたのではないかと。 創建は古く、第13番札所浅草寺と同じく推古朝であるという。 奈良法隆寺の百済観音と同時代のものか。 浅草観音も水澤観音もどちらも秘仏であり、御開帳の例はなく、確かめる術はない。
 脇侍仏は不動明王と毘沙門天であろう。 但し、毘沙門天の種子「バイ」が特殊である。 「バイ」に「アー点」が付く。 正確には、「バ」に「アウ点」となるので、「バウ」と読むべきか。 この様な種子にはお目にかかったことがないので閑人には判らない。 御影や御宝印に、観音様の脇侍仏として不動明王と毘沙門天が画かれているのは、他にも15番白岩観音・29番千葉寺・30番高蔵観音に見受けられることから、毘沙門天の種子「バイ」に違いないと思うのだがどうであろうか。
 下段の五つの種子は、六観音ならぬ五観音を表しているのだろうか?
 いずれにしても、江戸期以前には、この様な安置型式で仏様が祀られていたのではないだろうか。 しかし幾多の変遷を経た水澤寺は、今日では御宝印どおりの安置型式はとられていないとのことである。



御宝印の種子

          毘沙門天 ?       観世音菩薩「サ」      不動明王「カン」



   如意輪観音       聖観音       千手観音      十一面観音     馬頭観音






        たのみくる  心も清き  水澤の
                         深き願いを  得るぞうれしき


  

2013年05月10日

第15番札所 白岩観音


坂東三十三ヶ所 第15番札所 白岩観音





白岩山 (しらいわさん)   長谷寺 (ちょうこくじ)      通称 白岩観音

〔所在地〕 (上野国) 群馬県高崎市白岩町448

〔宗派〕 金峯山修験本宗

〔開基〕 役行者 (えんのぎょうじゃ)

〔創建〕 文武天皇朱鳥年中 (697)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 『坂東霊場記』には「白岩山長谷寺は役ノ優婆塞苦行の陳跡なり、十一面観自在の影向、不動明王湧出の霊窟なり。本尊大悲の像は行基大士他の除厄のために楊柳の霊樹を以て彫刻し玉ふ」とある。
 寺伝によれば延暦・大同(782~810)の頃に伝教大師、弘法大師も来錫し、文徳天皇(851)の御代、在原業平が堂宇を修営したという。 のちに源義家、新田義貞など武将の信仰もあつかったという。
 この長谷寺のある所を「白岩」といい、六ヵ坊の修験が修法していた。 新田義貞の挙兵にあたって、この修験者たちが坂東八ヵ国に盛んに檄を伝えたという。 また白岩に境を接する里見郷は新田義貞と共に滅亡した里見一族の本拠地であり、のちの楠正成の家臣浜名左衛門義尊が遠江国濱名邑より来たりて諸堂を改修し護った。 現山主はその三十九代目にあたる。 
 天文元年(1532)、上杉憲政が伽藍を整えてから日本三長谷の一つとなった。 永禄六年(1563)、武田信玄の箕輪城攻略の兵火で焼失したが、武田勝頼が世無道上人に命じ、天正八年(1580)再建させたのが現在の観音堂である。



御本尊の御影





御住職の法話

    観音さま                 長谷寺住職 浜名静海

 阿弥陀の具現か未来の仏、いずれにせよ現世を救い未来を約す有難きお方、一切の欲から離れ慈悲のみが満ちた観音さまは、たえず仏になるべく努力し苦しむ衆生を助け、仏の教えを信じさせながら苦の底から救ってくださいます。 祈る人の心が誠であれば必ず智慧を与え力を貸し、利益、そして楽を与えてくれるのです。
 食べ物を有難くいただく時、コップ一杯の水を感謝の心でいただく時、食べ物も水もみな観音さまなのです。 家庭にあっては可愛い子供のために、一心不乱不動で働く母親の姿はまさに観音さまのお姿です。 また、重症の患者が心から医者を信頼して見てもらうように、頼る者なら区別なく無限の愛情を注いでくださるのが観音さまです。
 仏の教えは限られた人生を正しく全うすべく説かれた教えで、生活の中で目に見えぬわからぬところで肥しとなり糧となっているのです。
 観音さまは現世における衆生救済の菩薩なのです。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳
   〔御墨書〕    「白岩山」
             「大悲殿」
             「長谷寺」
   〔御朱印〕    「坂東十五番」
             蓮華宝珠の中、
             上段に、御本尊十一面観音の種子「キャ」
             下段右(左脇侍仏)に、毘沙門天の種子「バイ」
             下段左(右脇侍仏)に、不動明王の種子「カン」
              「長谷寺印」




