2014年11月29日

但馬国一宮 出石神社


但馬国一宮
出石神社
 (いずしじんじゃ)





但馬国一宮 出石神社 (いずしじんじゃ)    通称 一宮さん (いっきゅうさん)

〔鎮座地〕 兵庫県豊岡市出石町宮内99

〔社格〕 旧国幣中社  但馬国出石郡の式内社・伊豆志坐神社八座(並名神大)

〔御祭神〕 天日槍命(あめのひぼこのみこと)
       出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)=八種の神宝(やくさのかんだから)

〔御由緒〕 『日本書紀』によると垂仁天皇の時代、新羅国の皇子であった天日槍命は国を弟に譲り、八種の神宝(やくさのかんだから)を奉持して日本へ渡り、泥海であった但馬の岩山を開いて濁流を日本海へ流し、国を開拓したとされている。 当社は天日槍命の子孫である出石氏が創祀したとされ、その年代は詳らかではない。
 八種の神宝とは、珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡のことである。 この八種の神宝は八座の神として『延喜式』に名神大社として記されており、現在出石八前大神として祀られている。
 古くから朝野の崇敬を受け但馬国一の宮として栄え、守護職らも度々参詣した。 戦国時代には秀吉により社地を没収されるも歴代出石城主の庇護を受け復興した。 明治四年に国幣中社に列格。 現在の社殿は大正三年(1914)に造営されたもの。
-『全国一の宮めぐり』から-



              社前                            神門













御社殿
 現在の社殿は大正三年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面に切妻造の幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で入母屋造り平入りで蔀戸(しとみど)をつり、正面に拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は他に類のない珍しい建築です。 神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股(かえるまた)を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。
-『出石神社由緒略記』から-


              拝殿                            本殿












境内社

 
〔左〕 比賣社
〔御祭神〕 麻多島(麻多烏)

〔右〕 夢見稲荷社
〔御祭神〕 宇迦御魂神




〔左〕 弁天社
〔御祭神〕 市寸嶋比売命

〔右〕 天神社
〔御祭神〕 菅原道真公





禁足地






  

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2014年05月28日

越後国一宮 彌彦神社


越後国一宮
彌彦神社
 (いやひこじんじゃ)





越後国一宮 彌彦神社 (いやひこじんじゃ)      通称 おやひこさま

〔鎮座地〕 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2

〔社格〕 旧国幣中社  越後国蒲原郡の式内社・伊夜比古神社(名神大)

〔御祭神〕 天香山命 (あめのかごやまのみこと)

〔御由緒〕 天照大御神の御曾孫神である天香山命は、神武東征の折り武功を挙げ、神武天皇即位後は越後地方の開拓経営を命ぜられた。 当社は越後地方の開拓祖神である命を祭神とし、越後平野の中央に聳える弥彦山を神奈備とする。 その創建年代は不詳だが、万葉集に「いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すら小雨そぼふる」「いやひこの神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮服着て角つきながら」の歌が記されており、古くから越後国の守護神として朝野の篤い尊崇を受けていたことがわかる。
 戦国時代は上杉氏の尊崇を受け隆盛し、江戸時代にも慶長二十年(1615)松平忠輝より社領五百石が、徳川家光から同じく五百石が寄進された。
 現在の社殿は、明治末に焼失したため大正五年に再建されたもの、本殿は三間社流造で向拝・回縁高欄・脇障子を具え、弊殿は三間社流造で大床昇階擬宝珠高欄を付す。 いずれも銅板葺、四方を木々に囲まれた社殿は荘厳である。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿












御社殿
 現在の御社殿は明治45年に門前町から出た火災の延焼で炎上したため、大正5年に現在の地に造営されました。
 本殿は三間社流造向拝付、回縁高欄、脇障子を具え、銅板葺きです。 弊殿も三間社流造、大床昇階擬宝珠高欄を付し、銅板葺きです。 祝詞舎は20坪両流箱棟造りで、それにつづく拝殿は50坪で入母屋造、向拝、裳階付きの銅板葺きです。
 御本殿以下諸殿舎のお屋根の葺き替え、祈祷殿・参拝控所・社務所の新築等々、八十五年ぶりの大修営事業を行い、平成十三年十月に竣工されました。



御祭神
天香山命
 (アメノカゴヤマノミコト)
 天照大御神の御曽孫(ひまご)にあたり、高天原より神々が天孫降臨賜いし折にご一緒に降り、紀州熊野(和歌山県)に住み神武天皇ご東征の際に韴霊(フツノミタマ)の剣を奉って大功をたてられました。
 神武天皇が国家統一を終え、大和の橿原の宮でご即位になられた4年後に越後地方開拓の詔を受け、日本海の荒海を舟で渡られ、はるばる越の国の野積浜にご上陸になられました。
 そこで早速、漁民に海水を焚いて塩を作ることや、網・釣針を用いて魚を獲る術を教えられました。 さらに弥彦に宮居を定められてから蛮族を平定され、住民に稲作や酒造の術をご指導になられ、また、6代の御子孫も協力・継承して越後地方の産業文化の基礎を造られました。 じつに命は、越後開拓・産業文化の始祖神です。
-小冊子「おやひこさま」から-



境内 摂社・末社


      摂社・武呉大神           摂社・草薙神社          摂社・今山神社


摂社・武呉大神(たけくれ)
〔御祭神〕 天五田根命(あめのいつたねのみこと)(第1嗣)

摂社・草薙神社(くさなぎ)
〔御祭神〕 天戸國命(あめのとくにのみこと)(第3嗣)

摂社・今山神社(いまやま)
〔御祭神〕 建筒草命(たけつつくさのみこと)(第4嗣)



〔左〕摂社・勝神社(すぐる)
〔御祭神〕 建田背命(たけたせのみこと)(第5嗣)
〔右〕摂社・乙子神社(おとご)
〔御祭神〕 建諸隅命(たけもろずみのみこと)(第6嗣)




    末社・二十二所神社         末社・八所神社           末社・十柱神社


末社・二十二所神社(にじゅうにしょ)
〔御祭神〕 伊勢大御神・石清水八幡宮・加茂大明神・松尾大明神・平野大明神・稻荷大明神・春日大明神・大原大明神・大神神・石上神・大和神・廣瀬大明神・竜田大明神・丹生神・住吉明神・貴船大明神・吉田神・廣田大明神・北野大明神・梅宮坐神・祇園神・日吉神

末社・八所神社(はっしょ)
〔御祭神〕 香取大明神・熱田大明神・香嶋大明神・氣比大明神・諏訪大明神・江文大明神・渡津大明神・氣多大明神

末社・十柱神社(とはしら)(重要文化財)
〔御祭神〕 大穴牟遲命・彌都波能賣神・速秋津日子神・速秋津日女神・阿須波神・波比岐神・大山祇神・大地主神・埴山姫神・草野姫神



名所・旧跡


       二の鳥居              東参道鳥居            御神橋(玉ノ橋)



        随神門                神馬舎                 鹿苑





御神廟




御神廟
 御祭神・天香山命(あめのかごやまのみこと)並びに妃神の熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)の御廟で、弥彦山山頂(標高634m)にあります。 5月と10月には春・秋季神廟祭が行われ、多くの崇敬者が参列します。
-小冊子「おやひこさま」から-


中部北陸自然歩道
御神廟
 越後平野を一望する霊峰・弥彦山(標高634m)の御神廟とは、山頂に祀られる彌彦神社の御祭神の御廟(奥宮)のことです。
 御祭神である天香山命(あまのかごやまのみこと)は和銅4年(711年)に神武天皇より、越後地方の開拓の勅命を受け、日本海の荒海を舟で渡られ、越の国の野積浜(現在の寺泊町野積地区)に上陸されました。
 そこで早速、漁民に海水を焚いて塩を作ることや、網や釣針を用いて魚を獲る術を教えられ、さらに弥彦に宮居を定められてから、越後を平定し、さらに住民に稲作をはじめ諸産業の御指導をされたと伝えられています。
 千年以上も昔から、彌彦神社は越後一宮として「おやひこさま」の敬称で親しまれています。
     環境省・新潟県         
-「中部北陸自然歩道案内板」から(原文のママ)-
※ 下線は神武天皇4年の誤りか



万葉歌碑

     万葉の道の歌碑            鹿苑の歌碑            御神廟の歌碑




伊夜彦 於能礼神佐備 青雲乃 田名引日須良 霂曽保零  (一云 安奈尓可武佐備)

      弥彦 おのれ神さび 青雲の
          たなびく日すら 小雨そほ降る  (一に云ふ あなに神さび)
-『万葉集』巻16 3883-



伊夜彦 神乃布本 今日良毛加 鹿乃伏良武 皮服著而 角附奈我良

        弥彦 神の麓に 今日らもか
               鹿の伏すらむ 皮衣着て 角つきながら
-『万葉集』巻16 3884-



  

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2014年01月12日

但馬国一宮 粟鹿神社


但馬国一宮
粟鹿神社
 (あわがじんじゃ)





但馬国一宮 粟鹿神社 (あわがじんじゃ)

〔鎮座地〕 兵庫県朝来市山東町粟鹿鴨ヶ端2152

〔社格〕 旧県社  但馬国朝来郡の式内社・粟鹿神社(名神大)

〔御祭神〕 粟鹿大神 (あわがのおおかみ) (合わせて十一柱の神々が本殿に祀られている)

  〔主祭神〕 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)
         天美佐利命(あめのみさりのみこと)
         日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)

〔御由緒〕 当社は背後の粟鹿山(標高962m)を神奈備とし、京都府に隣接する山陰道の宿場町として栄えた要所に鎮まっている。
 祭神は十一柱を総称して粟鹿大神というが、以下の三神を主な祭神としてとしている。 日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと)は開化天皇の第三皇子であり、四道将軍の一で丹波国に派遣された丹波道主神と共に丹波・但馬地方を平定し開拓した。 本殿の後方には円墳があり、日子坐命の陵墓であると伝える。 また『粟鹿大明神元記』には、大国主命の御子神である天美佐利命(あめのみさりのみこと)を鎮め祀ったと記している。 他に、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと)が塩満珠(しおみちのたま)を当社に奉納したという伝承から、この神を祀ったといわれている。
 『正倉院文書』に「天平九年神戸租調稲凡二〇七六束」とあり、他の古文献にも神階昇叙の記述がみえ、既に但馬国の名社として朝廷に知られていたことがわかる。 『延喜式』に名神大社として記載され、以降も但馬国の守護神として崇敬を集めた。 明治以降県社に列格した。
-『全国一の宮めぐり』から-



勅使門 (ちょくしもん)
 朝来市指定文化財 (建造物)
 粟賀神社 勅使門   昭和47年4月1日指定
 勅使門は、勅使が神社に参向する際、出入りする門である。 粟賀神社では、四回の勅使参向があったことが記録に残っている。 創建年は不詳。 桁行三.九五メートル、梁間三.三メートル、妻造りの四脚門形式で、建材の大部分は欅である。 屋根は現在銅板葺であるが、以前は桧皮葺であった。 柱は上下に、粽を施して基盤の上に立っている。 柱上の組物、中備えの三斗詰組、海老虹梁、木鼻等は唐様の手法を示している。 本柱間の両開きの唐戸は、透かし彫りの欄間をつけ、羽目板には鳳凰が刻まれている。 頭貫には簡単な若草模様が見え、全体的には唐様であるが、妻梁を受ける本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。 度々の災禍も免れたと伝えられ、数少ない遺構の一つである。
  平成二十四年三月      朝来市教育委員会
-「境内案内板」から-



随神門  (日の出門)

 随神倚像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
 狛犬像 (一対二体)   朝来市指定文化財(彫刻)
-「境内案内板」から-





御社殿

              拝殿                            本殿













境内社

        茗荷神社             猿田彦神社              厳島神社


茗荷神社 (みょうがじんじゃ)
〔御祭神〕 草野姫命 (かやのひめのみこと)
(粟鹿神社の神紋抱き茗荷は境内にこの末社を祀るによる)

猿田彦神社 (さるたひこじんじゃ) (庚申社)
〔御祭神〕 猿田彦神 (さるたひこのかみ)
(交通安全・除災の神)

厳島神社 (いつくしまじんじゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
(海上守護・財福技芸の神)


        床浦神社              稲荷神社               天満宮


床浦神社 (とこうらじんじゃ)
〔御祭神〕 大己貴神 (おおなむちのかみ)
(医療・縁結びの神)

稲荷神社 (いなりじんじゃ)
〔御祭神〕 保食神 (うけもちのかみ)
(農業・食物の神)

天満宮 (てんまんぐう)
〔御祭神〕 菅原道真公 (すがわらのみちざねこう)
(学問の神)




御陵

日子坐王御陵


御陵  本殿背後に丘陵あり、古来より御陵または神墓・御塚とも呼ばれ、日子坐王の御墳墓と云はれている。 高さ六米、方の辺の長さ約四六米、重湟ありしも現在は内湟の一部が残る。
-『粟賀神社由緒』から-



主なる御祭神

一、天美佐利命(あめのみさりのみこと) (大國主命の御子)
 『粟鹿大明神元記』に依れば「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神(あらぶるかみ)、即ち天美佐利命の神狀を朝廷に申出で、幣帛を給って鎮め祭らしむ」と記されている。 即ち社記と併せて推察するに、祀られし場所は、粟鹿山中腹の池ヶ平(いけがなる)と推定される。

二、日子坐王命(ひこいますのおおきみのみこと) (開化天皇の第三皇子)
 この命は第十代崇神天皇の御代、四道将軍の一人として旦波・若狹および山陰地方を平定巡按せられ、当地に於ひて薨去、鴨ヶ端の現社殿背後の丘陵に祀る、と伝へられている。
 第十四代仲哀天皇の御后で命の四代目の孫にあたる神功皇后は、新羅に軍を進める前に、勅使を粟賀神社に差遣して戰勝を祈願せられ、凱旋の後に其の報賛として右丘陵の南端に新しく社殿を建て、池ヶ平(いけがなる)の神社御祭神を遷座奉安せられ、合はせて命をも御祭神として祀られた、と云はれる。(粟鹿大社縁起)

三、日子穂穂手見尊(ひこほほでみのみこと) (古事記に傳へる山狹知毘古)
 尊が海神から授けられたと云ふ満・干二珠を、神功皇后が新羅に捧持せられ、凱旋のとき塩満珠を粟賀神社に奉納せられし故事から、尊を御祭神として祀ったものと考へられる。

四、以上の神々と共に左の神々が本殿に祀られている。
 阿波奈岐尊 (あわなぎのみこと)
 伊弉奈岐尊 (いざなぎのみこと)
 天照大日孁尊 (あまてらすおほひるめのみこと)
 籠神 (このかみ)
 鵜草葺不合尊 (うがやふきあへずのみこと)
 月讀尊 (つきよみのみこと)
 素盞嗚尊 (すさのをのみこと)
 豊玉姫尊 (とよたまひめのみこと)
-『粟賀神社由緒』から-



  

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2013年11月15日

越後国一宮 居多神社


越後国一宮
居多神社
 (こたじんじゃ)





越後国一宮 居多神社 (こたじんじゃ)