御宝印の種子

        不動明王「カン」       十一面観音「キャ」       毘沙門天「バイ」





           誰も皆な  祈る心は  白岩の
                           初瀬の誓ひ  頼もしきかな


  

2013年05月04日

第14番札所 弘明寺観音


坂東三十三ヶ所 第14番札所 弘明寺観音





瑞応山 (ずいおうざん)   弘明寺 (ぐみょうじ)        通称 弘明寺観音

〔所在地〕 (武蔵国) 横浜市南区弘明寺町267

〔宗派〕 高野山真言宗

〔開基〕 行基菩薩 (ぎょうきぼさつ)

〔中興開山〕 光慧上人 (こうえしょうにん)

〔創建〕 天平9年 (737)

〔御本尊〕 十一面観世音菩薩

〔御真言〕 おん まか きゃろにきゃ そわか





〔略縁起〕 寺伝によれば、聖武天皇の天平9年(737)、行基菩薩が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫中、当山の浄域に霊感を得て、一刀三礼の至誠を尽くして十一面観音を刻み、一宇を建立したのが開創という。 嵯峨天皇の弘仁5年(814)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願し、双身歓喜天を彫刻し安置したと言われている。 長暦年間(1037~1040)、武相の地に疫病が流行した時、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救い、瓦葺き本堂を建立された。 鎌倉時代には源将軍家累代の祈願所となり、戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三ヶ所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。
 鎌倉時代には、「求明寺(ぐみょうじ)」と称されていた。 その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字を当てて、現在の「弘明寺(ぐみょうじ)」に改めたといわれている。



御本尊の御影






御住職の法話

     十一面観音が笑う!?        弘明寺住職 美松寛定

 十一面観音を本尊と奉る寺院は全国各地に多く、当山本尊も、天平時代に行基が、鉈(なた)彫と呼ばれる方法で彫ったといわれる十一面観音である。
 先日、わけがあって本尊さまを動かしていたら、普段はお目にかかることができないまうしろのお顔とご対面させていただくことができた。
 実はこのお顔、カンラ、カンラと笑っているのである。 『十一面観音神呪経』という経典に、「当前の三面は、菩薩の面に作れ。 左の廂の三面は当に瞋れる面に作るべし。 右の廂の三面は、菩薩の面に似て狗牙を上に出せ。 後に一面あり当に笑面に作るべし。 其の頂上の面は当に仏の面に作るべし」
と書かれている。
 つまり正面の三面は菩薩面、左三面は怒りの顔、右三面は牙を出し、頭の上に仏面をおき、そしてうしろの一面は邪心をおさえるために笑っているのである。 機会があれば一度ご覧になってみてはいかがだろう。
-『板東三十三所観音巡礼』から-




納経帳

    〔御墨書〕     「奉拝」   「瑞應山」
               梵字「キャ」   「大悲殿」
               「弘明寺」

    〔御朱印〕     「坂東第十四番」
               蓮華宝珠の中に十一面観音の種子「キャ」
               「弘明寺観音」





十一面観音の種子「キャ」




      ありがたや  ちかひの海を  かたむけて
                     そそぐめぐみに  さむるほのやみ


  

2013年04月29日

丹波国一宮 出雲大神宮


元出雲  日本一の縁結び
出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)






丹波国一宮 出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)      通称 出雲さん

〔鎮座地〕 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地

〔社格〕 旧国幣中社  丹波国桑田郡の式内社・出雲神社 (名神大)

〔御祭神〕 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
       三穂津姫命 (みほつひめのみこと)

〔御由緒〕 大国主命はこの国土をひらき国造りを完成され、天孫降臨に際し天照大神の御神勅にしたがい、平和の御心をもってこの国土を皇孫にお譲りになった。 その折、高皇産霊尊の娘、三穂津姫命を后神に迎えられ、二柱めでたく当地にご鎮座、併せて出雲大神となり、御祭神自ら縁結びの御神徳を示された。
 その後、崇神天皇が丹波地方全域を平定された折に再興、元明天皇の和銅二年(七〇九)十月二十一日、勅命により御影山(みかげやま)の麓に社殿が創建された。 『丹波風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根の木築の地に遷す。すなわち、今の出雲大社これなり。」とあり、元出雲と呼ばれている。
 三間社流造りの社殿は鎌倉時代初期のもので貞和元年(一三〇五)に足利尊氏、後にも細川勝元により修造され現在に至るものと伝えられる。
 本殿背後の御影山は社殿が創建される以前より信仰され、今なお国常立尊の鎮まる聖域となっている。
-『全国一の宮めぐり』から-



御神体山 御蔭山



御神体山  御蔭山 (みかげやま)
御祭神  国常立尊 (クニノトコタチノミコト)   毎月25日 國祖祭

 神々様が御降臨遊ばされたのは御神体山である御蔭山で、出雲大神宮の本殿が立てられる以前から公武を問わず、尊崇を集めてきました。古は千年山とも呼ばれた様に、永続の根本、つまり国の最も優れた中心地でありました。
 御蔭山は国祖として知られる国常立尊がお鎮りになられ、『富士古文書』には当宮御祭神の三穂津姫命が御奉仕し、お隠れになられた折にはこの御蔭山に葬られたと記されています。



御社殿

拝殿



              中門                            本殿












御社殿

 社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。
 しかし近年、三枚の棟札が発見され、そのうち文安二(1445)年十一月二十六日のものは「御願主源右享(京)大夫殿」とある点を考慮し、社殿造営に関して室町期に管領職として幕権を掌握した細川勝元との関係を無視すべきではありません。
 その造りは中世神社建築に多く見られる三間社流造平入で、建坪十四坪弱、檜皮葺を施しており、明治三十九(1906)年に旧国宝、現重要文化財に指定されています。
 平面は正面に一間の向拝をもうけ、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めています。外陣と内陣部分には高欄付きの縁をまわし、身舎側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には縁をまわしていません。-『新修亀岡市史』資料編第四巻-
 中門は切妻造、平入。 拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治十一(1878)年に官費により造営されました。 ここでは10月21日に斎行される例大祭や4月18日の花鎮祭に巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。




摂末社


〔左〕 上の社(かみのやしろ)
〔御祭神〕 素戔嗚尊・櫛稲田姫尊

〔右〕 稲荷社(いなりしゃ)
〔御祭神〕 宇迦之御魂神



〔左〕 笑殿社(わらいどのしゃ)
〔御祭神〕事代主命・少那毘古名命
〔右〕 春日社(かすがしゃ)
〔御祭神〕建御雷之男神・天兒屋命


〔左〕 崇神天皇社 (すじんてんのうしゃ)
〔御祭神〕 崇神天皇
〔右〕 辨財天社 (べんざいてんしゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命


〔左〕 黒太夫社(くろだゆうしゃ)
〔御祭神〕猿田毘古神・大山祇神

〔右〕 祖霊社(それいしゃ)
〔御祭神〕歴代の神職、役員、総代氏子、特別崇敬者の物故者




名所旧跡

     御神石 夫婦岩            真名井の水              御蔭の滝



         磐座                 古墳                  磐座





徒然草の世界

 鎌倉末期、或は室町初期に、兼好法師により著された『徒然草』の236段には、出雲大神宮の事が記載されています。

丹波に出雲といふ所あり
 丹波に出雲といふ所あり。 大社を移して、めでたく造れり。 しだのなにがしとかや、知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
-吉田兼好『徒然草』236段-


現代語訳
 丹波国に出雲という所がある。出雲大社に倣って立派に造営した。 しだ某とかいう人が領知する所なので、秋の頃、聖海上人や沢山の人を誘って、「さぁさぁ、皆さん、出雲拝みに参りましょう。ぼた餅をごちそうしますよ。」と言って一緒にお参りすると、皆、拝んで大層信仰篤くなった。
 本殿の前にある獅子・狛犬が反対を向いて、後ろ向きに立っていたので、上人はただならず感じ、「なんと素晴らしい。この獅子・狛犬の立ちようは、大変不思議だ!この立派な神社の事だから、きっと深い意味でもあるのだろう。」と涙ぐんで、「どうです、皆さん。他に類を見ない素晴らしいものとは御覧にならないのですか。それが分からないとは仕方ない人達ですな。」と言ったので、皆、珍しいものだと思って、「本当に他と異なり素晴らしいなぁ。都の土産話にでも語りましょう。」などと言う内、上人はやはり理由を知りたがって、分別のある、何でも知っている様な顔をした神官を呼んで、「この神社の獅子・狛犬の立てられている様子は、きっと例のある事なのでしょう。ちょっとゆかりをお伺いしたいのですが。」と言われたので、神官は、「その事ですか。これはいたずら者の子供がした事です。けしからぬ事です。」などと言って、獅子・狛犬に寄り、元のように向き合って据え直して去ったので、上人の涙は意味のないものになってしまった事だ。


※ 現在の獅子・狛犬は当時のものとは異なります
 この段は中高生の教科書に載せられるほど有名で、当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社でありました。
 また分霊したとありますが、当宮の社伝によれば、むしろ丹波の地より出雲の杵築宮にお遷し申し上げたとされています。
-『出雲大神宮公式サイト』から-