〔鎮座地〕 新潟県上越市五智6-1-11

〔社格〕 旧県社  越後国頸城郡の式内社・居多神社

〔御祭神〕 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
       奴奈川姫 (ぬながわひめ)
       建御名方命 (たけみなかたのみこと)

〔御由緒〕 祭神の奴奈川姫は越後国の姫神で、大国主命との間に建御名方命(諏訪神)を産んだ。 建御名方命は信濃国一の宮である諏訪大社の御祭神であるが、同社の御分社は新潟県に多く鎮座し、この三神は信越地方の開拓神として大いに尊崇されている。
 当地は国府の所在地にあたり、近くに越後国分寺がある。 貞観三年(861)には朝廷より神階従四位下を贈られている。 神社は春日山城にも近く、ここを居城とした上杉謙信、ほか越後守護上杉氏の崇敬を受け隆盛、徳川家光も社領を寄進している。 また江戸時代には、松尾芭蕉が「奥の細道」よりの帰途に参拝している。
 社殿は天正六年(1578)、上杉謙信没後、養子景勝と景虎との家督争い「御館の乱」に巻き込まれて社殿が損傷、後に再建される。 日本海近くに鎮座していたが、明治十二年海岸の浸食を受け、現在地へ遷した。 平成二十年、新社殿が造営された。
-『全国一の宮めぐり』から-



              拝殿                            本殿













境内社

〔左〕 雁田神社 (かりた)
御祭神 高皇産霊神・神皇産霊神
(子宝・安産の神 )
〔右〕 稲荷神社 (いなり)
御祭神 倉稲魂命
(商売繁昌の神)




名所・旧跡


〔左〕 大国主命・沼河姫像


〔右〕 大国主命沼河姫妻問歌碑





親鸞聖人御像



 親鸞聖人は、承元元年(1207)、35歳のときに朝廷より専修念仏の弾圧をうけ(承元の法難)、ここ越後国府に流罪の身となられた。 『親鸞聖人御一代記』によれば、聖人は、親不知の難所をこえて同年3月28日に居多ヶ浜に到着されている。
                                           越後七不思議「片葉の葦」
 聖人は居多ヶ浜に御上陸された後、越後一の宮、居多神社を参拝された。 聖人は日の丸に六字名号を書かれ、「末遠く法をまもらせ居多の神、弥陀と衆生のあらむ限りは」と一首を詠んで神前に供え、早期の恩赦免と念仏の興隆を祈願したところ、一夜にして境内の草が片葉になったという。 すなわち、今日も境内に群生する親鸞聖人越後七不思議の一つ「片葉の芦」の由来である。

 赦免はそれから5年後のことであるが、聖人は関東へ向かわれるまでの約7年間を越後で過ごされた。 厳しい自然のなか、恵信尼公との結婚、家族に囲まれ、民衆に溶け込みながら流人として越後で過ごされたことが、「非僧非俗」をもって「愚禿」と名乗られた聖人の念仏者としての道を深めたといわれ、越後での生活は、親鸞聖人の思想に深く影響しているとされている。



親鸞聖人御詠歌

         すゑ遠く  法を守らせ  居多の神
                      弥陀と衆生の  あらん限りは



  

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2013年10月02日

能登国一宮 氣多大社


能登国一宮
氣多大社
 (けたたいしゃ)





能登国一宮  氣多大社 (けたたいしゃ)

〔鎮座地〕 石川県羽咋市寺家町ク-1

〔社格〕 旧国幣大社  能登国羽咋郡の式内社・気多神社 (名神大)

〔御祭神〕 大国主神 (おおくにぬしのかみ) = 大己貴命 (おおなむちのみこと)

〔御由緒〕 創祀は詳らかではないが、大国主神が能登地方を平定・開拓した由縁により、能登半島の玄関口であるこの地に鎮まったものとされる。 『万葉集』に、大伴家持が越中守として「気太神宮」を参詣して詠んだ「之乎路から直越え来れば羽咋の海 朝凪ぎしたり船楫もがも」がある。
 ご神威は早くより朝廷に知られており、『延喜式』に名神大社としてその名が記され、神階は貞観元年(859)に従一位となるなど、古くより朝廷や国司、武家の崇敬を集めた北陸地方屈指の大社である。
 前田利家ほか歴代の金沢藩主も当社を庇護し、たびたび社領などが寄進された。 現在の拝殿は入母屋造、本殿は流造でともに重要文化財に指定されている。 本殿裏手には一万坪の原生林「入らずの森」(国天然記念物)が広がり、神職でも年一度しか入らない神聖な場所である。
 明治四年国幣中社、大正四年に国幣大社へ昇格した。
-『全国一の宮めぐり』から-



              神門                            拝殿












        若宮神社               本殿                白山神社


摂社 若宮神社   〔御祭神〕 事代主命
本殿   〔御祭神〕 大国主神
摂社 白山神社   〔御祭神〕 菊理姫命


        楊田神社              太玉神社              菅原神社


楊田神社   〔御祭神〕 荒御魂神
太玉神社   〔御祭神〕 太玉命
菅原神社   〔御祭神〕 菅原道真


       奥津島神社          養老大黒像奉安殿           入らずの森




正覚院 (旧気多神社神宮寺)


正覚院
 当山は、気多神社の神宮寺(別当寺)として創建され、元正天皇御代養老二(718)年に越前の大徳泰澄大師が、夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられている。
 その後、文徳天皇の斉衡二(855)年に亀鶴蓬莱山気多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数を三人と認めるから、永久に絶やすことのないように」との指令が出される。 (文徳実録)
 以来、一千有余年神社に奉仕してきたが、明治の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。 しかし今でも神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫の神鏡」を初め、開かずの宮といわれる護摩堂本尊「不動明王」、重文「阿弥陀如来」など多くの寺宝を秘蔵する。   山主敬白
-正覚院案内板から-



赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首
之乎路可良 多太古要久礼婆 波久比能海 安佐奈藝思多理 船梶母我毛


     之乎路から  直越え来れば  羽咋の海
               朝凪ぎしたり  船楫もがも          大伴家持

-『万葉集』巻17 4025-



  

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2013年08月24日

遠江国一宮  事任八幡宮


ことだまの社  遠江国一宮

事任八幡宮 (ことのままはちまんぐう)





遠江国一宮 事任八幡宮 (ことのままはちまんぐう)    古称 己等乃麻知神社

〔鎮座地〕 静岡県掛川市八坂642

〔社格〕 旧県社  遠江国佐野郡の式内社・己等乃麻知神社

〔御祭神〕 己等乃麻知比売命 (ことのまちひめのみこと)
       誉田別命 (ほんだわけのみこと) = 応神天皇
       息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと) = 神功皇后
       玉依比売命 (たまよりひめのみこと)

〔御由緒〕 当神社は「言霊(ことだま)の社」として篤い信仰を集め、すでに平安時代の『延喜式』や『枕草子』にその名が見え、「ことのままの明神は大変格式が高く、願い事のままに叶えて下さる頼もしい神様」と記され、己等乃麻知神社(ことのまちかむやしろ)と称した。
 創建は定かではないが、成務天皇の御代といわれ、康平五年(1062)に京都の石清水(いわしみず)八幡宮から八幡神を勧請してより「八幡宮」を併称するようになった。 従って武家の信仰篤く、徳川家康が本殿を造営したほか幕府は御朱印領百石を献じている。
 明治元年、東京遷都の行幸の際、神祇ご用掛り上松少将が勅使として官幣を奉り、明治五年県社に列せられ「八幡神社」と称していたが、戦後由緒ある古来の社号「ことのままの社」に基づき「事任八幡宮」と改称した。
-『全国一の宮めぐり』から-


御社殿

              拝殿                            本殿












御祭神

主祭神
己等乃麻知比売命 (ことのまちひめのみこと)
 言霊の神・興台産命(こことむすびのみこと)の后神でいらっしゃいます。 言の葉で事をとり結ぶ働きをもたれる神、言の葉を通して世の人々に加護を賜う「ことよさし」の神として広く人々にうやまわれています。
 春日大社・枚岡神社にお祭りされている天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神様です。

八幡大神
誉田別命 (ほんだわけのみこと)
 応神天皇(第十五代天皇)で神功皇后の御子でいらっしゃいます。 百済王の子阿直伎や王仁を招き、日本に新たな文字や産業などの文化を招来させたすぐれたお方です。

息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと)
 第十四代仲哀天皇の皇后さまで神功皇后さまです。

玉依比売命 (たまよりひめのみこと)
 第一代神武天皇の母神さまで、海神の大海津見神(おおわたつみのかみ)の娘神様です。
-『参詣のしおり』から-


境内社

        五社神社              稲荷神社              金比羅神社



五社神社 (ごしゃじんじゃ)    祭日 九月一日
〔御祭神〕 天照大神 (あまてらすおおみかみ)  (光の神様)
       八意思兼神 (やごころおもいかねのかみ)  (知恵の神様)
       大国主命 (おおくにぬしのみこと)  (経営の神様)
       火之迦具土神 (ほのかぐつちのかみ)  (火の神様)
       東照大権現 (とうしょうだいごんげん)  (徳川家康公)

稲荷神社 (いなりじんじゃ)    祭日 二月十七日
〔御祭神〕 宇迦乃御魂神 (うかのみたまのかみ)

金比羅神社 (ことひらじんじゃ)    祭日 十月十日
〔御祭神〕 大物主神 (おおもののぬしのかみ)



名所・旧跡


一の鳥居
 太鼓橋を渡って、事任八幡宮への入り口の鳥居。 昔は、東海道から境内への入り口はこの「一の鳥居」からだけでした。





南口鳥居
 南口鳥居は、車での参拝が増えて南側の道路が整い、駐車場も整った後平成22年1月に建立されました。





結びの神様
 大きな石を抱いて、種類の違う二本の木が重なりあって生えています。 「結びの神様」とつながり、良いご縁をいただけるということで、子授けや良縁祈願に来られる方が多くいらっしゃいます。




本宮遙拝所
 本宮は遠い昔からことのままの神がお祀りされているお宮です。 里宮(現在の本殿)には西暦807年にお遷しされ、山に登らなくてもお参りできるようになりました。




御神木の大杉 -天然記念物-
 高さ36.5m、目通り6.3m、根回り11.2m。 昔から「八幡宮の大杉さん」と親しまれ、本殿の東奥にあることから、御神木として「東の宮様」と敬われております。 一説では坂上田村麻呂お手植えとも言われております。



大楠
 大きく枝を張って境内を覆っています。 樹齢500~600年くらいの大楠。 この大楠には耳のような穴があり、皆の言葉を聞いているようです。 言霊の神様と通じるところですので、神様がお喜びになる良いお言葉を沢山使いましょう。





   神かけて  頼みしかども  東路の
           ことのままには  あらずぞありける       相模



   またも来ん  わがねぎことの  ままならば
           しばし散らすな  木々のもみじ葉       鴨長明


  

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2013年08月15日

加賀国一宮 白山比咩神社

北陸鎮護の大社  加賀国一宮

白山比咩神社 (しらやまひめじんじゃ)





加賀国一宮  白山比咩神社 (しらやまひめじんじゃ)   通称 しらやまさん

〔鎮座地〕 石川県白山市三宮町ニ105-1

〔社格〕 旧国幣中社  加賀国石川郡の式内社・白山比咩神社

〔御祭神〕 白山比咩大神 (しらやまひめのおおかみ) = 菊理媛尊 (くくりひめのみこと)
       伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
       伊弉冉尊 (いざなみのみこと)

〔御由緒〕 霊峰白山を神体山として仰ぎ奉り、全国に三千余の御分社を数える白山神社の総本宮。 その創祀は崇神天皇の御代と伝えられ、朝野の崇敬を集め『延喜式』にもその名が記載される。 養老元年(717)、僧泰澄が初めて白山に登拝して後は全国に信仰が広まり、中世には山岳信仰、修験道の聖地として大いに勢力を伸ばし隆盛を極めた。 特に木曾義仲による崇敬は篤く『平家物語』や『源平盛衰記』にも見ることができる。
  文明十二年(1480)に社殿が焼失し、現在の鎮座地である白山市三宮町に遷座され、その後一向一揆の影響を受けるも、前田利家により社殿が復興され、江戸時代には加賀藩主前田家の庇護を受け大いに栄えた。 明治四年国幣小社、大正三年国幣中社に列格。
 境内には白山の伏流水が湧き出しており、霊水として有名である。
 奥宮は白山の主峰御前峰(標高2702m)に鎮座し、夏山の時期には大勢の登拝者で賑わう。
-『全国一の宮めぐり』から-



御社殿

              神門                          外拝殿・本殿












御社殿

外拝殿(げはいでん)
 切妻造り、銅板葺き、檜造りの優美な姿の外拝殿。 もともとは、大正9年(1920)に建てられた旧拝殿でしたが、昭和57年(1982)の増改築で外拝殿になりました。 その後ろに、直会殿(なおらいでん)、拝殿、幣殿(へいでん)、本殿までが一直線に並びます。

直会殿(なおらいでん)
 直会とは、神事の最後に神饌(しんせん)や神酒を参加者一同で分かち、飲食する行事です。 現在の建物は、大正9年(1920)に建てられた旧幣殿を昭和57年(1982)に直会殿としたものです。

幣拝殿(へいはいでん)
 拝殿は、人が神様に対して拝礼する場所です。 拝殿と幣殿は一体化しており、内部は総檜造りで、本殿とは30段の木階登廊で結ばれています。

本殿(ほんでん)
 ご祭神である白山比咩大神(菊理媛尊)を祀る社殿です。 江戸時代の明和7年(1770)に、加賀藩10代藩主前田重教(しげみち)の寄進によって造営されました。 造営は、前田家御抱(おかか)えの大工や地元の職人の手で行われました。



摂社・末社

摂社 荒御前神社(あらみさきじんじゃ)
 神門の傍らに鎮座する境内摂社。
 荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られています。
 荒御前大神は、『日本書紀』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場します。


末社 住吉社(すみよししゃ)
 禊場の横に鎮座する境内末社。 住吉社は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国から戻って禊を行った際に生まれた底筒男尊(そこつつのおのみこと)、中筒男尊(なかつつのおのみこと)、表筒男尊(うわつつのおのみこと)の三柱をご祭神とし、禊祓いの神として崇敬されています。




古宮跡 (安久濤の森)




古宮跡
 白山に源を発する手取川の川岸、安久濤の森にある旧鎮座地、現在は古宮公園となっている。
 霊亀2年(716)から文明12年(1480)までこの地に鎮座していた。 現在は、手取川扇状地を潤す七ヶ用水の水門を守る水戸明神が祀られている。

水戸明神(みとみょうじん)
御祭神  水戸の神 (速秋津比子・速秋津比売)
 七ヶ用水の前進である富樫用水が作られた時に祀られ、七ヶ用水の完成後、昭和29年に安久濤の森に社殿が建てられた。
 この神は湊、河口すなわち水門を守る神であり、祓除の神でもある。




名所・旧跡

        一の鳥居              二の鳥居              三の鳥居



        琵琶滝           大ケヤキ(天然記念物)         御神木(老杉)



       禊社・禊場            白山奥宮遙拝所           手水舎(亀岩)



      南参道鳥居               神馬舎                盤持石





松尾芭蕉の句碑




芭蕉翁の句碑

    風かをる   越(こ)しの白嶺(しらね)を   國(くに)の華(はな)       翁
 この俳句は元禄二年(西暦一六八九年)七月、俳聖芭蕉翁が「奥の細道」の途次、北陸の中天に麗しく聳える白山の姿を讃えて詠んだもので、元禄五年の中秋翁生存中に出版された『柞原集(ははそはらしゅう)』(白山比咩神社奉納句集)の巻頭に記載されている。
 句碑は昭和三十六年五月鶴来町在住の郷土史家武閑雲翁が古希の記念として建立・奉納されたものである。
-境内案内板から-


               風かをる
                   越しの白嶺を
                      國の華           翁


  

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2013年06月28日

遠江国一宮 小國神社

厳としてたたずむ太古の社

遠江国一宮  小國神社 (おくにじんじゃ)





遠江国一宮  小國神社 (おくにじんじゃ)

〔鎮座地〕 静岡県周智郡森町一宮3956番地の1

〔社格〕 旧国幣小社  遠江国周知郡の式内社・小國神社

〔御祭神〕 大己貴命(おおなむちのみこと) = 大国主命(おおくにぬしのみこと)

〔御由緒〕 創祀は神代と伝えられ詳らかではないが、延宝年間(1673~81)の社記によれば、第二十九代欽明天皇の御代十六年(555)二月十八日に本宮峯(本宮山)に御神霊鎮斎せられた。 後、山麓約六kmの現在地に都より勅使が派遣せられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた。
 爾来、年々奉幣に預り、勅使が下向され、特に文武天皇大宝元年(701)春十八日には十二段の舞楽を奉奏せられた。
 平安時代の『延喜式』では式内社に列せられ、中世には武将をはじめ朝野の崇敬が極めて篤かった。 江戸時代には徳川家康公により社殿の造営、社領の寄進など代々の徳川将軍家から崇敬された。
 明治六年六月十三日には、国幣小社に列せられ、今は遠江国一の宮として、親しみ、崇敬され、信仰を広くあつめている。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿












摂社・末社

  飯王子社(いいおうじしゃ)   例祭 二月十五日
〔御祭神〕 保食神(うけもちのかみ)
 昔遠州横須賀の地方に毎年旱天長雨の為め五穀稔らず住民ごぞって一宮様に詣で祈り豆を捧げしところ、神託により社殿を横須賀の方に向け祭り、爾来此の地の不作絶へたと言はれ、祭に上げた大豆を馬や牛に与へれば災なく無病に育つと伝へられる。


  鉾執社(ほことりしゃ)    例祭 三月十八日
〔御祭神〕 社家神人先祖代々の祖霊
 神社に奉仕された先祖代々の社家神人の魂を仰ぎ御神徳の御発揚を祈念し神人和楽神主家を始めとする社家四十一家の祖先に感謝し社頭の隆昌神人後裔の繁栄御加護を祈念し神と人との厳鉾の中執持の功績を称え延宝の記録に典據し建鎮祭する。


  宗像社(むなかたしゃ)   例祭 二月十五日
〔御祭神〕 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命
 宗像三女神は水徳の神であり、また恵比須神として信仰され漁民や商人の崇敬が篤い。
 三女神の一神「市杵島姫命」は仏神の弁財天と結びつき、女性の守護神と敬われ学問・芸術・財産の神といわれる。


  八王子社(はちおうじしゃ)   例祭 一月十七日
〔御祭神〕 国狭槌命(くにのさづちのみこと)・五男神三女神
 国土の守護神であり災難除けの御神徳極めて高い。
 例祭には奉射神事があり、五穀豊穣・疫神鎮送を祈り二手半(五本)射る。



  全國一宮等合殿社(ぜんこくいちのみやとうごうでんしゃ)
〔御祭神〕 全國一宮等御祭神七十三柱    例祭 四月八日
 延宝八年の社記の社頭配置図に依ると全國一宮等御祭神七十三柱が境内社として各所に祀られていたが明治の初めに本社焼失により境内末社八王子社に仮合祀されたものを平成元年十二月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭する。


  瀧宮社(たきのみやしゃ)    例祭 十二月十八日
〔御祭神〕 須佐之男命
 古来より滝宮地内の守り神と仰がれ、また病魔除け・災難除けの神として崇敬される。
 社殿より眼下には小さな滝がある。




名所・旧跡


       一の鳥居               二の鳥居              舞殿・舞楽舎



事待池(ことまちいけ)
 本社に詣で願掛けをして心願成就すれば池に鯉を放つので「ことまち池」という。
 又池の水を汲み「いぼ」に付けると「いぼ」がとれるというので「いぼとり池」ともいう。



勅使参道
 人皇二十九代欽明天皇の御代に奇瑞ありて天聴に達し正一位の神階を授けられた。 大宝元年春十八日勅使参向し十二段舞楽(国指定重要無形民族文化材)を奉奏以来毎年勅使奉幣し舞楽を奉奏せられた当時の勅使参道跡にて一般参拝者は通行しない。


家康公立ちあがり石
 徳川家康公の天下統一の基は浜松在城十五年間の辛苦の賜ものといわれる。 三方原合戦の前年元亀三年九月願文と三条小鍛冶宗近の太刀を当社に奉り、天正二年四月犬居城攻略の道すがら参拝し此の石に腰掛けて休息されたと伝えられる。 以来此の事を悲境をのりこえた「立ちあがり石」と言われ石にあやかりたいとして人生の再起を念じて石に腰かけて帰る者少なくない。


      木化石          大宝槌           金銀石          ひょうの木







  

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2013年06月14日

下野国一宮 宇都宮二荒山神社


下野国一宮
宇都宮二荒山神社 (うつのみやふたあらやまじんじゃ)





下野国一宮 宇都宮二荒山神社 (うつのみやふたあらやまじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1

〔社格〕 旧国幣中社  下野国河内郡の式内社・二荒山神社(名神大)

〔御祭神〕 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)

〔相殿神〕 大物主命 (おおものぬしのみこと)
       事代主命 (ことしろぬしのみこと)

〔御由緒〕 豊城入彦命は第十代崇神天皇の御子で、弟の活目尊(いくめのみこと)と共に優れておられたので、夢占を行い、豊城入彦命は四道将軍として東国平定を任ぜられ、活目尊は第十一代垂仁天皇として即位された。
 仁徳天皇の御代、祭神の四世孫となる奈良別王(ならわけのきみ)が国造として大和より下野の地へ入られ、国土の開拓を行い、同時に自らの祖先神である豊城入彦命を、現在の下之宮の地へ祀ったのが当社の創祀であるという。 その後承和五年(838)に現在の臼ヶ峰の地へ遷座されたと伝える。
 『延喜式』には名神大社として記載され、社務職を代々の城主が兼ねるなど当国の総氏神として朝野の崇敬を集めた。
 武神としても尊崇され、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷をはじめ、源頼朝、徳川家康らによる戦勝祈願が行われ、社領の寄進や社殿の改修が度々行われた。 現在の社殿は戊辰の役の際に焼失し、明治十年(1877)に再建されたもの。 境内には末社が十二社、多くの記念碑が建立されている。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿











社殿
 神社は何度も火災にあい、現在の社殿は明治10年に再建されたものです。
 神社は宇都宮城の真北に当り、大通りの大鳥居から表参道石段・95段を登り詰めた処に唐破風神門があり左右八間の廻廊が配されています。 神門を入ると東側に神楽殿、西側に手水舎及び神符守札授与所があり、中央奥に御本社(本殿・拝殿)があります。
 以前の本殿は入母屋造(いりもやづくり)でしたが今は神明造(しんめいづくり)になり、拝殿は入母屋造です。 神明造の本殿と入母屋造の拝殿が相の間で結ばれた少し変った様式です。
 当社創建の旧荒尾崎(馬場町)には摂社下の宮を祀り神社発祥の聖地を守っています。
-宇都宮二荒山神社公式サイト-


       唐破風神門              神楽殿               明神の井戸




境内末社

     市神社・須賀神社            女体宮               初辰稲荷神社


    市神社    〔御祭神〕 大市姫命 (市・商業の神)
    須賀神社    〔御祭神〕 素戔嗚尊 (お天王さん)
    女体宮    〔御祭神〕 三穗津姫命 (安産の神)
    初辰稲荷神社    〔御祭神〕 倉稲魂命 (豊穣・商業の神)


       十社          松尾神社          荒神社           水神社


   十社(県内式内社の神) 〔御祭神〕 素戔嗚尊・天兒屋命・味耜高彦根命・武甕槌命・
                   豊城入彦命・大山咋命・事代主命・下照姫命・譽田別尊・日本武尊
   松尾神社   〔御祭神〕 大山咋神・中津島姫命 (醸造の神)
   荒神社   〔御祭神〕 素戔嗚尊 (疫病鎮め神)
   水神社   〔御祭神〕 罔象女大神 (水の守神)


        菅原神社               劍宮                 十二社


   菅原神社   〔御祭神〕 菅原道眞公 (学問の神)
   劍宮    〔御祭神〕 素戔嗚尊 (武徳の神)
   十二社(肇国の神)   〔御祭神〕 国常立神・国狭槌神・豊斟渟神・埿土煮神・沙土煮神・
   大戸之道神・大苫邊神・面足神・惶根神・伊弉諾神・伊弉冉神・天照皇大神・天忍穗耳神・
   彦火瓊々杵神・彦火々出見神・鵜茅葺不合神



境外摂社 下之宮




二荒山神社 摂社 下之宮

 当神社は二荒山神社の発祥の地(荒尾崎)に創建された神社で「二荒山神社摂社下之宮」と称し御祭神は本社(臼ヶ峰)に鎮斎される二荒山神社と同神「豊城入彦命」をおまつりしております。
 ご由緒は大変古く第十六代仁徳天皇の御代下毛野の国造であった奈良別王が東国治定の功績高い豊城入彦命を御祭神として国社をこの地に建立後世八三八年に峰続きの臼ヶ峰に本社を造営し発祥の聖地を下之宮として永く奉斎してきました。
 下之宮は長い歴史の中で丘陵は道路で分断され、招魂社は護国神社として移設しおよりの鐘は寺領に納め更に小高い丘は削滅しビル陰にて奉祀されてまいりました。
 相生町再開発事業と共に由緒深き聖地に下之宮のご復興をみたものである。
-摂社下之宮案内板-




     あづま路や  多くの夷  平らげて
               背けばうつの  宮とこそきけ      権律師謙忠


     鶏は羽に  はつねをうつの  宮柱          宰鳥(与謝蕪村)


  

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2013年06月07日

下野国一宮 日光二荒山神社


関東総鎮守  下野国一宮
日光二荒山神社 (にっこうふたらさんじんじゃ)





下野国一宮 日光二荒山神社 (にっこうふたらさんじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県日光市山内2307

〔社格〕 旧国幣中社  式内社・下野国河内郡二荒山神社(名神大)

〔御祭神〕 大己貴命 (おおなむちのみこと)
       田心姫命 (たごりひめのみこと)
       味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)

〔御由緒〕 天応二年(782)に下野国芳賀郡の勝道上人が、関東平野北方に聳える男体山(二荒山)の山頂(標高2486m)に奥宮を創建、その二年後には中禅寺湖畔(海抜1230m)に中宮祠を創建した。 山頂には祭祀遺跡が確認され多数の出土品があり、古代より関東の霊地として信仰されてきたことがわかる。
 当社は男体山を神体山とし、「日光」の地名は二荒を音読みして付けられたという。 『延喜式』に名神大社として記載され、また下野国一の宮として古くより朝野の尊崇を集めた。
 元和三年(1617)、隣接地に徳川家康を祀る東照宮が建立されると、幕府より地主神として篤く崇敬され、境内建物の整備が進められた。 本殿や拝殿は元和五年(1619)、将軍徳川秀忠の造営、日光最古の建造物で、社殿は全て重要文化財に指定。 平成十一年には、当社と東照宮、輪王寺の二社一寺が「日光の社寺」として世界文化遺産に登録され、本社や神橋など二十三の建造物が指定されている。
-『全国一の宮めぐり』から-



         楼門               銅鳥居と境内            神門と御神木



              拝殿                            本殿













神苑内 三社 (世界遺産)

        日枝神社               大国殿              朋友神社


  〔左〕 日枝神社 (ひえじんじゃ)   御祭神 大山咋命 (おおやまくいのみこと)
  〔中〕 大国殿 (おおくにでん)     御祭神 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
  〔右〕 朋友神社 (みともじんじゃ)  御祭神 少名彦名命 (すくなひこなのみこと)



神苑内 名所旧跡

     神輿舎(世界遺産)       大国田道間守の石像         日光連山遙拝所



       二荒霊泉             唐銅燈籠(重文)          子授け安産の石





日光二荒山神社 別宮
本宮神社 (ほんぐうじんじゃ)

           本宮神社拝殿                      本宮神社本殿












別宮 本宮神社 (ほんぐうじんじゃ)

〔鎮座地〕 栃木県日光市山内

〔御祭神〕 味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと)

〔御由緒〕 二荒山神社発祥の地、すなわち日光の原点である。 天平神護2年(766)、勝道上人が大谷川(だいやがわ)を渡って日光に入って四本龍寺を開き、翌年その傍ら(現在の本宮神社の場所)に二荒山の神を祀った。 これが二荒山神社と輪王寺の開創であり、元は本宮神社の辺りが日光の中心であった。
 嘉祥3年(850)、昌禅座主が現在の二荒山神社本社の地に社殿を造営し(新宮)、元の社地には太郎山の神(味耜高彦根命)を祀った。 これが本宮神社である。
 男体山の神(大己貴命)を祀る新宮(本社)、太郎山の神(味耜高彦根命)を祀る本宮神社に、女峰山の神(田心姫命)を祀った滝尾神社を合わせて「日光三社権現」と称した。
 社殿は貞享2年(1685)の再建で、重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。


     勝道上人笈掛石          四本龍寺三重塔          四本龍寺観音堂





神橋 (しんきょう)




神橋 (しんきょう)      (重要文化財・世界遺産)

 天平神護2年(766)、勝道上人が二荒山へ入ろうとしたが、大谷川(だいやがわ)の激流に阻まれた。 困り果てた上人が一心に祈念すると、一人の神人が現れた。 身の丈は1丈余(3m余)、左手には赤と青の2匹の蛇が巻き付いていた。 そして上人に「我は深沙大王(じんしゃだいおう)である。汝を彼の岸に渡すべし」と言い手にもった蛇を放った。 蛇はたちまち岸を結んで虹のような橋となり、背に山菅が生えた。 上人一行が橋を渡り終え、後ろを振り返ると橋も神人も消えていたという。 上人は合掌して、深砂大王の加護に感謝し、それ以来この神橋を「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」とも称する。                           深沙王堂(蛇王権現堂)
 奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永3年(1626)に現在のような神橋に造り替えられてから、東照宮の遷宮以後は神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に架けられた日光橋を使うこととされた。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(当橋・山口県錦帯橋・山梨県猿橋)の一つに数えられている。 橋の長さは28m、幅7.4m、高さ(水面より)10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)、橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。
 昭和57年男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開され、平成9年より大修理が行われた。
 日光二荒山神社の建造物で、国の重要文化財に指定され、平成11年12月に世界遺産に登録された。