  

Posted by 閑人 at 23:00Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2013年04月20日

第13番札所 浅草観音

坂東三十三ヶ所 第13番札所 浅草観音




金龍山 (きんりゅうざん)  浅草寺 (せんそうじ)      通称 浅草観音

〔所在地〕 (武蔵国) 東京都台東区浅草2-3-1

〔宗派〕 聖観音宗

〔開基〕 土師直中知・桧前浜成・桧前竹成

〔中興開山〕 慈覚大師 (円仁)

〔創建〕 推古天皇36年 (628)

〔御本尊〕 聖観世音菩薩 (秘仏)

〔御真言〕 おん あろりきゃ そわか





〔略縁起〕 『浅草寺縁起』によると、推古天皇36年(628)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはやなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網の中に聖観音像を感得した。 像を拝した兄弟の主人土師中知(はじのあたいなかとも)は出家し、自宅を寺に改めて供養した。 これが浅草寺の始まり。 後にこの三人を祀ったのが三社権現(浅草神社)である。
 その後大化元年(645)、勝海上人が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めた。 平安時代初期の延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来山して「お前立ち」の観音像を刻み安置されたという。 これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称している。
 天慶5年(942)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。 鎌倉時代の『吾妻鏡』によれば、源頼朝が深く帰依し、治承5年(1181)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せたことが記されている。
 江戸時代には、天海大僧正の進言で徳川家の祈願所となり、五百石を寄せられ、坂東無双の巨藍となった。 寛永8年(1631)、同19年に堂宇は火災により焼失するが、慶安2年(1649)、将軍家光の代に観音堂、五重塔、仁王門、雷門が再建され、江戸庶民の信仰で賑わった。
 太平洋戦争によって惜しくも堂塔を失ったたが、今日ではそのすべてを復興し、輪奐の美をなしている。


浅草神社













浅草神社 (あさくさじんじゃ)    通称 三社様 (さんじゃさま)

〔鎮座地〕 東京都台東区浅草2-3-1

〔社格〕 旧郷社

〔御祭神〕 土師真中知命 (はじのまつちのみこと)
       桧前浜成命 (ひのくまのはまなりのみこと)
       桧前竹成命 (ひのくまのたけなりのみこと)

〔配祀神〕 東照大権現 (徳川家康)

〔御由緒〕 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)・東照宮である。 浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。 三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。 しかし鎮座年代は不詳。 東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(一六四九)に合祀された。 以来、三社大権現といい、明治元年(一八六八)三社明神、同六年浅草神社と改称した。
 現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。 建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。 この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。 毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。 
  平成六年三月        台東区教育委員会
-「境内案内板」から-



御本尊の御影


「柳の御影」 (浅草寺寺宝)     慈覚大師円仁さまによって彫刻されたお姿。

    慈悲の仏さま     浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
 観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。
 特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで1400年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われご加護なさってきました。
  観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
※ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えいたしましょう。
-「浅草寺公式サイト」から-




御住職の法話

    観音浄土                浅草寺貫首 清水谷孝尚

 ご本尊さまがご示現になられましてから千三百六十年になります。 この間、数えきれないほど多くの人々が一心に祈りをこめて参られ、今日も全国からの参詣者で浅草寺は賑わっております。 これは観音経に説く「一心に観音さまの御名(みな)を称えれば、たちどころに厄難から救ってくださる」という観音さまの有難いおはたらきによせる信仰の表われでありましょう。
 この観音信仰のわかりやすさと、当山の『縁起』に示される名もなき三人によるご示現という庶民性とが魅力となって、「あさくさのかんのんさん」としての親しみをもっていただける霊場となったものと思います。
 観音さまは「慈悲(じひ)」をご本体とされる菩薩であります。 いわゆる「己れを忘れ他を利する」お心の持ち主であられます。 皆さんが観音さまを信仰なさいますと、もろもろの願いがかなうばかりではなく、この観音さまの慈悲のお心を自分のものとすることができるのです。
 その時こそ皆さまは観音さまの化身となられるのです。 そうなれば、この世は観音浄土となります。 なお一層のご信心をおすすめいたします。
-『板東三十三所観音巡礼』から-





納経帳

     〔御墨書〕      「奉拝」  「金龍山」
                 梵字「サ」  「聖観世音」
                 「浅草寺」

     〔御朱印〕      「阪東拾三番」
                 「観世音」
                 「浅草寺印」




聖観音の種子「サ」




        ふかきとが  今よりのちは  よもあらじ
                        つみ浅草に  まいる身なれば