        君もこす  人もとはずば  しもつけや
              二荒の山と  我やなりなむ            能因法師



        春風の  二荒のやまは  おほらかに
              雲井にそびえ  またはかくるる        清水比庵


  

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2013年04月29日

丹波国一宮 出雲大神宮


元出雲  日本一の縁結び
出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)






丹波国一宮 出雲大神宮 (いづもだいじんぐう)      通称 出雲さん

〔鎮座地〕 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地

〔社格〕 旧国幣中社  丹波国桑田郡の式内社・出雲神社 (名神大)

〔御祭神〕 大国主命 (おおくにぬしのみこと)
       三穂津姫命 (みほつひめのみこと)

〔御由緒〕 大国主命はこの国土をひらき国造りを完成され、天孫降臨に際し天照大神の御神勅にしたがい、平和の御心をもってこの国土を皇孫にお譲りになった。 その折、高皇産霊尊の娘、三穂津姫命を后神に迎えられ、二柱めでたく当地にご鎮座、併せて出雲大神となり、御祭神自ら縁結びの御神徳を示された。
 その後、崇神天皇が丹波地方全域を平定された折に再興、元明天皇の和銅二年(七〇九)十月二十一日、勅命により御影山(みかげやま)の麓に社殿が創建された。 『丹波風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根の木築の地に遷す。すなわち、今の出雲大社これなり。」とあり、元出雲と呼ばれている。
 三間社流造りの社殿は鎌倉時代初期のもので貞和元年(一三〇五)に足利尊氏、後にも細川勝元により修造され現在に至るものと伝えられる。
 本殿背後の御影山は社殿が創建される以前より信仰され、今なお国常立尊の鎮まる聖域となっている。
-『全国一の宮めぐり』から-



御神体山 御蔭山



御神体山  御蔭山 (みかげやま)
御祭神  国常立尊 (クニノトコタチノミコト)   毎月25日 國祖祭

 神々様が御降臨遊ばされたのは御神体山である御蔭山で、出雲大神宮の本殿が立てられる以前から公武を問わず、尊崇を集めてきました。古は千年山とも呼ばれた様に、永続の根本、つまり国の最も優れた中心地でありました。
 御蔭山は国祖として知られる国常立尊がお鎮りになられ、『富士古文書』には当宮御祭神の三穂津姫命が御奉仕し、お隠れになられた折にはこの御蔭山に葬られたと記されています。



御社殿

拝殿



              中門                            本殿












御社殿

 社殿は元明天皇の和銅二(709)年に建立され、現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。
 しかし近年、三枚の棟札が発見され、そのうち文安二(1445)年十一月二十六日のものは「御願主源右享(京)大夫殿」とある点を考慮し、社殿造営に関して室町期に管領職として幕権を掌握した細川勝元との関係を無視すべきではありません。
 その造りは中世神社建築に多く見られる三間社流造平入で、建坪十四坪弱、檜皮葺を施しており、明治三十九(1906)年に旧国宝、現重要文化財に指定されています。
 平面は正面に一間の向拝をもうけ、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めています。外陣と内陣部分には高欄付きの縁をまわし、身舎側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には縁をまわしていません。-『新修亀岡市史』資料編第四巻-
 中門は切妻造、平入。 拝殿は入母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治十一(1878)年に官費により造営されました。 ここでは10月21日に斎行される例大祭や4月18日の花鎮祭に巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。




摂末社


〔左〕 上の社(かみのやしろ)
〔御祭神〕 素戔嗚尊・櫛稲田姫尊

〔右〕 稲荷社(いなりしゃ)
〔御祭神〕 宇迦之御魂神



〔左〕 笑殿社(わらいどのしゃ)
〔御祭神〕事代主命・少那毘古名命
〔右〕 春日社(かすがしゃ)
〔御祭神〕建御雷之男神・天兒屋命


〔左〕 崇神天皇社 (すじんてんのうしゃ)
〔御祭神〕 崇神天皇
〔右〕 辨財天社 (べんざいてんしゃ)
〔御祭神〕 市杵島姫命


〔左〕 黒太夫社(くろだゆうしゃ)
〔御祭神〕猿田毘古神・大山祇神

〔右〕 祖霊社(それいしゃ)
〔御祭神〕歴代の神職、役員、総代氏子、特別崇敬者の物故者




名所旧跡

     御神石 夫婦岩            真名井の水              御蔭の滝



         磐座                 古墳                  磐座





徒然草の世界

 鎌倉末期、或は室町初期に、兼好法師により著された『徒然草』の236段には、出雲大神宮の事が記載されています。

丹波に出雲といふ所あり
 丹波に出雲といふ所あり。 大社を移して、めでたく造れり。 しだのなにがしとかや、知る所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
-吉田兼好『徒然草』236段-


現代語訳
 丹波国に出雲という所がある。出雲大社に倣って立派に造営した。 しだ某とかいう人が領知する所なので、秋の頃、聖海上人や沢山の人を誘って、「さぁさぁ、皆さん、出雲拝みに参りましょう。ぼた餅をごちそうしますよ。」と言って一緒にお参りすると、皆、拝んで大層信仰篤くなった。
 本殿の前にある獅子・狛犬が反対を向いて、後ろ向きに立っていたので、上人はただならず感じ、「なんと素晴らしい。この獅子・狛犬の立ちようは、大変不思議だ!この立派な神社の事だから、きっと深い意味でもあるのだろう。」と涙ぐんで、「どうです、皆さん。他に類を見ない素晴らしいものとは御覧にならないのですか。それが分からないとは仕方ない人達ですな。」と言ったので、皆、珍しいものだと思って、「本当に他と異なり素晴らしいなぁ。都の土産話にでも語りましょう。」などと言う内、上人はやはり理由を知りたがって、分別のある、何でも知っている様な顔をした神官を呼んで、「この神社の獅子・狛犬の立てられている様子は、きっと例のある事なのでしょう。ちょっとゆかりをお伺いしたいのですが。」と言われたので、神官は、「その事ですか。これはいたずら者の子供がした事です。けしからぬ事です。」などと言って、獅子・狛犬に寄り、元のように向き合って据え直して去ったので、上人の涙は意味のないものになってしまった事だ。


※ 現在の獅子・狛犬は当時のものとは異なります
 この段は中高生の教科書に載せられるほど有名で、当時は広大な所領を抱えるなど、全国的に見ても社勢大にして、上下の尊崇極めて篤い神社でありました。
 また分霊したとありますが、当宮の社伝によれば、むしろ丹波の地より出雲の杵築宮にお遷し申し上げたとされています。
-『出雲大神宮公式サイト』から-




  

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2012年12月30日

龍田大社


風の宮 総本宮
龍田大社
 (たつたたいしゃ)






龍田大社 (たつたたいしゃ)

〔鎮座地〕 奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1

〔社格〕 旧官幣大社  二十二社 (中七社)
      大和国平群郡の式内社・龍田坐天御柱國御柱神社二座(並名神大 月次・新嘗)

〔御祭神〕 天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ) : 志那都比古神(しなつひこのかみ)
       国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ) : 志那都比売神(しなつひめのかみ)

〔御由緒〕  『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願し、夢に天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあったので、これにより創建されたとある。
 『日本書紀』には、天武紀四年四月十日条に小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神を龍田の立野に祀らせた記事がみえる。 『延喜式神名帳』では「大和国平群郡龍田坐天御柱国御柱神社二座」として名神大社に列し、また、永保元年(1081)には、二十二社の一に選ばれた。
 古来、紅葉の名所としても有名であり、摂社・龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、多くの歌に詠まれてきた。
 近代社格制度のもと、明治4年(1871)に龍田神社として官幣大社に列し、現在は、農業・航空機・船舶・航海・漁業等、風に関係する者の信仰が篤い。


              拝殿                            本殿












龍田大社由緒略記

主祭神名
       天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)・国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)
(別名)  志那都比古神(しなつひこのかみ)・志那都比売神(しなつひめのかみ)

御神徳
 天と地の間即ち大気・生気・風力を司る神様で「風神」と申し上げます。 御神名の“御柱”とは《真の柱》の意味で「天地万物の中心の柱」と解釈され、別名の“志那”とは《息長》の意味で文字通り「気息の長く遠く吹き亘る」と解釈。 つまり天地宇宙の万物生成の中心となる『気』を御守護くださる幅広く御神徳のある神様です。

創建
 今から約二千百年前、第十代崇神天皇の時代、凶作・疫病が流行し騒然としている中で天皇の御夢に『吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて云々』と言う御神託があり、その通りに御宮を造営すると疫病は退散し、豊作に成ったとあり、当社の創建と考えられます。 《延喜式・龍田風神祭祝詞より》
-『龍田大社由緒略記』から-



瑞垣内摂社

 〔左〕 龍田比古神社  〔右〕 龍田比売神社
 〔御祭神〕 龍田比古命・龍田比売命

 「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位前にさかのぼり、この土地周辺の氏神様として信仰されている。



瑞垣内末社 三社

  上座  天照大御神・住吉大神
  中座  枚岡大神・春日大神
  下座  高望王のお妃

  三社共に創建年代は不詳。



末社 白瀧神社
 江戸末期に当社ご神域に白蛇として出現し明治後期一夜にしてそのお姿が見えず当時騒然たりしも明治四十一年春突如(大和国葛城郡)にごり池にて白龍として出現されし吉報に依り当時薮宮司・神官・地元氏子に依り辛櫃を奉持しお迎え申し上げこの地に祭祀されたのが当社創建と伝わる。 その後本社龍田大明神のお仕え神結びの神・浄難災難除けの神として女性の方々の信仰は特に篤く安産時期には祈願に訪れる参拝者が多い。


末社 龍田恵美須神社
 当社は寛元元年(一二四三年)摂津国恵美須神総本社の西宮戎神社から御分霊を勧請し祭事を続けられました。 そのご社殿も荒廃しましたが恵美須信仰者の方々の御厚志に依りまして、昭和六十二年十一月二十八日再び摂津国西宮戎神社から御分霊をお迎えし商売繁盛・福徳開運・家庭円満の守護神である龍田恵美須さんとしてご復興致し末永くお祀り申し上げるものである。



末社 三宝稲荷神社
 当社のご創建鎮座は定かではありませんが往古から三宝稲荷さんとして商売を営む人々の信仰篤く商売繁盛の神として訪れる参拝者が絶えない。





下照神社
〔御祭神〕 大國魂大神





高橋虫麻呂歌碑



    高橋虫麻呂歌

  島山を い行き廻れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ
      昨日こそ 我が越え来しか
        一夜のみ 寝たりしからに
  峰の上の 桜の花は 瀧の瀬ゆ 散らひて流る
      君が見む その日までには
    山おろしの 風な吹きそと うち越えて
        名に負へる杜に 風祭せな

-『万葉集』巻9 1751-



  

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2012年12月01日

石上神宮


石上神宮 (いそのかみじんぐう)





石上神宮 (いそのかみじんぐう)

〔鎮座地〕 奈良県天理市布留町384

〔社格〕 旧官幣大社 大和国山邊郡の式内社・石上坐布都御魂神社(名神大 月次・相嘗・新嘗)

〔御祭神〕 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) = 平国之剣の御霊威
       布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) = 天璽十種瑞宝の御霊威
       布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) = 天十握剣の御霊威

〔配祀神〕 五十瓊敷命(いにしきのみこと)
       宇麻志麻治命(うましまじのみこと)
       白河天皇(しらかわてんのう)
       市川臣命(いちかわのおみのみこと)

〔御由緒〕 石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山(りゅうおうざん)の西の麓、布留山(ふるやま・標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。
 当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
 御祭神は、神武天皇御東征の砌、国土平定に偉功をたてられた天剣(平国之剣・くにむけしつるぎ)とその霊威を布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)の起死回生の霊力を布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治された天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の霊威を布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)と称え、総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、第十代崇神天皇七年に現地石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。 古典には「石上神宮」「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
 中世に入ると、興福寺の荘園拡大・守護権力の強大化により、布留川を挟み南北二郷からなる布留郷を中心とした氏人は、同寺とたびたび抗争しました。 戦国時代に至り、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、壱千石と称した神領も没収され衰微していきました。 しかし、氏人たちの力強い信仰に支えられて明治を迎え、神祇の国家管理が行われるに伴い、明治四年官幣大社に列し、同十六年には神宮号復称が許されました。
 当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていました。 明治七年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体の出御を仰ぎ、大正二年御本殿が造営されました。
 禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを残しています。
-『石上神宮ご由緒のしおり』から-



          拝殿  -国宝-                  楼門  -重要文化財-











拝殿 (現存する最古の拝殿)  -国宝-
  
 叢林のなかに建立する朱の拝殿は、永保元年(1081)当神宮への御崇敬が深かった白河天皇が、特殊神事である鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝わっています。 建築様式の上では鎌倉時代初期の建立と考えられていますが、いずれにしても拝殿としては現存最古のものであり、国宝に指定されています。 先人達より今日に至るまで連綿と祭祀が続いています。

楼門  -重要文化財-
 鎌倉時代末期、後醍醐天皇の文保二年(1318)に建立され、重要文化財に指定されています。 往古は上層に鐘を吊していましたが、明治初年神仏分離令によりとりはずされました。 二重の正面に掲げてある木額の「萬古猶新(ばんこゆうしん)」の書体は明治・大正の元老として有名な山縣有朋の筆によるもので、御神徳の永遠の働きを意味しています。
-『境内案内』から-


〔摂社〕


           出雲建雄神社                   出雲建雄神社拝殿 -国宝-











摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)   式内社・出雲建雄神社
〔御祭神〕 草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)
 延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
 江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。 それによると、布留邑智(ふるのおち)という神主が、ある夜、布留川の上に八重雲が立ちわき、その雲の中で神剣が光り輝いている、という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、8つの霊石があって、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。
 江戸時代には、 出雲建雄神は当神宮の御祭神 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮(わかみや)」と呼ばれていました。
例祭は1月15日に月次祭に引き続いて斎行しています。

出雲建雄神社拝殿 -国宝-
 元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~1118)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていましたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。 従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されています。
建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築により現在の構造・形式になったと考えられています。
-『石上神宮公式サイト』から-


〔左〕摂社 天神社(てんじんじゃ)
〔御祭神〕 高皇産霊神・神皇産霊神
〔右〕摂社 七座社(ななざしゃ)
〔御祭神〕 生産霊神・足産霊神・魂留産霊神・大宮能売神・御膳都神・辞代主神・大直日神

 天神社には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座を、七座社には、生産霊神(いくむすびのかみ・中央)・足産霊神(たるむすびのかみ・生産霊神の右)・魂留産霊神(たまつめむすびのかみ・生産霊神の左)・大宮能売神(おおみやのめのかみ・足産霊神の右)・御膳都神(みけつかみ・魂留産霊神の左)・辞代主神(ことしろぬしのかみ・右)・大直日神(おおなおびのかみ・左)の七座をお祀りしています。 両社の九座は、生命を守護して下さる宮中八神に、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直して下さる大直日神を併せてお祀りしたもので、当神宮の鎮魂祭(ちんこんさい)と深い関係があり、上古から御鎮座になっていると伝えられています。  江戸時代には、天神社は天神御祖神殿・八王子殿など、七座社は長庄神殿などの名で呼ばれていました。 例祭は、 天神社・七座社ともに11月22日に鎮魂祭に先立って斎行しています。


〔末社〕


末社 猿田彦神社 (さるたひこじんじゃ)
〔御祭神〕 猿田彦神
〔配祀神〕 底筒男神・中筒男神・上筒男神
       息長帯比売命・高靇神
 主祭神は、猿田彦神(さるたひこのかみ)で、底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、上筒男神(うわつつのおのかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、高靇神(たかおかみのかみ)を配祀神としてお祀りしています。 江戸時代には、祭王御前・山上幸神・道祖神社などと呼ばれ、現在地よりさらに東の山中にお祀りされていましたが、明治10年に現在地にお遷ししました。 その後、明治43年に内山永久寺の鎮守社であった住吉社の御祭神を合祀申し上げました。 例祭は3月28日に斎行しています。


末社 神田神社 (こうだじんじゃ)
〔御祭神〕 高倉下命 (たかくらじのみこと)
 参道大鳥居から西へ下ったところにある神宮外苑公園の、道を挟んだ西向こう側に御鎮座になっています。 神武天皇が御東征の途次熊野にて御遭難になった折に、高天原から下された当神宮の御神体である神剣「韴霊」を天皇に奉った高倉下命(たかくらじのみこと)をお祀りしています。 御創祀については明らかではなく、もとは天理市三島町小字神田の地に御鎮座になっていましたが、平成2年1月に現在地にお遷ししました。 明治初年までは旧社地に当神宮の神饌田一町歩があって、この田で収穫された米1石が年間の諸祭典に用いられました。 例祭は、6月30日に「神剣渡御祭(しんけんとぎょさい)」の中で斎行されます。 なお、 境内にある「烏帽子岩(えぼしいわ)」は、布留川でとれる珍石で、 往古より珍重されているものです。




柿本人麻呂歌碑
  柿本朝臣人麻呂歌  
未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
  娘子らが 袖布留山の 瑞垣の
           久しき時ゆ 思ひき我れは
-『万葉集』巻4 501-




万葉歌碑
  春雑歌   作者 不詳
石上 振乃神杉 神備西 吾八更々 恋尓相尓家留
  石上 布留の神杉 神びしに
       我やさやさや 恋にあひにける
-『万葉集』巻10 1927-



  

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2012年11月01日

備後国一宮 吉備津神社


備後国一宮  吉備津神社





備後国一宮 吉備津神社 (きびつじんじゃ)    通称 一宮さん (いっきゅうさん)

〔鎮座地〕 広島県福山市新市町宮内400

〔社格〕 旧国幣小社

〔御祭神〕 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと) = 比古伊佐勢理毘古命

〔相殿神〕 大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと) (父神・孝霊天皇)
       細比売命(くわしひめのみこと) (母神・孝霊天皇の皇后)
       稚武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと) (異母弟・吉備臣の始祖)

〔御由緒〕 平安時代、大同元年(806)に備中吉備津宮から勧請されたと伝えられる。 長和二年(1014)法華八講が始められ、また、京都八坂神社「社家条々記録」には、久安四年(1148)に祇園御八講料所として備後の吉備津宮をあてたとある。 弘安十年(1287)、時宗の開祖一遍上人が当社を訪れている(一遍上人絵伝)。
 寛喜元年(1229)と櫻山公自刃の元弘二年(1332)との二度火災に遭ったが、永和二年(1376)に小野宮左近将監により再建された。 現在のご本殿(国指定重要文化財)は慶安元年(1648)、初代の福山城主であった水野勝成公により造替された。
 備後開拓の神様として、また、開運招福・厄除け・交通安全・長寿の神様として、備後一宮・一宮(いっきゅう)さんと親しまれ、広くご神威を仰がれている。
-『全国一の宮めぐり』から-


          本殿 (重要文化財)               拝殿 (福山市重要文化財)











御本殿 (国指定重要文化財)
 現在のご本殿は慶安元年(1648年)、当時の福山城主であった水野勝成公により御造営されました。 入母屋造平入・檜皮葺で、桁行(横)七間(18.5m)、梁間(縦)四間(9.7m)あり、全国でもまれにみる大規模な社殿です。 また向拝三間で正面には千鳥破風・軒唐破風を持った江戸時代初期の建築でありながら、室町時代の風格と桃山彫刻を兼ね備えています。
 明治2年小田県品治郡・神石郡の郷社に定められ、同9年県社、昭和3年国幣小社となりました。 古来より現在に至るまで、備後国14郡の一宮と称せられ、多くの人々が参詣し、大神の御神徳を仰がれています。 御本殿は昭和40年3月、国の重要文化財に指定されました。
 拝殿は本殿とともにに造営されたもの。 本殿の下段に建つ。 (福山市重要文化財)
-境内案内板から-


大鳥居
 大鳥居は慶安元年(1648)、福山城主水野勝成公が誠心こめて御本殿以下御寄進御再建になりました時のもので、第百七代後陽成天皇の皇子、堯然法親王の筆による「吉備津一宮」の扁額が掲げてあります。 (福山市指定文化財)





随神門 2門

〔左〕上随神門
〔右〕下随神門(福山市指定文化財)

 全国で随神門が二つあるのは備後一宮のみであります。 十月神無月には全国の八百万神々が、出雲へ集合され神政(神の政治)、今でいう国会を開かれましたが、吉備津彦命のみが欠席され、どうしたものかと心配された大国主命は二人の使者を備後国へ派遣されましたが、備後国は大祭の最中この二人の使者は歓待を受け、以後吉備津彦命の親衛の門守として末永く仕えることとなり、上下の随神門が作られたという伝説があります。 以後、備後国は十月を神有月として有名です。
-『御参拝のしおり』から-



神楽殿 (広島県重要文化財)
 寛文13年(1673)の建立。 拝殿の下段に建つ。 桁行二間、梁間一間の高床の舞台に入母屋造妻入で屋根が設けられている。 屋根は古くは檜皮葺であったが、現在は銅板葺。 広島県の指定文化財。



公孫樹 (天然記念物)
 公孫樹は天然記念物(日本老樹名木第415号)であります。 春は緑、秋は黄金色の錦を織りなして、あざやかな光に映えて人々の心を清らかにします。 この大広場は毎年11月23日(勤労感謝の日)前後で4日間、中国地方屈指の名高い市立大祭に、各種興業・露天商数百と共に天幕を張って、秋の豊作をにぎわい祝う近郷近在の人々のオアシスであります。


境内摂社・末社


摂社 多理比理神社  備後国品治郡の式内社多理比理神社
〔御祭神〕 多理比理神(息長帯姫神(姉)・息長日子王(弟))
多理比理神社の由緒  古事記に記載してある右の神々を祀ると見るのが至当。 延喜式神名帳に記載してある神社(式内社)二千八百六十一社の一つで、西暦七百年代には既にかなりの伝統を有していた備南随一の神社。           -境内石碑-


十麻里二柱神社(とまりふたはしらじんじゃ)
〔御祭神〕 吉備津彦命・御親族十二柱  石州街道の宮内の地に吉備津彦の命と共に古くより旅人の安全をお守りするため御親族十二柱を祭神し、交通安全の神様として御鎮座されております。
今日の車社会の渦巻く中で、とうとい命を大切に交通安全祈願をして、事故のない楽しい生活を送りましょう。  -境内案内板-



〔左〕 十二神社・大名持神社
〔御祭神〕 吉備津彦命の一族・大名持神(大国主命)
〔右〕 吉備津稲荷神社
〔御祭神〕 宇迦能御魂神
(商売繁盛・家業繁栄の守り神)




〔左〕 真名井神社(まない)
〔御祭神〕 御井神

〔右〕 山雷神社(やまいかづち)
〔御祭神〕 雷神



〔左〕 乳房神社(ちぶさ)
〔御祭神〕 公孫樹乳房神
(安産の神様)
〔右〕 疱瘡神社(ほうそう)
〔御祭神〕 少彦名神
(医療・皮膚病除けの神様)



〔左〕 武内神社(たけうち)
〔御祭神〕 武内宿禰命
(長寿の神様)
〔右〕 厩戸皇子神社(うまやどのおうじ)  〔御祭神〕 聖徳太子
(政治の神様)



〔左〕 吉備津天満宮
〔御祭神〕 菅原道真公
(学問の神様)
〔右〕 祖神社・彰徳宮・白髪神社
〔御祭神〕 神道家祖先御霊・備後国出身戦歿英霊・猿田彦命



〔左〕 秋葉神社・四所神社
〔御祭神〕 火之迦具土神
(火防開運の神様)
〔右〕 大山祇神社
〔御祭神〕 大山祇神
(山の神・農耕の神)



〔左〕 胡神社 (えびすじんじゃ)
〔御祭神〕 蛭子神
(海上安全・商売繁盛の神様)

〔右〕 五穀神・水神




〔左〕 厳島神社 (いつくしま)
〔御祭神〕 多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命
〔右〕 御池(みいけ)
 昔はここで禊ぎをしてお参りしました。




櫻山神社
〔左〕 櫻山神社拝殿
〔右〕 櫻山神社本殿
〔御祭神〕 櫻山慈俊命他二十三柱


櫻山神社由緒
祭神 櫻山慈俊命
後醍醐天皇の御宇元弘の乱起るや天皇笠置に潜幸し給い国歩艱難に際し回天の大業を援けんと東に楠正成公赤坂に義兵を挙け西に櫻山茲俊公相呼応して一宮城廓に義旗を翻し意氣衝天の勢を以て修羅の巷に転戰し忽ちにして近境を風靡するに至る偶笠置陥り正成戰死の誤報伝るや将兵の退陣するもの多く孤城落日の迫れるを悲憤慷慨したる公は自ら妻子を刺殺し一族郎党廿三名と共にあつはれ自刃せらる時維れ元弘二年正月廿一日なり
嗚呼公は天資英邁にして軍略に長し純忠至誠功勲赫赫として千載青史に輝き郷土民衆に景慕欣仰せられ永遠に祭神として鎮座せらるゝ所以なりと云爾
  宮司 従五位 追林順太郎 撰竝書
-櫻山神社由緒石碑-



  

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2012年10月18日

摂津国一宮 住吉大社


海路守護 航海の神

摂津国一宮  住吉大社






摂津国一宮 住吉大社 (すみよしたいしゃ)

〔鎮座地〕 大阪府大阪市住吉区住吉2-9-89

〔社格〕 旧官幣大社  摂津国住吉郡の式内社・住吉坐神社四座(並名神大 月次・相甞・新甞)

〔御祭神〕 第一本宮  底筒男命(そこつつのおのみこと)
       第二本宮  中筒男命(なかつつのおのみこと)
       第三本宮  表筒男命(うわつつのおのみこと)
       第四本宮  息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)

〔御由緒〕 筒男三神(住吉大神)は伊邪那岐命が禊祓(みそぎはらい)をした際に誕生した神々、神功皇后は九州・新羅へ遠征し帰途に住吉大神の御神託を受けて鎮祭された由縁による。
 住吉大神の出現が海に関すること、大坂湾が当社の近くまで来ていたこと等により、古くから航海・漁業の守護神として信仰されてきた。 遣唐使の出立に際して必ず奉幣があり、その後も大坂の発展と共に海上輸送の要衝として、船頭衆や廻船業者らにより、各地へ住吉信仰が広まった。
 また和歌の神として信仰されているのは、住吉大神が和歌を以て託宣を行ったとされるためで、藤原俊成や定家らも和歌の上達を祈願したと伝える。
 本殿は住吉造と呼ばれる独特の建築で文化七年(1810)の造営で国宝に指定されている。 第一、第二、第三本宮は西面し縦に並び、第四本宮は第三本宮の右側に配置されている。 約三万坪の境内には数多くの摂末社が建ち並ぶ。
-『全国一の宮めぐり』から-


           第一本宮 拝殿                    第一本宮 本殿











           第二本宮 拝殿                    第三本宮 本殿











         第三・第四本宮 拝殿                   第四本宮 本殿












御本殿  -国宝-

 現在ある本殿は全て1810年(文化7年)に造られました。 第一本宮から第四本宮にいたる4棟の御本殿は「住吉造」と称し、神社建築史上最古の様式の一つといわれる。 いずれも国宝建造物に指定されています。 (昭和28年11月14日 指定)

本殿 縦並びの配置
 第一本宮から第三本宮までは直列、第四本宮と第三本宮は並列に配置され、全国的にもたいへん珍しい建築配置です。あたかも大海原をゆく船団のように立ちならび、「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり よって八陣の法をあらわす」とも言い伝えられます。

住吉造
 御本殿は「住吉造」といわれており、神社建築史上最古の特殊な様式で国宝に指定。3つの特徴からなります。
1) 柱・垂木・破風板は丹塗り、 羽目板壁は白胡粉塗り
2) 屋根は桧皮葺で切妻の力強い直線
3) 出入り口が直線型妻入式
 屋根には置千木と5本の四角堅魚木があります。周囲に迴廊なく、本殿の周囲には板玉垣、その外に荒忌垣があります。
 柱は太い丸柱で礎石の上に立っており、柱間は横板張りで、正面より前が外陣、奥が一段高い内陣と二室あります。
-『住吉大社公式サイト』から-



摂社 4社

摂社 大海神社(たいかいじんじゃ)-重要文化財-
摂津国住吉郡の式内社・大海神社二座
〔御祭神〕 豊玉彦命・豊玉姫命  (海の神さま)
 記紀神話では、海宮に赴いたときに出会った父神と娘神の二神(豊玉彦命と豊玉姫命)の伝説が残っています。 大海神社は、その舞台となった海宮、つまり龍宮そのものです。 社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ、海神より授かった潮満珠を沈めたところだと伝えられています。昔は、萩と藤の名所でもありました。


摂社 船玉神社(ふなたまじんじゃ)
摂津国住吉郡の式内社・船玉神社
〔御祭神〕 天鳥船命(あめのとりふねのみこと)・猿田彦神(さるたひこのかみ)
船や飛行機の安全を守る神さま
 船玉神を祀る神社です。 古くは延喜式にも名前がみえ、住吉の荒魂ともいわれていました。 現在では航海・航空を問わず、海外に渡航する前に参拝する方も増えています。


摂社 若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)
〔御祭神〕 誉田別尊・武内宿禰
武勇の神さま
 誉田別尊(ほんだわけのみこと:応神天皇) 第四本宮の祭神・神功皇后の御子で、第15代応神天皇です。八幡神ともいわれています。
 武内宿禰(たけしうちのすくね:<国家鎮護・厄除開運・安産育児>) 1月12日に行なわれる例祭では、湯立神楽が行なわれます。


摂社 志賀神社(しがじんじゃ)
〔御祭神〕 底津少童命(そこつわだつみのみこと)・中津少童命(なかつわだつみのみこと)・表津少童命(うわつわだつみのみこと)  海の神さま
 記紀神話で、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国(よみのくに)から帰還し、海中で禊祓(みそぎはらい)をしたときに、住吉大神とともに出現された海の神だといわれています。 本社は福岡市の志賀海神社です。




初辰さん (はったつさん)

住吉といえば商売発達  「はったつさん」
 商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。
 種貸社、楠珺社、浅沢社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。

末社 楠珺社(なんくんしゃ)  “初辰さん”
〔御祭神〕  宇迦魂命(うがのみたまのみこと)
商売発達・家内安全の神さま
 お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠の大樹があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。現在では、大阪商人を始めとして、全国、さらに海外の信仰を集めるまでにいたりました。


末社 種貸社(たねかししゃ)  式内社・多米神社
〔御祭神〕 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
資金調達・子宝の神さま
 昔は、稲種を授かって豊作を祈るという信仰がありました。 神から授かった「お種銭」を資本に加えて商売すれば増殖繁栄すると、大阪商人に親しまれ、多くの参拝客が訪れるようになっています。 稲には繁殖させる穀霊が宿っているといわれており、子授けの神として授与している「種貸人形」は人気があります。


末社 大歳社(おおとししゃ)
摂津国住吉郡の式内社・草津大歳神社(鍬靫)
〔御祭神〕 大歳神(おおとしのかみ)
集金満足・心願成就の神さま
 稲の収穫の守護神です。大阪商人の間では、特に集金の守護神として信仰されてきました。また家の安全、幸福の守護神でもあります。ご祈祷をしていただいた方には、毎月、初辰まいりのお守りとして、小石に大の字が書かれたものを授与しています。



末社 浅沢社(あさざわしゃ)  -弁天さん-
〔御祭神〕 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
 弁天さんともいわれ、女神として、また芸能・美容の神として親しまれています。
 住吉に参拝する女性は、必ず訪れる慣わしがあり、カキツバタの名所でもあります。



初辰まいり
日程  毎月の初辰日
場所  種貸社・楠珺社・浅沢社・大歳社
由来  住吉独特の行事であり、近年、参拝する人が増えています
 初辰とは、毎月最初の辰の日のことです。 この日に参拝すれば、より一層力を与えて守り助けてくれると信仰されてきました。 そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。 これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたもので、4年間月参りを続けられるというのは、それだけ無事発達していることでもあります。

 また楠珺社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招福猫です。 偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の証として納めていただきます。 そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁栄を祈願します。 左手を挙げているのが家内安全、右手を挙げているのが商売繁昌の御利益です。

参拝ルート (種貸社から始まる四社巡拝)
 種貸社では「種銭」というお祓いをした硬貨を授かり、これを商売などの元手に加えて、一粒万倍の祈願をします。 さらに大歳社ではその月の収穫に感謝します。
正式な参拝ルート  1、種貸社  2、楠珺社  3、浅沢社  4、大歳社
 その他、ご祈祷を受けた後、種貸社、楠珺社、大歳社の三社を参り、御田で収穫された御神米をいただく「みのりまいり」もあります。
-『住吉大社公式サイト』から-




末社

末社 侍者社(おもとしゃ)
〔御祭神〕 田裳見宿禰(たもみのすくね)
〔相殿〕 市姫命(いちひめのみこと)
 初代の神主とその姫神をまつり、縁結び・夫婦円満などの信仰を集めます。絵馬掛けには、さまざまな願いが書かれた絵馬で埋め尽くされています。


末社 市戎大国社(いちえびすだいこくしゃ) -えべっさん-
〔御祭神〕 えびす 事代主命(ことしろぬしのみこと)
       だいこく 大国主命(おおくにぬしのみこと)
 住吉の「えべっさん」として親しまれています。 エビス信仰は全国で広く行われていますが、住吉のエビス神は社としての歴史が古く、大阪では最古のエビス神です。



末社 楯社(たてしゃ) (楯の御社)
〔御祭神〕 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
 別名を楯御前(たてごぜん)ともいわれています。 本社は鹿島神宮で、御本宮を守護する武神です。




末社 鉾社(ほこしゃ) (矛の御社)
〔御祭神〕 経津主命(ふつぬしのみこと)
 別名を鉾御前(ほこごぜん)ともいいます。 本社は香取神宮で、御本宮を守護する武神です。




末社 后土社(ごどしゃ)
〔御祭神〕 土御祖神(つちのみおやのかみ)
 后土は土地の神を指し、鬼門を守護しています。 昔は神木が祀られており、神饌の余りや祭器の破棄すべきものは、すべてこの神木の下に納めたともいわれています。



末社 星宮(ほしのみや)
〔御祭神〕 国常立命(くにのとこたちのみこと)・竈神(かまどのかみ)
 金星の神さまといわれています。 また竈神は、荒神さん(家の守護神)といわれ、炊事場に祀るお札も授与所に置いています。


〔左〕 末社 海士子社(あまごしゃ)  〔御祭神〕 鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)  海宮伝説により祭られている海神です。祭神は海幸彦山幸彦の神話で、海宮の豊玉姫の御子神でもあります。   〔右〕 末社 児安社(こやすしゃ)  〔御祭神〕 興台産霊神(こごとむすびのかみ)   かつては縁結びの神として信仰を集めていました。現在は、子供を守る神としても崇敬されています。


末社 龍社(たつしゃ) -御井殿社(みいどのしゃ)-
〔御祭神〕 水波野女神(みづはのめのかみ)
 住吉の地は大海神社の記紀伝説にもあるように、竜宮と呼ばれる海宮の言い伝えがあります。 この龍社も、もともとは御井殿社(みいどのしゃ)といわれていました。



末社 八所社(はっしょしゃ)
〔御祭神〕 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
 京都にある八坂神社の祇園信仰の社です。 祇園信仰とは、疫病・厄除け・暦・方位の神さまです。




末社 立聞社(たちぎきしゃ)  -長岡社・春日社-
〔御祭神〕 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 別名、長岡社といいます。 古くは春日社とも呼ばれていました。 また縁切りの神として、禁煙や酒断ちを決意した参拝者に崇敬されています。


末社 新宮社(しんぐうしゃ)  -王子社(旧津守王子)-
〔御祭神〕 伊邪那美命(いざなみのみこと)・事解男命(ことさかのおのみこと)・速玉男命(はやたまのおのみこと)
 住吉大社より東側にある墨江小学校前の旧熊野街道には熊野神を拝むために、一里ごとに熊野三所権現が祭られていました。その「熊野九十九王子」の一つ「津守王子」が新宮社であるといわれ、現在は住吉大社の境内で祭られています。



末社 貴船社(きぶねしゃ)
〔御祭神〕 高龗神(たかおがみのかみ)
 水や雨を司る神さまをお祀りしています。 本社は京都の貴船神社です。



末社 五社(ごしゃ)  (大領社・板屋社・狛社・津社・高木社・大宅社・神奴社)   住吉の神職七家祖神を祀っています。春と秋の2回お祭りが行われます。七家とは、住吉大神をお祭りされた初代神主・田裳見宿禰 (たもみのすくね) の七人の子より始まる神職の家です。   〔御祭神〕 大領の祖神・板屋の祖神・狛の祖神・津の祖神・高木の祖神・大宅の祖神・神奴の祖神



末社 薄墨社(うすずみしゃ)
〔御祭神〕 国基霊神(くにもとのみたまのかみ) (第39代・津守神主)
 ご祭神の国基は、和歌の名手として誉れ高かったといわれ、その秀歌により「薄墨神主」と讃えられました。


末社 斯主社(このぬししゃ)
〔御祭神〕 国盛霊神(つもりくにもりのみたまのかみ)  (第43代・津守神主)
 ご祭神の国盛は、住吉大社の神職でありながらも、ほかの神社の仕事も兼務するなど、さまざまに活躍し、有徳敏腕の人であったといわれています。


末社 今主社(いまぬししゃ)
〔御祭神〕 国助霊神  (第48代・津守神主)
 ご祭神の国助は神職でした。 2度の元寇でモンゴルが北九州に攻めてきたときには、国を挙げて祈願し、住吉大社でも朝敵降伏を祈ったといわれてます。 また、生前より霊感が異常にすぐれていたそうです。


末社 招魂社(しょうこんしゃ)
〔御祭神〕 諸霊神(もろもろのみたまのかみ)
 神職や崇敬者を代表するような人をはじめ、特別の奉仕をした人々や殉職者や偉業者など、住吉大社に縁の深い人などを祖霊神として祀っています。 春分の日と秋分の日の2回お祭りがあります。




名所旧跡


五所御前(ごしょごぜん)
 第一本宮と摂社若宮八幡宮との間にあり、杉樹が石の玉垣の内に立っています。 昔神功皇后が当社を御鎮祭のため社地をお定めになる時、この杉の木に白鷺が三羽来て止まりましたので、ここが大神の御思召のところとして祀られたと伝わる聖地です。 別名を「高天原(たかまがはら) 」ともいい、神霊をおむかえするミアレ所でもあります。 毎年5月の住吉大社創立記念の祭、卯之葉神事では、卯の葉の玉串がささげられます。 石の玉垣のなかにある砂利には「五・大・力」と書かれた小石があり、これを集めてお守りにすると心願成就にきくとされます。


おいとしぼし社
 「おもかる石」と呼ばれる不可思議な石が三基あります。 人々は願掛けをしたのち、石を持ち上げ、軽く感じれば「可」、重く感じれば「否」であると伝えられています。 大歳社の境内にありますが、もともとは境内の外であつい信仰を集めていました。 年に2回、春と秋に例祭が行われます。


住吉鳥居 (角鳥居)
 四角柱の鳥居であるため、角鳥居(かくとりい)とも呼ばれています。
 このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱塗りの鳥居が原形となっています。
 題額は陶製。有栖川宮熾仁親王の筆による。


手水舎(てみずしゃ)   手や口を洗うのは、身体や心を清浄にするためです。昔は水につかって清める禊(みそぎ) を行っていましたが、今は簡略化して手と口を洗うだけで、全身を清める象徴にしています。 ウサギの口から水が注がれているのは、神功皇后がお祭りされた日が卯の日であり、住吉大社とウサギとの深い結びつきを象徴したものだといえます。


石舞台(いしぶたい) -重要文化財-
 舞楽を奏でるところです。慶長年間に豊臣秀頼によって奉納され日本三舞台(住吉大社・厳島神社・四天王寺)のひとつでもあり、重要文化財に指定されています。毎年5月の卯之葉神事では、雅びでおごそかに舞楽が行なわれます。 日本三大舞台の一つで、舞樂を奏するところです。南門・東と西の樂所と共に慶長年間豊臣秀頼が奉納され、重要文化財に指定されています。


御田(おんだ)
 約20アール(約600坪)の田んぼです。 6月14日の御田植神事は、ここで行なわれます。
 実際に苗を植え、稲刈りまで通している御田は全国でも少なく、カモによる無農薬栽培を行なっています。



誕生石(たんじょうせき)
 源頼朝の寵愛を受けた丹後局(たんごのつぼね)がここで出産した場所と伝えられ、その子が薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公です。 この丹後局の伝説が語りつがれて、今でもここで安産を祈る人々が絶えません。



住吉御文庫
 第一本宮の北に建つ二階建・土蔵造の御文庫で、享保8年(1723)に三都(大阪・京都・江戸)の書林が奉納、大阪最古の図書館として有名です。




         高庫              伊勢神宮遙拝所          御神木夫婦楠




反橋 (そりはし)


反橋 (そりはし)
 住吉の象徴として大変有名で太鼓橋(たいこばし)とも呼ばれています。 長さ20m、幅5.5m、高さ3.6m。 現在の石の橋脚は慶長年間(1596~1615)に淀君が奉納したものであるといわれています。 昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそうです。 この橋を渡るのは、神さまに近づくのに罪や穢(けが)れを祓(はら)い清めるためです。 反っているのは、地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ掛け橋として、虹にたとえられていました。
 川端康成が、小説『反橋』で「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いたことでも知られています。 夜は21時までライトアップされ、関西夜景100選にも選ばれています。


川端康成文学碑
      反橋は上るよりも
     おりる方がこはいも
     のです
      私は母に抱かれて
     おりました               川端康成『反橋』より





       住の江の  岸に寄る浪  夜さへや
                夢のかよひ路  人目よくらむ      藤原敏行朝臣




       わが道を  まもらば君を  まもらなん
               よはひはゆづれ  住吉の松        藤原定家

  

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2012年10月03日

飛騨国一宮  水無神社


飛騨国一宮  水無神社 (みなしじんじゃ)





飛騨国一宮  水無神社 (みなしじんじゃ)     通称 すいむさん

〔鎮座地〕 岐阜県高山市一之宮町石原5323

〔社格〕 旧国幣小社   飛騨国大野郡の式内社・水無神社

〔御祭神〕 水無大神(みなしのおおかみ) = 御歳大神(みとしのおおかみ) 

〔配祀神〕 大己貴命・神武天皇・應神天皇・天火明命・三穗津姫命・高照光姫命・高降姫命
       須沼比女命・大歳大神・天照皇大神・豊受姫大神・少彦名命・大八椅命・天熊人命

〔御由緒〕 社名の水無は「みぬし」(水主)または「みずなし」とも読み、水主の意であるとされる。
 古来、飛騨国一の宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかでない。
 水無神の神体山として仰がれてきた位山(くらいやま・1529m)は、南に流れる水は飛騨川となって太平洋へ、北に流れる水は神通川となり日本海へ、表裏日本を二分する分水嶺をなし、当社の奥宮と称している。 水無神は御年神(みとしのかみ)をはじめ他十四柱の神々の総称で、「作神様」として水源と交通の要衝となる飛騨一帯をはじめ美濃、信濃、越中など広く農業を奨励し、民生の安定を進められた神様で、縁故地に多くの分社がある。
 当社は貞観九年(867)従五位上を授けられた記事が初見となり、中世に社領は付近十八ヶ村、社家も十二人と隆盛した。 飛騨国は元禄以降幕府の天領となり、領主、代官の尊崇をはじめ、一般庶民の篤い信仰を受け、明治維新後は国弊小社に列せられた。
-『全国一の宮めぐり』から-


            神門と廻廊                       拝殿と廻廊










本殿



飛騨一宮水無神社略誌
一、 御祭神
   水無神 御歳大神を主神として
   相殿 大己貴命、神武天皇、応神天皇外十一柱
   末社 延喜式内外十八社及び国内二十四郷の産土神
       一宮稲荷、白川社(御母衣ダム水没の白川郷より奉遷)

一、 御由緒
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。
歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。
明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。 本殿以下二十余棟建坪凡七百坪は、昭和十年起工、国費を以って改築せらる。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。

一、 祭祀
例祭 五月二日神幸祭、当社醸造の公認濁酒授与、神代踊、其の他奉納。
節分祭 二月節分の日、追儺神事。
生ひな祭 四月三日、日本唯一の生びな行列の供奉は圧巻。
夏越祭 六月三十日、大祓式、茅輪潜に神事。
除夜、元旦祭、年越詣。

一、 特殊神事
(一) 神代踊、当社にのみ現存する独特の神事にして毎年五月の例祭及試楽祭に神社前と御旅山で行はれ、無形文化財として指定せらる。
(二) 闘鶏楽、飛騨国中の神社にて特殊神事として行はれているも往古当社より伝授されたるものなり。 神代踊と共に氏子達百五六十人が揃いの衣裳を着け、円陣をつくり踊る古風幽雅な神事なり。
 一宮神楽、雅楽に類するもので国中各神社へ伝授する。
(三) 一宮獅子、例祭、試楽祭のみ奉仕する。
-『境内案内板』から-


 絵馬殿



絵馬殿(拝殿)の由来
一、 慶長十二年(一六〇七年)
 飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営
 (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、 安永七年(一七七八年)
 百姓一揆が安永二年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に荷担、連座し改廃され信州より迎えた梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた
一、 明治三年(一八七〇年)
 高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した
一、 明治十二年(一八七九年)
 氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した
一、 昭和二十九年(一九五四年)
 十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した
一、 昭和五十三年(一九七八年)
 宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)
     昭和五十四年一月     飛騨一宮水無神社 宮村教育委員会
-『境内案内板』から-


      稲喰の馬(黒駒)            神馬舎            祈雨の神馬(白駒)


神馬
稲喰の馬という木造の神馬二頭が神馬舎に安置され、左甚五郎の作といわれる黒駒は極めて素朴な製作であるが、両眼がくり抜かれている。 秋の刈入時になると毎夜田圃に出て稲を喰い荒らすので両眼をくり抜いたところ、それ以来野荒しが全くやんだという。 そして、その神馬の解体は破損しなければ不可能であるといい伝えている。
-『飛騨一宮水無神社の概説』から-


白川神社


白川神社 (旧白川村白山神社)    〔御祭神〕 菊理姫命
霊峰白山(2702米)飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は合掌造りの里として世界遺産に登録されていますが、その白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は昭和32年(1957)御母衣電源開発がはじまり、ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。
  平成十五年十二月吉日
    玉垣改修を記念し識   飛騨一宮水無神社 白川村秋町福島氏子
-『境内案内板』から-


 〔左〕 稲荷神社
 〔御祭神〕 宇迦之御魂神

 〔右〕 無名祠
(神様は祀られていないとのこと)




     水無神社の大杉          拗(ねじ)の大桧            ちばかの桂




大原騒動一宮大集会の石碑


大原騒動 一宮大集會之地
 安永二年(一七七三)飛騨国代官大原彦四郎は、古田畑の再検地を強行しようとした。 重税に堪え難くなることを恐れた農民たちは、再検に強く反発し各地で集会を開き、代官所への嘆願、大垣藩への越訴、京都二条家への運動、江戸での駕籠訴・駆込み願等八方手を尽くしたが、願いは達せられなかった。
 九月下旬無数河村長次郎・宮村太七等が主唱し、この地に農民を集めた。 やがて本郷村小割堤の集会も合流し、水無神社・鬼川原に集まる者時に一万を超えた。
 十月中旬一宮籠居の農民三千人が高山代官所へ押しかけ、年貢上納延期など三ヶ条の願書を提出、徒党に加わらぬ高山を津留めにした。 大原代官は、尋常の手段では到底鎮圧できぬと察し江戸表へ急報、幕府は飛騨の近隣五藩へ緊急出動を命じた。
 十一月十四日深夜郡上藩勢三百人、代官所手代・地役人四十人が付き添い高山出立、途中松橋に一隊を残し、夜明け宮村に到着、一隊を鬼川原に伏せ、一隊は頭取会所久兵衛宅を始め神主宅・太七宅等に踏み込み、委細かまわずからめ捕った。 山下の民家に宿泊していた農民が、合図の鐘を聞き神社に向かって、駆け出すと、鬼川原の鉄砲組が火蓋を切り、即死者・重傷者が出た。 最後に郡上藩勢は、一体となって拝殿を取り囲み、神域は安全であると教えられ、何の用意もしていなかった農民の集団に突っ込み、あたるを幸い十手で脳天を打ち割り、刀で袈裟掛けに斬りつけ、槍で太股や膝を突き通し、逃げる者には鉄砲を乱射した。 この日の即死者三名、負傷者二四名、縛付の者一二五名に及んだ。 一宮大集会は、大原騒動で農民が見せた最も大がかりな抵抗であったが、火器まで使った非道な武力の前にあえなくついえざるを得なかった。
 全飛騨の農民が命をかけて戦い、多くの痛ましい犠牲者を出した一宮大集会を永遠に記念するため、賛同者の多大な御協力を得て、ここにこの碑を建設する。
   昭和六十二年十一月建之
     大原騒動一宮大集会記念碑建設委員会
-『大原騒動一宮大集会記念碑』から-


島崎正樹宮司歌碑


島崎正樹宮司歌碑
 島崎正樹は、明治の文豪島崎藤村の父である。 明治7年11月13日水無神社宮司として赴任し、学問、詩歌の道にもすぐれ在任中高山中教院の教導職(中講義)として多くの若者を指導した。
 彼は藤村の著書「夜明け前」の主人公青山半蔵その人であって、宮村の晩秋を詠める短歌一首が碑となっている。
-『飛騨一宮水無神社の概説』から-



       きのうけふ  しぐれの雨と  もみぢ葉と
                      あらそひふれる  山もとの里      正樹

  

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2012年08月27日

伊勢国一宮 都波岐奈加等神社


伊勢国一宮  都波岐奈加等神社 (つばきなかとじんじゃ)





伊勢国一宮  都波岐奈加等神社 (つばきなかとじんじゃ)

〔鎮座地〕  三重県鈴鹿市一ノ宮町1181

〔社格〕  旧県社  伊勢国河曲郡の式内社、都波岐神社・奈加等神社

〔御祭神〕  都波岐神社   猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
        奈加等神社   天椹野命 (あめのくぬのみこと)
                   中筒之男命 (なかつつのおのみこと)

〔御由緒〕 社伝によると、雄略天皇二十三年に、猿田彦大神八世の孫で伊勢国造の高雄束命が、勅を奉じてこの地に都波岐神社・奈加等神社の二社を創祀したとされ、社殿は一つで二社を相殿としている。
 創祀の際、天椹野命十五世の孫、中跡直山部直広幡が宣旨を受け、初代の祭主となり、その子孫が代々神職を継承している。
 平安時代以降、弘法大師が参籠し獅子頭二口を奉納し、また足利義満は富士参詣の帰途に参拝し社領を寄せたと伝わる。 神仏習合時代には神宮寺が存在し、椿大神社と並ぶ伊勢国一の宮として隆盛した。
 永禄年間には織田信長の「伊勢平定」による兵火に罹り、獅子頭を除く社宝や古記録、また社殿が焼失した。 江戸時代、神戸城主一柳監物により社殿が再建され、明治三十六年県社に列格した。
 この地方には古くから獅子舞が伝わるが、当神社には雌雄一対による「中戸流神楽」があり、社頭で奉納される。
-『全国一の宮めぐり』から-


              拝殿                            本殿











  明治9年に建てられた拝殿と祝詞殿は、平成9年に不審火により惜しくも消失した。
  現在の拝殿は、平成10年に再建された鉄筋コンクリート製のものである。
  本殿は安政3年(1856)造営の神明造である。


境内社 (本殿前左右の社)

           小川薬王子社                      神明春日社










  〔本殿前向かって左側〕
  小川薬王子社 (おがわやくおうじしゃ) 
  伊勢国河曲郡の式内社・小川神社
  〔御祭神〕 天宇受賣命・大穴牟遲神・少毘古那神・宇迦之御魂神・品陀和気命
         鷹司房輔公・菅原神・須佐之男命・大山津見神

  〔本殿前向かって右側〕
  神明春日社 (しんめいかすがしゃ) 
  〔御祭神〕 天照大御神・天兒屋根命
-『参拝者の栞』から-



都波岐奈加等神社の御祭神
 本社は、通称「都波岐奈加等神社」と呼び習わしていますが、「都波岐神社」と「奈加等神社」の二社が相殿の神社であります。 御祭神は左の通りであります。
  都波岐神社    猿田彦大神
  奈加等神社    天椹野命(あめのくれののみこと)
              中筒男大神
 他に、境内社として、玉垣内本殿の前方向かって右手に「神明春日社」、左手に「小川薬王子社」があります。 いずれも明治四十一年に合祀されました。
  神明春日社    天照大御神・天兒屋根命
  小川薬王子社   天宇受賣命(あめのうずめのみこと)以下八神

都波岐奈加等神社の御由緒
 当都波岐神社は、延喜式内の古社で伊勢国一之宮であります。 創立は、雄略天皇二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄柬命(たかおわけのみこと)が勅を奉じて伊勢国河曲県中跡里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが初まりであります。
 その際、天椹野命十五世の孫中跡直広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代であります。
 平安時代の初めには、弘法大師空海が本社に参籠し獅子頭二口を奉納したと伝えています。
 室町時代には、征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途本社に参拝し幣帛を供え社領を寄進したので、多くの武士が参詣したと伝えています。
 戦国時代には、織田信長が、伊勢平定の軍を進め近くの神戸・高岡の二城を攻略しました。 その際、本社は兵火にかかり社殿が焼失しました。 幸いにも御神宝の獅子頭などは他所へ遷し難を免れることができました。
 社殿は江戸時代初めの寛永年中に神戸城主一柳監物によって再建されました。 また肥後国の阿蘇神社及び常陸国の鹿島神宮と同じ鷹司家の執奏社として本社には大宮司職が置かれ、当地方において大きな勢力を維持しました。 現在の本殿は、江戸時代末期の安政三年に造営されたものです。
 本社には、伊勢地方の四流派、即ち「四山の獅子」の一流派として、「中戸流」の舞神楽が伝えられており、江戸時代には各地を舞歩きました。 そして、貴重な宝物として古新あわせて四頭の獅子頭が伝えられています。 今日では、毎年十月十日の秋季例大祭当日、四頭の内の新頭の雌雄二頭の獅子によって舞神楽が奉納されます。
 明治に入り、江戸時代に引き続いて社殿の整備がすすめられ、明治九年に現在の拝殿が造営されました。 明治三十六年には県社に列せられ、更に一層の発展が見られました。 本社の主祭神の「猿田彦大神」は、伊勢国の大地主の神、また道開きの大神として崇められ、その御神徳を慕い全国各地から参拝者がたえません。
-境内案内板から-




〔後記〕
 奈加等神社の御祭神「天椹野命」(あめのくぬのみこと)について調べてみた。
 聞き慣れない神名である。 『古事記』・『日本書紀』には見られない。
 出典は、『先代旧事本紀』であった。 天椹野命は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)の天降り防衛三十二人の一人である。 『先代旧事本紀』巻第三「天神本紀」に、「天椹野命(あまのくののみこと)、中跡直(なかとのあたい)等の祖」とある。

 神社名と祭神名が、ここに見事に一致している。 更に現在の神主は、天椹野命十五世の孫、中跡直山部直広幡から五十八代目であり、「中跡(なかと)」の姓を継承している。
 平城京跡から発掘された『木簡』からも、「伊勢国川勾郡中止里 阿斗部小殿万呂 同遊万呂」とあるように、この地が古代から栄えた地であり、その歴史を今日に致るまで連綿と引き継がれた由緒正しき神社であることがわかる。

 しかし、調査を進めると、この「天椹野命」という御祭神は、大正4年の『明細帳』には見当たらない。 昭和27年の『明細帳』にいたって初めて表れる御祭神であることが判った。 それ以前は、「住吉三神」のうちの一坐、「中筒之男命」(なかつつのおのみこと)一坐のみを祀っていたという。 昭和の初期に、神社の正統性と権威を高めるために、新たに付け加えられたものなのであろう。

 明治9年に建てられた拝殿と祝詞殿は、平成9年の不審火により惜しくも消失した。 現在の拝殿は、平成10年に再建された鉄筋コンクリート製のものである。
 本殿は安政3年(1856)造営の神明造であるという。 広壮さは感じるものの、何かもの足りない。 閑人には、古色と重厚さがあまり感じられなかった。 萱葺きの屋根ではなく、薄い銅板葺き屋根のせいであろう。 側板等も覆われて素木の美しさが見られない。
 よく見ると、神明造独特の棟持柱(むなもちばしら)が無い。 屋根の千木は内削ぎで、鰹木は5本。 普通の神明造とは鰹木の数が合わない。 江戸時代の神明造はこのような様式であったのだろうか。


  

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2012年08月17日

伊勢国一宮 椿大神社


伊勢国一宮  椿大神社 (つばきおおかみやしろ)




伊勢国一宮  椿大神社 (つばきおおかみやしろ)

〔鎮座地〕 三重県鈴鹿市山本町御旅1871番地

〔社格〕 旧県社  伊勢国鈴鹿郡の式内社・椿大神社

〔御祭神〕 主神  猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)
       相殿  瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
            栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと)
       配祀  天之鈿女命 (あめのうずめのみこと)
            木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
       前座  行満大明神 (ぎょうまんだいみょうじん)

〔御由緒〕 当社は標高906mの入道ヶ嶽の東麓に鎮座し、広い境内には古杉が鬱蒼と茂っている。 主祭神は猿田彦大神で、相殿に瓊々杵尊、栲幡千々姫を祀る。 猿田彦大神は天孫降臨の際、天の八衢に立ち先導した神で、別宮椿岸神社に祀られる天之鈿女命(あめのうずめのみこと)と夫婦神である。
 中世には修験道や仏教の影響を受け神宮寺も有した。 天正十一年(1583)織田勢の兵火に遭い社殿以下宝物古記録等焼失。 しかし江戸時代には亀山藩主の崇敬により社殿の造営がたびたび行われた。 現在の社殿は伊勢の神宮と同じく神明造で、昭和四十三年に造営されている。
 昭和十年には警視庁内に当神社の御分霊が奉斎されるなど、いつの時代にも朝野の尊崇をあつめる社である。 猿田彦大神は「みちびきの祖神」として交通安全や開運、天之鈿女命は芸能の神として特に崇敬されている。
 県無形文化財に指定されている「獅子神御祈祷神事」は、丑・辰・未・戌の年に東海各地で奉納されており、日本最古の獅子舞であるといわれる。
-『全国一の宮めぐり』から-



拝殿


 総桧の神明造りの御本殿。 道祖・猿田彦大神をはじめ、32神が祀られています。
 幽厳なたたずまいをみせる拝殿。 ここでは、参拝者のご祈祷が奉仕されます。


別宮 椿岸神社


 別宮 椿岸神社 (鈿女本宮)
 伊勢国三重郡の式内社・椿岸神社
 〔御祭神〕 主神  天之鈿女命 (あめのうずめのみこと)
        相殿  太玉命 (ふとたまのみこと)
             天之児屋根命 (あめのこやねのみこと)
 〔御由緒〕 猿田彦大神の妻神・天之鈿女命が主祭神として祀られており、全国の天之鈿女命の総本宮でもあります。 ご事績により芸道の祖神として信仰され、また鎮魂の神、夫婦円満の神、縁結びの神として崇敬されています。 このお社では、結婚式も行われます。
 扇塚
 境内には扇塚があり、扇は、古来神を招ぎ奉るものとして芸道を志す方の心のよりどころとされ、古くなった扇を感謝の心を込めて、この塚に納めていただきます。





 庚龍神社 (かのえりゅうじんしゃ)
 〔御祭神〕金龍龍神・白龍龍神・黒龍龍神
 〔御由緒〕 この龍神社は、樹齢四百年と伝えられる樅の木に龍神が宿り神域全般守り給ったとの伝承がある。




 獅子堂交通安全祈祷殿
 聖武天皇の勅願により奉納された獅子頭に由来して名づけられ、3年ごとに斎行される獅子神御祈祷神事は、前庭にて奉納されます。 普段は、交通安全祈祷、車輌清め祓いが行われます。




 御舟石坐 (みふねいわくら)
 謡曲「鈿女」に謡いこまれる神代の神跡。
 天孫瓊々杵尊一行の御船がここに繋がれ、この地より九州に御先導されたと伝わります。



 土公神陵
 参道中程にある土公神・猿田彦大神の御陵。
 周囲300メートル
 幅凡50メートル
 高凡20メートル



 松下幸之助社・鈴松庵
 「経営の神様」と称えられた松下幸之助翁の御霊をお祀りしています。 幸之助翁は、当神社をたびたび参拝され、造営に尽力をいただくとともに、茶室「鈴松庵」を寄進されています。


 行満堂神霊殿
 猿田彦大神の神裔であり、役の行者をお導きされた、行満大明神をはじめ、平安期の当神社別当寺、神宮寺6ヵ寺ゆかりの6神をお祀りしています。 また、当神社にご尽力された役員・崇敬者を慰霊顕彰するため御霊をお祀りしています。 鈴鹿七福神の一つである、延命長寿の神・寿老神もお祀りしています。



 椿延命地蔵尊
 3体の地蔵尊が祀られており、中央に祀られている地蔵尊は冠を付けている。
 平安後期に当神社に奉斎され、地元では、首より上の病に霊験あらかたと信仰されています。



 縣主神社
 伊勢国鈴鹿郡の式内社・縣主神社
 延喜式内社鈴鹿郡19座の1社。
 平成10年に篤信家により奉斎され、祭神・倭建命・建貝児命をお祀りしています。




 椿護国神社
 氏子中より、日清戦争・日露戦争・支那事変・大東亜戦争の戦役に出征し、国難に殉じた英霊80余柱をお祀りしています。






猿田彦大神と天之鈿女命  「天之八衢図」



猿田彦大神の御神徳
 猿田彦大神は、往古より天照大神の幽契による御旨を地上に実施される地祇の根本の神、即ち地球国土の神として、地球上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く「みちびきの祖神」とあがめ奉り、御神徳として、 特に地まつり(地鎮祭)・方災解除・厄祓・土地家屋敷国土の御守護が霊験あらたかとされ、当社では神山高山短山の「清めの御砂」をもって地鎮祭・家屋敷の祓い清めを行い獅子舞神事による天下泰安の方除厄除祈祷は1300年の伝統を誇り今日におよんでおります。
 大神は亦の御名を「興玉の神」と称え奉り、神々のミタマを奮い起こす導きの神として、先達・延命長寿・縁結び・安産等の御神徳あらたかです。又、大神は「道祖の神」として人類はもとより地上に生命あるものかくあるべしと教え諭し、 家内安全・無病息災・交通安全・警備・商工業の隆昌発展・進学・就職等人間生活の開運を御導きになり、又「船玉の神」として、大漁満足・航海・航空・旅行安全の守り神としても篤き崇敬を受けております。
 大神はその広大無辺の御神徳に因んで亦の御名を「大行事権現」「衢の神」「土公神」「佐田彦大神」「千勝大神」「精大明神」「塞神」「岐神」「大地主神」「白髭大明神」「供進の神」「山の神、庚神様」「道別大明神」「椿大明神」と称え奉られております。
 大神の神孫「行満大明神」は修験神道の元祖として、本宮本殿内前座に祀られ、役行者を導かれた事蹟など、 古来「行の神」として、神人帰一の修行・学業・事業・目的達成守導のあらたかな神として古くより尊信されております。

天之鈿女命の御神徳
 別宮・鈿女本宮(延喜式内椿岸神社)の祭神である天之鈿女命(天之宇受売命)は、 天孫降臨の際に、瓊々杵尊に従って天降られ、天孫一行を天の八衢に出迎えた猿田彦大神とともに日向の高千穂の峰に導き、 わが国肇国の任務を無事終えられた後、猿田彦大神と天之鈿女命は夫婦の契を結ばれ相共に伊勢国鈴鹿の里にお帰りになり、 鎮祭されたのです。
 天之鈿女命は、「鎮魂の神」「芸能の祖神」として、俳優(わざおぎ)芸事をはじめ、あらゆる芸道の向上、また、 縁結び・夫婦円満の守護に霊験あらたかとして、古来より信仰されています。
-『椿大神社公式サイト』から-



  

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2012年08月09日

常陸国一宮 鹿島神宮


常陸国一宮 鹿島神宮




鹿島神宮の石造大鳥居は平成23年3月11日の東日本大震災により惜しくも倒壊した。
神宮関係者と全国の崇敬者の多大な尽力により、平成26年には鹿島鳥居型の本来の木製大鳥居が再建されることが決まった。


  鹿島神宮大鳥居  平成26年完成予定
  高さ  約10.2メートル
  笠木巾  約14.6メートル
  材料  杉 (境内御用材)

 大鳥居 身替わりになり 倒れしと 会ふ人ごとに 無事を喜ぶ



常陸国一宮   鹿島神宮 (かしまじんぐう)

〔鎮座地〕  茨城県鹿嶋市宮中2306-1

〔社格〕  勅祭社  旧官幣大社  常陸国鹿嶋郡の式内社・鹿嶋神宮(名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕  武甕槌大神 (たけみかづちのおおかみ)

〔御由緒〕  全国に千社を数える鹿島神社の総本宮がこの鹿島神宮である。 武甕槌大神は、天孫降臨に先立つ国譲りの際、高天原から天降った武神として神話に語られている。 中臣氏、藤原氏の祖神として神護景雲二年(768)、奈良の春日大社(第一殿)にも祀られた。
 長旅に出ることを「鹿島立ち(かしまだち)」といい、これは常陸国の防人が神宮の神前で安全を祈り出発した故事によるといわれ、万葉集にも歌が残っている。
 神階は早くも嘉祥三年(850)に正一位となり、『延喜式』神名帳で社名に「神宮」号を以て記載されているのは鹿島と香取だけであるなど、朝廷による並々ならぬ尊崇が伺える。
 また武家社会においては、武門の守護神として多くの武将が崇敬を寄せた。 治承四年(1180)に挙兵した源頼朝は度々神領を寄進し、武運長久を祈った。 徳川家康は朱印領二千石を寄せ社殿の造営をおこなった。 元和四年(1618)にその社殿を遷して奥宮とし、翌年現在の社殿が竣功した。 明治四年官弊大社に列格、勅祭社となった。
-『全国一の宮めぐり』から-



楼門


楼門   -重要文化財-
 寛永11年(1634)、水戸藩初代藩主徳川頼房公の奉納。 この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに日本三大楼門に数えられています。



              拝殿                            本殿











御社殿
重要文化財   本殿 石の間 弊殿 拝殿 仮殿
当神宮の社殿はその昔伊勢の神宮のように二十年ごとに造営が行われていましたが、現在の社殿は元和五年(1619)、二代将軍徳川秀忠公により奉納されました。
(本殿は現在檜皮葺替修理中。 本殿の画像は授与所で頂いたパンフレットからお借りした。)




奥宮  -重要文化財-
 〔御祭神〕 武甕槌大神荒御魂
 慶長十年(1605)に将軍徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり、現在地に引移して奥宮社殿となった。





仮殿  -重要文化財-
 本殿を修理する時など一時的に神様をお遷しする社殿です。 現在左記の摂末社・所管社の御分霊をお祀りしております。
〔摂社〕 奥宮・高房社・三笠社・跡宮・息栖神社・沼尾神社・坂戸神社   〔末社〕 須賀社・熊野社・津東西社・祝詞社・稲荷社・潮社・阿津社・熱田社・御厨社・国主社・海辺社・鷲社・押手社・年社   〔所管社〕 大国社



御手洗 (みたらし)
 古来神職並びに参拝者の潔斎の池。 その水は美しく澄み絶えず滾々と流れ出る霊泉です。 神代の昔、大神が天曲弓(あめのまがゆみ)で穿たれたとも、宮造の折一夜にして湧出したとも伝えられ、大人子どもによらず乳を過ぎずということで七不思議にかぞえられています。 大昔は当神宮の参道がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗の名が今に残されています。



     要石 (かなめいし)
 神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座(みまし)とも、或いは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。
 この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。  水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。  信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下心の御柱(しんのみはしら)的存在である。
       大地震(おおなゑ)に  びくともせぬや  松の花          一茶



鹿園 (ろくえん)
 神様のお使いとして親しまれている鹿がいる鹿園(ろくえん)です。 神門から120メートルの場所に鹿園が あり、30数頭の日本鹿がいます。  鹿島神宮の神の使いは「鹿」とされ、「神鹿」と呼ばれ、奈良時代には、鹿の背に武甕槌大神の分霊を乗せて、鹿島立ちをし、奈良の春日大社にお祀りしました。



親鸞上人旧跡
 鹿園を中心とした一角の土堤内は鹿島山金蓮院神宮寺跡、降魔山護国院跡にして昔親鸞上人が訪れたと伝え俗に「親鸞上人のお経石」と称して小石に経文の文字を書いたものが出土したことがあります。 なお親鸞上人は「教行信証」を著す為一切経その他の文献閲覧の為にしばしば鹿島神宮を訪れたと伝えられます。




摂社 高房社
  〔御祭神〕 建葉槌神
 鹿島の大神に従い天香々背男を討つ。 常陸国二の宮静神社の祭神である。 本社参拝の前に詣でるのが古例である。





摂社遙拝所
 摂社 沼尾神社  北四キロ   〔御祭神〕 経津主神
 摂社 坂戸神社  北二キロ   〔御祭神〕 天児屋命





 〔左〕 末社 熊野社
 〔御祭神〕 伊弉諾命・事解男命・早玉男命

 〔右〕 末社 祝詞社
 〔御祭神〕 太玉命




 〔左〕 末社 津東西社
 〔御祭神〕 高靇神・闇靇神

 〔右〕 末社 須賀社
 〔御祭神〕 素戔嗚命





    〔左〕 末社 熱田社    〔御祭神〕 素戔嗚命・ 稲田姫命
    〔中〕 所管社 大國社   〔御祭神〕 大國主命
    〔右〕 末社 稲荷社    〔御祭神〕 保食神



 〔左〕 所管社 祖霊社
 〔御祭神〕 氏子区内戦没者の御霊・氏子崇敬者の先祖

 〔右〕 末社 御厨社
 〔御祭神〕 御食津神




武甕槌大神の石碑


御由緒  遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。

御祭神  「古事記」「日本書紀」によりますと、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神、イザナギ、イザナミの両神より生まれた火の神カグツチより誕生された、とされています。即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります。

御利益  鹿島神宮の神の御神徳は何といっても、平国(くにむけ)の剣(つるぎ)による国譲りの交渉の成功であり、神武天皇東征(じんむてんのうとうせい)時における「フツの御魂(みたま)の剣」によって国を治め、天下に平和をもたらすご事蹟(じせき)にあります。
-『鹿島神宮公式サイト』から-





        那賀郡上丁  大舎人部千文      
       霰降り 鹿島の神を 祈りつつ
                    皇御軍に 我れは来にしを
                                       - 『万葉集』 巻20 4370-

  

Posted by 閑人 at 21:02Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣

2012年07月29日

下総国一宮 香取神宮


下総国一宮  香取神宮


                           石鳥居と総門



下総国一宮  香取神宮 (かとりじんぐう)

〔鎮座地〕 千葉県香取市香取1697

〔社格〕 勅祭社  旧官幣大社  下総国香取郡の式内社・香取神宮 (名神大・月次新嘗)

〔御祭神〕 経津主大神 (ふつぬしのおおかみ)   又の御名 伊波比主命(いはひぬしのみこと)

〔相殿神〕 武甕槌命 (たけみかづちのみこと)
       比賣神 (ひめかみ)
       天兒屋根命 (あめのこやねのみこと)

〔御由緒〕 当社は神武天皇十八年の創建と伝える。 大神は天照大御神の御神意を奉じて、出雲国の大国主命と円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神々を平定され、日本建国の基を築かれた。 また東国開拓の大事業を完遂せられ、平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕された。
 古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬篤く、特に「神宮」の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、名神大社、下総国一の宮であり、明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和十七年には勅祭社に治定せられて今日に至る。
 伊勢の上参宮に対し下参宮といわれ、広く上下の尊崇をあつめている。 一般からは家内安全・産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。 さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運・交通安全・火難除けの神としても有名である。
-『全国一の宮めぐり』から-



                           朱塗の大鳥居



              総門                            楼門











              拝殿                            本殿










御社殿
 宮柱の創建は神武天皇18年と古文書に記されている。 古くは伊勢神宮と同様式年御造営の制度により、御本殿を20年毎に造替されたのであるが、現在の御社殿(本殿・楼門・祈祷殿)は元禄13年(1700)徳川綱吉の造営によるものである。
 昭和15年国費により拝殿の改築と共に御本殿以下各社殿を御修営し、その後昭和52年から3年の歳月をかけて御屋根葺替・漆塗替がおこなわれた。 
 構造は本殿(重要文化財)、中殿、拝殿相連れる所謂権現造である。
(現在、拝殿は檜皮葺替修理中。 拝殿の画像は神札授与所で購入した小冊子からお借りした。)


         奥 宮
 香取の宮中、旧参道の中程に鎮座。経津主大神の荒御魂を祀ります。 現在の社殿は、昭和四十八年伊勢神宮御遷宮の折の古材に依るもの。



         要石
 古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました。 これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。 香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。 当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。 貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。


神池
 昭和53年の式年大祭記念事業の一つとして昭和55年10月に竣功した。
 神池は亀甲の池、宮下の池、菖蒲ヶ池の三つに名づけられてある。




 〔左〕 護國神社
 〔御祭神〕 明治以降の国難に殉じた香取郡出身の御霊

 〔右〕 末社 押手神社
 〔御祭神〕 宇迦之御魂神



 〔左〕 末社 市神社・天降神社
市神社  〔御祭神〕 事代主神
天降神社  〔御祭神〕 伊伎志邇保神(饒速日尊)
 〔右〕 末社 馬場殿神社
〔御祭神〕 建速須佐之男命





             〔左〕 末社 諏訪神社    〔御祭神〕 建御名方神
             〔中〕 末社 璽神社     〔御祭神〕 御正印殿神
             〔右〕 末社 大山祇神社  〔御祭神〕 大山祇神


 〔左〕 摂社 匝瑳神社
〔御祭神〕 磐筒男神・磐筒女神 (香取大神の親神)

 〔右〕 摂社 鹿島新宮
〔御祭神〕 武甕槌神(鹿島大神)





〔左〕 末社 櫻大刀自神社  〔御祭神〕 木花開耶姫命 (安産子育の神)
〔中〕 末社 六所神社  〔御祭神〕 須佐之男命・大國主命・岐神・雷神二座・靇神(花薗神社)
〔右〕 末社 裂々神社  〔御祭神〕 磐裂神・根裂神 (香取大神の御祖神)




御祭神の神話

 皆さんは、出雲の国譲りの神話をご存じでしょうか?
 香取の御祭神経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、この神話に出てくる神様なのです。
 神話の内容は、はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争い、乱れていました。
 大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで遣わされましたが、出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまったので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、 顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
 このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。 そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
 経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。
-『香取神宮公式サイト』から-



  

Posted by 閑人 at 12:42Comments(0)TrackBack(0)神社巡詣